フランソワ・エスノー
フランソワ・エスノー(François Hesnault, 1956年12月30日 - )はフランス出身の元レーシングドライバー。 プロフィール初期の経歴レースキャリアをスタートさせる前はサラリーマンだったという経歴を持つ。 フランスで行われたヒルクライムのイベントで才能を見出し、ウィンフィールド・レーシングスクールへ入学。卒業後、フォーミュラ・ルノーでレースデビューを果たす。 1982年にフランスF3にステップアップし、1勝を挙げランキング3位に入る。 1983年にはフランスF3選手権でミシェル・フェルテとチャンピオン争いの末ランキング2位に入る活躍を見せ、全12戦中11戦で表彰台に上がり、シーズン4勝、ポールポジション5回、ファステスト・ラップ4回と、堂々の成績であった。母国フランスのF1チーム・リジェと交渉。1984年の開幕戦からリジェのレギュラーシートを得てF1デビューが決まった。 F11984年、リジェは前年をF1参戦以後初のノーポイントに終わるという不振で終えており、この年に向けてはチーム初となるターボエンジン(ルノー製V型6気筒)を獲得し、ニューマシンJS23を開幕戦に間に合わせ心機一転を図る年であった。エースはアンドレア・デ・チェザリスで、エスノーは開幕当初から注目度も高くなく、マシントラブルや自身のドライビングミスにより第10戦まで完走は僅か1回(第5戦は不出走)と、2度の入賞を果たしていたデ・チェザリスに比べ見劣りしていた。しかし第11戦からは3戦連続でシングルフィニッシュ(8位:2回、7位:1回)するなどポイント獲得寸前のレース運びを見せ、翌年のブラバムのシートを獲得した。 1985年、ブラバムでワールドチャンピオン経験者であるネルソン・ピケのNo.2としてレギュラーシートを得たが、開幕から3戦連続でリタイアし、第4戦のモナコGPでは予選落ちを喫した。その直後に行われたポール・リカール・サーキットでのテスト中にも事故を起こし、マシンはほぼ全損に近かった[1]。幸いなことにエスノーの体に重大な怪我はなかったが、このあとブラバムとエスノーはお互いの合意のもと契約を解除し、第5戦からはマルク・スレールに交代させられた。後年に雑誌インタビューを受けたピケが「チームメイトで言えば、サトルは悪いドライバーではない。最悪だったのはブラバムの時のフランソワ・エスノーだ。スピンだらけで最悪だったよ」[2]と発言を残すほどの不振であった。 その後、同年の第9戦ドイツGPに、ルノーより3台目のエントリーで出走した。エスノーのマシンは旧型で、このマシンにはF1の公式セッションで初めてテレビ放送用の車載カメラが搭載されており[3]、この車載カメラのテストドライバーとしての役割であった。決勝にも車載カメラを搭載して出走したが、リタイアに終わった。エスノーがF1に乗ったのはこの時が最後となった。 レーサー引退後はスイスに居住している。 レース戦績フランス・フォーミュラ3選手権
ヨーロッパ・フォーミュラ3選手権
F1
(key) ル・マン24時間レース
脚注
関連項目 |
Portal di Ensiklopedia Dunia