フェデックス・エクスプレス
フェデックス・エクスプレス(英:FedEx Express、以前はフェデラル・エクスプレス)はアメリカ合衆国テネシー州メンフィスを拠点とする大手貨物航空会社。フェデックス・コーポレーショングループを構成する中核企業。IATAレポートによれば、航空貨物においてFedEX Expressはトンキロ換算で世界一の事業者であった(2020年)[7]。 フェデックス・コーポレーションの貨物航空部門子会社として、フェデックス・ブランドの下で貨物航空機(カーゴ機)の運航を担当している。貨物輸送トン数で世界最大の航空会社であり、2015年時点での1日あたりの平均輸送量は小包400万個以上、貨物約5,000トン以上に及び、220以上の国と地域、375の空港を結び貨物機を運行している[8]。また、保有機材数の面でも、セスナなどの小型機からボーイング777といった大型機まで、合計700機以上の航空機を有している[8][9]。 現在フェデックス・エクスプレス社はどの航空連合にも属さない独立系の会社として運航している。 歴史スミスのレポートフェデックスのビジネスモデルは、1960年代頃創業者の「フレデリック・W・スミス」がイエール大学の学部生だったとき思いついたアイディアが元になっている[10]。 スミスは小包をアメリカ国内のあらゆる場所に迅速に配達することを可能にする、効率的な航空輸送ネットワークに関する研究論文を提出した。論文の中でスミスは、現代社会において「時間」は大きな価値があるが、小型電子回路の発展により各地で大量に生産される非常に小さな電子部品の輸送についてメーカーは課題を抱えていることを指摘し、この問題を解決できるのは貨物専門会社によるスピーディな輸送であると主張した[10]。 さらにスミスは、アメリカの航空業界はこの問題を解決するには非常に不向きであると指摘した。A地点からB地点への輸送を行う時に旅客機で輸送を行った場合、直行便で行うことはその路線が存在しない場合難しい[10]。そのため一度どこかで中継輸送を行う必要がある。しかしこの中継輸送は貨物輸送会社のキャパシティの問題があるほか、複数の運送会社が関与するため責任の所在が不明確になるという問題があった。また基本的に旅客便は昼間の飛行が主であるため、翌日までに届けるようにするためには夜間に輸送を行うことが必要だと主張した[10]。 このため貨物の効率的で正確な仕分けを行うために、ニューヨークからボストンといった短距離であっても、夜間のうちに一度メンフィスに航空便で貨物を集約させてから朝までに各地に輸送するハブ・アンド・スポークを用いた輸送方法を考えた[10]。そしてこれらの問題を解決するためには、集荷から、航空輸送、トラック輸送、仕分け、そして最終的な配達までを一つの会社が行うアイディアを提案した[10][11]。 しかしこのレポートの内容について、当時の航空業界の厳しい規制や苛烈な競争下では実現することはないと判断した教授は、この論文の評価を C 評価(平均的)としたとされている[10]。しかしこの成績については2004年のインタビューで、「覚えていないが多分いつも通りの「C」評価だったと思う」と答えたはずが、「覚えていない」という正確な答えではなく、推測で話した評価だけが独り歩きしてしまったと語っている[12]。 フェデラル・エクスプレス![]() 1966年にイエール大学を経済学と政治学の学士号を取得して卒業したスミスは、海兵隊のパイロットと航空機整備事業を経験した後、1971年に父親から相続した400万ドルとベンチャーキャピタルから集めた9,100万ドルを元手に、前述のアイディアを実現するためクリントン・ナショナル空港に「フェデラル・エクスプレス」を設立した[10][13]。しかし空港からの支援を受けられなかったことを原因として、1973年に拠点をメンフィス国際空港に移転している[14]。 同社は1973年4月17日に運行を開始し、アメリカの25の夜の街をダッソー ファルコン 20で結んだ。この日運んだ荷物は186個だった[15]。 貨物量は順調に増加を続けていたが、1974年ごろには燃料価格の高騰により月に最大100万ドルの赤字に陥った。スミスは会社を存続させるために銀行や投資家などからの資金調達に奔走した[11]。しかしある企業からの資金調達が得られなかったときスミスはメンフィスへ戻るのではなく、ラスベガス行きの便に飛び乗った。そこで彼はブラックジャックで勝ち27,000ドルを手に入れた。この時得た資金はフェデックスを復活させるには雀の涙ほどの額だったが、スミスは「状況が好転する兆し」だったと後に語っている[11]。最初の2年間で1,340万ドルの損出を生み出したが、投資家や銀行などの資金調達で会社は存続し、徐々に輸送量は増え続け1976年には360万ドルの利益を上げた[11]。 1977年には規制緩和により貨物専用航空会社の運行路線の制限が撤廃された。このことから更に大型なボーイング727型機を7機購入しさらなる路線増加、貨物増加に対応した。そして1978年にニューヨーク証券取引所に上場した。順調に貨物量・売上を伸ばしていった同社は、1983年に売上が10億ドルを超えた[14]。 1986年、ニューアーク・リバティー国際空港に新しくハブを開設し、1988年にはインディアナポリス国際空港とオークランド国際空港にもハブを開設した。1989年にもテッド・スティーブンス・アンカレッジ国際空港にハブを開設し、フライング・タイガー・ラインを買収して国際貨物輸送への足がかりとした[14]。なお日本法人は1984年に開設されている。 1994年、フェデラル・エクスプレスはニックネームとして使用されていた「FedEx」を正式にサービス名として使用することにした。同年、初のオンライン経由で荷物の追跡を行えるウェブサイト「fedex.com」を立ち上げた[14]。 1995年、エバーグリーン航空を買収し、中国へと路線網を広げた。また「アジア太平洋ハブ」として、フィリピンのスービック・ベイ国際空港にハブを開設。更に1997年にアメリカのハブとしてフォートワース・アライアンス空港に、1999年にヨーロッパハブとしてシャルル・ド・ゴール空港にそれぞれハブを開設した[14]。 フェデックス・エクスプレス1998年、フェデックスはキャリバーシステムを合併する際、持株会社「FDXコーポレーション」を設立しその子会社として各社を再編した。そして2000年にすべてのブランド名を統一することを決定し、親会社「FDXコーポレーション」は「フェデックス・コーポレーション」 に、航空輸送を行う「フェデラル・エクスプレス」は「フェデックス・エクスプレス」に社名を変更した[14]。 2000年代後半の不況では、多くの企業が経費削減の必要に迫られ輸送を中止するか、より安価な輸送方法に切り替えたことでフェデックスは大きな打撃を受けた。そこでマクドネル・ダグラス DC-10やエアバスA310などの旧式で効率の悪い航空機の一部を退役させるほか、人員削減や労働時間の削減を行った[16]。 2009年2月6日にアジア太平洋ハブをフィリピンのスービック・ベイ国際空港から広州の広州白雲国際空港にハブを移転[17]。 2010年10月27日、ドイツのケルン・ボン空港に中央・東ヨーロッパのハブを開設[17]。 そして2014年4月には関西国際空港に北太平洋地域ハブを開設しアジアとアメリカをつなぐ拠点として運用を開始した[17]。 保有機材フェデックス・エクスプレス社の保有機材は、以下の航空機で構成されている(2024年12月現在[18])。
フェデックスの保有する航空機は、フェデックス・エクスプレス(FedEx Express)とフェデックス・フィーダー(FedEx Feeder)の2社によって運航されている。このうち、前者はMD-11などのジェット機の運航を、後者はセスナ208Bなどターボプロップ機の運航を担当している。 事故・事件
脚注出典
参考文献
関連項目外部リンク |
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