ジェス・オルテガ
ジェス・オルテガ(Jesse Ortega、本名:Jesus Melendez Ortega、1922年[3] - 1977年7月28日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。カリフォルニア州出身。出自はメキシコ系移民とされるが、プエルトリコ系という説もある[4]。 来歴1940年に18歳で海軍に入り、ガダルカナル戦線に従軍[4]。除隊後の1945年にプロレス入りし、地元のNWAカリフォルニア地区で活動[3]。 中南米移民の多いカリフォルニア地区ではベビーフェイスとして活躍し、1954年10月6日にエンリケ・トーレスと組んでシャープ兄弟からNWA太平洋岸タッグ王座を奪取[6]。同年11月9日にはサンフランシスコにてルー・テーズのNWA世界ヘビー級王者に挑戦した[7]。 1955年7月、日本プロレスに初来日。バッド・カーティスとの「中南米タッグ王者チーム」として参戦し、力道山&東富士の保持していたハワイ・タッグ王座とのダブルタイトル戦を2度行い、いずれも引き分けている[4]。以降も度々来日し、1959年5月にはワールド大リーグ戦の第1回大会に出場[8]。力道山と決勝を争うも敗退、準優勝となった[9]。1963年の来日時には、2月9日に東京都体育館で力道山のインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦している[4][10]。 1966年10月より、ブル・オルテガ(Bull Ortega)のリングネームでヒールとしてWWWFに進出。11月9日にボルチモア[11]、12月1日にワシントンDC[11]、翌1967年1月30日にはニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにて[12]、ブルーノ・サンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座に挑戦した。WWWFではボボ・ブラジル、エドワード・カーペンティア、スパイロス・アリオンとも対戦し、同じヒール陣営のビル・ミラー、ゴリラ・モンスーン、バロン・シクルナ、ルーク・グラハムらとタッグを組んでいる[13]。 翌1968年4月には日本プロレスへの5回目の来日を果たし、キラー・コワルスキー、フレッド・ブラッシー、ターザン・タイラー、ドミニク・デヌーチらと共に第10回ワールドリーグ戦に出場[14]。外国人陣営ではコワルスキーに次ぐ2位の戦績を残し、当時ジャイアント馬場が保持していたインターナショナル・ヘビー級王座にも挑戦[4]。パット・パターソンをパートナーに吉村道明&大木金太郎のアジアタッグ王座にも挑んだ[4]。これが最後の来日となったが、馬場とは1972年2月19日、アメリカのミシガン州デトロイトで再び対戦している[15]。 1970年代はマイティ・ウルスス(Mighty Ursus)のリングネームでカナダを主戦場に活動。1973年にはトロントにてジョニー・バレンタイン、タイガー・ジェット・シン、ハンス・シュミットらと対戦した[16]。晩年の居住地となったカルガリーのスタンピード・レスリングでは、1975年7月18日にカーティス・イヤウケアの北米ヘビー級王座に挑戦している[17]。なお、マイティ・ウルススの名義ではWWWF入りする前の1966年1月6日、オレゴン州セイラムにてスタン・スタージャックと組み、シャグ・トーマス&ベアキャット・ライトを破ってNWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座を獲得している[18]。 引退後は、オルテガ・サン(Ortega-San)と名乗り、日本人ギミックの初代グレート・カブキ(レイ・ウルバノ)のマネージャーを担当していたこともあった[2]。 1977年7月28日、カルガリーの自宅にて心臓発作のため死去[2][4]。55歳没[4]。 得意技獲得タイトル
脚注
外部リンク
|
Portal di Ensiklopedia Dunia