エドウィン・エンカーナシオン
エドウィン・エルピディオ・エンカーナシオン(Edwin Elpidio Encarnación,[注釈 1] 1983年1月7日 - )は、ドミニカ共和国ラ・ロマーナ出身の元プロ野球選手(一塁手)。右投右打。愛称はEE、エドウィング[4]。 経歴プロ入り前ドミニカ共和国で生まれたが、後に家族でプエルトリコのカグアスに移住し、高校時代までを過ごした[5]。現在、一家は再びドミニカ共和国に戻っている[6]。 プロ入りとレンジャーズ傘下時代2000年のMLBドラフト9巡目(全体274位)でテキサス・レンジャーズから指名され、プロ入り。 レッズ時代![]() (2008年2月24日) 2001年6月14日にロブ・ベルとのトレードで、ルーベン・マテオと共にシンシナティ・レッズへ移籍した。 2005年6月24日にメジャーデビューを果たすと、7月にレギュラー三塁手のジョー・ランダがトレードされたため、以降はレギュラー三塁手としてプレーした。69試合に出場し、打率.232、9本塁打、31打点、3盗塁、16二塁打をマーク。 2006年は三塁手のレギュラーとしてメジャーに定着。117試合の出場で、打率.276、15本塁打、72打点、33二塁打をマーク。しかし、25失策を記録し、守備面での課題が残った。 2007年は2年連続で打率.270・15本塁打以上を記録した。 ブルージェイズ時代![]() (2016年4月3日) 2009年7月31日にジョシュ・レネキー、ザック・スチュワートと共にスコット・ローレンとのトレードで、トロント・ブルージェイズへ移籍した[7]。 2010年は手首の故障の影響で、低打率に苦しんだ。7月にはDFAとなるとマイナー契約となり、AAA級ラスベガス・フィフティワンズに降格となった。シーズン終盤に復調し、最終的に96試合の出場ながら21本塁打を放った。オフに再びDFAとなると、ウェイバー公示を経て、オークランド・アスレチックスへ移籍した。しかし、475万ドルの高額年俸がネックとなりアスレチックスは条件提示をせず、そのままノンテンダーFAとなった。12月16日にブルージェイズと1年250万ドル(2年目は350万ドルのオプション)で再契約した[8]。 2011年は三塁手としての出場が減り、一塁手やDHとしての起用が増えた。5月29日までは本塁打0だったが、後半戦は復調した。シーズン終了後にオプションが行使され、2012年もブルージェイズでプレーすることが決まった。 2012年も指名打者や一塁手としての出場となった。シーズン中盤にチームメイトで主砲のホセ・バティスタが故障離脱するが、その後は代わるかのように本塁打を量産、結果この年は本塁打・打点・安打・得点で自己最多の成績を残したほか、84四球を選んだ。さらに出塁率・長打率でも自己最高を記録した。7月12日には3年2700万ドル(4年目は1000万ドルのオプション)で契約を延長した[9]。 2013年は開幕前の3月に開催された第3回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)のドミニカ共和国代表に選出された[10]。同大会では主に一塁手で出場しチームの初優勝に貢献。自身も一塁手部門でベストナインを獲得した[11]。レギュラーシーズンでは、打率.272、36本塁打、104打点を記録し、2年連続で35本塁打と100打点のラインをクリアした。 2014年5月8日のフィラデルフィア・フィリーズ戦で2本塁打を放ち、通算200本塁打を達成[12]。5月29日、ハーモン・キルブルー(1959年5月)、アルバート・ベル(1995年9月)に次ぐ、歴代3人目となる月間5回の1試合複数本塁打を達成[13]。この月に放った16本塁打は、5月の月間本塁打数としてはミッキー・マントルの1956年の記録に並ぶアメリカンリーグ最多タイ記録となった[13]。7月には2年連続でオールスターに選出されたが、選出後の7月7日に左脚の大腿四頭筋の故障で15日間の故障者リスト入りした[14]。8月15日に故障者リストから外れた[15]。故障の影響で出場試合数は128試合に留まったが、3年連続で30本塁打・90打点をクリアし、主砲としてチームに貢献した。 2015年は一塁手のジャスティン・スモークが加入したため、主に指名打者として起用された。146試合に出場し、打率.277・39本塁打(自己2位、リーグ7位)、111打点(自己最多、リーグ4位)という成績を収め、4年連続で30本塁打・90打点をマークした。ジョシュ・ドナルドソン、ホセ・バティスタと35本塁打・110打点トリオを結成した。しかし、エンカーナシオンがあと1本塁打放てば40本塁打トリオとなるところだった。 2016年も前年と同様、指名打者と一塁手のレギュラーで常時出場し、自己最多の160試合でプレー。打率は2011年以降ではワーストの.263に終わり、138三振も自己ワーストだったが、4シーズンぶりの40本超えとなるリーグ3位タイの42本塁打を放ち、127打点を記録した。最終的にはボストン・レッドソックスのデビッド・オルティーズとタイで、自身初の打撃タイトルとなるア・リーグ打点王を獲得した。ボルチモア・オリオールズとのALWCでは、11回裏にサヨナラ3ランを放ち、チームをディビジョンシリーズに導いた[16]。オフに球団は1720万ドルのクオリファイング・オファーを提示したが、11月14日に拒否し、FAとなった[17]。 インディアンス時代![]() (2017年6月20日) 2017年1月5日にクリーブランド・インディアンスと3年総額6000万ドル(2017年は1300万ドル、2018年は1700万ドル、2019年は2000万ドル、出来高最大500万ドル、2020年はオプションで500万ドルの違約金つきの2500万ドル)で契約を結んだ[18]。同日中に入団会見が行われ、同時に第4回WBCのドミニカ共和国代表への不参加の意思を表明した[19]。 シーズンでは開幕戦から本塁打を打った。7月25日のロサンゼルス・エンゼルス戦では延長11回裏にサヨナラ満塁ホームランを放った。主にDHとして155試合に出場して打率.258・38本塁打・107打点の成績を残した。 2018年7月15日のニューヨーク・ヤンキース戦で右腕に死球を受け、翌日以降も出場していたが、8月12日に故障者リスト入り[20]。最終的に137試合に出場で打率.246・32本塁打・107打点を記録。 マリナーズ時代2018年12月13日にインディアンス、シアトル・マリナーズ、タンパベイ・レイズ間で成立した三角トレードによってマリナーズへ移籍した[21]。 ![]() (2019年5月5日) 2019年6月9日のエンゼルス戦で2本塁打を放ち、通算400本塁打を達成した[22]。 ヤンキース時代2019年6月16日にフアン・テン[23]と金銭でのトレードでニューヨーク・ヤンキースへ移籍したことが発表された[24]。背番号は「30」で、今年の基本給である2000万ドルを昨年オフのトレードでレイズが500万ドル、残りのシーズンの1500万ドルをマリナーズとヤンキースが折半し750万ドルずつ支払う[25]。移籍後は主に指名打者として起用されていたが、8月3日のレッドソックス戦で右手首に死球を受け骨折したために故障者リスト入りし[26]、1ヵ月離脱した。シーズン通算では109試合出場で打率.244・34本塁打・86打点を記録し、自身8度目となる30本塁打を放った。10月31日に球団が延長オプションの放棄を発表したため、FAとなった[27]。 ホワイトソックス時代2020年1月9日にシカゴ・ホワイトソックスと1200万ドルの単年契約を結んだことが発表された[28]。オプションとして2021年シーズンは球団側が選択権を所持し、背番号は「23」。 オフの10月30日に球団が延長オプションの放棄を発表したため、FAとなった[29]。 ホワイトソックス退団後2021年以降はどの球団とも契約しておらず、事実上の引退状態にある。 2023年開幕前のスプリングトレーニングでは古巣ブルージェイズの臨時コーチを務め、オープン戦では始球式を行った[30]。 選手としての特徴レフト方向の打球がメジャー通算51%と高いプルヒッター。このため、相手チーム側はレフト側に極端に偏ったシフトを敷くことが多い[31]。 レッズ時代は三塁手で失策が多かったため、ファンの間では失策(Errors)と名前(Edwin)の頭文字、ポジション番号(三塁=5)から、“E5”の愛称で呼ばれていた[32]。 本塁打を打った時に右腕にオウムを乗せるかのように突き出すパフォーマンスをする。これはブルージェイズ在籍時代、本塁打を放った際にたまたま右腕を少し上げた状態で走ったところ、チームメイトから今後もこのポーズでベースランするように提案されたという[33]。 詳細情報年度別打撃成績
年度別守備成績
タイトル
記録
表彰
背番号
代表歴脚注注釈
出典
関連項目外部リンク
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