エフサン・ハジサフィ
エフサン・ハジサフィ(ペルシア語: احسان حاجصفی、1990年2月25日 - )は、イランのサッカー選手。イラン代表。ポジションはMFもしくはDF。ユーティリティープレーヤーであり、左のミッドフィールダー、ウィンガーから守備的ミッドフィールダー、左サイドバックまでを熟す事の出来る選手である[1][2]。 2009年にはGoal.comのアジア最優秀若手選手に選出された[3]。 来歴クラブ2000年から2006年にかけてゾブ・アハン・エスファハーンFCの下部組織に在籍、2006年にフーラッド・モバラケ・セパハンFCに加入した。同年にルカ・ボナチッチ監督に見出されトップチームに昇格[4]。トップチームに昇格した翌年にはAFCチャンピオンズリーグ2007で準優勝を果たし、優勝を果たした浦和レッドダイヤモンズがFIFAクラブワールドカップ2007の開催国であったため、同大会に出場する事が出来た。2006-07シーズンには得点が無かったものの、翌2007-08シーズンには6得点をあげた。2007-08シーズンの最終戦となったペルセポリスFC戦でも得点を挙げてタイトル獲得に貢献したかに思われたが、その後決勝弾を浴びて優勝は果たせなかった。2008-09シーズン以降もミッドフィールダーとして活躍し、2009-10シーズンには左サイドバックのポジションでも起用された。このシーズンに優勝を果たしたセパハンは彼と2年間の契約を延長した[5]。 2011年6月には1年半の契約でトラークトゥール・サーズィーFCにレンタル移籍し、アミル・ガレノイー監督に再開した[6]。トラークトゥールはこのシーズンを歴代最高の2位で終えた。2012年12月に契約が終了しセパハンに復帰した。 セパハンに復帰した時にはズラトコ・クラニチャール監督が指揮を執っていた。シーズン後には2年の契約を延長し、2014年8月には契約が満了し、フットボールリーグ・チャンピオンシップに所属するフラムFCが彼と契約する間近まで行ったものの、労働許可証の問題から移籍は実現しなかった[7]。 2015年8月30日には、2. ブンデスリーガのFSVフランクフルトと2年契約を結んだ[8]。9月13日のアイントラハト・ブラウンシュヴァイク戦で途中出場しドイツデビュー[9]。一週間後の20日のMSVデュースブルク戦では左サイドバックとして出場し1-0の勝利に貢献した[10]。その後、ハジサフィはセットプレーのキッカーになった。2016年3月2日のMSVデュースブルク戦で初得点し3-3の引分に試合を持ち込んだ[11]。3月13日には45mほどを走ってSCフライブルクから得点を奪った[12]。しかし、クラブは3. リーガに降格、それによって彼の契約は解除され、自由契約となった。 2016-17シーズンよりセパハンに復帰した。 2017年8月10日、ギリシャのパニオニオスFCに移籍した。 2018年9月2日、トラークトゥール・サーズィーFCに3年契約で復帰した。 2021年8月3日、AEKアテネFCに移籍した。 代表![]() ![]() U-17代表でAFCユース選手権2006に出場した。その後、U-20代表、U-23代表を経験した。 2008年5月25日のザンビア代表との親善試合でA代表初出場。このアザディ・スタジアムでの一戦では2アシストを決め、3-2の勝利に大きく貢献した。その後6月2日の2010 FIFAワールドカップ・アジア3次予選のアラブ首長国連邦代表戦にも出場した。アウェーでのもう一戦にも途中出場し、イランの勝利の一助となった。代表初得点となったのは西アジアサッカー選手権2008のカタール代表戦で、この試合でイランはカタールを6-1で破った。その後、AFCアジアカップ2011予選、AFCアジアカップ2011にも出場したが、韓国代表に敗れてベスト16で姿を消した。2014年3月には57キャップ目となったクウェート代表戦で初めて主将となった。 6月1日にはカルロス・ケイロス監督から2014 FIFAワールドカップのメンバーに選出された[13]。初戦のナイジェリア代表戦ではフル出場し0-0の引分に終わった。次戦のアルゼンチン代表戦では88分間プレーしたものの彼が交替して退いた後にリオネル・メッシに決勝弾を浴びて敗北した。その後のボスニア・ヘルツェゴビナ代表戦にも63分間出場したものの、イランはグループステージ敗退となった。 2014年12月30日にはAFCアジアカップ2015のメンバーに選出された[14]。2015年1月11日に行われたバーレーン代表戦との開幕戦で開幕弾を打ちこんだ。 個人成績
クラブ
アシスト数
代表歴出場大会試合数
得点
タイトルクラブ
代表個人
出典
外部リンク
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