三国峠 (群馬県・新潟県)三国峠(みくにとうげ)は、日本の新潟県南魚沼郡湯沢町と群馬県利根郡みなかみ町の境を越える標高1,244メートル[1]の峠。 日本海側と太平洋側を隔てる中央分水嶺上(越後山脈・三国山脈・谷川連峰)に位置しており、新潟県と群馬県の県境(上越国境)であるだけでなく、文化・習俗・言語・風習・食文化から気象に至るまで様々な境界として機能している。 狭義には旧三国街道の浅貝宿(現・湯沢町大字三国浅貝地区)と永井宿(現・みなかみ町永井地区)の間の山越え部分に該当する約14キロメートル(三里半[2]、三里二六町[3]、三里一八丁[4])を指す呼び名だが、広義には関東平野の端部である月夜野・沼田付近から越後側の平野部の入り口である湯沢付近までの山間地全体を含んだ呼び名として使われることもある。 概要上信越高原国立公園に含まれ、峠下の群馬県側・新潟県側の両方から登山道(一部は旧三国街道と同じ道筋)があり、ぐんま県境稜線トレイル(三国・四万エリア)、中部北陸自然歩道「上州路三国峠のみち」、上信越自然歩道、三国路自然歩道、スノーカントリートレイル(道標M区間)に指定されている。 戦国時代の頃は峠を挟んで越後の上杉氏と関東の北条氏が睨み合った歴史を持つ。上杉謙信の関東遠征のための峠越えを特に「越山」と称し、直越(清水峠)、土樽越(両山越・蓬峠)と並んで軍事的な要衝として重要視された。 江戸時代には越後と江戸を最短距離で結ぶ三国街道の一部として整備され、米や紬、縮(越後上布)といった越後の様々な産物や佐渡へ送られる罪人・無宿人(水替人足)などの輸送経路として、また越後諸藩の参勤交代の大名行列が通るなど賑わったが、冬期の積雪、雪崩、夏場の集中豪雨による土砂災害や山岳地帯特有の気象の急激な変化など難所であった。 明治時代になると、清水峠の開削によって一時的に主要幹線から外れたことや、碓氷峠経由の信越線が新潟と東京を結ぶ主軸となったことで交通量が激減し、従来の宿場町は多くの住民が生業の変更を余儀なくされた。 昭和になり、国道17号(三国トンネル)の開通により自動車での上越国境通過が可能になると、改めて関東と新潟を結ぶ物流の大動脈となる。交通の便が良くなったことで近隣の山野が切り開かれ、大規模なスキー場ができるなど景色が一変した。 その後、関越自動車道(関越トンネル)の開通により交通量は再び減少した。ただし、燃料や一部の薬品などの危険物を搭載した車輌は関越トンネルの通行が禁止されているため、現在でもこの峠を経由している。 バブル景気(スキーブーム)のころには、月夜野ICから苗場スキー場に向けてスキーヤーの車で大渋滞した。三国トンネルの老朽化などに伴い、2022年3月19日からは新三国トンネルが供用されている。 名前の由来三国とは古来より越後国(新潟県)、信濃国(長野県)、上野国(群馬県)の国境と信じられていたことによる(実際の境は更に西の白砂山)ほか、ここに立つことで上記の三国を一度に見渡せるからとも言う。付近にある三国山や三国村は三国峠にちなんで呼ばれるようになった。 峠上にある三国権現(御阪三社神社、三坂神社・御坂神社・三阪神社・三社明神などとも呼ばれる)は、弥彦、赤城、諏訪の三明神を合祀したもの[5]。縁起によれば、延暦年間に坂上田村麻呂が上野国の白根の賊を討つために万座に陣を設けた時、上記の三社を祀って祈願したのが発祥で、万座から四万に移り、後に現在の位置に移動してきた。「御坂」は律令国家時代の国府に至る道筋に見られる名前で、碓井貞光や新田義貞の時代には四万から浅貝に抜ける道、いわゆる木の根宿通り(三坂峠)が主に使われていたが、歴史の項で述べるように、上杉氏の時代以降は現在の峠道がメインルートとして使われるようになった。なお「権現」という仏教風の名前は上杉謙信によって改められたとされる。明治時代の廃仏毀釈により、仏教的な呼称を避け、神社の名で呼ばれるようになった。8月27日が祭礼。 三国街道史跡群馬県みなかみ町の猿ヶ京温泉、吹路集落と旧・永井宿から峠を越えて三国トンネルの新潟県湯沢町側までかつての三国街道の山道がほぼそのままの形で残されている(三国路自然歩道)。
県境(三国トンネル)を通過する定期路線は2021年現在では存在しない。
歴史
三国峠を題材・舞台とする作品について戦国時代、特に上杉謙信や後北条氏、上杉景勝(御館の乱)等を描いた作品では多く登場する。 また堀部安兵衛を題材にした一部の作品で、仇討ちの場面の舞台として扱われることがある(小説『堀部安兵衛』、時代劇スペシャル『喧嘩安兵衛 決闘高田ノ馬場』など)。 三遊亭圓朝の『後の業平文治』に文治とお町が駕籠で越える場面がある。 池波正太郎の『鬼平犯科帳』シリーズでは大滝の五郎蔵親分の初登場エピソードで言及されている(文庫版4巻・ドラマ第1シーズン21話「敵」)。越後と上州の境にある三国峠の谷底の「坊主の湯」が盗金の隠し場所の一つという設定。 佐伯泰英の『居眠り磐音』17巻「紅椿ノ谷」ではクライマックスの決闘シーンに登場する。 司馬遼太郎の小説『峠』の序盤で河井継之助が冬の越後から江戸に出るために雪の三国峠越えをする描写があるが、これは司馬の創作で史実ではない。なお、実際に河井が越えた碓氷峠も峠越えが困難である点で共通している。 尭恵は『北国紀行』に「諏訪の海に 幣(ぬさ)と散らさば三国山 よその紅葉も神や惜しまむ」と記した。 与謝野晶子は1931年(昭和6年)9月に法師温泉から駕籠に乗って三国峠を訪れ、「わがあるは 三国の峠 たちわたる 霧の下こそ 越路なりけり」と詠った。三国街道の途中にある水場が晶子清水と名付けられた。 1959年6月23日公開の日活映画「その壁を砕け」や、1966年5月28日公開の東宝映画「アルプスの若大将」では、登場人物が自動車で東京から新潟に向かう途中、三国峠を越えるシーンが存在する。 歌曲など
その他小林一茶の信州(あちゃ)と越後(そんま)の言葉の違いを詠んだ川柳「此処あちゃとそんまの国ざかひ」に上州(へい)を加えて「ここはへぇはちゃとそんまの国ざかい」とする古川柳がある。方言としては群馬県(べぇ)と新潟県(すけ)の境として「すけべえの泣き別れ」などとも言われる。 新人時代の田中角栄が選挙民向けに行った演説として、「三国峠をダイナマイトで吹っ飛ばすのであります。そうしますと、日本海の季節風は太平洋側に吹き抜けて越後に雪は降らなくなる。出てきた土砂は日本海に運んでいって埋め立てに使えば、佐渡とは陸続きになるのであります」というものがある[17]。田中の後援会の名前は越山会という。 ロックミュージシャンの忌野清志郎は、自身が出演するフジロックフェスティバルの会場に向かうため、法師温泉から自転車(ロードバイク)で三国峠を越えて会場入りしていた[18]。 脚注
参考文献
関連項目
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