仁木博文
仁木 博文(にき ひろぶみ、1966年5月23日 - )は、日本の政治家、医師。自由民主党所属の衆議院議員(3期)。厚生労働副大臣。 経歴1979年、阿南市立宝田小学校卒業、1982年、徳島大学教育学部附属中学校卒業、1985年、徳島市立高等学校理数科卒業、1991年、東京大学教養学部基礎科学科を卒業。同年徳島大学医学部に入学し、1997年に卒業。医師免許を取得し、高知市立市民病院、国立高知病院、宝塚市立病院に勤務する。 2003年の第43回衆議院議員総選挙、2005年の第44回衆議院議員総選挙に徳島3区から民主党公認で出馬したが、自由民主党の後藤田正純に敗れ落選。2009年の第45回衆議院議員総選挙にも民主党公認で立候補し、徳島3区では1,222票の僅差で後藤田に敗れるも、重複立候補していた比例四国ブロックで復活し、初当選した。 2011年8月26日、菅直人首相が民主党代表辞任を正式に表明[2]。菅の辞任に伴う代表選挙(8月29日投開票)では前原誠司の推薦人に名を連ねた[3]。 2012年の第46回衆議院議員総選挙に徳島3区から民主党公認で立候補したが、再び後藤田に敗れ落選した。 2013年6月28日、衆議院の区割り改定法が公布、施行され、徳島県の小選挙区数は「3」から「2」に減少[4]。 民主党県連は旧徳島1区の仙谷由人と旧徳島3区の仁木のいずれかを新1区の候補者にすることで調整していたが、2014年11月15日、仙谷は仁木と二人きりで会い、仁木に出馬するよう直接促した。同年11月18日、仙谷が政界から引退する意向を固めたことが各メディアで報じられる[5][6]。同年12月の第47回衆議院議員総選挙では、選挙区の統廃合によって生まれた徳島1区から民主党公認で立候補したが、同様に徳島1区へ移っての立候補となった後藤田に敗れ比例復活ならず落選。 2014年、徳島大学大学院より博士(医学)の学位を取得[7]。 2017年の第48回衆議院議員総選挙に徳島1区から希望の党公認で立候補したが、後藤田に再び敗れ落選。 2019年4月の徳島県知事選挙に際し、自民党県連と公明党県本部は現職の飯泉嘉門に推薦を出したが、後藤田は元県議の岸本泰治を支持。そのためこの年の知事選は保守分裂選挙となり、党県連と後藤田の間に亀裂が入る。同年12月、仁木は次期衆院選に徳島1区から無所属で立候補する意向を示した[8]。 2021年10月19日、第49回衆議院議員総選挙が公示。無所属の仁木、自民党の後藤田、日本維新の会の公認を受けた元丹波篠山市議会議員の吉田知代、無所属の新人の4人が立候補。自民党本部は「現職優先」の原則に従い後藤田に公認を出したが、党県連は自主投票にした[6]。また、公明党は後藤田に推薦を出さなかった。10月25日、朝日新聞は情勢調査の結果を配信。徳島1区については「後藤田が優位に立ち、仁木は懸命に追う。吉田らは厳しい戦い」と報じた[9]。10月28日発売の『週刊文春』11月4日号は終盤戦の情勢予測として「仁木やや優勢、後藤田やや劣勢、吉田劣勢」と報じた[10]。10月31日、総選挙実施。仁木は、後藤田、吉田ら3候補を破り、2期目の当選を果たした(後藤田と吉田は比例復活で当選)[11][12]。同年11月4日、総選挙で当選した他の無所属議員4人と共に衆議院会派「有志の会」を結成した[13]。 2023年9月、後藤田の徳島県知事選挙立候補(当選)に伴う辞職により空席となっている自民党徳島1区支部長公募に応募し[14]、自民党徳島県連は仁木を支部長候補として選定した[15]。党本部に上申し同年10月に支部長に選定され、同月4日付で衆議院の院内会派を「自由民主党・無所属の会」に変更した[16]。仁木は徳島市内で記者会見し「与党でなければできないことがある。苦渋の決断だった」と語った[17]。同月26日、自民党麻生派に入会した[18]。 2024年9月27日に行われた自民党総裁選挙において、同じ麻生派の河野太郎ではなく、上川陽子の推薦人に名を連ねた[19]。 2024年10月27日の第50回衆議院議員総選挙では、立憲民主党の高橋永らを破り3選(高橋は比例復活)[20]。同年11月13日に発足した第2次石破内閣において厚生労働副大臣に任命された[21]。 政策・主張憲法
外交・安全保障
ジェンダー
その他
選挙歴
所属していた団体・議員連盟
脚注
外部リンク
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