エラマナムー
エラマナムー (Ela-Mana-Mou) はアイルランドで生まれ、イギリスで調教を受けた競走馬である。2歳時からトロイと重賞戦線で勝ち負けを繰り返していたが、3歳末にトロイと同じ厩舎に移籍し、古馬になるとエクリプスステークス、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスを含む重賞4連勝を達成して、1980年の最優秀古馬に選ばれた。 経歴出自父ピットカーンはペティンゴ産駒のマイラーでグッドウッドマイルなどG3レースを3勝したが、アイリッシュ2000ギニー2着などG1級のレースでは今一歩足りなかった。エラマナムーは、ピットカーンの初年度産駒であり、エラマナムーの活躍する前にピットカーンは日本に輸出された。 母Rose Bertinは3号族に属する1勝馬で、その牝系ではナスルーラ産駒の5代母Belle of Allが1951年の1000ギニー、コロネーションステークスなどに優勝している。母の父ハイハットはハイペリオン産駒でオックスフォードシャーステークスなどに勝ち、1966年1000ギニー優勝馬Glad Rags(GB)、同年アイリッシュセントレジャー優勝馬White Gloves(IRE)、1973年アイリッシュ1000ギニー優勝馬Cloonagh(GB)などを輩出し、こちらも日本に輸出された。 エラマナムーはアイルランドのPatrick Clarkeのもとで生まれ、イヤリングセールにおいて4,500ギニーでAudry Muinosに購買され、ウエストサセックス・パルバラのGuy Harwood調教師に預けられた。エラマナムー(Ela-Mana-Mou)という名前はギリシャ語の"έλα μάνα μου"から名付けられており、直訳すると"come on, my mother"になりスラングとして"Come on, my darling"を意味する。 競走馬時代2歳時 (1978年)エラマナムーは2歳の6月にニューベリーのメイドンレース・ケンネットステークス(6f)を3馬身差で勝利し競走馬デビューすると、7月にはケンプトンパークのウィローステークス(6f)にも勝利した。続いて、7月のうちにグッドウッドに移動して、G3・ヴィンテージステークス(7f)に出走したエラマナムーであったが、トロイに2馬身半差を付けられ2着に敗れた。 9月になりリングフィールドの6fのハンデキャップを勝利した後、アスコットのG2・ロイヤルロッジステークスに出走すると、前回敗れたトロイに今度は3/4馬身差を付け、リファーズウィッシュを3着に抑えて優勝した。 3歳時 (1979年)3歳になったエラマナムーは2000ギニーには出走せずに、ニューマーケットのヒースステークス(9f)で3歳初戦を迎え、2着に4馬身差を付けて快勝した。第200回の区切りとなるダービー制覇を目指し、調教されたが、調教師のHarwoodが馬房を終始モニタリングするような徹底振りであった。ダービーではトロイ、エリザベス女王所有のミルフォードに次ぐ3番人気で、スターキー騎乗のエラマナムーは、レース序盤は抑えて進んだが、直線でも先頭まで届かずトロイ、Dicken's Hill、Northern Babyに次ぐ4着に終わった。 ダービー敗戦の2週間後に再びターフに現れたエラマナムーはロイヤルアスコットのキングエドワードステークス (12f)を楽勝した。7月にはフランス遠征を行いサンクルー大賞に出走したが、健闘はしたもののゲイメセンの2着となり、帰国後のキングジョージでもトロイとゲイメセンに敵わず3着であった。その後2ヶ月休養し、チャンピオンステークスに出走したが、好調時のフォームが見られず、アイルランドの牝馬Cairn Rougeの6着に敗れた。 このシーズンの終わりにエラマナムーはSimon Weinstockの代理人Peter Wraggに500,000ギニーで買われ、厩舎もライバル・トロイの調教師であるウエスト・イルスリーのディック・ハーンのもとに移り、騎手もトロイのW.カーソンが乗り替わることになった。 4歳時 (1980年)新陣営となった4歳初戦を4月にニューマーケットのG3・アールオブセフトンステークス(9f)で迎えたエラマナムーはそこを首差で勝利し、6月には当時G2だったロイヤルアスコットのプリンスオブウェールズステークスでも2馬身差で勝利した。7月になるとエクリプスステークスに出走し、コロネーションカップ優勝の牝馬Sea Chimesらと対決した。結果はエラマナムーがヘンリー・セシル厩舎の3歳馬Hello Gorgeous、アイルランドのGregorian、着外に沈んだSea Chimesらに勝った。 ロイヤルアスコットのキングジョージでは、フランス調教馬Le Marmotに次ぐ2番人気で、残り4ハロンで先頭に立つと追いすがるディアヌ賞優勝馬Mrs Pennyを3/4馬身抑えて優勝した。2ヶ月以上休養の後、凱旋門賞に出走したが、牝馬デトロワの3着に敗れ、引退することになった。 種牡馬成績
血統表
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