ピンザ (Pinza 、1950年 - 1977年)はイギリス のサラブレッド 競走馬 、種牡馬 。1952年6月から1953年6月までの1年余りの戦歴で7戦5勝。エプソムダービー で4日前に戴冠式を行なったイギリス女王エリザベス2世 所有の有力馬オリオール を負かし、この戴冠式の叙勲でナイトに叙されたサー ・ゴードン・リチャーズ 騎手 にダービー 初制覇をもたらした。続いてキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス にも勝利し、1953年のイギリスベスト3歳牡馬 となった。
本項ではピンザの勝利した第147回ダービーステークス (1953年)と、ピンザの産駒が巻き込まれたダービー 本命馬の出走妨害事件(1961年)についても詳述する。
出自
ピンザは16ハンド (約162.6センチメートル)を超す大柄な鹿毛 馬で、ダービー7勝などクラシック競走 を19勝した調教師 フレッド・ダーリン (英語版 ) に生産された。ダーリンは1947年に調教師を引退していたが、それ以前からベックハンプトン(Beckhampton)の厩舎からほど近いブラックランズスタッド(Blacklands Stud)を入手し、競走馬の生産を行なっていた。
ピンザの公式な生産者はダーリンだったが、実際に交配 をアレンジしたのはその前の所有者H・E・モリス夫人で、夫のヘンリー・E・モリスが所有するバンステッドマナースタッド に繋養されていたシャントゥール の仔を受胎したパスクア を、1949年12月のニューマーケット セール で売りに出したのだった。このとき国外にいたダーリンはカタログで見たパスクアの血統を気に入り、代理人を通じて2,000ギニー で購入した。
パスクア
ピンザの母パスクア Pasqua (GB ) はイギリス産。自身は未勝利馬で、それまで5頭の産駒も平凡なものだった。
1925年の2,000ギニー とダービーの二冠 を制したマンナ (英語版 ) Manna (IRE ) はダーリンが調教を手掛けた2頭めのダービー馬で、上海を拠点とする地金仲買人で『ノースチャイナ・デイリー・ニューズ (英語版 ) 』紙の共同所有者ヘンリー・E・モリス(Henry E. Morriss)の持ち馬だった。モリスはダービーとオークス を制したフィフィネラ Fifinella (GB) の半妹 で1,000ギニー とオークスを2着したソウブリケ Soubriquet (GB) をディスパーサルセールで1万2,500ギニーで購入し、種牡馬となったマンナを交配してパスカ Pasca (GB) を生産した。パスカは競馬場で2勝したのち、1935年に、前年一度めのチャンピオンサイアー となっていたブランドフォード Blandford (IRE) との間にパスク (英語版 ) Pasch (GB) を生んだ。
モリスのオーナーブリード馬 としてダーリンに預けられたパスクは、ゴードン・リチャーズが騎乗して1938年のクラシック三冠 すべてで本命となり、2,000ギニーやエクリプスステークス に勝ち、ダービーとセントレジャー で3着となる活躍をした。この2,000ギニーは、数々の大レースを制したダーリンとリチャーズのコンビ初のクラシック制覇となった。翌1939年にパスカが生んだのがパスクアで[ 注釈 1] 、父ドナテッロ Donatello (FR) は兄パスクの父ブランドフォードの孫だった。
実際にパスクアを見るとダーリンはあまり感心せず、再びニューマーケットの12月セールで売りに出された。のちにピンザと命名される牡駒が生まれたあとだったが、このときは525ギニーだった。牡駒の方は1歳馬としてニューマーケット7月セールに送られ、実業家、ホテル経営者のサー・ヴィクター・サッスーン に1,500ギニーで購買された。その後サッスーンはブロードウェイ で観た『南太平洋 』に出演した歌手エツィオ・ピンツァ に因んで牡駒を命名した。ピンザの父シャントゥールはフランス語で歌手を意味する[ 10] 。
シャントゥール
シャントゥール (英語版 ) Chanteur [ 注釈 2] (FR ) はフランソワ・デュプレ (英語版 ) の生産馬で、コロネーションカップ 、サブロン賞(ガネー賞 )、オカール賞 、ジャンプラ賞・古馬(ヴィコムテスヴィジェール賞 (英語版 ) )、フォンテンブロー賞 (英語版 ) 、エドモンブラン賞 (英語版 ) 、ホワイトローズステークス (英語版 ) 、ウィンストンチャーチルステークスに勝ち、パリ大賞 、リュパン賞 、ゴールドカップ (2回)、サブロン賞を2着、凱旋門賞 、ロワイヤルオーク賞 、カドラン賞 を3着など26戦10勝したタフで万能な優れた競走馬だった。1947年、コロネーションカップに勝利する数時間前にブックメーカー のウィリアム・ヒルに7万ポンドでトレードされた[ 13] 。これはネアルコ の6万ポンドを凌ぎイギリスで競走馬に支払われた最高価格だった[ 14] 。この年競走馬を引退しイギリスで種牡馬となり、ピンザ以外にもカンテロ (英語版 ) Cantelo (GB ) (1959年セントレジャー )と* オンリーフォアライフ (英語版 ) Only for Life (GB) (1963年2,000ギニー )のクラシック 優勝馬などを出して成功した。
シャントゥールは1953年イギリス・アイルランドのチャンピオンサイアーとなった。
サー・ヴィクター・サッスーン
ピンザの馬主 、第3代ボンベイ准男爵サー・エリス・ヴィクター・エリアス・サッスーン(Sir Ellice Victor Elias Sassoon、1881年 – 1961年)は、アヘン取引や綿花産業、不動産投資で富を築いたユダヤ系財閥サッスーン家の出身で、大戦間の上海で金融、不動産などを支配した大富豪だった。
サッスーンの競馬 とのかかわりはインドで始まり、現地の競馬のための競走馬生産を手掛けていた。やがて1924年に父の遺産と爵位を引き継ぎ、翌年には巨額の資金を投じてイギリス本国の競馬にも参入した。1925年のニューマーケットとドンカスターのセールに「彗星のように」現れると、7万ギニー以上を費やして20頭近い馬を買い集めた。同時にニューマーケットのフィッツロイハウス厩舎(Fitzroy House Stables)を取得し、J・H・クロフォード(J. H. Crawford)を専属調教師として充てるとともに[ 注釈 3] 、ニューマーケット郊外のバンガロースタッド(Bungalow Stud)を購入して競走馬の生産を開始した。牧場は自身の名前の頭文字から取った愛称により、イヴスタッド(Eve Stud)と改名された[ 20] [ 注釈 4] 。
1925年に購入した1歳馬からはホットナイト Hot Night (GB) が出てダービーとセントレジャーで2着となり、1937年にはエキシビショニスト Exhibitionnist (GB) が1,000ギニーとオークスの二冠馬 となった。また1932年の生産馬ミュージアム Museum (GB) は1935年アイルランド 最初の三冠馬 となり、その半弟 フィデア Phidea (GB) も1937年にアイルランドの2,000ギニー とダービー に勝つ活躍をしていた[ 注釈 5] 。
ノーマン・バーティ
ピンザはニューマーケットのノーマン・バーティ調教師のもとへ送られた。バーティはかつて、フレッド・ダーリンの父サム・シニア[ 注釈 6] の時代からベックハンプトンの厩舎で働き、フレッドのもとで長らくヘッドラッドを務めていた。
競走成績
2歳シーズン(1952年)
ピンザは7月にハーストパーク (英語版 ) のメイドン競走 でデビューし、将来にいくらかの期待を抱かせたものの着外に終わった。二カ月後、ドンカスター のセントレジャー開催で、ニューマーケットセール売却馬限定のタターソールセールステークス(Tattersall Sale Stakes)に出走すると、6馬身 の差をつけて楽勝した。2週後、アスコット のロイヤルロッジステークス (英語版 ) (1マイル )ではオッズ 5対2(3.5倍)の一番人気となった。ここでは4頭立てのスローペースの展開が向かなかった様子で、牝馬 ニーマー Neemah (GB) に1馬身半差の2着に終わった。
シーズン最後のレースは10月のニューマーケットで、デューハーストステークス (7ハロン )に5馬身差で勝利した。この年のベスト2歳馬ランキングであるフリーハンデ で、トップウェイトのニアルーラ (英語版 ) Nearula (GB) から5ポンド 下の9ストーン 2ポンド(128ポンド、約58キログラム )のレーティングを与えられた。
3歳シーズン(1953年)
1953年初め、ピンザは運動中に砂利道で転倒した。怪我の程度そのものは軽かったものの、回復に時間を要する脚の感染症になり、2,000ギニーに向けての運動が不可能となった[ 23] 。2,000ギニーは2対1(3倍)で一番人気のニアルーラが4馬身差で楽勝した。
第174回ダービーステークス
アンティポスト
ピンザのこの年の初戦は5月13日のニューマーケットステークス(10ハロン)となった[ 25] 。調整不足で非常に太く見えたが、4馬身差をつけ勝利した。このパフォーマンスによりブックメーカー は、ダービーのアンティポスト(出走確定前投票)のオッズを33対1(34倍)から8対1(9倍)に引き下げた。
その三日後、前年即位したエリザベス女王の持ち馬オリオール Aureole (GB) がリングフィールドダービートライアルステークス を5馬身差で勝利した[ 26] 。翌週には、それまで一番人気だったニアルーラに脚部不安が報じられ、オリオールが一番人気となった[ 27] 。6月2日に戴冠式を行なう女王の持ち馬が、その週末ダービーの栄冠を獲得するというのは、華やかな戴冠式ウイーク(Coronation Week)の締めくくりにふさわしいように思われた[ 28] 。
6月1日、戴冠式の叙勲名簿(Coronation Honours List (英語版 ) )が発表され、ゴードン・リチャーズが職業騎手として初めてナイトに叙されることになった。フレッド・ダーリンの調教師引退後、リチャーズは、ダーリンからベックハンプトンの調教場を引き継いだ(のちのサー・)ノエル・マーレス (英語版 ) 調教師と優先騎乗契約を結んでいたが、この年のマーレスにはダービーへの出走馬が無く、リチャーズはピンザに騎乗することになっていた。レース前夜の提示で、ピンザはオリオールと横並びで5対1(6倍)の一番人気となった。ブルーリバンドトライアルステークス (インヴェスティックダービートライアル)などに勝っていたプレモニション Premonition (GB) [ 注釈 7] が8対1(9倍)で続いた[ 32] 。
その体躯からピンザは樽(The Barrel)というニックネームがつけられていたが「彼は獅子のようになる」とリチャーズは語った[ 33] 。
戴冠ダービー
6月6日、晴天に恵まれたエプソムダウンズ は、50万とも70万人ともいわれる大観衆で膨れ上がった[ 10] 。女王はタッテナムコーナー からグランドスタンド前までコース上を走る車のパレードで入場し[ 34] 、4日前の戴冠式でのロンドンの街をおもわせる大歓迎を受けた[ 28] [ 注釈 8] 。発走の時点ではピンザとプレモニションが並んで5対1の一番人気となり、オリオールは下見所 や入場行進での焦れ込みが嫌われ9対1(10倍)の三番人気となっていた[ 10] 。
27頭が出走したレースはアーガー・ハーン3世 の持ち馬シカンプール Shikampour (GB) が先行した。25回チャンピオンジョッキー となったゴードン・リチャーズ[ 注釈 9] 騎乗のピンザは丘の頂上では馬群の中に潜んでいたが、タッテナムコーナー入り口に入ると二番手に上がって行った。そのまま先頭から4馬身ほど離れた二番手で直線に入り、後続の馬群は4 - 5馬身遅れて続いた。さらに1ハロン過ぎるとピンザは先頭のすぐ後ろに取りついた。ゴール手前2ハロンでリチャーズが促すと、ピンザは難なくシカンプールを捉え、そのままリードを広げ始めた。後ろからはオリオールが追いかけてきたが2着までだった。ピンザはオリオールに4馬身差をつけ優勝した。1馬身半遅れてフランスからの遠征馬ピンクホース Pink Horse (FR) (33対1(34倍))がシカンプールを交わして3着。ニアルーラ(22対1(23倍))は9着、プレモニションは17着以下の着外だった[ 36] 。
ダービーとリチャーズとダーリン
ピンザは、本命馬の一頭であっただけでなく、ナイトに叙されたばかりのゴードン・リチャーズにダービーの勝利をもたらしたことでも祝福されたダービー馬となった。
リチャーズは、それまでダービーで1934年イーストン Easton (FR) 2着、1936年タージアクバル Taj Akbar (GB) 2着、1938年本命パスクで3着、1939年フォックスカブ Fox Cub (FR) 2着、1943年ナスルーラ Nasrullah (GB) 3着のほか、1942年に無敗の本命ビッグゲーム (英語版 ) Big Game (GB) 6着、1947年にも同じくテューダーミンストレル Tudor Minstrel (GB) で4着など、27回挑んで一度も勝てずにいた。一方ダーリン調教師は、リチャーズと優先騎乗契約を結んだ1932年以降も3回ダービー制覇をつけ加えていた。その際のリチャーズは、1938年が9対4(3.25倍)の本命となったピンザの叔父パスクで20対1(21倍)の人気薄ボワルセル Bois Roussel (FR) に3着。ニューマーケットで代替開催された1940年のポンレヴェック (英語版 ) Pont l'Evêque (GB) は調教師自身の持ち馬でもあったため[ 注釈 10] 厩舎の主戦騎手としてタンミュー Tant Mieux (FR) への騎乗を優先して4着。1941年のオーエンテューダー Owen Tudor (GB) では5月に馬に蹴られ脚を負傷して騎乗を逃すといった具合だった。リチャーズはこのシーズン終わりに騎手を引退し、1953年のダービーが最後となることをすでに表明していた。
そのころ病で長く臥せっていたダーリンは、ピンザとリチャーズの勝利の報を聞くことができた。ダーリンはダービーの3日後に死去した。
第3回キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス
次走はアスコット のキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスとなった。前年の凱旋門賞 優勝馬ヌッチョ Nuccio (ITY ) 、同じくローマ賞の優勝馬で、この秋にはワシントンDCインターナショナル を制するヴォルデン Worden (FR) [ 38] 、この秋凱旋門賞で2着となるシルネ Silnet (FR) [ 39] [ 注釈 11] 、前年のリュパン賞優勝馬で5月にカドラン賞 1着入線降着3着していたヴァモス Vamos (FR) [ 40] [ 注釈 12] 、マルセル・ブサック 持ち馬の3歳馬ファレル Pharel (FR) がフランスから遠征してきた[ 41] 。加えて前年の第1回ワシントンDCインターナショナル優勝馬ウィルウィン (英語版 ) Wilwyn (GB) 、この年コロネーションカップ でウィルウィン、ヴォルデンを2、3着に下した*ズクロ Zucchero (IRE) [ 42] [ 38] といった古馬 を含む13頭が出走した[ 44] 。
ピンザは2対1(3倍)で一番人気となり、ニアルーラが5対1(6倍)で二番人気、以下ヌッチョ15対2(8.5倍)、ズクロ8対1(9倍)、ヴォルデン100対9(約12.1倍)、オリオールらの20対1(21倍)と続いた[ 44] 。ニアルーラはダービー後にセントジェームズパレスステークス を勝ってこのレースに臨み、オリオールはエクリプスステークス で3着に敗れていた。
スタートが切られるとズクロが10馬身ほど出遅れ[ 注釈 13] 、ヌッチョが先頭を奪って逃げた。ピンザは二番手につけ、ニアルーラ、シルネ、ファレル、オリオール、キングオブザテューダーズ King of the Tudors (GB) 、ウィルウィンと続いた。そのまま二番手で最後の直線に入ると、ピンザは「鮮やかな末脚(brilliant burst of speed)」[ 46] と評された走りで再びオリオールを2着に破り、3馬身の差をつけて優勝した。さらに3馬身遅れてヴォルデンが写真判定でファレル(4着)とヌッチョを抑えて入線した[ 44] 。
引退
ピンザはセントレジャー へ向けて2対1(3倍)の一番人気に支持されていたが[ 28] 、運動中に腱を痛めた[ 47] 。再び出走することはできず、このシーズン3戦無敗で種牡馬へと引退した。
種牡馬成績
アメリカ から35万7,000ポンド で購買のオファーがあったものの、ピンザは5,500ポンドで40口、総額22万ポンドでシンジケート が組まれ[ 28] 、ヴィクター・サッスーンのイヴスタッドで種牡馬となった[ 20] 。特に成功した種牡馬ではなかったが、キングエドワード7世ステークス に勝ち1万8,456ポンドを獲得したピンダリ Pindari (GB) をはじめ勝ち馬が218勝し、17万3,844ポンドを獲得した。ほかに注目を集めた産駒としてピントゥリシオ Pinturischio (GB) がいた。
おもな産駒
ピントゥリシオ事件
サッスーンとマーレス
ノエル・マーレス調教師は1952年にサッスーンの所有する牧場の運営について助言することに同意し、2年後には牧場のマネージャーと第一調教師(principal trainer)を引き受けることになった。この頃からサッスーンの持ち馬は驚異的な成功をおさめ始め、ピンザ(1953年)を皮切りに、クレペロ (英語版 ) Crepello (GB ) (1957年)、* ハードリドン Hard Ridden (IRE ) (1958年)、セントパディ (英語版 ) St. Paddy (GB) (1960年)と7年間に4頭ものダービー 馬を所有する[ 注釈 14] 。クレペロとセントパディはサッスーンの生産馬でもあり、マーレスが調教し、ゴードン・リチャーズ引退後マーレスと優先騎乗契約を結んだレスター・ピゴット が騎乗した。
ウォーレンプレイスのスーパースター
このトリオが翌1961年に送り出した「ウォーレンプレイス (英語版 ) のスーパースター」[ 64] [ 注釈 15] がピンザの産駒ピントゥリシオ [ 注釈 16] だった。2歳時はデビュー戦前に咳が出て未出走だったが、早い時期からニューマーケットのワークウォッチャーたちは、マーレスが新たなチャンピオンを仕込み中であると報じていた。春のあいだも調教場で僚馬を圧倒し、その一頭オーリーリアス (英語版 ) Aurelius (GB) は2,000ギニーの前哨戦クレイヴンステークス で、一番人気の*イーグル Eagle (GB) を2着に破り快勝した[ 注釈 17] 。デビュー戦前にもかかわらず、ピントゥリシオはダービーと2,000ギニーの一番人気となっていた。
デビューは4月13日ニューマーケットのウッドディットンステークス(Wood Ditton Stakes)となり、2対5(1.4倍)の一番人気で期待どおり楽勝した。26日の2,000ギニーは7対4(2.75倍)の一番人気でスタートしたが、67倍(66対1)の人気薄ロッカヴォン Rockavon (GB) の4着に終わった[ 56] 。しかしレース前にマーレスは状態と距離が合っていないかもしれないと述べ、ダービーには自信を示していた[ 56] 。また、ステーブルメイトで1959年の牝馬三冠馬プチトエトワール Petite Etoile (GB) との調教場での動きは光彩を放っており、依然としてダービーの一番人気を保っていた。
「まだらの謎」
5月13日土曜には素晴らしい追い切りを披露したが月曜の朝、激しい下痢と嘔吐、発熱を発症しているのが発見された。腸ねん転が疑われ、獣医師が呼び出された。糞と血液からサンプルが採取されて、ニューマーケットの研究所へ送られた。予定されていた火曜のダンテステークスは回避を余儀なくされた[ 注釈 18] 。19日金曜の朝にはオーリーリアスと5ハロンのキャンター を行なうほど回復していたが、翌日は調教場に姿を現さなかった。その晩マーレスは症状が再発し、(31日の)ダービー出走は難しいだろうと述べた。月曜の新聞はダービーの本命馬の不可解な胃トラブルを一面や最終面で報じ、『デイリー・エクスプレス 』は叫んだ。「まだらの謎 ピント・リドル (Pinto Riddle)」「彼はねらわれたのか?」。27日には出走を断念することが正式に発表された。ピントゥリシオはそのまま競走馬を引退した[ 55] 。
サンプル分析の結果、ほとんど致死量に達するクロトン油 が検出された。20世紀前半に動物園で下剤としてゾウのような大型哺乳動物を治療するのに用いられ、1920年代のシカゴでは密造酒業者が、商品を盗もうとする同業者を欺くためにウィスキーのボトルに仕込んだりしたものだった。スコットランドヤード の捜査が入り、二度にわたるドーピング 行為の結果、賭け屋がおよそ20万ポンド、2013年通貨換算で360万ポンドを得たものと結論づけた[ 注釈 19] 。警察は、少なからぬブックメーカーの一団がこれに関与していたと見なしていたものの、起訴に十分な証拠を得ることは出来ず告発を断念した[ 55] [ 注釈 20] 。
この年の8月、サッスーンは死去した。
ウッディットンスタッド
イヴスタッドはサッスーン未亡人からマーレスに売却され、ウッディットンスタッド(Woodditton Stud)と名を改められた。ピンザは1977年に死亡し、ウッディットンスタッドに埋葬された。その後スタッドは1981年にシンガポールのヨン・ナムセン(Yong Nam-Seng)に売却され、2001年にはシェイク・モハメド のダーレー・グループ に購入された[ 20] 。
評価、顕彰
ジョン・ランドールとトニー・モリスによる著作 A Century of Champions は、ピンザを「偉大な(great)」ダービー馬とし、20世紀のベストイギリス競走馬15位に評価した[ 71] 。
タイムフォーム はピンザを1953年のヨーロッパ最高レート137に評価した[ 72] [ 73] 。
競走馬に因んで機関車に命名するロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道 の伝統に則り、1961年6月22日にイギリス国鉄 の55形ディーゼル機関車 「デルティック 」のD9007号(のちの55 007号)がピンザと名づけられ、1981年12月31日まで運行された[ 75] 。
血統表
脚注
注釈
^ パスカは他に1934年にサセックスステークス の勝ち馬パスカル Pascal (GB) (父アーティスツプルーフ Artist's Proof (GB) )[ 6] 、1938年にはセントレジャー (1941年ニューマーケット 代替)2着馬シャトーラローズ Chateau Larose (GB) (父シャトーブスコー Chateau Bouscaut (FR) )[ 7] を生んでいる。
^ Chanteur II としても知られる。イギリス で Chanteur II として登録された[ 11] 。
^ のちにフィッツロイハウスはチャンピオントレーナーのフランク・バターズ (英語版 ) 、マーカス・マーシュ (英語版 ) の調教場として、アーガー・ハーン3世 の著名な持ち馬たちがトレーニングされた。1929年にクロフォード調教師 が42歳で亡くなると、翌年バターズに貸し出された。
^ サッスーンはその後アイルランド のキリーンスタッド(Kelleen Stud)も入手し、晩年にビーチハウススタッド (英語版 ) とヨークシャー のソーントンスタッド(Thornton Stud)も保有した。
^ ミュージアムは同年のイボアハンデキャップ にも勝っているが、負担重量 は7ストーン 13ポンド (111ポンド、約50.3キログラム )という軽量である。
^ サミュエル・ダーリン(Samuel Daring、1852年 - 1921年)は、調教師として1897年の三冠馬 ガルティーモア Galtee More (GB ) 、1902年のダービー馬 アードパトリック Ard Patrick (GB) の兄弟などを手掛けた。フレッドの兄 サミュエル・ヘンリー(Samuel Henry Daring、1881年 - 1967年)も調教師。
^ プレモニション は、この秋セントレジャーに勝利する[ 31] 。
^ 王室の来賓としてロイヤルボックスで日本の皇太子明仁親王 が観覧したことが報じられている[ 10] 。戴冠式のため訪英していた。
^ リチャーズはこの年も首位となり、計26回チャンピオンジョッキー となった。
^ ポンレヴェック (英語版 ) の生産およびそれ以前の所有者はヘンリー・E・モリスである。戦争により持ち馬の整理を行なっていたモリスから、前のシーズン終わりにダーリンが500ポンド で購入した。
^ このとき凱旋門賞 に優勝したラソレリーナ La Sorellina (FR ) はシルネの半妹 である。
^ 翌1954年のこのレース2着馬。1着はオリオール [ 40] 。
^ また、オリオールが下見所でファレルに蹴られて獣医師の診断を受け、発走前には騎手を振り落とすアクシデントがあった[ 44] 。
^ その他にクレペロ (英語版 ) の半姉 ハニ―ライト Honeylight (GB) (1956年1,000ギニー )や、5,000ギニー で購買したプリンスリーギフト など。またクレペロの半弟トワイライトアレー (英語版 ) Twilight Alley (GB) がサッスーン未亡人の服飾 で走り、1963年のゴールドカップ に勝利している。
^ マーレス (英語版 ) は1952年秋にベックハンプトンからニューマーケット のウォーレンプレイス (英語版 ) へ移っていた。ウォーレンプレイスはサム・ダーリン・ジュニア 調教師がつくった調教場で、当時ニューマーケットで最も近代的な調教場と言われた。マーレスの引退後(のちのサー ・)ヘンリー・セシル が引き継ぎ、セシルの死後シェイク・モハメド のゴドルフィン・レーシング が購入した[ 66] 。
^ パイントーシェリー((a) Pint O'Sherry シェリー酒(1)パイント )というニックネームがつけられた[ 55] 。
^ オーリーリアス (英語版 ) は2,000ギニー、ダービーとも出走せず、秋にセントレジャーに勝利する。
^ ピントゥリシオの「体調不良」が報じられると、5月15日月曜提示のダービーのオッズは前週の6対1(7倍)から9対1(10倍)に上昇し二番人気となった。このとき8対1(9倍)で一番人気となったのは、のちに種牡馬 として日本へ輸入されるフランス の*ムーティエ Moutiers (FR) である[ 70] 。
^ 折りしもジョッキークラブ の委員会による新たなドーピング 対策に関する報告が公開されたばかりだった。検査の強化と調教師ライセンスの取り扱いについての答申があり、ことに後者では、薬物が検出された際に調教師に弁解の機会が与えられることになった。これは「常識の勝利」として歓迎され、実際マーレスも反響を恐れることなくジョッキークラブとこの問題で合理的に疑念を共有することができた[ 55] 。
^ 薬物投与を実行した容疑者のひとりはマーレス厩舎の厩務員だった。別件のために司法取引が行われたとみられている[ 55] 。
出典
^ “Pascal | horses master data ” (英語). Galopp Sieger . 2016年7月14日閲覧。
^ “Château Larose | horses master data ” (英語). Galopp Sieger . 2016年7月14日閲覧。
^ “Pasch (GB) ” (英語). Blacktype-pedigree.com. 2016年7月14日閲覧。 “血統情報:5代血統表 |Pasch(GB) ”. JBISサーチ . 日本軽種馬協会 . 2016年7月14日閲覧。
^ “Pasqua (GB) ” (英語). Blacktype-pedigree.com. 2016年7月14日閲覧。 “血統情報:5代血統表 |Pasqua(GB) ”. JBISサーチ . 日本軽種馬協会. 2016年7月14日閲覧。
^ a b c d Harvey, Alan (1953年6月8日). “Record crowd cheers Pinza, Richards Win [レコードの大観衆ピンザ、リチャーズの勝利に喝采]” (英語). The Montreal Gazette (Montreal, Canada). https://news.google.com/newspapers?nid=1946&dat=19530608&id=GX8tAAAAIBAJ&sjid=DpkFAAAAIBAJ&pg=7320,1488358 2011年12月16日閲覧。
^ “Chanteur Horse Pedigree ” (英語). Thoroughbred Horse Pedigree Query . Select Web Ventures. 2016年7月14日閲覧。
^ (AAP) (1947年6月10日). “£70,000 for French champion [フランスのチャンピオンに7万ポンド]” (英語). The Argus (Melbourne, Australia). http://trove.nla.gov.au/newspaper/article/22432098?searchTerm=Chanteur%20Hill%2070,000&searchLimits= 2016年7月14日閲覧。
^ “OUR LONDON LETTER; HORSE THAT KNOWS [ロンドンレター 知っている馬]” (英語). Townsville Daily Bulletin (Townsville, Australia). (1947年6月25日). http://trove.nla.gov.au/newspaper/article/62892784?searchTerm=Chanteur%20Hill%20Nearco%2060,000&searchLimits= 2016年7月14日閲覧。
^ a b c “A history of Woodditton Stud ” [ウッディットンスタッドの歴史] (英語). Europe | Darley . Darley (2015年3月17日). 2016年7月14日閲覧。
^ Gallagher, Brendan (2003年6月3日). “1953: A golden year for sport [1953年:スポーツのゴールデンイヤー]” (英語). Telegraph (London, UK). http://www.telegraph.co.uk/sport/othersports/2405284/1953-A-golden-year-for-sport.html 2011年12月16日閲覧。
^ (AAP) (1953年5月14日). “PINZA WINS NEWMARKET [ピンザ、ニューマーケットを勝つ]” (英語). The Sydney Morning Herald (Sydney, Australia). http://trove.nla.gov.au/newspaper/article/18376341?searchTerm=Pinza%20Newmarket&searchLimits=
^ (AAP) (1953年5月19日). “QUEEN'S COLT BACKED [女王の馬支持される]” (英語). The Cairns Post (Cairns, Australia). http://trove.nla.gov.au/newspaper/article/42785874?searchTerm=Aureole%20%22Derby%20Trial%20Stakes%22&searchLimits= 2016年7月14日閲覧。
^ “AUREOLE DERBY FAVOURITE [オリオール、ダービー一番人気]” (英語). The Glasgow Herald (Glasgow, UK). (1953年5月21日). https://news.google.com/newspapers?nid=2507&dat=19530521&id=XkZAAAAAIBAJ&sjid=woQMAAAAIBAJ&pg=5499,4518040&hl=ja 2016年7月14日閲覧。
^ a b c d Captain Coe (1965年5月29日). “Pinza the Great [ピンザ・ザ・グレート]” (英語). Evening Times (Glasgow, UK). https://news.google.com/newspapers?id=0IdhAAAAIBAJ&sjid=p0oMAAAAIBAJ&pg=5411,3955391&dq=pinza+ascot&hl=en 2011年12月16日閲覧。
^ “Premonition(GB) ”. JBISサーチ . 日本軽種馬協会. 2016年7月14日閲覧。
^ “PINZA REFERRED AUREOLE FOR DERBY [ピンザ、ダービーでオリオールに対抗]” (英語). The Glasgow Herald (Glasgow, UK). (1953年6月6日). https://news.google.com/newspapers?id=bEZAAAAAIBAJ&sjid=woQMAAAAIBAJ&pg=5336,2718483&dq=pinza&hl=en 2016年7月14日閲覧。
^ “Can Aureole win Derby for Queen ? [オリオール、女王のためにダービー勝てるか?]” (英語). The Weekly Times (Melbourne, Australia). (1953年6月3日). http://trove.nla.gov.au/newspaper/article/224026820?searchTerm=Pinza%20barrel&searchLimits=exactPhrase 2016年7月14日閲覧。
^ “Coronation Derby (1953) - YouTube ” [戴冠ダービー(1953年) - YouTube ] (英語). British Pathé Channel . London, UK: British Pathé (2014年4月13日). 2016年7月14日閲覧。
^ “RICHARDS DESCRIBES PINZA AS “WONDERFUL HORSE” [リチャーズ、ピンザを「素晴らしい馬」と評する]” (英語). The Glasgow Herald (Glasgow, UK). (1953年6月8日). https://news.google.com/newspapers?nid=2507&dat=19530608&id=bUZAAAAAIBAJ&sjid=woQMAAAAIBAJ&pg=3085,2585206&hl=ja 2016年7月14日閲覧。
^ a b “Worden(FR) ”. JBISサーチ . 日本軽種馬協会. 2016年7月14日閲覧。
^ “Silnet(FR) ”. JBISサーチ . 日本軽種馬協会. 2016年7月14日閲覧。
^ a b “Vamos | horses master data ” (英語). Galopp Sieger . 2016年7月14日閲覧。
^ “Pinza Is Obvious Choice for To-Morrow's Big Race [明日の大レース、ピンザが当然の選択]” (英語). Evening Times (Glasgow, UK). (1953年7月17日). https://news.google.com/newspapers?id=00Y-AAAAIBAJ&sjid=gUsMAAAAIBAJ&pg=6555%2C1516285 2016年7月14日閲覧。
^ “ズクロ(IRE) ”. JBISサーチ . 日本軽種馬協会. 2016年7月14日閲覧。
^ a b c d “Gordon's Brilliant Riding Gains Another Victory for Pinza [ゴードンの鮮やかな騎乗、ピンザにさらなる勝利もたらす]” (英語). Evening Times (Glasgow, UK). (1953年7月18日). https://news.google.com/newspapers?id=owlBAAAAIBAJ&sjid=EqgMAAAAIBAJ&pg=6683%2C1669886 2016年7月14日閲覧。
^ (AP ) (1953年7月19日). “Pinza captures big English race [ピンザ、イギリスの大レースを奪取]” (英語). St. Petersburg Times (FL, USA). https://news.google.com/newspapers?id=9yYjAAAAIBAJ&sjid=NE8DAAAAIBAJ&pg=6218,1391999&dq=pinza+ascot&hl=en 2011年12月16日閲覧。
^ “Queen's horse favourite? [女王の馬が本命か?]” (英語). Daily Mirror (London, UK). (1953年9月3日). https://news.google.com/newspapers?id=u1g5AAAAIBAJ&sjid=UCkMAAAAIBAJ&pg=2536,171127&dq=pinza+tendon&hl=en 2011年12月16日閲覧。
^ “Pinched | horses master data ” (英語). Galopp Sieger . 2016年7月14日閲覧。
^ “Pinched(GB) ”. JBISサーチ . 日本軽種馬協会. 2016年7月14日閲覧。
^ “Pindari Horse Pedigree ” (英語). Thoroughbred Horse Pedigree Query . Select Web Ventures. 2016年7月14日閲覧。
^ “Pindari(GB) ”. JBISサーチ . 日本軽種馬協会. 2016年7月14日閲覧。
^ “Pinturischio Horse Pedigree ” (英語). Thoroughbred Horse Pedigree Query . Select Web Ventures. 2016年7月14日閲覧。
^ “Pinturischio ”. JBISサーチ . 日本軽種馬協会. 2016年7月14日閲覧。
^ a b c d e f “They really finished him off, he wasn't able to race again | Jamie Reid's Doped extract two [彼らは終わらせた、二度と走ることは出来なかった | ジェイミー・リードの『ドープド』からその2]” (英語). Racing Post (London, UK). (2013年11月28日). http://www.racingpost.com/news/horse-racing/jamie-reids-doped-extract-two/1570380/#newsArchiveTabs=last7DaysNews 2016年7月14日閲覧。
^ a b c Jackson, Linda (2014年7月8日). “EPSOM DERBY 1961 ” [1961年エプソムダービー] (英語). The Epsom and Ewell History Explorer . Surrey, UK: Epsom and Ewell Local and Family History Centre. 2016年7月14日閲覧。
^ “Pindaric(GB) ”. JBISサーチ . 日本軽種馬協会. 2016年7月14日閲覧。
^ (AAP) (1954年12月8日). “Record Price for U.K. Mare [英国牝馬にレコード価格]” (英語). The Age (Melbourne, Australia). https://news.google.com/newspapers?nid=1300&dat=19541208&id=K7YUAAAAIBAJ&sjid=8sQDAAAAIBAJ&pg=3679,1162356&hl=ja 2016年7月14日閲覧。
^ “Chinwag Horse Pedigree ” (英語). Thoroughbred Horse Pedigree Query . Select Web Ventures. 2016年7月14日閲覧。
^ “アマノガワ ”. JBISサーチ . 日本軽種馬協会. 2016年7月14日閲覧。
^ “種牡馬情報:種牡馬成績 |アマノガワ ”. JBISサーチ . 日本軽種馬協会. 2016年7月14日閲覧。
^ “True story behind biggest doping ring [陰の巨大ドーピング組織の実話]” (英語). Newmarket Journal (Suffolk, UK). (2013年10月6日). http://www.newmarketjournal.co.uk/news/latest-news/true-story-behind-biggest-doping-ring-1-5556031 2016年7月14日閲覧。
^ “Lady Cecil saddles final runner – but family name will live on in folklore [セシル夫人、最後の出走馬に鞍を置く – しかし家名は伝説の中に生き続ける]” (英語). Newmarket Journal (Suffolk, UK). (2013年10月6日). http://www.newmarketjournal.co.uk/news/latest-news/lady-cecil-saddles-final-runner-but-family-name-will-live-on-in-folklore-1-7061968 2015年11月12日閲覧。
^ (AP ) (1961年5月16日). “Favor Moutiers In Epsom Derby [エプソムダービーでムーティエ人気]” (英語). The Milwaukee Sentinel (WI, USA). https://news.google.com/newspapers?id=oA4xAAAAIBAJ&sjid=FxEEAAAAIBAJ&pg=2753%2C2775142 2016年7月14日閲覧。
^ Morris & Randall 1999 .
^ Morris & Randall 1990 .
^ “Timeform All-Time Highweights ” [タイムフォーム・オールタイム・ハイウェイト] (英語). DOSAGE: PEDIGREE & PERFORMANCE . Chef-de-race.com. 2012年5月22日時点のオリジナル よりアーカイブ。2011年12月16日閲覧。
^ “Names ” [名称] (英語). The Deltic Preservation Society Limited . Chesterfield, UK: Deltic Preservation Society (英語版 ) . 2016年7月14日閲覧。 “The horse itself was the winner of the 1953 Derby”
^ “Pinza (GB) ” (英語). Blacktype-pedigree.com. 2016年7月14日閲覧。
^ a b c “血統情報:5代血統表 |Pinza(GB) ”. JBISサーチ . 日本軽種馬協会 . 2016年7月14日閲覧。
^ “English Derby Winner: Pinza ” (英語). DOSAGE: PEDIGREE & PERFORMANCE . Chef-de-race.com. 2011年12月16日閲覧。
参考文献
Ahnert, Rainer L., ed (1970). Thoroughbred Breeding of the World . Dorheim, West Germany: Podzun-Verlag. ASIN B000HKK2JC
Barrett, Norman, ed (1995). The Daily Telegraph Chronicle of Horse Racing . London, UK: Guinness Publishing. ISBN 0-85112-649-9
Early, Jeremy (August 2010). “The Great Owner/Breedes; Sir Victor Sassoon” . Thoroughbred Owner & Breeder incorporating Pacemaker (London, UK: Thoroughbred Owner & Breeder ) (72): 22-23. https://issuu.com/ownerbreeder/docs/ob_august10 2016年7月14日閲覧。 .
Lambie, James (2010). The Story of Your Life: A History of the Sporting Life Newspaper (1859-1998) . Leicester, UK: Troubador Publishing. pp. 439-452. ISBN 978-1848762916 . https://books.google.co.uk/books?id=bJcbd-7pYlkC&pg=PA443&lpg=PA443&dq=%22pinturischio%22+doping&source=bl&ots=pE38gUVl05&sig=puOcMUJvE5vjrbGTIqer0vJn9Vg&hl=en&sa=X&ei=k4uNU6b_JPKf7AaVs4CoCA#v=onepage&q=%22pinturischio%22%20doping&f=false 2016年7月14日閲覧。
Morris, Tony; Randall, John (1990). Horse Racing: Records, Facts, Champions (3 ed.). London, UK: Guinness Publishing. ISBN 0-85112-902-1
Morris, Tony; Randall, John (1999). A Century of Champions: Horse-Racing's Millennium Book . Halifax, UK: Portway Press. ISBN 1-901570-15-0
Mortimer, Roger; Onslow, Richard; Willett, Peter (1978). Biographical Encyclopedia of British Flat Racing . London, UK: Macdonald and Jane's. ISBN 0-354-08536-0
Nock, O. S. (1985). British Locomotives of the 20th Century: Volume 3 1960-the present day . London, UK: Guild Publishing/Book Club Associates. ASIN B00158G776 . CN9613
日本上海史研究会 編『上海人物誌』東方書店 、1997年。ISBN 4-497-97514-2 。
関連文献
Mooney, Bill; Ennor, George; Kelly, Graeme (2006). The Complete Encyclopedia of Horse Racing . London, UK: Carlton Books. ISBN 978-1844421176
Reid, Jamie (2013). Doped: The Real Life Story of the 1960s Racehorse Doping Gang . London, UK: Racing Post. ISBN 978-1909471047
外部リンク