ヴィタリー・ペトロフ
ヴィタリー・アレクサンドロヴィチ・ペトロフ(Vitaly Aleksandrovich Petrov, ロシア語: Вита́лий Алекса́ндрович Петро́в 1984年9月8日 - )は、ロシア・レニングラード州ヴィボルグ出身のレーシングドライバー。ロシアで「ヴィボルグ ロケット(Vyborg Rocket)」という愛称で知られている[1]。 経歴初期の経歴他の多くのレーシングドライバーと異なり、レーシングカートを経験せずに四輪レースキャリアを開始した[2]。2001年にラーダ・ロシア・カップに参加し始め、2002年には全5レース全て優勝し同シリーズのチャンピオンを獲得した[3]。 フォーミュラ・ルノー2003年にユーロノバ・レーシングのジュニアチームからイタリア・フォーミュラ・ルノーに参加しシリーズ19位で終えた[3]。その他、同年にはユーロカップ・フォーミュラ・ルノー2.0の数レース、年末にはイギリス・フォーミュラ・ルノーのメインシリーズと冬季シリーズ、またカリャリ・サーキットで行われたユーロ3000選手権の最終戦などにスポット参戦した[3]。 ロシアに戻る2004年にペトロフはロシアのラーダ・レボリューション選手権に興味を寄せて参加。全4レースにおいてポールポジションからスタートしたが1勝しかできずシリーズ2位に終わった。またユーロカップ・フォーミュラ・ルノーとユーロ3000選手権の数レースに参加していた[3]。 2005年もロシアに留まり、ラーダ・レボリューション選手権とフォーミュラ1600・ロシアに参加して両方の選手権のチャンピオンを獲得した[3]。 ユーロ3000選手権2006年にユーロノバ・レーシングからユーロ3000選手権に本格的に参加し全18レースのうち4つのレースに優勝しシリーズ3位で終えた[3]。また、インターナショナル・フォーミュラ・マスターの改称前となるF3000 International Mastersにブルノ・サーキットでのラウンドのみ参加した[3]。 GP2![]() 2006年以降、GP2メインシリーズとアジアシリーズに参戦しており2006年にはDPRディレクシブ、2007年と2008年まではカンポス・グランプリ、2009年はカンポスから商標を変更したアダックス・チームから参戦し総合2位だった[3]。 F1![]() 2010年2010年1月31日、2010年のF1にルノーF1のドライバーとして起用されることが発表された[4]。ロマン・グロージャンの後任としてロバート・クビサのチームメイトになる。また、ロシア人初のF1ドライバーである。なお、シート獲得に際しては1500万ユーロの資金持込が行われた。さらにこの加入によってロシア最大の自動車会社アフトヴァースがラーダブランドでチームのスポンサーとなるなど、ペトロフはチームの重要な役割を担う。 デビュー戦バーレーンGPから、予選ではクビサに敵わず、決勝でもミスやトラブルなどで3戦リタイアに終わるものの、決勝では十分なレースペースとバトル能力を示す。 第4戦中国GPは、それが発揮される形で、不安定な天候の中、レッドブルのマーク・ウェバー、メルセデスのミハエル・シューマッハをオーバーテイクするなど目覚しい活躍で7位フィニッシュ。初完走、初ポイント獲得を達成した。 第7戦トルコGPではタイヤがパンクするまで後ろにいたフェルナンド・アロンソのアタックをブロックし続けた。また、最終周で自身初のファステストラップを記録した。 第12戦ハンガリーGPでは予選を7位で通過し、初めてチームメイトのクビサを上回った。決勝でも、スタートで一時2008年ワールドチャンピオンのルイス・ハミルトンをオーバーテイクし、高い能力を証明した。最終的に自己最高位である5位でフィニッシュした。第19戦アブダビGPでは予選でシーズン2度目となるクビサの前の10位グリッドを獲得。決勝では1周目にセーフティカーが出た際にタイヤ交換義務を果たすと、先行するドライバーがピットストップを行うにつれて順位を上げ、ピットを終えてペトロフの後ろでコースに復帰したアロンソを最後まで抑えて6位でフィニッシュした。 シーズン終了までに5回の入賞で27ポイントを獲得したが、チームメイトのクビサに109ポイントの大差をつけられ、内容としては課題が残るものとなった。 ![]() 2011年2010年12月22日、ルノーはペトロフの残留を発表した[5]。開幕戦オーストラリアGPの予選では、チームメイトのニック・ハイドフェルドがトラフィックにつかまりQ1で敗退する中でQ3に進出し、自己ベストとなる6位グリッドを獲得した。更に決勝ではスタートでジェンソン・バトンとフェルナンド・アロンソをパスし4番手に浮上すると、更に2ストップ作戦が成功しマーク・ウェバーもかわして3番手に浮上。そのまま最後までポジションを落とすことなく粘りある走りを見せ、見事3位でフィニッシュ。自身初の表彰台を獲得した。その後は堅実な走りを見せたものの、車が他チームの戦闘力アップに対抗できなかったこともあり、ポイント圏内外をさまよう成績となる。最終的にはポイントランキング10位でシーズンを終えた。マレーシアGPではコースアウトした衝撃でステアリングを折ってリタイアと珍しいトラブルに見舞われた。ポイントランキングではハイドフェルドを上回ったが、ハイドフェルドはシーズン中に解雇されたため、平均獲得ポイントはハイドフェルドより低い。 1年契約であったが、チームに残留することも比較的有力であるとされたがロマン・グロージャンとキミ・ライコネンがF1へ復帰した事によってシートを喪失した。 2012年2月17日、ヤルノ・トゥルーリのシートを持参金で奪いケータハムF1チームのレギュラードライバーとして起用された事が発表された[6]。チームメイトは以前からケータハムに所属しているヘイキ・コバライネン。開幕戦オーストラリアGPでは、ステアリングトラブルでリタイアを喫したものの、第2戦マレーシアGPでは16位で完走。続く第3戦中国GPでも18位完走。第4戦バーレーンGPでは16位完走と、チームメイトのコバライネンを上回る戦績を収めた。ヨーロッパGPではアクシデントの相次ぐ混沌としたレースの中で一時10番手を走行し、チームにとって初のポイントが見え始めていたが、トロ・ロッソのダニエル・リカルドに接触され、圏内から脱落し13位に終わった。余談だが、同レースではコバライネンも同じくトロ・ロッソのジャン=エリック・ベルニュに同じように接触されている。その後もコバライネン共々苦戦し、コンストラクターズランキングを争うマルシャにもリザルトで後れを取っていた。だが最終戦ブラジルGPでマルシャのシャルル・ピックとの直接対決を制し11位で完走。このペトロフのリザルトはチームにとって最高成績であるとともに、この結果により最後の逆転でコンストラクターズ10位を掴み取った。 2020年父アレクサンドルが殺害されたことに伴い、ポルトガルGPのスチュワードを急遽辞任した[7]。 DTM2013年のF1シート喪失を経て、2014年2月28日にロシア人としては初となるDTM参戦が決まった。同年1月にメルセデスのDTMテストに参加しており、メルセデスからの参戦となる。[8] レース戦績略歴
フォーミュラユーロ3000選手権
GP2シリーズ
GP2アジアシリーズ
F1
スポーツカーFIA 世界耐久選手権
(key) ヨーロピアン・ル・マン・シリーズ
(key) ブランパンGTシリーズ・耐久カップ
(key) ル・マン24時間レース
ドイツツーリングカー選手権
(key)
脚注
外部リンク
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