中央大学陸上競技部中央大学陸上競技部(ちゅうおうだいがく りくじょうきょうぎぶ)は、中央大学の陸上競技チームである。同大学女子陸上競技部についてもここで解説する。関東学生陸上競技連盟に所属している[1]。 概要陸上競技部(男子)は1920年創部。大学三大駅伝のうち箱根駅伝は2023年12月現在まで最多出場95回、6連覇を含む最多優勝14回を数えるが、1996年以来総合優勝を果たしていない[2]。オリンピック選手輩出数は、OB含め36名(2023年現在)[3]。毎年春秋等に中大記録会を開催している。 女子陸上競技部は、独立した部として1950年創部[4]。全日本大学女子駅伝は2023年12月現在まで2回の優勝経験がある。 男女とも1940年代後半ないし50年代前半から1960年代前半にかけて、日本大学や早稲田大学などを抑え関東インカレと日本インカレで連覇を続けた。 歴史創部翌年の1921年(大正10年)、箱根駅伝(第2回大会)に初出場。1926年(大正15年)、第6回大会で初優勝。当時は他大学含め駅伝選手を揃えるのに苦労し、短距離走など他種目からも狩り出されたりした。中大最初のオリンピアンである田代菊之助は大学専門部経済科に籍を置く傍ら人力車夫でもあり、箱根駅伝(1927年第7回大会・28年第8回大会)に出場した時は30歳を過ぎていた。このように大学専門部から予科・本科と8年在籍した学生や、また社会人等を経由した学生も1970年代に入る頃まで多かった。 そうした学生の一人であった村社講平は27歳時の1932年(昭和7年)に入学。箱根駅伝にも出場し、中大在籍時に1936年ベルリンオリンピックに出場、5000m・10000m両種目で激闘の末に4位となった。この時の走りは、のちの「人間機関車」ことエミール・ザトペックや中大円谷幸吉らに多大な影響を与えた[5][6]。 概要欄で先述したように、男女とも戦後の1940年代後半ないし50年代前半から60年代前半にかけて、関東インカレと日本インカレで連覇を続けた。同時に箱根駅伝でも60年代半ば頃にかけて、2024年現在まで未だ破られていない6連覇(第35回大会(1959年)から第40回大会(1964年))を達成。 その間、50年代から60年代にかけて、主に立川市営陸上競技場で当時の強豪同士の対抗戦である三陸上部対抗競技会(リッカーミシン・中央大学・日本大学)を実施していた。 1970年代半ばから毎年春先に、日本体育大学との間で中大・日体大定期対抗陸上競技大会を主に日体大健志台陸上競技場で開催している。 1990年代から2010年代以降にかけて、日本選手権リレー競技でみるように、男子4×100mリレー(4継)で10連覇を遂げた早稲田大のほか、日本大、東洋大、順天堂大や筑波大、女子は4継と4×400mリレー(マイル)それぞれでかつて7・8連覇を重ねた福島大のほか、甲南大や立命館大、福岡大、関東であれば青山学院大、早稲田大や日体大などが中大も含めた強豪校として知られている。2024年の日本選手権リレー競技の男子4継で日本大や東海大を振り切り早稲田大[7]に次ぐ2位、日本インカレ及び日本選手権リレー競技の女子マイルではそれぞれ立命大に次ぐ2位、立命大と園田学園女子大に次ぐ3位となり、強豪ライバルの合間で中大も存在感を見せている[8]。 箱根駅伝出場回数、連続出場回数、優勝回数度など多くの部門で1位の記録を持ち、60年代には6連覇を達成する黄金期を築き上げた。戦前には村社、60年代にはテレビ中継の解説者としても活躍した横溝三郎や碓井哲雄、1964年東京オリンピック代表の岩下察男が活躍。同じく東京オリンピック銅メダリストの円谷幸吉は当時自衛隊体育学校にも在籍していたため箱根駅伝には出場していない。円谷の銅メダル獲得は6連覇を果たした最終年にあたり、円谷の活躍と7連覇が期待されたものの出場は認められず、これが7連覇を逃す一因ともなった。 90年代にはセビリア世界陸上マラソン銅メダリストの佐藤信之を輩出している。長年シード校の常連だったが第89回大会での途中棄権を境にシード落ちが続き、OBの藤原正和を監督に招聘するも第93回大会予選会で落選。連続出場記録が87回で途切れてしまった。第98回大会(総合6位)で10年ぶりのシード権を獲得すると、翌99回大会では準優勝を果たした。OBを中心とした「箱根駅伝を強くする会」なども設置されている。 現部員
主な出身者→「中央大学の人物一覧 § 陸上」も参照
※ 2024年現在 陸上競技部(男子)
女子陸上競技部
脚注
関連項目外部リンク |
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