パトリック・タンベイ
パトリック・ダニエル・タンベイ(Patrick Daniel Tambay, 1949年6月25日 - 2022年12月4日)は、フランスの元レーシングドライバー、モータースポーツ解説者、政治家。1977年・1980年のカナディアン-アメリカン・チャレンジカップチャンピオン。 カナディアン-アメリカン・チャレンジカップ以外に、F1をはじめ、多くのカテゴリーで実績を残した。 プロフィール初期の経歴母国のレーシングスクール、「ラ・フィリエール」の出身。卒業時には当時の最高成績を残しており、将来を大いに期待されていた。 フォーミュラ・ルノーを経て、1974年よりヨーロッパF2に参戦。1975年のランキング2位が最高となり、チャンピオンは獲得できなかったが、活躍が認められいくつかF1チームと交渉があった。1977年6月には来日し全日本F2000選手権・富士にスポット参戦している[1]。 F1F1初エントリーとなった1977年第7戦フランスGPではサーティースから参戦するも決勝に進出できず、翌第8戦イギリスGPからはエンサインより出走し、下位チームながら3度の入賞を果たした。10月の第17戦日本グランプリ(富士)にもエンサインから出走しており、同年二度目の来日となった。 前年の走りが認められ、1978年からマクラーレンへ移籍するがチームは低迷期を迎え、No.1ドライバーのジェームス・ハントともども苦戦を強いられた。翌1979年にはさらに低迷してノーポイントに終わり、1980年はF1シートを喪失する。 1980年はアメリカで2度目のカナディアン-アメリカン・チャレンジカップチャンピオンとなり、1981年に古巣セオドールからF1に復帰。開幕戦アメリカ西GPで入賞を果たすものの、その後は下位チームゆえに苦戦を強いられ、中盤にはフランスのリジェのシートを得て移籍する。しかし、リジェでも全戦リタイアに終わり、1982年開幕時には再びシートを喪失することとなった。 フェラーリ時代![]() F1浪人となった1982年だったが、中盤にフェラーリからオファーが舞い込む。自身の親友でもあり、第5戦ベルギーGP予選にて事故死した、ジル・ヴィルヌーヴの後任としてのオファーだった。 タンベイは第9戦オランダGPより参戦するが、この年のフェラーリはヴィルヌーヴとディディエ・ピローニのドライバー間の確執、前述したヴィルヌーヴの事故死などにより、混乱の中にいた。第12戦ドイツGPでは、それまでランキング首位に立っていたピローニが予選中の事故で両足を複雑骨折して戦線離脱を余儀なくされ、再びチームは波乱を迎えた。 しかし、タンベイは決勝で優勝する。自身の初優勝であるうえ、混乱するチームに希望を与える勝利となった。これを含めて数回入賞し、チームのコンストラクターズチャンピオン獲得に貢献した。 翌1983年もフェラーリに在籍し、予選では4度のポール・ポジション(以下:PP)を獲得したほか、第4戦サンマリノGPではファイナルラップ(最終周)にリカルド・パトレーゼがクラッシュしたため、繰り上がりで優勝した。さらに数回表彰台に上がり、最終的にドライバーズランクでは4位となったほか、チームのコンストラクターズタイトル連覇にも貢献した。 移籍![]() 1984年、タンベイはミケーレ・アルボレートの加入に伴いフェラーリを去る[注釈 1]こととなり、ルノーに移籍する。第5戦フランスGPでは予選でPPを獲得し、決勝でも2位に入っている。しかし、チームはすでに勢いを失っており、最終的に入賞は4度に留まった。フランスに続く第6戦モナコGPでは、オープニングラップ中に発生した多重クラッシュにチームメイトのデレック・ワーウィック共々巻き込まれて左足を骨折し、翌第7戦カナダGPを欠場する憂き目に遭っている。また、第14戦イタリアGPでは終盤までトップを走りながらスロットルワイヤー切れでリタイヤするなど、マシントラブルにも泣かされるシーズンとなった。 1985年もルノーから参戦。前半戦は2度の3位表彰台を含む4回の入賞を記録したが、後半戦は1度もポイントを獲得できなかった。結局、この年をもってチームは撤退している。 1986年はチーム・ハース(ローラ)から参戦。しかし、マシンの戦闘力は低く、タンベイは1度の5位入賞が精一杯であった。結局、この年をもってタンベイはF1から姿を消すこととなった。 F1離脱以降![]() 1987年、スイスに自身のプロモーション事務所を開設。 1988年7月、翌年から2カー体制へと規模拡大する予定だったAGSに加入しF1復帰すると報じられるも実現しなかった[3]。 1989年のル・マン24時間レースにジャガー・XJR-9LMで参戦し、ジャガーチーム内最高位の4位で完走した。 砂漠でのラリーレイドにも参戦しており、ダカール・ラリーでは三菱自動車チームなどでエントリーし、上位3位に2回入賞している。このうち1988年については、最終ゴール目前まで4輪車部門のトップを走っていたアリ・バタネンが、マシンの盗難に遭ってスタートできなかったという理由で失格となったことによる、繰り上げ入賞だった。フィニッシュ時のインタビューで、非情の裁定を下した主催者に対する抗議の念と、バタネンへの敬意と慰撫を込めて「私は3位ではない。4位だ」と語っている。 そのほか、BPR-GT選手権にもブガッティ・EB110などでスポット出場している。 現役引退後レーサーの引退後は、フランスのテレビ局でモータースポーツ解説に携わる。その後は政治家に転身し、アルプ=マリティーム県ル・カネ市の副市長も務めた。 晩年はパーキンソン病を患い、2022年12月4日、73歳で亡くなった[4]。 家族息子のエイドリアン・タンベイもレーシングドライバー。エイドリアンは2011年にはFIA GT3選手権にアウディ・R8で参戦していたほか、2012年はドイツツーリングカー選手権(DTM)にアウディからスポット参戦する[5]。 逸話ミシェル・ヴァイヨンの作者、ジャン・グラトンと共に写っている写真が存在する。 レース戦績略歴
ヨーロピアン・フォーミュラ2選手権
全日本F2000選手権
フォーミュラ1ル・マン24時間レース
グランプリ・マスターズ
カナディアン=アメリカン・チャレンジ・カップ
脚注注釈出典
関連項目外部リンク
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