仙谷由人
仙谷 由人(せんごく よしと、1946年〈昭和21年〉1月15日 - 2018年〈平成30年〉10月11日)は、日本の政治家、弁護士。位階は従三位。勲等は旭日大綬章。 衆議院議員(6期)、衆議院決算行政監視委員長、内閣府特命担当大臣(行政刷新)、公務員制度改革担当大臣、内閣府特命担当大臣(「新しい公共」)、内閣官房長官、法務大臣、拉致問題担当大臣、民主党代表代行、内閣官房副長官、民主党経済財政・社会調査会長などを歴任した。 概要1990年の土井ブーム時に日本社会党から当選し、社民党、旧民主党を経て民主党に所属、衆議院議員を6期務めた[1]。旧民主党政策調査会長、民主党政策調査会長(第7代)、内閣府特命担当大臣(行政刷新担当)、公務員制度改革担当大臣(第6代)、国家戦略担当大臣(第2代)、内閣府特命担当大臣(「新しい公共」担当)、内閣官房長官(第78代)、法務大臣(第85代)、拉致問題担当大臣(菅直人改造内閣、民主党代表代行、内閣官房副長官(政務担当)、民主党経済財政・社会調査会長などを歴任。 経歴生い立ち徳島県徳島市出身。父は裁判所の職員、母は徳島高等女学校の教師[2]。なお、母は熱心な組合活動家でもあったという[2]。 学生時代徳島県立城南高等学校卒業。1964年に東京大学文科一類に合格し、上京する[2]。大学の同期(入学者)には元・自由民主党総裁の谷垣禎一などがいた[3][注釈 1]。 東大時代は全共闘の新左翼系学生運動家であり、日本共産党を脱党した安東仁兵衛らが指導した構造改革派のフロントというセクトのシンパだった[4]。 東大安田講堂事件の際は講堂の中にはおらず、救援対策や弁当の差し入れなどを行い、学生活動家仲間からは「弁当運び」と呼ばれていた[注釈 2]。 5年次在学中の1968年に司法試験に合格し、中退[注釈 3]して司法研修所に入所した。 弁護士時代司法修習23期(同期に漆原良夫)を経て弁護士登録。 1971年から弁護士活動を開始。弁護士時代は労組事件や日本教職員組合関連の案件を扱った。麹町中学校内申書事件では保坂展人の弁護人も務めている。また、ピース缶爆弾事件では弁護人として無罪を勝ち取った。所属していた弁護士事務所の部下に福島瑞穂らがいる。また、小川薫の弁護士を務めた[5]。 政界入り1990年2月18日の第39回衆議院議員総選挙に日本社会党公認で旧徳島県全県区から立候補し当選した[6]。当選後は、社会党を現実的に政権を担える党へ脱皮させることを目指していたニューウェーブの会のメンバーとして活動し、山花貞夫委員長を首班とする社会党シャドーキャビネットで官房副長官を務めたが、1993年の第40回衆議院議員総選挙では次点で落選した。その後、社会党が名称変更した社会民主党を離党し、四国市民ネットワーク代表を経て旧民主党に参加。 旧民主党1996年10月20日の第41回衆議院議員総選挙では新設の徳島1区から立候補し、当選、政界に復帰。以後、徳島1区で5回連続当選。同年11月に落選した簗瀬進に代わり党政策調査会長に就任した。1997年9月には幹事長代理に転じた。1999年7月、衆院本会議で国旗及び国歌に関する法律に賛成票を投じた。 民主党2002年1月15日に胃がんの手術のため国立がんセンターに入院し、週刊朝日で告白記事を執筆した。また、同年の代表選に連動して前原誠司・枝野幸男らと凌雲会を結成した[6]。 2004年5月に党代表に岡田克也が選出された際に党政調会長に就任。同時に、民主党次の内閣の「ネクスト官房長官」に就任した。 2005年9月11日、民主党が衆議院選挙で大敗し、岡田は引責辞任したものの、同じグループでの活動が目立った前原誠司が党代表に就任したため、次の内閣の「ネクスト厚生労働大臣」に就任。同年11月25日に民主党が設立した公共政策プラットフォーム(プラトン)初代代表理事に就任。 2006年2月16日に発生した堀江メール問題の際、野田佳彦の引責辞任を受け就任した渡部恒三国会対策委員長からの要請を受け、幹事長代理を兼任。同年4月7日に党代表に選出された小沢一郎の執行部では再び次の内閣閣僚に選任された。2006年9月28日、第165回国会で衆議院決算行政監視委員長に就任。 2008年3月に任期切れを迎えた日本銀行総裁人事では、当初、「財金分離」の観点から「財務省次官経験者」が日銀総裁に就くことに反対を表明したものの、4月の日銀副総裁人事では一転して財務省出身か否かにかかわらず資質によって選択するよう主張した。同時に、副総裁として起用が予定されていた伊藤隆敏東大教授の就任も不同意とし、日銀出身の白川方明(前日銀総裁)のみの同意となった。 2008年7月、「時代が仙谷由人を求めているかどうか判断する」と述べて同年9月の民主党代表選出馬への強い意欲を示したが、出馬には至らなかった。 鳩山政権![]() 2009年9月発足の鳩山由紀夫内閣では内閣府特命担当大臣(行政刷新担当)に就任した。また、内閣府特命担当大臣の所管事務とは別に、国務大臣として「公務員制度改革を推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」[7](公務員制度改革担当)も担当することになった。 大蔵事務次官を務めた斎藤次郎の郵政社長人事が天下りと指摘されたことに対し、「国家公務員法の第106条の2」の元公務員の再就職の斡旋の主語は「職員」であって「政府」や「内閣」ではないと指摘しながら、問題はないとの見解を示した。なお民主党は、2007年11月14日に、労働保険審査会委員・運輸審議会委員・公害健康被害補償不服審査会委員の計3人の元官僚を、福田康夫首相が選任した際の国会同意人事については天下りを理由に不同意としている。 2010年1月7日、菅直人が閣内横滑りの形で財務大臣に就任したことに伴い、仙谷は国務大臣として「税財政の骨格や経済運営の基本方針等について企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」(国家戦略担当)も追加で担当することになった。2010年2月10日、枝野幸男の入閣に伴い、仙谷は内閣府特命担当大臣(行政刷新担当)の任を解かれ、新たに内閣府特命担当大臣(「新しい公共」担当)に任命された。なお、「公務員制度改革担当」及び「国家戦略担当」は引き続き兼務することとなった。 菅直人政権![]() 2010年6月8日発足の菅直人内閣では横滑りで内閣官房長官に就任。「影の総理」[8]、「赤い後藤田」[注釈 4]と呼ばれるほどの政界実力者として注目されるようになった。通常は5人程度の官房長官秘書官を10人抱えたこと[9]、10月14日の横浜で行われたアジア太平洋経済協力会議での日韓首脳会談に首相と共に陪席したこと[10]などが異例だと報じられた。 菅直人第1次改造内閣でも内閣官房長官として留任。2010年11月22日以降は、失言問題で辞任した柳田稔の後任として法務大臣を兼任した。11月15日、尖閣諸島中国漁船衝突事件の対応などを理由に自民党が衆議院に提出した仙谷の不信任決議案は与党と社民党の反対多数により否決[11]。11月26日、中国漁船問題や暴言などを理由に自民党がみんなの党とともに参議院に提出した問責決議案は賛成127票・反対111票で可決された[12]が、仙谷は法的拘束力のない問責決議より不信任決議が優先されるとの認識を示し、辞任を否定した[13]。 2011年1月14日、菅直人第2次改造内閣の発足に伴い、法務大臣と内閣官房長官を退任。民主党代表代行に就任した。 2011年東北地方太平洋沖地震に際して、計画停電が社会に与える影響を東京電力に問い合わせたが、「ご不明な点はカスタマーセンターまで」と書かれた紙がファクスで送られてきた。仙谷はこの扱いに激怒し、事態にあたっている東京電力担当者を呼びつけ、「どういうことだ。俺を誰だと思っているんだ」と怒鳴った[14]。また、大韓民国大統領・李明博の要請を受け訪韓する予定だったが、地震の発生を受けて取りやめた[15]。3月17日、民主党代表代行を兼務したまま政務担当の内閣官房副長官に就任した[16]。同年9月2日の野田内閣発足に伴い内閣官房副長官を退任。 野田政権以降2011年9月、野田佳彦代表の下、新設された民主党政策調査会長代行に就任。また、10月4日からは新設された党経済財政・社会調査会長も兼務した[17]。同年11月10日、凌雲会の会長に前原誠司が就くことになり[18][19]、仙谷は顧問に就任した[18][19][20][21]。また、政治団体としての凌雲会の代表者についても、従来は仙谷として届け出ていたが[19][20]、これを機に前原に変更することになった[19]。 2012年10月5日、内閣改造に伴う党人事により副代表に就任[22]。同年12月16日に行われた第46回衆議院議員総選挙では野中広務元自民党幹事長からも支援を受けたが、小選挙区で自民党の新人福山守に敗れ[1]、比例復活もできず議席を失った[23]。この結果については、官房長官時代の中国漁船衝突事件への対応が「弱腰外交」と批判されたこと、国会答弁で「自衛隊は暴力装置」と発言したこと[1]、また「原発推進派」とみなされ一部の支持者が離反したことが要因に挙げられている[24]。 2013年6月28日、衆議院の区割り改定法が公布、施行され、徳島県の小選挙区数は「3」から「2」に減少[25]。 民主党県連は旧徳島1区の仙谷と旧徳島3区の仁木博文のいずれかを新1区の候補者にすることで調整していたが、2014年11月15日、仙谷は仁木と二人きりで会い、仁木に出馬するよう直接促した。同年11月18日、仙谷が政界を引退する意向を固めたことが各メディアで報じられた[26][27]。政界引退後は弁護士稼業に戻った[28]。 2018年10月11日午後22時30分、肺がんのため、東京都内の自宅で死去[6]。72歳没。同日付で叙従三位、旭日大綬章追贈[29][30][31]。 政策・主張![]() 基本政策
経済・財政政策
文教・科学技術政策![]()
法務行政
消費者行政
外交・安全保障政策![]() ![]()
環境行政議員連盟
発言テロリズムへの皮肉2004年9月30日、右翼団体の男性が衆議院通用門に車で突っ込んだ事件に関して、「政府の対応に不満を持つなら、目指すは官邸か内閣府だ」と述べた[59][60]。 「文化大革命」2009年11月12日、『毎日新聞』の政策情報誌「毎日フォーラム-日本の選択」のシンポジウム「政治は変わったか〜民主政権の課題と自民再生への展望」において、行政刷新担当相として、事業仕分けについて、「予算編成プロセスのかなりの部分が見えることで、政治の文化大革命が始まった」と述べた[61]。また、12月9日に、テレビ朝日『スーパーモーニング』内で、「事業仕分けで文化大革命が起こってますよ」と発言した[62]。さらに、12月17日に国家公務員制度改革推進本部の立花宏事務局長ら10名の幹部職員を更迭した際にも、政治主導の文化大革命だと述べた。 池田勇人の発言について自著『金融・経済危機、そして日本』で、「かつて『貧乏人は麦飯を食え』といった政治家(注・池田勇人を指す)がおりますけれど、今はそんな度胸のある政治家はありません。私はここまで(注・のどもとを指す)でかかっておりますが、次の選挙でもう一回落ちたらもう立ち上がれないと思っていますので、ちょっというのを控えています」と記述している[63]。 小野次郎批判2010年10月15日、参議院予算委員会に、みんなの党などの要請で招致され公務員の現役出向に関する答弁を行うために前国家公務員制度改革推進本部事務局審議官(委員会出席時は経済産業省官房付)の古賀茂明が政府参考人として出席し、民主党政権の公務員制度改革への取り組みを「不十分だ」と批判した。これに対し仙谷官房長官は「小野議員の今回の(中略)現時点での彼(古賀)の職務、彼の行っている行政と関係のないこういう場に呼び出すこういうやり方は甚だ彼の将来を傷つけると思います[64]」「優秀な人であるだけに大変残念に思います。[64]」と述べた[65][66]。本件については、鶴保庸介参議院決算委員長(自民)及び前田武志参議院予算委員長(民主)は、異例の厳重注意を行った。 丸山和也とのやり取り2010年10月18日午後に行われた参院決算委員会で、尖閣諸島中国漁船衝突事件について自民党参議院議員丸山和也と電話でやりとりをしたこと[52]についての問いに、「最近健忘症にかかっているのか何か分かりませんが、そういう電話で今、丸山議員がこの場で暴露されたような会話をした記憶は全くない[67]」と答えた[52]。その後、マスコミのインタビューで仙谷が丸山の発言を「いい加減な人のいい加減な発言だから」と語っていることに関して丸山は「健忘症と言いその場で反論をせず逃げた男が、後になってけしからん。これについてはけじめをつけようと思っている。」と反論している。11月30日、丸山は仙谷と国に対し計3千万円の損害賠償と謝罪広告の掲載を求めて東京地裁に提訴し、仙谷を侮辱容疑で東京地検に告訴した[68]。2011年7月12日、東京地検は嫌疑不十分につき不起訴とした[69]。2012年9月11日、東京地裁は丸山の請求を棄却した[70]。 「リベラル」という用語について天皇及び皇室について、「天皇陛下を含めて日本で最もリベラルな方々の集団」「右派は右派、左派は左派。リベラルはリベラル。リベラルという言葉に左派というレッテルを押す用語法を私は全然、使っていない」と述べたと産経新聞が報道した[71]。 読売新聞の取材への批判2010年11月9日、読売新聞夕刊にインターネット上に流出した沖縄尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件映像の一般公開の可否を検討する「厳秘」とされる資料の写真が掲載された。写真は同日の衆院予算委員会で仙谷が持っていた資料を読売新聞が撮影したものだったが、仙谷はこれを「盗撮だ」と批判した[72]。翌11月10日に在京8社写真部長会が「通常取材の範囲内で撮影している」と「盗撮」発言の撤回と謝罪を求めた。11月12日の衆院内閣委員会で仙谷は「盗撮」と表現したことを「この場で撤回をいたします[73]」としたが、謝罪は行わず、「その(国会内の撮影許可の)趣旨は、多分、カメラが今のように非常に細かいものまで拡大をして望遠レンズで撮影ができるという時代の撮影許可ではなかった。[73]」「時代とともに撮影のあり方というのももう一度考え直してみる必要がある[73]」と述べ、取材の規制強化に言及した[74]。 尖閣ビデオ流出問題に関する監督責任について2010年11月10日の記者会見で、尖閣ビデオ流出問題に関し、海上保安庁長官である鈴木久泰の監督責任について「独立性、自立性に応じた責任は当然出てくる。強制力を持った執行部門は、それなりの強い権限がある代わりに強く重い責任を負う」と発言。国土交通大臣である馬淵澄夫に関しては「政治職と執行職のトップの責任のあり方は違う」と、責任を問わない意向を表明。公明党の山口那津男代表は「今回の一連の事件は那覇地検の刑事事件処理も海上保安庁の対応も政治的判断に基づいて行われてきた。とすれば、最終的に政治職の側がきちんと責任を担う必要がある。執行職の現場に責任を押しつけるやり方は許してはならない」と述べた[75]。またZAKZAKは「絵に描いたようなトカゲのしっぽ切り」としている[76]。 自衛隊「暴力装置」発言→「暴力の独占」も参照
2010年11月18日の参院予算委員会で「暴力装置でもある自衛隊[77]」と述べた。自民党の抗議を受け、「実力組織というふうに訂正させてもらいます。[77]」「自衛隊の皆さん方には謝罪をいたします。[77]」と発言を撤回・謝罪した[78]。菅直人首相も謝罪し同日夜首相執務室において「今後気をつけるように」と厳重注意した。北澤俊美防衛相は「誠に残念なことだ」と述べた[79]。また、自衛官からは失望や怒りの声が多くあがった[80][81]。産経新聞は、「特異な言葉がとっさに飛び出す背景には、かつて学生運動に身を投じた仙谷氏独特の思想・信条があり、民主党政権の自衛隊観を反映した」と論評し[82]、みんなの党の渡辺喜美は、「昔の左翼時代のDNAが図らずも明らかになっちゃったということではないか。たがが緩んで失言が頻発しますね。政権末期症状だと思います」と述べた[83]。自民党の谷垣禎一は「学生だったころの左翼文献を見ると、『軍隊は暴力装置』とはよくある表現だった」と述べた[84]。石破茂は暴力装置という表現を妥当だと解釈している[85]。 11月19日、仙谷は悪意はなかったとした上で、2009年3月30日に行われたフォーラムにおける石破茂の発言を取り上げて、「石破先生も『警察と軍隊という暴力装置を合法的に所有するというのが国家の定義』と言っている」と反論した[86]。11月22日の参議院予算委員会における自民党の佐藤ゆかりとの質疑では、自衛隊について「自衛隊は憲法上の存在、つまり合憲の存在である[87]」「戦前のようなことが起こらないような(中略)存在として政治の側からコントロールしなければならない[87]」「国民の合意に基づいて存在し行動すると、それが名実共に備わっていなければこの実力装置は、実力部隊は合法化されない[87]」と述べた[88]。またジャーナリストの清谷信一は、保守派である自身もこの言葉を使っており野党の攻撃は感情論だとし、この発言を国会で問題にするほうが異常である、と述べた。また石破が清谷との共著で「暴力装置というのは、すなわち軍隊と警察です。日本では自衛隊と警察、それに海上保安庁も含まれます」と述べていることを挙げ、自民党議員の対応を批判している[89]。石破は後に仙谷を評して、「マックス・ウェーバー(の本を)読んでるんだ」と内心すごく尊敬した、という発言すらしている[90]。 自衛隊行事での政治的発言禁止の通達について2010年11月18日の参院予算委員会で、防衛省が自衛隊行事に政治的発言をする者を呼ばないよう事務次官通達を出した問題に関し、「民間人であろうとも(中略)自衛隊施設の中では(表現の自由は)制限される[91]」と述べ、通達は許容されるとの見解を示した[92]。 女性の社会進出推進2010年4月26日に行われたシンポジウムにおける「(戦後は女性が)働きながら子育てする環境が充実されないままになった。もうそんな時代は終わったのに気付かず、専業主婦に家庭の運営を任せておけばいいという構図を変えなかったことが、日本の病気として残っている」との述べた[93]。一方、産経新聞は「専業主婦は病気」と受け取られかねない発言をしたなどと論評した。これについて仙谷は「そんな表現をした記憶はない。男性中心社会の固定観念が病気であると、絶えず申しあげてきた」と述べた[94]。 女性記者へのセクハラ発言2011年1月6日発売の「週刊新潮」と「週刊文春」(1月13日号)により、日本経済新聞社の女性記者に対して、セクハラ発言を行ったという報道がなされた。仙谷は事実ではないとして、発行元の文芸春秋と新潮社に損害賠償と謝罪広告の掲載を求め東京地裁に提訴した。裁判時に女性記者が法廷にて、「私たちのところのグループに来たとき、どういう風な話の流れかはわかりませんけれども、非常に大きな声で笑いながら、65歳なので、もう勃たないんだよというふうにおっしゃいました[95]」と発言するなどして、事実認定がなされて敗訴した[96]。 エピソード
選挙歴
栄典家系自身の家系について、仙谷は「徳島で江戸時代から続いた商人」と述べている[101]。仙谷が生まれる前には、大々的に展開していたという仙谷家の商売は傾いてしまっていたという[2]。 生家近くの商店主によると「お父さんはよく喋る人で、戦後ほどない1951年と1955年に2回、徳島市議選にも出たことがあるんですよ。いずれも落選してしまいましたがね」という[2]。 著書
その他
脚注注釈
出典
外部リンク
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