利用者‐会話:野曽木明文
WP:BLPの遵守依頼と警告管理者の背番号9といいます。下村博文で行った貴方の編集を元に、再度、該当頁を保護する事態となりました。存命人物のページは、特段の注意を要する事をウィキペディアでは強く求めています。どうしても記述を貴方が求めるのであれば、WP:BLPを熟読頂き、該当頁のノートでその追記が適当かどうか、各位の合意を取り付けて下さい。再度、同様の事態を繰り返す場合、問題行動を繰り返す利用者として投稿ブロックすることもあります。ご留意下さい。--背番号9(会話) 2014年4月28日 (月) 17:58 (UTC) 出典を提示してください - 平成25年台風第26号野曽木明文さん、こんにちは。あなたが平成25年台風第26号に書き込んだ投稿内容はどの様な資料を根拠にされたものでしょうか?ウィキペディアの内容は「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」が重視されており、「Wikipedia:検証可能性」が基本方針の一つとして定められていますので、出所不明な情報を投稿することはできません。また、「Wikipedia:独自研究は載せない」に明記されているとおり、個人的な見解に基づいた記述はウィキペディアでは歓迎されません。 投稿される際には「Wikipedia:出典を明記する」を参照し、信頼可能な解釈・評価・分析などの根拠となる出典を示してください。あわせて「Wikipedia:信頼できる情報源」もよくお読みいただき、適切な編集投稿をしていただきますようお願いいたします。--わたらせみずほ(会話) 2014年8月23日 (土) 17:37 (UTC) ご注意「NHKが報道しなかった」などの記述については、実際にNHKの番組を見ての感想ではなく、「報道しなかった」と書いてある出典をお示しください。また、自分で出典を示さず相手に反証を求めることはしないように。--Muyo(会話) 2014年8月23日 (土) 17:37 (UTC) アンパンマン原作者の追悼報道と10年に1度の台風接近情報とどちらが大事かなんですがどの時間帯とは言いませんが、NHKはアンパンマン原作者の追悼報道に台風情報の倍近い時間を費やしていたんです。台風情報を知りたかった者の感覚的な記憶だったとしても、「NHKは正気か?」、「なんでアンパンマンなんだ!!」、「そこまでアンパンマンである以上、大した台風ではないという情報を入手してるのか!?」と思ったのは私だけではないでしょう。受信料を徴収する公共放送ですから、議事録とまではいかなくてもニュースの実績タイムテーブルぐらいは公表してもらいたいですが、東電と同じで録画の公開は渋るでしょう。困りましたが典拠はないですね、諦めるしかないですかね。--利用者:野曽木明文 ご注意あなたの編集傾向を見ると、ご自身の見聞・考察・見解によっていると思われる記述が多々見受けられます。自身が見たこと、聞いたこと、思っていることをそのまま書くのは独自研究に該当します。Wikipedia:独自研究は載せない、Wikipedia:検証可能性、Wikipedia:中立的な観点、Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかをご熟読願います。--Muyo(会話) 2014年9月3日 (水) 01:30 (UTC) わたくしからも意見しますが、Wikipedia:独自研究は載せないをよく読んで理解してください。関係ないこと持ち出して「何々ではない」と書き込むような行為は「情報の合成」という場合によっては独自研究の中でもとくにまずいものとみなされます。あまりな編集が続きますとウィキペディアコミュニティは編集をお断りする場合があることをご注意ください。--219.126.27.164 2014年9月30日 (火) 22:15 (UTC) あらためてもうしあげますが情報の合成はほんとうにやめてください。ましてそれを再三書き込む行為は、目的外利用者として問題視されることがあります。--219.126.27.190 2014年10月1日 (水) 22:20 (UTC) 利用者‐会話:219.126.27.164や利用者‐会話:219.126.27.190で書き込まれている内容については、こちらで扱いましょう。これは利用者:野曽木明文(会話 / 投稿記録)さんの書き込んだ内容の問題なのですから。--219.126.28.201 2014年10月3日 (金) 09:55 (UTC) 以上の3点につきましてですが、まず天下りのページにては『「天駆ける」「天渡る」という表現が好まれる。』のくだりに出典は無く誰が好んで使っているかなど主語すらありませんので、独自研究以前の説明的でない内容で百科事典に掲載するには当たらないでしょう。「岩戸隠れ」と「黄泉がえり」の語に関しても、その語を使っているという出典もありませんし返り咲きの人事登用にいたってはもはや天下りという状態から派生した現象について書かれていて、天下りという状態の説明からはみ出してしまっています。「典型的な」という表現すら使っていますが、それを典型的な例として「黄泉がえりだ」としている信頼できる出典元が必要ですね。それもなくては黄泉がえりだと呼んでいるのは野曽木明文さんになってしまいますのでさすがにまずいでしょう。出歯亀は出典も添えられておらずいくつかの辞書にも見られないような新説の発表をしています。これは無条件で消されても仕方のない種類の書き込みなのです。それを「文化庁の「国語に関する世論調査」の設問になってもおかしくないもの」と主張されていますが、ならばその設問になっているものを信頼のおける情報源に探せばよいのであって、野曽木明文さんがいくら「設問になってもおかしくない」と主張されたところで、「なってないなら扱えない」という種類の話でもあります。おちんちんについては「チンする」という表現が電子レンジで加熱することを指すというのは別の文脈でならいいのですが、それは「おちんちん」とは全く関係の話でしかなく、それをおちんちんと結びつけた時点で独自研究です。それをさらに発展させて「「おめこする」のように「性交する」ことの動詞化表現として用いられることは極めて稀である。」と書き込むのは独自研究の上乗せでしかありません。このような判断に付き差し戻しを行ったのです。これでもなお「私の方に瑕疵がなくて、あなたが他の利用者のクレームに便乗しているだけ」とおっしゃられるのであれば野曽木明文さんはウィキペディアの理念に相容れないでしょう。--219.126.28.201 2014年10月3日 (金) 09:55 (UTC)
利用者:219.126.xx.yyy さんとの対話 (その2)野曽木明文さんがどのような人物かうかがい知れるようなことを仰られているわけですが、それはウィキペディアに参加するには多大な自重を要することを意味するのであって「だから大目に見て」とはいえない種類のお話だと思いますから、気を逸らせて様々な記事を編集するのはおやめになられたほうがよろしいかと注進申し上げます。それはさておきまして野曽木明文さんはやはり「黄泉がえり」の件の本質的な問題を誤解しておられます。野曽木明文さんはNHK関連の事象を「書くべきだ」とお考えなのかもしれませんが件の件は天下りの説明を逸脱しての単なる特殊なエピソードの紹介にこじつけまで付け足したものでありWikipedia:雑多な内容を箇条書きした節を避けるで指摘される雑多であるために問題とみなされる内容にすぎません。「おちんちん」の項目にしても同様で、そのうえ情報を合成して独自の見解を導出されておられます。野曽木明文さんがなさったことは記事に百科事典としての説明を増やすと言う視点になく単純に「雑然と自分の知っていることや考えたことを論拠を交えて書き込んだだけ」です。出歯亀の記事とてご自身の重要視される事柄(ある別分野で活動する学術関係者個人などが指摘する異説)が記事冒頭になければならないという思いで行動した結果でしかありません。それも「現代的には、どんな話題や事柄にもすぐに首を突っ込んで周囲を混乱させたり、場を白けさせたりする者のことを指して言う。」などと辞書一般とは異なるご自身の解釈まで付け足してです。たしかにウィキペディアの中には宣伝的であったりメモ書きか落書きのように乱雑に未整理な書き込みが投げ込まれたかのような、いいかえればがらくた箱に等しい記事もあることでしょう。もっとも野曽木明文さんが自負している編集履歴を拝見するに野曽木明文さんがなさったことは、がらくた箱やそうではなく注意深く整理整頓して説明をしまってある箱にご自身のお気に入りの玩具を目立つところに放り込んだだけであるようにお見受けします。少なくともがらくた箱項目に必要なのは説明を整理して百科事典として順を追って説明し必要なら適時実例を交えて項目名に挙げられた言葉が指し示す事象や事物を説明することです。その際には余事や脱線したエピソード紹介や自分の指向などは控えたりすることも重要であり、野曽木明文さんの執られた書き込みとは逆進するものです。上に並ぶ方々から批判の寄せられているのもこの部分を含んでいます。そのことをよく理解してください。それもなく「あまり悪く言わないでください。」などというのは、より批判を集める結果しか生まないでしょう。--219.126.30.181 2014年10月5日 (日) 04:54 (UTC)
利用者:219.126.xx.yyy さんとの対話 (その3)またもって理由にならないような理由付けを見るに付けある疑念が拭い難く感じておりますが、それはさておき。「天下り」の項目に関しての「それ以外の記述・編集」に関しては、野曽木明文さんご自身は何か具体的な、あるいは私的に体験した事例があるのかもしれませんが十分な検証可能性も満たされておらず加えてその何がしかの事例を私的に批判する意図が感じ取れたためWP:NOTSOAPBOXに指摘されるウィキペディアの目的外利用と考えられたため現状復帰をいたしました。要するに野曽木明文さんの編集はその妥当性が全般的に疑わしかったのです。おちんちんや出歯亀その他の問題に関してはビッグデータや何やかやと申されておられますがご自身に内在する曖昧模糊とした感覚的な記憶を元に導出したのが件の件ではなかったのですか。もっともウィキペディア上ではそのような事柄こそ独自研究として批判を集めるのですが。必要なのはそのような曖昧な記述側の思惑を排して具体的な研究者が発した結果を扱うことが重要なのです。国語辞典に順ずると言うのも基準点を記述者の外部に求める上で、また不特定多数の読者との共通認識という始点をもつために必要でこそあれ「主客顛倒どころか邪道」などとまでおっしゃる野曽木明文さんの独善は落胆を禁じえません。そこをある不祥事事例を拡大解釈してご自身の書き込んだ内容がおそらく正しいのだと主張するような陰謀論めいたお考えはただの甘えとわたくしには感じられるのです。「私の記述の十中八九は検証可能なものばかり」と仰られておられる箇所についてはおそらくは「野曽木明文さんが注視する事象を野曽木明文さんの視点で思考した」場合に真となる事柄ではないでしょうか。この場合に実際に検証可能なのは「野曽木明文さんが注視する事象」の存在の有無だけで結果を導出する過程にこそ妥当性を持たなかったりそもそもその事象を取り扱う理由に欠くことを野曽木明文さんは書き込んでしまうようにお見受けいたします。--219.126.16.61 2014年10月6日 (月) 22:48 (UTC) 野曽木明文さんは本日またも出歯亀の項目を編集されたのですが、これがまた、ひどい。西洋道中膝栗毛で描かれているのは「(人が)出張る」、新聞に表現されまた記事表題に関連しているのは「出歯る」、これを接続してしまった時点で本来両者の間には音が同じという以外になんらつながりがないため前述の独自研究とみなされる情報の合成となるのです。元より高島俊男氏が何処でいつどのような形で指摘しているのかも具体的言及が無いために検証可能性が著しく低いことが問題であったのですが今回付け足された内容により全体がトンデモの如き信憑性の無さへと堕してしまいました。元より記事には昭和初期の文献が著作権切れで公表されているため外部リンクされているのですがこれを読んでみた限りでも亀太郎の素行を周囲のものや親方が言っているのはどう見ても身体的特徴の出歯、それが好色行為や猥褻行為に及んだということで「出歯の亀太郎」を略して「出歯亀」という渾名で呼ばれていることを新聞が取り沙汰したことは読み取れたものの「出しゃばりだった」と周囲のものや親方が述べている箇所はなく、またこちらでもいくつかの情報を浚ってみたものの当時を描写したものとして直接的に亀太郎が出しゃばりだったと言及しているものが見当たらず信憑性が怪しい。このため、本来であればそれをこれは高島俊男氏の言質を取り沙汰すにしても検証可能性を十分確保しないことには高島俊男氏の名誉も同時に損なう問題の多い記事だったわけです。しかも今回の編集ではとんでもない内容にされてしまいこれを高島俊男氏が主張したかのような意味にもとられかねないという意味で甚だしく不適切ではないでしょうか。なお余事ではあるのですが「出歯る」の人文学的アプローチに関していわゆるビッグデータ分析手法に関連しそうな学術論文などないかとわたくしが軽く検索かけましたところ斯様なテキストが見当たりましたがこれはなるほど興味深い、野曽木明文さんが主張したり誇張してでも過大に取り扱おうとしている内容など微塵も含みませんでしたが。ただ野曽木明文さんが意図して記事を損なうことでこのテキストに誘導しているのではないかという疑念も湧きましたので特筆性の上でも大きく取り沙汰すのもいかがなものかと判じましたこともあり参考までに提示するに留めます。--219.126.23.116 2014年10月7日 (火) 09:46 (UTC)
斯様なテキストに関して「何が明らかになったのか、あるいは何を明らかにしたのか、今ひとつわからない」と仰られておられますが、それは野曽木明文さんが求める結論付けに至っていないからその趣旨が理解できないというだけでしょうね。ご自身の考え以外は間違っているという考えに囚われがちな人には良くあることです。それはさておきまして元々記事につけられている外部リンク先の著作権切れ文献全文が事件から25年経っているからなんだというのです。四半世紀の間に情報は出揃い間違いは正されより客観的に扱うには十分な時間が過ぎたと言うだけで、野曽木明文さんが期待するような捏造や歪曲があったと仮定するのは意味がございません。誤植についてはどう書き換えるかは拝見いたしますがそれがウィキペディアの「信頼されるフリーな百科事典をつくる」という趣旨から外れるならば独自研究の除去対応と具体的な出典の提示を要請することをもって対応することをもうしあげます。なお世の常としてつたない挑発には手厳しい対応が返ってくることが多いので、余計な一文を書くのはおやめになられたほうがよろしいでしょう。--219.126.19.33 2014年10月8日 (水) 08:56 (UTC)
またもや理由にもならない理由を述べられておられますがウィキペディアに参加することと皇国史観の持ち主の方々が野曽木明文さんを挑発的だとみなすことには何のつながりもないでしょうにそのような理由をご自身の中では意味あることだと捉えているかどうかはさておいても他者への言い訳に使うことはもはや冒涜的ともうしましょう。それはさておきまして「出掛ける」の件がなんだと言うのですか。「出歯り所」と表現している文脈からして「売春が店を通さない私娼との直接交渉で成り立っていたことから、行為を別の場所で行う」ことへと掛かっているという視点でありそれは性的な行為である売春を行う場所まで出掛けて行ったと言うことなのであって野曽木明文さんがことさら強調を試みている「でしゃばる」の含意は欠片ほどもないのは明白です。どう読んでも「出歯る」は性的な行為に絡めて用いられている「流行り言葉」ということでしかありません。外部リンクに関連しては野曽木明文さんは朝日新聞全てが捏造だとでも主張したいのかもしれませんがそれこそ野曽木明文さんの単なる願望でしかなく根拠がありませんから独自研究がどうのという以前に私的な願望でご自身の主張を強調するのは主張全体の信憑性を損なうだけなので時間の無駄でしょう。編集誤植についてはほぼ意味を成さない弁明をなさっておられますが「自身が批判されるのは絶対的に正しいからだ」というような言い換えれば思春期の一時期に増長した主観から生まれしばしば心を捉えて離さない思い込みのような気配すらするものの余りにあんまりな内容なのでそっとしておきます。なお「つたない挑発には手厳しい対応が返ってくることが多い」とのわたくしの発言に対して何やかやと申されているのですが自覚がないようですね。話を他に摩り替えても何が良くなるでもなし自己万着に勤しんだところでご自身が批判されていることは全く動かないどころか話をはぐらかしているとみなされてなお批判される結果を招くことを言い添えておきます。--219.126.19.33 2014年10月9日 (木) 14:04 (UTC)
利用者:219.126.xx.yyy さんとの対話 (その4)まず最初に文末の誤字に対して訂正とお詫びいたします。「自己万着」は「自己瞞着」の打ち損じでした。それはさておきまして「小光姐さん」の件では拡張された用例として上がっており殊更強調して全体に出向くの意味のみで「出歯る」をあつかう必要は見受けられません。営業活動の競合や業務の開拓に関してはそれを使っている用例を「信頼のおける情報源」に探すべきかもしれませんが、それは野曽木明文さんの作業ですね。さてわたくしとしては軽く「出歯亀役人」とついで「出歯り役人」の用例を探してみたのですが清々しいまでにまるで見当たりませんでした。もっとも一般に見当たらないほどの語ともなればWikipedia:独立記事作成の目安の考え方もあって特筆性に難ありとして信頼のおける情報源を使って例示するでもなければ特別に取り沙汰す必要もないでしょう。すくなくとも野曽木明文さんの手による造語では「記事に書き込むほうがどうかしている」というはなしでしかありません。「思春期の-中略-思い込み」については言われて判らないと言うより話を聞くつもりがないということですか。そこまで話をはぐらかして見当違いのことを述べてしまうことは以前話題となった野々村元兵庫県議の会見のようですらありますが少なくともそのような態度はウィキペディアへの参加をお断りするに足る行動だということだけはお知りおきください。しかしブロック明けそうそうに再ブロックとは考えなしにも程がありますので野曽木明文さんは大人の社会から見てもおかしな価値観はそろそろ卒業されたほうがいいのではないかと感じます。--219.126.31.98 2014年10月10日 (金) 22:43 (UTC)
なんといいますか自分の主張に沿いそうだと感じれば塵芥でもひろいますか。「出張る/出歯る」に関してはWeblioシソーラスの但し書きでも「Weblioシソーラスはプログラムで自動的に生成されているため、一部不適切なキーワードが含まれていることもあります。ご了承くださいませ」とあるように、その正当性はなんら保証されていないのです。この「不適切」は類語辞典/シソーラスとして意味の関係性があるかどうかの正当性が保証されないという意味ととれ野曽木明文さんの考えている卑語俗語の類だから国語的に正しい日本語ではないというような意味とは違うのでしょう。にもかかわらず野曽木明文さんはそれにロボット検索の検索エンジン結果で関連性が不明瞭な「出張る(出向く/でしゃばる)」が検索結果に出たことを持って、少なくともWikipedia:独自研究は載せないやWikipedia:信頼できる情報源のさわりだけでも理解していれば出ないであろう「私の説はもう検証されたも同然です。」ということを言ってしまうからには何を批判されたり編集ブロックまでされてウィキペディアの方針を理解して欲しいと呼びかけられたのかご理解いただけていないのですね。単なる検索結果は検証可能性を満たしませんし自動生成された文字列にも扱うべき理由はありません。そしてそれらの強引が過ぎる紐付けが独自研究に他ならないのです。しかも野曽木明文さんは信頼できる情報源の提示もできていない。「出歯亀役人」で検索結果に出たとして、それが猥褻行為を働いた不埒な輩という意味を全く含まずに野曽木明文さんが主張されたような「官僚が-中略-出歯亀役人と呼ぶんですよ。」(2014年10月10日18:41UTC発言より抜粋)という内容かどうかは検証が必要でしょうけれども、そもそもその水準では独自研究にしかなりえませんからウィキペディアでは扱えません。これに関してわたくしが余技に「出歯亀教師」で検索しましたら温泉場で露天風呂を覗いていた不埒な教職員が検挙されたタブロイドニュースのコピーが掛かりましたが少なくとも野曽木明文さんが出歯亀の記事で主張されたような「でしゃばり」という意味合いは微塵も無い上にタブロイドニュースは信頼のおける情報源に当たらないのでこれまた扱えません。これらの問題をそのままに「出歯亀のページもヒッグス粒子のページのように」などとおっしゃるのは何も考えていない結果ですね。なにより出歯亀という語は事件を起点として報道で一気に流行し現在に向かって廃語になりつつある過程にあるのですから、現在もなお進行中のヒッグス粒子の問題とは様相も異なるでしょうがそれ以前に両者は全く関係ないのです。「大人の価値観」について必要となるのは人間としての「常識的な分別」です。野曽木明文さんがダンゴムシであろうとそれ以外の何かであってもその分別さえあれば問題ないのです。逆に分別なくWikipedia:五本の柱の理念を無視しているようではどのような属性の存在だとしてもウィキペディアに関わるのは無理です。--219.126.30.133 2014年10月15日 (水) 09:55 (UTC)
利用者:219.126.xx.yyy さんとの対話 (その5)まず「ヒッグス粒子」うんぬんにつきましてはそれが本題とはまったく関係ないということに過ぎませんが、わたくしが「塵芥」と表現したのは「正確性が何も保証されない自動生成された文字列」に野曽木明文さんがさも全幅の信頼を寄せたかのような理屈を書きたてたことに関連してのもので、その「塵芥」はWeblioシソーラス自身が但し書きで正確性を保証していない文字列ややそもそも関係性があるかどうかも疑うべきキーワードでロボット検索エンジンの検索結果が何件あったとかの事柄なのです。それら「まさしく何の価値もない情報=塵芥」をもってご自身の主張を正当化するような行いはまず健全な学術分野には見られないでしょう。「出歯亀役人」や「出歯亀教員」に関しては覗き破廉恥行為で不祥事を起こした個人の話ではなく野曽木明文さんが主張するような「職務や職位と関係のない集まりにまでちょこちょこ出向く」(野曽木明文さん2014年10月10日18:41UTC発言より抜粋)ようなことを信頼できる情報源に探すのが筋でしょうけれどもわたくしが10月4日に提示を呼びかけたのにいまだに野曽木明文さんはそれができていない。この件は「私の記述の十中八九は検証可能なものばかり」(野曽木明文さん2014年10月6日18:51UTC発言より抜粋)とまでおっしゃられてはいるものの肝心の検証可能な出典はもとより用例すら信頼できる情報源として提示できていないうえに話をはぐらかす方向にしか向かわれておられませんから「はい時間切れ」です。「ダンゴムシ」関係は野曽木明文さんがご自身で言われたことなのにもう話を関係ないところにもぐりこませている。もしかしてすぐ物陰に入り込むダンゴムシ論法ですか。もう生まれ変わる必要が無いくらいに考え方がダンゴムシなのであれば、あとはダンゴムシの扮装をすれば誰も野曽木明文さんを人間ではないかと疑うことはしないと思います。さてダンゴムシはほうって置くといたしまして「権限編集権」とは何を指して言っておられますか。もともとウィキペディアに参加することは自然権のような権利ではなく「方針文章に従うという義務を含む無償奉仕」でありますから「編集権」なんていう権利の有無を論じることがナンセンスです。権限についてはわたくしはわたくしという自由な個人がウィキペディアという百科事典の編纂というプロジェクトに参加するにあたりプロジェクト進行を妨害していると考えられる人物、つまり野曽木明文さんを批判しながらその行動の改善を対等の個人として要求しているのです。さらにそれは百科事典を編纂するプロジェクトたるウィキペディアに参加するという趣旨にそぐわないにもかかわらずウィキペディアに干渉しようとする野曽木明文さんのプロジェクト上の自由が制限されるのは当然の結果としても、わたくしがわたくし個人のウィキペディア参加者という資格を持ってウィキペディアの方針に従いながら、方針から逸脱なさっている野曽木明文さんを批判し行動の改善を請求する上で、わたくし自身の側に制限が生まれる性質はないのです。なおF代さんやA美さんというような人物は知りませんが著名人ではない個人に関してあまり具体的なことを書き込むと無名の個人の情報を暴露したとみなされますよ。とはいえ少なくともウィキペディアは百科事典を作るという目的に関係のない雑談をする場所ではありません。関係ない雑談をお求めなら手持ちの金銭が続く限りテレクラでサクラのお姉さんと楽しいおしゃべりをしていればよいでしょう。--219.126.20.216 2014年10月16日 (木) 09:09 (UTC)
論語の一節に「巧言令色、鮮矣仁」という件があることを思い出しました。野曽木明文さんはご自身の主張に利せそうだと思われる断片的な情報に遮二無二飛び付いて他が見えないようですね。孔子は耳朶に心地よく感じるような巧言に惑わされるなといったのが「巧言令色」の件なのではありますが野曽木明文さんはさながら自家中毒のように自分の見つけ出したご自身の主張にとって都合の良い情報だけに、それも都合よく解釈したうえで執着し過ぎです。機械検索の無検証無責任なノイズの海からご自身の主張を補強できそうな「塵芥」だけを抽出しても前提となる主張に妥当性がなければ実情から遠ざかるだけです。もっとも抽出作業自体も独自研究に他なりませんので「主張の補強」どころかその行為だけをもってしても野曽木明文さんがウィキペディアへ書き込んだことを他の参加者が取り除く理由に事欠かないのですけれども。Weblioシソーラスのアルゴリズムについて彼是想像をめぐらせているようですがそれが小学生児童の「いちおくまんえんひろったらおかしとおもちゃをかいしめるんだ」というような願望とも妄想とも付かないような類の空想と大差ないことくらいは御自覚いただいているものとは思います。そしてそれはあまりに根拠を持たない願望でしかありませんからそれに続く妥当性の評価も無効ですね。ビッグデータをまた持ち出されましたがそれを独自に分析した結果なんてものは例えそれが合理的であろうとウィキペディアに掲載すべきではない事柄に過ぎませんが、くわえて野曽木明文さんのいくつかの項目でなさって方々から批判を集める結果をうんだ「独自の解釈」は、その集めた批判の総体として野曽木明文さんの物の考え方自体が合理性を持たないものであったという結果に過ぎないのを明確に表しているように思えます。「露骨な-中略-も無視」はある非著名個人のブログに同じ言説を見出しましたが、もうどうにもウィキペディアの上では扱いようが無い情報です。しかしまた典拠も示せず「ニュアンスはお分かりになるんじゃないですかね。」ですか。それを記事に書いた時点で独自語の発表でしかなくウィキペディアコミュニティ上ではつまみ出されても仕方のない水準に過ぎないのですが。わたくし個人としては関西圏の言い回しとして「方々に手を出す」を「方々に色気を出す=好色」と掛けて「助兵衛根性」と呼び習わす用例は存じておりますがこれは広辞苑のような一般的辞書の第二義に明記されており、とてもではありませんが野曽木明文さんの出歯亀に新たな語義の付与を試みているような事柄とは水準というより次元が違います。それを正確性がまったく保証していないシソーラスの自動出力されたどのような意味付けによるものかも説明のない文字列と過去の流行語として拡張された1世紀以上過去の用例のうちにたまたま「出張る」とただし意味は出向くと同義ながら書かれていることもって、あるいは本来であれば関係性の強弱でいえば同義語というほどではなくいくらかの関係性を持って構成されるシソーラスなどに一つでも「出歯亀」と「出張る」を紐つける記述が見つかったならという前提で、そもそもその「出張る」が「出向く」の意味なのか「でしゃばる」の意味なのかをまったく配慮せず今更ながらに「でしゃばる」と強力に連結ないし接着する、さらにそれを現代の主要な解釈であるかのように書き込むのであれば、わたくしは野曽木明文さんをウィキペディアへの参加不適格と結論付けて対応するほかありません。なお野曽木明文さんが大好きであろう「平成24年度「国語に関する世論調査」」で野曽木明文さんは設問1に対して「日常的に強くそう思う」と答えたいのではありませんか。--219.126.17.51 2014年10月17日 (金) 09:59 (UTC)
利用者:219.126.xx.yyy さんとの対話 (その6)論語についてはおかしな空想をなさっておいでですが論語自体には関係はないし、またそれでわたくしの述べたことの意味も野曽木明文さんが自家中毒のようにご自身の願望に流されてことの趣旨を見間違ってしまうことにも影響はありませんから「野曽木明文さんの無関係な独り言」として扱います。「我是想像を膨らませたことはない」ということですが野曽木明文さんのおっしゃったことがそういう種類のことがらですので無自覚なんだということでしょう。ビッグデータについては「勝手に誇大解釈しないように」ということに尽きますが、それはさておきまして「言葉(単語)」は前後の文脈で他の意味を持つことがある、そしてその付与された別儀はしばしばその場限りでしかないこともあることは野曽木明文さんも良く知っていることだと思います。しかし野曽木明文さんがなさったことといえばどこのどんなものかも明示されていない膨大なテキストデータから前後の文脈を抜きにご自身の偏った思惑に合致するであろう単語だけを抜き出して、これまたご自身の独自の解釈を付け足して客観的に検証すらせず「此れはこうだ」と主張してしまう。その合理性や客観的な裏づけのない主張がどんなに不注意かつ百科事典を作ると言う趣旨の基にリソースを公開しているウィキペディアの上で扱いようのない独自研究だということがまだおわかりにならないのですか。ところでご自身が他に見せたいものを見せて回る嗜癖があるようですが他人が希望しないことまでを見せて回るのは薄暗い路地でコートだけを羽織って立っている変な人と大差ないようにもおもいますが、いわんやウィキペディアで私論を公開して回るのはウィキペディアの趣旨に沿わない「目的外利用者」としてつまみ出されるのに十分な理由にしかなりませんのでご留意ください。「「自分の聞き方に問題がある」とは全く思いません」とは危機感も無く言ってしまっているのだとしたらこれほど他人に何かを説明する態度に難がある考え方はないとおもいます。それこそ「ぼくわるくないもん!おもちゃかしてくれなかったタクくんがわるいんだ!」と友達を突き飛ばして怪我させた子供の言い訳のようにしか聞こえません。シソーラスが無い図書館とはどんな図書館なんだと思うところではありますがそれはさておきましても「何処のどんな文献を参照したか」という情報がいまひとつ不明瞭です。一意で文献を指定できる情報を開示してくれませんか。さて「出張る」やら「出歯亀主義」であれやこれや申されているのですが、まず「出張る」に掛けて「出歯る」と表記していた流行言葉が約1世紀前に存在していたことまでは確認できておりますが、その掛詞が現在に生き残っているように主張するに足る典拠は未だ出ておりません。また「でしゃばる」の意味で誤用や転用ではなく使っている用例すら信頼できる情報源にご提示いただいておりません。「出歯亀主義」に関しては精々いいところでナチュリズムをもっと好色奔放なニュアンスで表現したような、そしてやがて原義のみを残して収斂されて行った意味ではありませんか。「出歯ってやるぞ」などというのもその当時限りのものとして。わたくしが手遊びにコトバンクの朝日日本歴史人物事典/池田亀太郎で読んだところでは森鴎外の発禁小説『ヰタ・セクスアリス』で当時の風俗描写の中に述べられているようですが、それをいきなり現代の話に持ち込んで「逆に「NHKの野郎め、こんなところまで出歯ってきやがって」というような言い回しも、ウェブ上でも使われる自然な表現というわけです。」と書くのは情報の合成を行ったに過ぎない完全な独自研究でしかありませんから、そういう方向で編集するなら強く批判を集めることでしょう。さてそこでわたくしから提案いたしますのは現在のところきちんと裏づけが取れている事柄だけで余計な主張や脚色抜きで構成することです。まず第一に犯人として捕まった池田亀太郎が普段より仲間内や親方から面相の特徴を踏まえ「出歯の亀太郎」や略して「出歯亀」と呼ばわれていた(明治・大正・昭和歴史資料全集. 犯罪篇 下卷P.16)こと、これが美人絞殺の容疑者として逮捕された折に「出歯亀事件」と報じられ、その後しばらくは流行語として好色や売春行為に絡んで「出歯亀」や性的な行為に出向くことを「出向く」に掛け「出歯る」と表現したり出向くの転用として出歯るという表現も新聞上に見られた(明治末期『上毛新聞』にみる私的売春イメージ―自然主義、出歯亀、出歯る人々―より)こと、森鴎外が小説『ヰタ・セクスアリス』で自然主義にも関連して「出歯亀主義」という表現も生まれたことを当時のこととして取り上げ、しかし現代の国語辞典では単に覗き趣味など変態的な好色破廉恥行為の範疇でのみ扱われている(広辞苑より)とすればいい。これを具体的に記事に足る文章にすると現行記事にある語源にある第2節を差し替える形となりますが以下の通りとなります。
すくなくとも現行の記事にある出歯亀は出歯だったのかというくだりはほぼ私論や独自研究ですから完全に除去してしまわなければなりませんが、「高島俊男などは「でばかめ」の「でば」が出っ歯(反歯)を意味するものではなく「出張り」すなわち「出しゃばり」を意味していたのだと指摘している。」を具体的にどんな文献に当たったのか明示を求めるために「要出典」を付与して前節に残しておいてもいいでしょうね。とにかく現用語として「こんなところまで出歯ってきやがって」などという野曽木明文さんの独自解釈に立つ表現は情報の合成に過ぎず独自研究ですから掲載できません。--219.126.30.40 2014年10月18日 (土) 10:07 (UTC)
どうにもまとまりというか一貫性というか、あるいはわたくしの発言の趣旨を表層だけしかみていないというか、ともあれ書き込まれたお時間が時間だけに眠気にかまけて思い付くまま考えなしに不注意な書き込みをしてしまったのではないかと疑いたくもなるお返事です。それはさておきまして「私はそうしたデータを被験してとか、精査してとかと言っております。」ともうされておられるのですが、わたくしは、また他の方の注意でも「そんな独自解釈を持ち込もうとしないでください」と言っているのです。データがあるならご自身の意図で加工しない、そこからご自身の主張を導出するために独自の解釈を行わないというのは検証可能性を維持するためにはもちろん独自研究を扱わない上ではとても当たり前なことです。ウィキペディアの方針のうちで主要で先に述べた独自研究を載せないことや検証可能性をもたせることと同等に扱われる方針「Wikipedia:中立的な観点」がありますが、記事を書く側が個人の主観や価値観を記事で扱わないようにするためにもこういった個人的な解釈や分析のようなものは記事に必要ありません。まして科学的とご自身が考える手法を人文科学に導入できないかと試みるのは独自研究の発表でしかありません。いわゆる「科学的な手法」と称するものが客観的に合理性を持ちえなければ似非科学やトンデモ理論にしか過ぎませんが、野曽木明文さんが申されているのはそれこそ海のものとも山のものとも付かないどころではない私的な理論を記事に適用しようということでしかなく、それはウィキペディア上では慎重かつ丹念に取り除かなければならない内容に過ぎませんので記事に書き込むのは絶対におやめください。そのようなものは個人的にウェブサイトで公開したり学会に論文の形で発表すればよろしいでしょう。ときに「わるいとまでは言いませんが、他人が希望しないことまでを見せたり言って回っているとは思いますよ。」とはおっしゃってますが、それは程度問題を含むとはいえウィキペディアで独自研究や主義主張に基づく意味を成さない関連付けを見せて回る行為は「路地裏の変態コート男」と大差ないということで野曽木明文さんが猥褻行為を働いたかどうかを論じているのではないことをご理解ください。もっともラブドールがどうとかと文脈に関わりなく漏れ出すところをみると「そういうことで頭の中がいっぱい」なようですね、どうぞ永遠にご自分が頭の中はその手の事柄でいっぱいであることは隠し通してください。「しょうがないでしょう」についてはシソーラスや類語辞典のようなものは「基礎的辞書」のたぐいだとおもうのですがそれが無いとかいうのは不思議な話だと思っただけです。掛詞が現在に生き残っていることへの典拠が野曽木明文さん側から出ていないことについて「それはある意味でどうでもいいこと」とまで言い放っておられるのですが、いいことないでしょう。ご自信が主張したことに出典がないということですよ。わたくしとしては現行辞書の定義に残っていないというとても検証しやすい事実を提示したわけですがそれに対する答えがないどころか「どうでもいい」扱いすることは野曽木明文さんがご自身の主張を撤回したと言う意味でしかうけとれません。「筆記しない限り「出張る」とは区別しにくい」ということは「出歯る」という用法が現用で生き残っていないならまったく区別する必要なく一意で意味が通じますし、また野曽木明文さんも「おっしゃりたいことはよくわかります」とお認めになられているとおり前後の文脈で判ずればいいことでしょう。それも敢えて廃語である「出歯る」で表現するなら、まともな話者であれば前提として断りいれますよ。ゆえに断り無く「でばる」というのであれば「出向く」と取ればよいだけです。そこを「出向く」「出歯る」「でしゃばる」の語感が似ているからと混ぜてしまうのは、いやあまり有体に表現するのもためらわれるほどの暴挙だと思いますがいかがですか。日本隠語大辞典と日本国語大辞典を部分的に引用してくださっているのですが、その文脈だけでも出歯亀が流行語となった当時のことと読み取れます。できればその全文を参照してみたいところですが、少なくともその文脈であればわたくしが提示した第2節差し替え案(斜体部分)でも出典情報として両辞典を提示するわずかな変更で対応できます。「出歯亀主義」もわたくしの差し替え案にすでに出ておりますのでそこに出典情報として日本国語大辞典を追加すればよろしいですね。なお出歯亀の語が流行した当時「覗き趣味的な行為、禁足慣行を侵す行為、暴力行為など、性欲の遂行を条件としない既成道徳に反する行為」を指すようになった件はわたくしの差し替え案の「ただ現代において出歯亀という語は」の前に挿入し、そこに「出歯亀主義」が無政府主義や社会主義にまで拡張され用いられるようにもなったことを日本国語大辞典を出典に書けば説明としてまとまるでしょう。それらを踏まえた改定案は以下の通り
以上でいかがですか。--219.126.30.40 2014年10月19日 (日) 07:23 (UTC)
--以上の署名のないコメントは、野曽木明文(会話・投稿記録)さんが 2014年10月20日 (月) 03:06 に投稿したものです。 いや高島俊男氏を人として尊重するのではなく、その主張を過剰に取り沙汰しなおも拡張して現代の話にまで拡大するのは、むしろ氏の言質を恣意的に引用し誇大解釈しているのみならず主張のすり替えに至っているだけですから、むしろ学術関係者への扱いとしては失礼となるのではありませんか。事実は余計な脚色を加えずに説明する、それが学問にとっても「信頼できる百科事典」を目指すウィキペディアに参加する側にも重要かつ必須でしょう。現状では高島俊男氏の言質はどのような場で発せられたかも不明瞭でそこに付け入って野曽木明文さんはなんやかやと思惑を混入させるとおっしゃられる。そのあたりにつきましては高島俊男氏の発言の趣旨を検証可能性を持たせ氏の名誉を守る(WP:BLP)ためにも出典元の明示を求めることについて野曽木明文さんも合意なさったではありませんか。だのに出典が着く前に独自の解釈を混ぜ込んでしまえば高島俊男氏の発言に加えて独自研究の内容を内包する出典が必要になってしまって結果的にそのどちらも等しく含む出典などあるはずがないのですからいつまでも検証可能性が満たせないということになります。本当に「高島俊男のような路地裏の文化人然とした方は大事にしたい」とおっしゃるなら、氏の言質は余計な脚色加工はせずに切り出し独立させた形で保持するのが最善なのですが氏を「路地裏の文化人然とした方」などと評すること自体が不遜が過ぎるきらいがありますのでその発言だけをもってしても野曽木明文さんが高島俊男氏を尊重する気持ちがあるのかと怪しむ根拠に困りません。それはさておきまして野曽木明文さんも案文を出されてきてはいるのですが、それは先にわたくしが問題視した「筆記しない限り」のような過剰な解釈が混ぜ込まれており、あるいはその当時としても「でばる」がその両者のニュアンスのいずれに偏っても前後の文脈からある程度は類推可能ですし、またどちらに取られても文脈上で実はそれほど困らないでしょうから、そこを敢えて強調してまでして書く必要は無く、それを踏まえ過剰な脚色は省きますとほぼすでにわたくしの提案した差し替え案と重複する内容でしかありません。これに関連しては野曽木明文さんは「「出歯る」と「出張る」は接触言語となったと解するべき」と主張されていますがそもそもその視点が検証可能性を満たさない独自研究で、言語接触が「言葉」ではなくその集大成たる「言語」同士が接触し影響しあうという一種の異文化交流に類するものを指す概念ですから、その概念を引き合いに出して流行語が既存語の意味を変容させてしまったのだろうと主張するのは「論理の飛躍」、平たく言えばごくごく私的な語源俗解(民間語源)といったところで、「出歯る」と「出張る(出向く)」に直接的に言及した信頼できる情報源でお説の通りの事柄が書かれていなければ扱うべきではない内容に過ぎません。『明治末期『上毛新聞』にみる私的売春イメージ―自然主義、出歯亀、出歯る人々―』に関しては紀要だといえば確かにその通りです。しかし「明らかにその分野の研究者」が「きちんとした出典元(明治末期の上毛新聞)」を明示しながら引用しており、またわたくしが提示した改定案でも「流行語として好色な行為や売春に絡んで用いられることもあった」という客観的事実の存在を示す出典としてのみ扱っておりますし、また紀要といえどもインターネットを通じて一般が広く参照可能な状態で公開されているテキストですから一定の信頼性と検証可能性を満たし、また出典元として扱う上で過剰な解釈の付与を行っておりませんから独自研究は載せないという方針にも反しません。さらにWikipedia:外部リンクの選び方にも基本的に反するとことはないのです。もっともそれがなくても野曽木明文さんの参照なさった2辞書によっても一応の検証可能性はあるわけですから、出典として扱わなくてもわたくしの提示した改定案はまったく文言を替える必要もありません。ただ、参考にした文献には違いありませんので、少なくとも文末の参考文献に明示することは記事執筆者の、検証可能性を保持する上で、記事を読む読者に対する説明義務のうえで欠かせない要素であると考えています。さて少し後回しに致しましたが当時の無政府主義や社会主義に関する注釈として階級闘争やプロレタリア独裁にみられるような暴力的な行為への指向をしばしば持ち合わせていたことへと若干の説明を増やすことに問題はないでしょうし説明もまとまるでしょうね。それを踏まえて改定案の一部を以下のようにしてみました。
以上でいかがですか。以後余事となりますが何故ことある毎にNHKが出ますか。そんなにNHKが大好きなら毎月NHKふれあいホールに参拝して好きなだけどーもくんに抱きついていればよろしいではありませんか。ウィキペディアで記事のことに関して他者との対話中に何の脈略も無く出してきても話のはぐらかし以上の意味をもちません。また「チン」に何か思い入れがおありのご様子ですが、それをもって出歯亀の何を説明できることでもなく単にご自身の主張が個人的体験に基づいた独自研究だと表明されている意味にしかなりませんから必要ないでしょう。チンというベルの音が何を意味するかというのは世代だけではなく文化圏によっても差異があるものなのですから。とにかく、無意味な書き込みでご自身の発言をいくら水増ししてもラーメンのスープにお冷を注ぎ込むような結果にしかならないということです。--219.126.27.72 2014年10月20日 (月) 11:01 (UTC)
利用者:219.126.xx.yyy さんとの対話 (その7)どうにも話が「環の端無きが如し」の様相を呈している感がありますがやはり「筆記しない限り」は余計です。どのように余計かともうしますと野曽木明文さんの「これは私の独自解釈ですが、出張るという言葉がほとんど使われなくなったのは、やはり出歯るの影響が大きかったからでしょうし、さらに、出張るが使われなくなっていった影響が「気張る」にも影を落としているような気がします。」という「気がする」だけの事柄を補強するための枕にしかなっておりません。わたくしなどはそれこそ「気のせい」なのではないかと怪しむのではありますが、なお野曽木明文さんの主張の怪しさや不確かさを決定付けているのはそこに至る論理が決め付けに拠っていることと、ご自身のお説にまったく同様の典拠を提示してそこに忠実になろうとしているのではなく関連する典拠の内容を自説のほうに曲げてしまっていること。算数の時間に「曲がらないから物差し」と述べたのはわたくしの小学校時代の先生ですが、野曽木明文さんがなさっているのはまっすぐな物差しを借りてきて曲げて使おうとしているような感じです。この場合の物差しは出典もとの信頼できる情報源であるのですが、これが曲がってしまったら記事の信頼性がはかれるわけがありません。これは「はかれる」が「計れる」/「測れる」/「図れる」のいずれの意味でも結論は等しく「不能」です。そして曲がった物差しでは誰が見ても一様に内容が理解できる設計図面は書けず、記述者の価値観で曲げてしまった情報を基にしては正しく客観的な文章にはならないでしょう。これに関連してにもなりますが、野曽木明文さんのいう「私の冒頭のガイダンス部分」は、あれはいけません。2014年10月20日03:06に書き込まれた部分ならともかく2014年10月20日16:35(UTC)のものではまた独自研究がおふぐりのように文末にぶら下がっております。あれでは使いようがありませんし、また後述すれば済むような事件当時の流行語の変化で現代の辞書に残らなかったような転用の類まで冒頭に書き込んでいてはWikipedia:スタイルマニュアル (導入部)で説明されているようなわかりやすくて良い記事にもなりません。ご自身の重要視する事柄を殊更強調するのは演説に等しく中立性の上でも芳しい書き込みとはいえません。「ある程度類推可能」という部分の問題ですが、確かに短い文脈では後の文脈で分岐する可能性の面から不確実さが増えることには想像は難くありません。しかし面と向かって口頭で話していて相手の言っていることの意味が分らなければ訊ね帰すのが当たり前で、逆にどちらの意味にとっても大意が変わらなければ誰も気にしません。「出向く」と流行語を転用して出向くのニュアンスでも使われた「出歯る」をたとえ取り違えたとしてどれほどの問題があったというのでしょう。「でばる」が猥談の中にあれば好色や売春の意味でとれば問題なかったでしょうし、誰某が何処其処へ行ったのどうのという話なら単に移動の話とみればよく、何処其処の熊五郎が女衒に行ったとなればどっちの意味でとっても困らない。そんなに難しい話でしょうか。仮定の上に独自研究を載せてもウィキペディアでは信憑性も検証可能性もありませんから須らく取り除かれなければならない種類の話です。「流行語として好色な行為や売春に絡んで用いられることもあった」という箇所で「『明治末期『上毛新聞』にみる私的売春イメージ―自然主義、出歯亀、出歯る人々―』」は例示こそ上毛新聞のみとなっていますが、そういう用例が「有ったか無かったか」という水準でしか言及していませんから参考文献として件のテキストを提示する上では「例えば上毛新聞の上では」と注釈をいれればもっと正確となるのですが、逆に他の文献でも同種の言及があるために上毛新聞だけに限定する必要すらないと思いますがいかがですか。さて「武装闘争」や「武装革命」という表現ですが実をいうとわたくしはその語を文中に盛り込むことで適正な説明から遠ざかると考えています。もちろん当時のアナキストや社会主義者の中にはテロリズムに訴えたりそれを計画したものもいたでしょう、たとえば大逆事件とかですか。ただ当時のアナキストや社会主義者を全てその枠でくくってしまうことも中立性や正確性という意味で芳しくないと思います。むしろ多少関連する現象に説明の枠を広げて他の記事へリンクをはることで詳しい説明はそちらの記事に割り振ったほうが簡潔かつ必要十分に書く上で理にかなっています。さて最後の余事となりますがなぜそこまでNHKのことで頭がいっぱいなんですか。一般の人は頭(脳)で受信料を支払っているわけではありませんから何の脈絡も無くNHKは出してきません。野曽木明文さんは「前文からの一貫性には欠けますが、この文だけでみると一貫しており」とおっしゃっておられますが結局は本筋に無関係で脈絡がないとご自身でいっているだけです。ご自身の中ではNHKを持ち出すことは重要な意味があるのだとお考えなのかもしれませんがわたくしの、いえおそらくは何某かのテーマを設けて野曽木明文さんに話しかける全ての人にとっては、それこそ太陽フレア(=偶発的現象)の影響を疑いたくもなるような話の展開でしかありませんので一々NHKにチャンネルを切り替えないでください。--219.126.25.113 2014年10月21日 (火) 10:05 (UTC)
また署名お忘れですか。それはさておきましてわたくしの申し上げました「環の端無きが如し」に関連して野曽木明文さんは「私が譲歩している件」とおっしゃられていますが具体的にどこのことですか。わたくしは野曽木明文さんが主張の要点として記事に書き込もうとしている事柄が独自研究にあたるのでやめてほしいと申しておりますが、野曽木明文さんは他の利用者の書き込まれた独自研究箇所の除去に同意しただけでご自身が重要だと考える独自研究を独自研究だと認めないばかりか新たに冒頭部に入れようとしている記述でご自身の独自研究を形を変えて復古させようとするなど話を巻き戻しておられます。そのようすを指して「環の端無きが如し」と評しましたが何か間違っていますか。また「感じ」で野曽木明文さんはなにか思い付かれたようであれこれもうしておられますが、わたくしが書いた話の要点をまるで見ていないということ以外は伝わってきません。わたくしの小学校時代の恩師は相手が小学生低学年ということであえて「定規」とはいわず「物差し」と表現されたのだとは思うのですが実はこの話には続きがありまして先生は教室の備品の1m定規を取り出して軽くしならせて曲面を測る用途には向かないことを実演なさったのですが、ここで少々強く曲げ過ぎたのか定規が真っ二つに折れてしまいましてこの先生の話したことは強くわたくしの記憶に残ることになったのですが、野曽木明文さんがなさっている情報の合成にもとづいて書き込む行為に受ける印象が、この小学校時代の先生が定規を折ってしまった瞬間に教室を支配した残念な雰囲気に重なるのです、「あーあやっちゃった」っていう残念な雰囲気に。それくらいあからさまに残念な行為なのです、ウィキペディアで独自研究を記事に書き込むだけではなくそれを強引に正当化しようとすることは。そういう残念な雰囲気をわたくしは野曽木明文さんに感じ取ったからこそ批判しているんですよ、やめてくださいと。それを「感じ」という単語だけ切り出して「妙な言い掛かり」と言われておりますが、独自研究を書き込まないでくださいということのどこが「妙」ですか。そのような相手からの批判を言いがかりだと決め付ける発想が理性的とはいえず受け入れられません。なお物差しの話で野曽木明文さんは巻尺を持ち出してバストやヒップを測るようなことを言い出されていますが、趣旨が飛躍している上になにか生理的にぞっとする印象を受けましたのでやめてください。おふぐりについては最初の印象では犬猫の後ろにぽっと飛び出した、見ようによっては滑稽なもののイメージがあったのですが、よく見たら野曽木明文さんの独自研究の再発でしかありませんでしたので滑稽とかどうとかいうのは一切吹き飛んでしまい野曽木明文さんが他人が希望しないのに見せて回ろうとしているものそのものでしかありませんでしたので、印象が路地裏コート男の「それ」と大差ないものになってしまいました。今回は「それ」を「そうした行為を繰り返す者を指して」と書き換えられているのですが、緑に塗っても赤く塗っても「それ」は「それ」でしかないのと同じで、誰が「そうした行為を繰り返す者を指して出歯亀と呼び習わしていた」のか不明確で「繰り返す」という言葉がどこから生えてきたのかと悩ましく思いますし、また文章としては過去にそういうこともあったとも読めますがいつの時点か明瞭ではなく、そこで不明瞭に書くよりもわたくしの改定案で本文中の事件後の流行語として転用されていたなどの文脈で言及したほうが正確性が向上すると考えます。なにより冒頭部を必要以上に長くする必要はどこにもないどころかWikipedia:スタイルマニュアル (導入部)で説明されているように読みやすい記事とするためには邪魔なのですから。それと「代名詞的」は説明を混乱させるだけですから意味がないのではありませんか。「四角い部屋を丸く掃く」の件は「誰にでもあるよね憶え違い」という話ですが、大抵の人にとってはその類の間違いは他人と話していてどうも話がかみ合わないなという違和感を感じ取って尋ね返したり、あるいは直接対話相手に訂正されたり、注意深い物書きだと知っているつもりの言葉でも確認しようと辞書を紐解いていて間違いに気付くのではありますが、いずれにしても常識的な価値観の持ち主であれば間違い正すに早きに逸することなしとしてすぐさま誤りは訂正するのだし、そこを「間違えているかもしれない」とか思っていながら間違いを正そうとしない人を前提とすることは無意味でしょう。そのような仮定の話を前提として理屈を組み立てるのも意味がありません。「群馬だけかもしくは上毛新聞だけの局所的なものである可能性が非常に濃厚」とのことですが公娼廃止を日本で最初に決定したとはいえ「流行語として好色な行為や売春に絡んで用いられることもあった」という事柄で「(用いられることが)在ったか無かったか」の「在った」ことを示す史料としては過不足無く必要十分だと思います。とはいっても無くても説明は通りますから文末参考文献程度の扱いでも問題がないのは先に述べましたとおりですが。「武力革命」に関しては暴力革命とするなら文章に組み込んでみましょう。ただ置き換えは説明のクラスター構造とでも申しましょうか、必要な知識のある記事に案内するという趣旨からすると中立性を損なう面が出ますので賛成できません。それを踏まえたうえでの改定案は以下の通り。
以上でいかがでしょうか。さてやもはや恒例となってしまった余事についてですが、どうしてそこまでNHKが大好きなのですか。円満丸掃きは野曽木明文さんが想像なさった事柄ではありませんか。洒落のきいたお笑い芸人なら結婚式にお呼ばれして「さてずぼらなことを俗に四角い部屋を丸く掃くなどと申しますが○子さんも△男さんも気のつく方ですからきっと隅々までお掃除なさることかと思いますものの私はむしろ丸く掃いて余った時間で夫婦円満のために励まれることを提案いたします」とすこし品のない笑いを取るところではないですかね、いえ本当に余事です。それはさておいてもNHKは野曽木明文さんが憶え違いしたことまで責任をとる必要などどこにもありませんし、見ることも義務ではありません。だのに見てもいない番組はきっとひどい内容に違いないと決め付けて批判するのは、いや本当に余事です。--219.126.26.115 2014年10月22日 (水) 11:47 (UTC)
利用者:219.126.xx.yyy さんとの対話 (その8)これは失礼致しました。仰るとおり「筆記しない限り」という件は野曽木明文さんの案から消えていましたね、ただし文末にわたくしが「おふぐりのように文末にぶら下がって」いると表現した独自研究が増えているのではありますけれども。何の脈絡も無く文明の進歩と下手ラグビーの類似性論という独自研究が綴られたところで速読の癖が出て「パチッ」っとスイッチを切るように読み飛ばしてしまっていました。脈絡のない話でご自身の発言を散らかしてしまうのは野曽木明文さんの本能のようですが、どんなに本題に無関係な文章でも読み飛ばし過ぎてはいけませんでしたね、失礼致しました。今後はもう少し注意深く読み飛ばそうと思います。とはいえ野曽木明文さんの言われる「冒頭のガイダンス部分」には独自研究がいきなり混入されてしまっていることは外しようのない事実なのですからわたくしの述べました「あれはいけません」という評価からなんら変わっておりません。また「でしゃばる」を出歯亀の含意に盛り込もうと復古してくることもふくめての堂々巡りの様相を呈していると捉えてことはお間違えのなきようお願いします。なにより「高島俊男など」が指摘しているとしているのは出典不明ながら原文の通りなのであれば亀太郎がでしゃばりだったか出っ歯だったのかどうかを論じているのみで、事件の後に起こった流行語としての用法には一切言及されていないのですから、野曽木明文さんのいう一足飛びに一般論化された「出歯亀はその常習性から「何に対しても出張る、首を突っ込む」と言う意味は含意されると思う」との主張の補強にはまったくなっておりません。わたくしの恩師のエピソードを引き合いに出したのも野曽木明文さんの出典元を尊重せずに平気で自分の主張に合成してしまう、つまり本来であれば出典元としてその内容という変更すべきではない事柄を曲げてしまう態度を評したものでしかありません。またご自身が独自研究をしないようにと批判されているのに「他の偉い人もそういうことをきっとやってるんだろうから」というのは反証になっていません。よくて万引きを咎められた小学生がしている言い訳をしているのと同水準の発言です。なお「「~既成道徳に反する行為にも広く用いられるようになった」でいったん区切って」と仰られておりますが、わたくしは繰り返し申し上げているのですけれども「現代の用法でもなんでもない流行語として使われた当時の転用」を冒頭に不明瞭に書き綴ることこそが不適切です。それらはWikipedia:スタイルマニュアル (導入部)の考え方もありますから冒頭に書くべきではないということです。これはわたくしの説明もわかりにくかったことについては申し訳なかったのですが、わかりやすくいうと「野曽木明文さんのかかれた冒頭のガイダンス部分は必要ではありません」ということに尽きます。これは後述すれば良い事柄を冒頭に不明瞭に書き綴られたとしても説明として読みづらいだけではなく、さりとてそれが記事の主題と言うわけでもないのですし、まして後述で一連の説明という形でまとめたほうが百科事典の説明としてまとまることがらです。ある視点を強調するために記述者の思惑で冒頭に書くことでもないのですし、それを無理に書き込めば不明瞭さが「特定の視点に誘導的」という意味で中立性を、ウィキペディアがWikipedia:中立的な観点で説明し全てのウィキペディア参加者と全ての記事に求めている理念を損なうのですから。なお現在までの案を集約した改稿案は以下の通り。
以上です。なおわたくしの申し上げました「「間違えているかもしれない」とか思っていながら間違いを正そうとしない人を前提とするのは無意味」にたいして野曽木明文さんが書かれていることですが、まったく反証になっておりませんのであらためて「無意味な書き込みでご自身の発言をいくら水増ししてもラーメンのスープにお冷を注ぎ込むような結果にしかならない」ことをのべさせていただきます。意味が分らなければ実際に行列のできるラーメン店で出来立てのラーメンに傍らのお冷をコップ一杯注ぎ込んでください、怒った店主につまみ出されるかもしれませんが。最後に余事ですが、いや本当に余事です。今回の件にNHKは関係ありませんし何の比喩にもなっていません。類似性があるとすれば、いや本当に余事です。--219.126.26.115 2014年10月23日 (木) 10:10 (UTC)
わたくしの改定案に「「出向く」に掛け「出歯る」という」とする箇所があったことや「あなたの記述部分がどこに挿入なさるものか当方は関知しておりません」という野曽木明文さんの発言ですが、いまさらそこですか。もとよりこのページで全文から「出向く」を抜き出してみれば分るとおり「出向く」を最初に使った(2014年10月10日18:41 (UTC))のは野曽木明文さんご自身なのではありますが、わたくしもその後に野曽木明文さんの発言引用箇所を除いてわたくし自身の表現上では一貫する形で「出向く」を使って(2014年10月10日22:43 (UTC))おり以後わたくしの提示した改定案では前述に至るまで変化がなかった箇所です。またどこに「挿入するか」ですが、わたくしは最初に改定案を提示した時点(2014年10月18日10:07 (UTC))で「現行記事にある語源にある第2節を差し替える形」と明確に述べております。ゆえにいまさらそんなことを言い出す野曽木明文さんはわたくしの発言を読んでいなかったと理解します。それなら何の脈絡もないことを書き倒してしまうのも無理ありませんね。ところで今回はご自身の「冒頭ガイダンス部分」に加えわたくしの改定案にまで書き換えを行われておられますが、これではとても使えません。「このページは出歯亀について記述するページであり、出歯亀事件について記述するページではありませんのに、あなたの改稿案は総じて出歯亀事件優先で書かれています。」とおっしゃられているのですが、まず「出歯亀」という語の発生自体が事件と不可分で、語の来歴に言及しようと思ったら事件とそれの周辺事象に言及しなければなりません。そしてそれらを踏まえたうえで語の時代の変遷を説明した内容を「出歯亀事件優先で書かれています」とおっしゃられていますが、それは認識違いというもので事件を出発点とした語の説明でしかありません。その上で、野曽木明文さんが推進している事件と語を殊更切り離して流行当時の含意の変化で現在に生き残っていない転用だけをことさら大きく取り沙汰す文章は語の説明を混乱させることが出来ます。しかし百科事典として混乱させた説明というのはまったく必要ありません。「この語は使用者によって若干の意味の広がりを持つ。」という箇所もクオリアなどという一般に馴染みの薄い事柄を持ち出すまでもなく単語のほとんどは使用者によっては若干の広がりをもつもので、これを必要以上に強調して不明瞭な説明で特定の視点に誘導する必要はありません。このためわたくしはあらためて「野曽木明文さんのかかれた冒頭のガイダンス部分は必要ではありません」と共に「それに付属させる形で改変されたわたくしの改定案は余計な独自研究が混入され説明の妥当性を損なっています」と申し上げます。理由は冒頭ガイダンス部分では「出歯る」という過去の関連語(ほぼ廃語)を冒頭で過剰に取り沙汰してしまう上に、野曽木明文さんの改変版改定案では「出歯亀という言葉自体にでしゃばりの意味が含意されたかどうかも不明」などと出所さえ不明で個人的主張や独自研究に過ぎないことを混入されておられるからです。ところでわたくしがここに至るまで意図的に改定案で「出歯る」の元を「出向く」と表現したのは、ことあるごとに野曽木明文さんが「出張る」と「でしゃばる」を同一視ないし混同している面があったためにこれを注意深く迂回する上でそのような使い分けを行っておりました。ただここに至って改めて辞書を紐といてみますと、広辞苑でも大辞林でも「出張る」に「でしゃばる」の含意はまったくなく、「でっぱる」を第一義として第二義に「(仕事などで)出張する(出向く)」という形になっています。つまり「出張る」に「でしゃばる」を含めてしまうのは野曽木明文さんの前述「丸掃き」と同種の事柄でしかないということです。これに関連いたしましてはWeblioで「でばる」を検索しましたところ前述いたしました大辞林のほか皓星社の『日本隠語大辞典』にある「出歯る」の全文が出てまいりましたので、この両者を参考にわたくしの改定案を再修正したものを以下に提示いたします。
以上ですが、これは野曽木明文さんの「冒頭ガイダンス部分」を必要とせず本文中概要部分の一部記述を置換するものであり、また日本隠語大辞典(皓星社)や現行国語辞典の内容を再集約したものです。最後に余事ですが、いや本当に余事です。いくら頭の中がそういう好色な夢想でいっぱいだとしてもこのようなところにこぼさないでください、いや本当に余事です。--219.126.16.118 2014年10月24日 (金) 10:30 (UTC)
まず最初に一点だけ確認させて頂いてよろしいですか。野曽木明文さん、あなたは人工無脳やチャットボットの類ではありませんか。どうにもわたくしは野曽木明文さんのその脈絡のない話の持って行き方が、パソコン上で動いていて相手の発言の単語に反応して何かあらかじめ用意された文例に単語を挿入して返してくる人工無脳の少し進歩したもののように感じ始めています。さてそれはさておきまして「出向く」や「出張る」/「出歯る」に関してなのですが最初に野曽木明文さんが「出向く」についてこのページで言及した際に「出歯亀役人」という語を使って批判的な表現を並べたりされているほか「ちょこちょこ出向くことも典型的な出張り(出歯り)-中略-野々村元兵庫県議の出張は出張り(出歯り)とは言わないかもしれませんね。」とも発言しておられ、どうみても「出向く」/「出張る」/「出歯る」を完全に同列に並べてしまっておられます。その一方で「「出張る」に「でしゃばる」の意味はないか、あっても薄いだろう」とまで言われているのではありますが、すでにご自身が前段階でそれらを混ぜ返しておきながら語の解釈の段階で別扱いするというのは意味不明で殊更野曽木明文さんがすでに廃語となっているような用法を事実を誇張して冒頭に書き加えようとしている「ガイダンス部分」の強引な理由付けでしかございません。最初から混ぜないで「出歯る」という語の流行当時に「流行語を乱用するの風ある学生間にては、必ずしも性慾の遂行を条件とせず、只斯く云つて笑語となすのみ。」(日本隠語大辞典(皓星社)Weblio「でばる」より原文まま)と乱用されたことだけを出典に忠実に表現すればいいだけの話です。そしてその「出典に忠実に」なろうとするとわたくしの2014年10月24日10:30 (UTC)に提示した改定案になります。「なおさら出歯亀事件の説明に終始してしまいます。」と野曽木明文さんが繰り返し述べられていることですがやはり認識がおかしいですね。「出歯亀」という語を説明しようとすると、事件と不可分なのだから事件やその後の社会現象に言及するほかないでしょう。切り離せば説明が不明瞭にしかならず、そこに廃語として控えめに言っても現代ではあまり主要とはいえない用法を現代の語の説明として過剰に取り沙汰せば情報の合成(独自研究)、そして「たまたまそういう用法が現在のメディア上に一二点見つかった」というのをことさら持ち上げれば情報の合成だけではなく演説としてことさら問題視されます。もっとも野曽木明文さんは出典元を尊重しない方ですから「今風芸者が接待するパソナの迎賓館にも出歯ッたとする夕刊紙報道」とする発言も具体性を持たないだけにどの程度事実かも疑わしい限りなのですが。少なくともわたくしが「日本隠語大辞典(皓星社)Weblio「でばる」」を確認した限りでは「出歯亀は出歯亀事件の要素となった覗き趣味的な行為、禁足慣行を侵す行為、暴力行為など、性欲の遂行を条件としない既成道徳に反する行為に広く用いられるようになった。(日本隠語大辞典(皓星社)」と野曽木明文さんが2014年10月18日18:46 (UTC)の発言で書かれた文言の「禁足慣行を侵す行為」あたりが日本隠語大辞典に見当たりませんでしたし「性欲の遂行を条件としない既成道徳に反する行為に広く用いられ」とする正当性もなく、おそらくは「日本国語大辞典に一部典拠可能」と書いてあることから日本国語大辞典の内容を合成してしまった可能性もあるとはいえ、それでは独自研究にしかなりませんからわたくしの改定案の側を出典元に忠実にしたまでなのです。このあたりは横着せず野曽木明文さんが出典と称していた文献をきちんと確認しておけば余計な混乱は避けられた可能性もありますが、ままそのあたりはわたくしとて一介の社会人でありますから無制限にウィキペディアに時間を取られるわけにもいかないので痛し痒しでございます。なおわたくしの改定案に野曽木明文さんは「日本語になっていないのではないでしょうか。少なくともかなり無理が出てきています。」と言われていますが、これは単にご自身が日本隠語大辞典を出典にしたと主張されていた文章が置き換えられたために反発しただけではないのですか。野曽木明文さんはどう「日本語になっていない」のか具体的な説明も無くこのような文言を投げつけておられるのですが、具体性も無いので合理性も感じられません。「だからこそ冒頭ガイダンスに要約すべきものは入れるべきなのです。」という件も論理が繋がっておりません。「これ以上は譲れないところまできております。」とのことですが、それは野曽木明文さんが明確な目的意識、すなわちご自身の主張を記事冒頭に挿入したいという欲求の上で譲れないと言うだけではありませんか。そしてウィキペディアはそのような至極個人的な欲求を満たす場ではなく、ただ信頼できる百科事典として独自研究を除いた、検証可能性を満たすために出典情報の明示的な、もちろん出典元に無いような脚色を加えることも無く、中立的で分りやすい記事を目指すだけです。わたくしは 2014年10月5日04:54 (UTC)の時点で野曽木明文さんの書き込む態度を「がらくた箱やそうではなく注意深く整理整頓して説明をしまってある箱にご自身のお気に入りの玩具を目立つところに放り込んだだけであるようにお見受けします。」と指摘いたしました。しかし現在の状況をみますと野曽木明文さんの行動の問題点がいまだ改まっていないと考えざるをえません。なお冒頭ガイダンスを否定する理由についてはすでに申し上げたとおりですが、「高橋説の伏線」は元より氏の発言の趣旨が出典元情報が無いので検証可能性を満たせずある種の誇張など独自研究が含まれる可能性が払拭できず、それを野曽木明文さんがご自身の解釈を加えてしまったらただの独自研究、加えて「出張る」の用例を事件前からあったからと「出張る」と「出歯る」を綯い交ぜに書いてしまえば客観的合理性は保持されずトンデモ説にしかならないからです。ゆえに「高橋説」は氏と切り離して扱うべきではありません。わたくしはこの高島俊男氏の主張に関しては独自研究を回避するため、語源の枠内でわたくしの改定案文章の後に要出典タグを付与して「氏がこのようなことを主張している」という以上の扱いをするつもりはないのです。すくなくとも「出張る」は日本語の語彙として独立しており、隠語大辞典によれば「出歯る」は単に「出歯亀」を動詞に転用した語なのですから、事件前に「出張る」という語の用例が存在していようといなかろうと関係ないのです。最後に余事となりますが、いや本当に余事です。--219.126.18.218 2014年10月25日 (土) 11:58 (UTC)
まず最初に申し上げますが、わたくしが野曽木明文さんをチャットボットのような「人間のふりをして会話をするプログラム」ではないかと疑ったのは当てこすりなどではなく客観的に見て正常な人間であればまず考えられないほど破綻した応答内容から推測したものです。それを補強してしまうのが今回の野曽木明文さんの冒頭での発言「文末の「余事」が文全体に掛かっているように思えましたので、私の主張を概ね受け入れて頂いたものと推察いたします。」です。わたくしは野曽木明文さんがチャットボットでなければ眠気に抗い過ぎて変性意識に陥り他人には見えないというより見えてしまったら人としてまずいものを垣間見ている最中ではないかと思いました。少々わたくしごとなのではありますが、わたくしはかなり血圧が低く朝が苦手であるために休日などは目覚めてからたっぷり1時間近くまどろんでいたりもするものの、床の中でタブレットで拝見した今日の野曽木明文さんの書き込み内容はあまりに滅茶苦茶な出だしで始まっていましたので頭に血が上って30秒ほどまどろむ時間が短くなってしまった(意訳「誤差の範疇」)思いです。もっともその早くなった起床時間は朝風呂の延長に消費されましたけれども。さて余計なわたくしごとはさておきましても件の出だし「私の主張を概ね受け入れて頂いたものと推察いたします。」は野曽木明文さんの正気を疑わせるに足るものでしかありません。わたくしは一貫して野曽木明文さんが主張する、そして2014年10月25日17:24 (UTC)でも多少手を加えたかもしれないがその趣旨として大差ない冒頭ガイダンス部分は必要ないと申し上げております。大事なことなので強調しましたが、わたくしはその理由を述べましたし、撤回もしていません。その冒頭ガイダンス部分に相当する事柄で出典先に確認できたり他の資料からそれほど大意として間違っていないと推察される内容はわたくしの改定案に組み入れもしています。そのあたり野曽木明文さんは「私は譲歩すべきは譲歩し、修正すべきは修正してきており、これ以上は譲れないところまできております。」などとおっしゃられておられますが、むしろわたくしの側が野曽木明文さんの主張や独自研究など到底ウィキペディアに、もとより百科事典として必要性のない部分を取り除くブラッシュアップの労を投じているのであり、それこそ野曽木明文さんのいう「これ以上は譲れない」などと言い放つ態度はおこがましい上に厚顔にも程があると思う次第なのです。「野々村元兵庫県議の出張は出張り(出歯り)とは言わないかもしれませんね。」の件は最初に拝見した時点でカラ出張と読めましたよ。もしくは「職務や職位と関係のない集まりにまでちょこちょこ出向くことも典型的な出張り(出歯り)です。」に掛け野曽木明文さんの主張していた独自研究「でしゃばり出張」的なニュアンスで使われた「出歯り」を前提として、「職務や職位と関係のない集まりにまでちょこちょこ出向いた」わけではないという趣旨だったのではありませんか。それをいまさらそんな言い逃れをしてしまうとは考えなしにも程があります。道理が通らないのはもちろんですが、意味が通りません、そのような解釈では。しかしその不等号記号はどういう意味ですか、意味不明表記です。論理式に使われる論理演算記号で表記してくださればわたくしも理解が出来るかもしれません。それを抜きに「「出張る」<「出歯る」だったのは出歯亀事件後の短期間だけで、出歯るは廃語となっていったのでしょう。これは独自研究的な見方です。」と独自研究視点で語られておられますが、そのような実際には意味を成さない独自研究などに拠らなくても日本隠語大辞典および大辞林のWeblio版だけを典拠に「出歯る」は「出張る(出張する/出向く)」とは無関係に出歯亀の転用語だとすればまったく過不足無く出歯亀という言葉の拡張概念に対して説明可能です。件の紀要では拡張概念として出張など出向くニュアンスでも使われていなかったわけではありませんが、件の紀要を外すべきだと主張したのはほかならぬ野曽木明文さんご自身なのですから、それをいまさらご自身の弁護のために持ち出してくるのは「かゆい」ですね(意訳「虫刺され」)。日本語になっていないという野曽木明文さんの具体的だとご自身が考える指摘が「「この当時の「出歯る」という動詞に転じた語」だけでみても」ですか。それは文章の途中で、その件が掛かる文章が完全に抜けているではありませんか。脚注が挿入されていたのでそこで野曽木明文さんの意識が断絶してしまったのですね、文章を読む力がないというのは不憫なことです。その文のうちにある「この」が掛かるのは、脚注を挟んで前となる森鴎外が『ヰタ・セクスアリス』で言及した「出歯る」という流行語なのです。しかもわたくしは少々文章がくどくなることに敢えて目をつぶって「「出歯る」という動詞に転じた語」と明確に再度言及しております。また「語」については、この文脈では「出歯る」という単語以外になにがあるというのですか。野曽木明文さんに文章を理解する力が無いのは今更なのでしかたないとはしても、そこに何が書いてあるかを読み取ろうともせずに一方的に相手を批判する材料に持ち出してくるのは人間としてあんまりです。「氏がこのようなことを主張している」という事柄の扱いに関しては、これを氏の主張から切り離して扱うべきではないことに同意なさったと解釈いたします。しかし話が前後することとなりますが、あいかわらず野曽木明文さんはご自身の「冒頭ガイダンス部分」を弄っておられますが、これはやはり冒頭に挿入するに当たらないでしょう。語の変化の経緯に言及しているのですが、これでは依然として過去に消えた用法を現用の、それもある程度は主だったものだと言っているようにしか取れません。これは事の大小を抜きにしてご自身が注視する事柄を「針小棒大に」取り上げてしまっているだけです。冒頭で不明瞭に扱うことが問題だと申し上げましたが、この2014年10月25日17:24 (UTC)版冒頭ガイダンス部分でも不明瞭さはまるで払拭されておらず、筆記動詞などという独自語まで発明挿入されてしまっておられます。独自語の発表は独自研究の中でも格段にまずいのです。「この語は使用者によって若干の意味の広がりを持つ。」などという一文で始まるあの件は、針小棒大に野曽木明文さんが重要視する事柄をクローズアップしているだけで中立性も損なうのですからやめましょう。余計な脚色を交えず書くなら、やはりわたくしの改定案で時代的な変化の中に組み入れるのがもっとも合理的です。なお余事に関してですが、野曽木明文さん、あなたはミルクを床にこぼすなといわれて、テーブルの上に並んだ料理全てに撒き散らす馬鹿者ですか。それほどの暴挙です。コーヒーか紅茶に入ったのはともかくとしてもトーストもポーチドエッグもオレンジジュースもコップに立てられた生け花もテーブルクロスもミルクまみれの朝食の、いわんや昼食や夕食のミルクまみれになっている風景なんていうものをわたくしは見たくありません。--219.126.18.218 2014年10月26日 (日) 04:42 (UTC) さてわたくしは本日、少々の片手間に最寄の図書館にて日本国語大辞典(第一版/第二版)の内容を確認いたしました。少なくとも日本国語大辞典第二版を確認した限りでは以下に示す改定案のようになりました。いくつかの辞書を参照するならそのどの箇所がどの辞書に拠っているかを明示しながら書くことが妥当です。
さてきちんと読んで頂ければお判りになるとおり、野曽木明文さんの冒頭ガイダンス部分では暴力行為や既成道徳に反する行為全般が「出歯る」や「出歯亀主義」に掛かり広く用いられているかのように表現されていますが、わたくしが確認した限りではそういう表現ではありませんでしたから、そのあたりは「勝手に拡張された野曽木明文さんの独自研究」と判断いたします。冒頭箇所などというあまり詳しく書きようもないような箇所に前後の説明を端折ってご自身の注視する事柄を殊更過大に書いてしまい挙句にご自身の主張との区別が付かなくなって混入してしまったのがあの冒頭ガイダンス部分だと思いますので、端折った挙句に出典元から乖離してしまっては「虚偽情報の記載」とみなされればウィキペディアに参加することがプロジェクトへの妨害と取られ投稿ブロックをされても文句は言えないことをよくよく肝に銘じるべきかと存じます。--219.126.18.218 2014年10月26日 (日) 10:17 (UTC)
利用者:219.126.xx.yyy さんとの対話 (その9)論理演算記号はご存知ではないようですから無理に表記しなくて結構ですし、ご自身に向けられた批判を公僕の不祥事に話をそらしてしまうのも一種の病気だと思えばとわたくし個人は気にしません、その姿勢だけでもウィキペディアに参加するのは無理でしょうけど。さてそのような余事はさておいて野曽木明文さんの「「出張る」と「出歯る」の意味は重なる部分が多い。」ですが、これはいけません。重なる部分が多いと見る文献は出ておりませんし、またすでに確認された文献にそのような記述は見当たりません。例えば日本国語大辞典第二版第九巻702ページにある「出張る」の節を見ますと、第一義に広辞苑と同じ「でっぱる」(原文まま)が来て、第二義には「出かけて行って物事をする」(原文まま)とありこれも広辞苑とおおむね同じ、第三義には「支店、出張所を設ける」(原文まま)とあります。どうみても「出歯る」と重なりません。しかしわたくしの「どうみても「出向く」/「出張る」/「出歯る」を完全に同列に並べてしまっておられます。」という指摘に対して野曽木明文さんは「同列にはみていないから」と返されたのにもう混ぜ返しですか。完全に同一視していないまでも各々の語の意味を混交し過ぎております。「例の紀要からも分かるとおり出歯るの方の意味が出張るを飲み込むほどに広がった」と個人的に解釈するのは個人の勝手かもしれませんが、あれが野曽木明文さんが 2014年10月22日03:32に主張したように群馬県の公娼廃止に絡む「群馬だけかもしくは上毛新聞だけの局所的なものである可能性が非常に濃厚」な事柄を扱った文献だとしたら、これほどおかしなことはありませんね。「梯子を外される」という言い回しはありますが、野曽木明文さんがなさったのはまるで自分で立て掛けられた梯子を外してから屋根の上に登るようなもので、順序も道理も滅茶苦茶です。それをいったん脇に置いても紀要中でも例外視しているようなたった一つの特殊な用例を持って「飲み込むほどに」というのは誇張し過ぎでメダカを鯨と言うようなものではありませんか。「無関係に出現したとは、どの典拠にもないのですよ」とのことですが、それは同時に野曽木明文さんにとって「関係しているという明確な典拠を提示してください」というのと同じことです。しかし示せていない。もうこれは考えなしの放言です。まるでものを考えて文章を書くことが出来ない野曽木明文さんは、記事に関わらないほうがいいという結論でよろしいですね。すくなくともわたくしのほうはすでに示した文献で関係性が示されていないことを確認済みなのですから。しかも「あなたが煩くいうので筆記動詞は苦し紛れに出しただけです」とは、もう何を言っているのかと呆れ果てんばかりの放言で、独自研究などせず典拠に忠実に記事を書くべきだと批判されたのに返す言葉が苦し紛れに自作語出しましたなどというに至っては、分別どころか理性も欠いた行動です。ご自身の書き込もうとしている冒頭ガイダンスが殊更端折り過ぎたうえに余計な文言を盛り込んだせいで正確性も信憑性も損なって批判されているにもかかわらず「あなたの記述のシンプル化が見込めない」ことをご自身の「この語は使用者によって若干の意味の広がりを持つ」などという独自研究を混ぜ込むための枕を据えた文章を記事冒頭に散らかす方便とする態度も、それがウィキペディアの理念に相容れない主張目的という目的外利用でしか説明がつきません。説明の形として冒頭部は簡潔にすべきなのはすでに述べましたが、本文ではきちんとした関係性を説明するために得てして相応の量になるものなのです、誤解を回避するためにも。それはさておき起承転結ですか、お話作ってるんじゃないんですよ我々(ウィキペディア参加者)は。作っているのは百科事典であり各々の項の表題に書かれた物事の過不足無く信憑性のある説明なのです。それも失念なさっているのではないのですか。なおもいえばかくも論点が複数並行して存在するのも元を質せば野曽木明文さんが放埓に断片的なまとまりに欠く放言を連ねているからにほかなりません、たったそれだけのことです。またわたくしが辞書から事実その通りのことしか書かれていない事柄を抜き出した文章を「これはあなたの得手勝手な解釈」とまでおっしゃっておられますが、それに連ねて無関係な事象を引き合いに並べても説明にもなりません。さらに脈絡無く「また、何にでも出張るという修飾表現なしに、出歯亀という言葉自体にでしゃばりの意味が含意されたかどうかも不明となっている。」などという自らを不明だといっている典拠も不明な独自研究でどんなバランスを取ろうというのですか。どうぞ野曽木明文さんはそのウィキペディア上では置き場所の見つからない自称カウンターウェイトを抱えてインターネットの海に小さなボート代わりのブログで漕ぎ出していてください。そのまま沈んでしまっても誰にも迷惑はかかりません。--219.126.18.218 2014年10月26日 (日) 15:17 (UTC) 本日初等中等教育局に書き込まれた内容はWikipedia:信頼できる情報源に依っていません。また犯人の主張だけをとりざたするのも中立的でもないし特筆すべきという根拠もありませんでしたから消しておきましたよ。--219.126.18.218 2014年10月26日 (日) 22:00 (UTC)
まず一点だけよろしいですか。ウィキペディアへの参加は自然権のように誰彼にでも発生する権利ではありません。さて「1行50字ベースで2行半の加筆をしようとしているだけ」とのことですが、たとえ数文字でもウィキペディアの理念に反するような事柄を書き込めば、それは批判を受ける理由に十分です。一方で長大な文章を書こうとも、ウィキペディアの理念に反しないなら誰も批判しにどころか、それが過不足無くまとめられているなら他者から賞賛されたりするのですが。いまさら繰り返しになりますが、野曽木明文さん、あなたのそのご自身が重要視する事柄を殊更過大に取り上げようとする姿勢、そしてそれを表現するために自作語を挿入してしまって他から指摘されるまで意識すら出来ない認識、そして一番まずいのが自分が重視する事柄を過大にクローズアップするためなら出典元から逸脱する態度(価値観)、それらはウィキペディアのほかの記事にかかわっている数多くの参加者にとって迷惑でしかありません。「ブロック権」などといっておられるのですが、それがコンピュータの管理権限としてのそれなら、わたくしはウィキペディアの投稿ブロックシステムへのアクセス権は確かに持っておりません。しかしブロックも刑罰ではないのです。ただ迷惑な誰かがウィキペディアに書き込まないように技術的に編集を阻止する手段でしかないのです。ショッピングモールに下半身に何も着ないで入っていったら、男女を問わずそれがどんな金持ちや有名人でもつまみ出されるようなものですね。この場合につまみ出す側の人はモールを管理する警備会社の職員でなくてもいいように、ウィキペディアでウィキペディアの理念を無視して活動する利用者を批判したり、あるいはブロックされるよう申請することは利用者の誰にでもできることなのです。また「ここは個人やネトウヨのブログ・掲示板じゃないんですから、」と言うとき、それは同時にご自身にも向けるべき発言です。すくなくともここは野曽木明文さんのブログや演説台ではないのです。批判されているのに脅迫だと言うのも相手の発言を理解していないことを自らお認めになられているだけです。余禄ではありますが「そのうちお前のかあちゃんでべそとか言って来ないでくださいね。」などと仰られていますが、わたくしはどちらかというと野曽木明文さんのお母さんには同情いたしますね、「なんでこんなアホな子になっちゃったんだろう」とお母さんは嘆いていませんか。それはさておきまたもご自身に向けられた批判を他にそらそうと懸命ですね、まるで宿題忘れた児童が「宿題やったんだけどお化けが来て食べちゃったんだ」と抗弁するようなものです、大人が言ったらこれほど不気味な抗弁もありませんが。編集合戦に巻き込まれたなどという認識も異様です。WP:BLPの考え方の上で慎重に対応しなければならない事柄を十分でないものを出典として批判を試みただけではなく、ノートページでの議論中の事柄にご自身が過去に書き込んだ内容を反映させようとして余計な混乱を増大させただけでしょう。巻き込まれたんじゃなくて便乗して悪化させたといったところですね。もっともそれはわたくしに言うことですか、関係ないでしょう。もちろん平成25年台風第26号とアンパンマン関係もわたくしには関係の無いことですが、10年に一度レベルの台風とやなせたかし氏を比べるなどという変な比較はどうかと思いますよ、やなせたかし氏は10年に一度亡くなったりしていないのですし、勢力の強い台風が来たからといってNHKが24時間ノンストップで防災情報を流すわけでもないでしょう、当たり前に思考すればわかることを自分の価値観で変に曲げたのは野曽木明文さんです。結果的に野曽木明文さんがなさったのはウィキペディアの理念を無視して、さらに百科事典だということまで無視してご自身の注視する事柄を喧伝して回っただけ。「出張る」に関してですが第三義にあることがらをあれこれ解釈加えていらっしゃいますが、それは「包丁は肉を切る機能がある、だから殺人の道具だ」といっているのと同じで、誇大解釈に過ぎません。そんな独自研究やそれに基づいた書き込みはウィキペディアの記事には必要ないのです。「男性側の買春行為だけはなく、女性側の売春行為をも出歯亀行為としたのは上毛新聞ぐらいじゃないか」ということですが、それが何の反証になっていないのも分りませんか。わたくしはご自身で信憑性がないと主張したものをご自身の主張を補強するために使うのはどうかと言っているのです。もっともそれを抜きにしても「例の紀要からも分かるとおり出歯るの方の意味が出張るを飲み込むほどに広がった」という野曽木明文さんの主張する「飲み込んだ」という解釈が件の紀要にある、純粋に出向くのニュアンスで使われたと推察できる「出歯る」一例のみに拠っていて、それ以外は「出歯る」というのが男女の痴情うんぬん以前に完全に性的ニュアンスとなる売春行為に絡んでいる以上は、誇大解釈にも程があるというだけの話に過ぎないのですけれどもね。「私は文部科学省その他の施策には何ら関与しておりません。」については、もう完全に意味不明です。それはあの「天誅」うんぬんとか言って世の学歴コンプレックスを抱く人々のルサンチマンをわずかに満たしただけのあの事件に関する書き込みに関係することですか。もっともわたくしには関係の無いことですが。「この語は使用者によって若干の意味の広がりを持つ」の件については、その箇所だけ見れば確かに野曽木明文さんが書き込む前から存在した既存文章ですね。もっとも野曽木明文さんはそれをさらに誇大解釈して広げられるだけ広げてしまった結果として独自研究に陥るのですけれども。ままこの既存文章ですが実のところ野曽木明文さんとは関係の無い話ですからそれ以前の箇所とあわせて精査していなかったのですが現在の出歯亀冒頭の書き出し自体がまずいですね。どうにも冗長です。これも修正してみましょう。
このようにすれば簡潔ですね。もちろん野曽木明文さんのいう冒頭ガイダンスは冗長なだけで現用の言葉にないものを持ってきた上に拡張された解釈(独自研究)まで付け足されているものでしかありませんから必要ではありません。なお高島説を「前振り」に使うのはおやめください、独自研究になります。逆に高島説の前振りは必要ないでしょう、出典が得られた時点で憶測を交えずに書き直せばいいだけの話です。改めて言いますが高島説にご自身の憶測を重ねるのはともかくとしても、それを記事に混ぜるのだけはおやめください。--219.126.29.88 2014年10月28日 (火) 09:04 (UTC)
相変わらずにご自身に向けられた批判をご自身のことと認識していませんね、もっともある種の病気だと思えば虫のさえずりもかくやといった感もあります。鑑賞する価値はないですけどね。それはさておきまして「ブロック権」うんぬん申されていたのにもうトーンダウンですか。詰まる所としてウィキペディアの理念に反し続けることがウィキペディアへ書き込む権限(コンピュータへのアクセス権)を損なうというのは今更説明する必要もないくらいに当然な事柄ではあるのですが、いまだに野曽木明文さんはご自身の案や態度の何が悪いのかおわかりではない様子なので野曽木明文さんが理解できるまでゆっくり何度でも言いますね。ご自身は方向修正をしたとか失礼しましたと言ったとか思われているようですが、それはとても異質で興味深い(意訳「解析する意欲をそそられる」)認識ですね。まず方向修正をしたと仰られている件ですが、わたくしは10月5日時点で記事に野曽木明文さんが重要視する事柄を大げさに取り上げること自体が問題だと申し上げています。そしてわたくしはその野曽木明文さんが冒頭に挿入を希望する文章に独自研究が混ぜ込まれているのがなおまずいという趣旨のことも申し上げました。このわたくしが最重要視する事柄に対して野曽木明文さんが何をしたといえば文言を多少変更したり自作語を放り込んでみたり主要ではない事柄を冒頭に持ち込むために辞書を誇大解釈してみたり。さすがに辞書的定義から外れた「でしゃばり」うんぬんという一般論化できないような事柄はなりを潜めたとはいえいまだに端々に顔を出しています。「失礼しましたとも言っているはず」につきましてはこのページで「失礼」という単語の前後だけ抽出してもご自身がわたくしの発言を見落としていたとか本題にまったく関係ない非著名個人のプライバシー暴露をし掛けて注意されとか忘れた書名をわたくしに補完され書名忘れを指摘され(直後に反発した)とか、本筋にあまり関係ないところだけですね、わたくしの発言したことを見落としている箇所では理由ともいえない決め付けで本題となるその趣旨をいきなり否定した上でご自身の主張を押し付けられておられますし。とにかく「此方がこれほど譲歩しているんだから其方も此方の主張を呑め」というのは意味を成さないのです。なぜならウィキペディアで行われているのは百科事典の記事を作ることであって、記事に必要なのは何をどう説明すべきかという明確なビジョンと過不足無い説明となる文章、そして独自研究や記述者の価値観などという読者にとっては無価値なものは取り除いていくことです。編集する側が考えるのはどう説明するかと言う全体の流れ、つまりどういう順序で説明すれば意味が一番伝えやすいかということであり、自分が重視するから前に持ってくるなどというのは下の下、主要ではない事柄を真っ先に並べ立てるのも無意味、その観念の幹に何があるかを明示しそこから枝葉を伸ばすのが筋と言うものでしょう。冒頭でいきなりわき道にそれる必要などないのです。わたくしが申し上げているのはそういうことなのです。もちろん物事を誇大解釈して過大に取り沙汰すような独自研究は是非にでも避けなければいけません。その意味で野曽木明文さんが何が何でも何はなくてもどうであっても何はともあれ記事冒頭に書き込むべきだと主張している事柄は冗長で邪魔な上に誇大解釈で実情から遊離しかかっている独自研究交じりでしかないため不要なのです。もちろん野曽木明文さんにはわからないですよね、だからわたくしは一足飛びに「あれはいりません」と端的に述べ続けているのです、過去再三理由を詳しく説明しても分って下さっていないものですから。さて野曽木明文さんの「カルト」うんぬんという中二病設定か事実なのか客観的に判断つけなくても本筋に影響しない話は読み飛ばすといたしまして、「宿題やったんだけどお化けが来て食べちゃったんだ」という箇所はわたくしの創作ではないことがらでして発達心理学を取り扱った書籍に出ていた一例だったかと記憶しております。趣旨としては児童はある発達段階において自己愛から空想をたくましくして荒唐無稽な言い訳をする時期があるとかなんとか、もっとも仔細な内容は忘れてしまいましたけどね。「あなたが言うから答えただけですよ。」ですか、怖いですね、オカルトですね、その野曽木明文さんの後ろに立っているのはわたくしではありませんよ(意訳「意味不明」)。包丁の話は野曽木明文さんがなさった誇大解釈の例え話なのにまだ理解できていませんね、誇大解釈は良くないということだけは憶えていてください。「私的には反証になっていると思います」はほとんど大槻教授の一頃有名になったあのせりふ「プラズマです」と同じ意味にとりました。誇大解釈の理由付けとしてもオカルトです。なお「出張る」に勝手に「よからぬ意味」を増やさないでください。わたくしがいくつかの辞書を確認した限りでもそういう位置付けはみあたらず、その「よからぬ意味」は野曽木明文さんの丸掃系思い込みだと判じます。「どの辞典類を見ても「出歯亀」は一般名詞を優先しています。」とのことですが、おやそうですか、わたくしが日本国語大辞典第二版第九巻を確認した限りではいの一番で「出っ歯の植木職人-後略」のような事件第一の書き出しですよ。第一版でも同じでした。しかもウィキペディアは百科事典ですから、WP:NOTDICDEFやWikipedia:ウィキペディアは辞書ではありませんに指摘されるとおり言葉の意味を第一にすればいい辞書ではなく「それがどんな事柄なのか」のほうが重視されるのです。そこを経緯を無視して語の変化で「それがある、これがある、あれがある」と不明瞭にやったところで物事の適切な説明とはいえません。言葉の意味だけを並べたければ辞書を書けばいいんです、百科事典とは方向性が違うことを認識してください。なお書き出しは野曽木明文さんとは関係ないことです、口を挟まないでください。ただ現状の文章が必要以上にもつれているので解いて梳いて整えたいという意向の表明です。「関連語が生じたかは本文の一番あとの方になるので、私の加筆編集部分も抄録として必要です。」とのことですが、それこそ無意味でしょう。後ろにあるから前に持ってこなくちゃいけないなんていう理由は成り立たず、主要でもないから文末に位置するものを主要な事柄の説明を差し置いて書くという発想が異様です。単にご自身が最重要視されているから先に出したいと言うだけでしょう、関連語なんて後でいいんですよ、後で。単行本一冊読まそうというわけでなし最後まで通読してどれほどの労力が必要なのですか。重複させたところで説明が前後するだけに混乱を招き無意味です。なお「出歯亀主義や出歯るなどの関連する語は姿を消している。」のあたりを野曽木明文さんは独自研究だ誇大解釈だとおっしゃられておりますが、辞書を資料として客観的事実を述べたまで、無いんです実際。「出歯亀主義」や「出歯る」のほか拡張された関連観念については先の隠語大辞典では注釈に「明治以降の隠語解説文献や辞典、関係記事などをオリジナルのまま収録している」(原文まま)とあるとおり流行当時の説明がそのままでしかありませんし、日本国語大辞典では1908年の新聞記事用例と1909年の『キタ・セクスアリス』に言及しているのみ。事実を事実として検証可能性のある情報を提示して説明する文章に対する発言としてはあまりにお粗末です。一方の野曽木明文さんが推進する冒頭ガイダンス部分は変に端折ったせいで原文から意味がはみ出しているだけではなく出歯亀主義の転用に関する説明が一足飛びに出歯亀に掛かるなど無用な混乱をきたしておられるのですが。「前振り」の言葉に反応してなにやら申されていますがこれも的を外しておられます、わたくしが述べた高島俊男氏の言ったことを氏から切り離すべきではないという野曽木明文さんも10月25日時点で「私もそれでいいと思いますよ」とすでに合意なさっていることに関連して前振りとして別枠で取り沙汰すことを否定しているだけですから。最後に、わたくしは野曽木明文さんに特に紳士の態度は求めはしませんが、合理的でご自身の価値観を挟まない客観的判断でものを思考されるというウィキペディア参加者であれば前提として備えている必要がある性質を身につけることを切に希望いたします。--219.126.24.80 2014年10月29日 (水) 11:20 (UTC)
今回はいつにも増して本筋からの脱線やこじ付けはぐらかしがひどいですね、ええかまいませんよその辺りのフォローは最初からわたくしの側から歩み寄って行っているのですから、もちろん野曽木明文さんがいうところの譲歩などとは違って現実的な意味で。さて冒頭の文部科学省とNHKへの摩り替えですが、その発言が意味を成すのは元となるのが野曽木明文さんへの批判であるわけですから、文部科学省とNHKが野曽木明文さんご自身でなければそれはわたくしの発言への返答にはなりません。しかし野曽木明文さんが文部科学省であると同時にHNKであることは物理的に不可能なのですから、ゆえにそれは野曽木明文さんがありえない妄想でご自身を文部科学省であると同時にNHKだと誤った自己認識をしているか、あるいは正常にものを考えられないので主語を認識できないために誰に対する批判なのか理解できないかといったところですかね。いずれにせよ必然的に野曽木明文さんはわたくしの発言には何も応えていないのですが。ままこのあたりは好意的に解釈して「午前3時じゃ一杯どころかボトル二三本引っ掛けてへべれけに酔ってても仕方ないよね」ということでまとめておきましょう、それでも他者への発言としては甚だ不適切ではありますが。「私はなかば諦めていますが。」とのことですが、それは必然的に「ウィキペディアへの参加も諦める」という意味になりますよ、わたくしは野曽木明文さんにウィキペディアに参加する上で欠くことのできない概念を出歯亀という記事での編集内容を具体例として指摘しているのですから、それが理解できないので諦めると来てしまっては、ウィキペディアに参加することも諦めて頂くほかありませんね。「方向修正」に関しては、やっぱり奇妙な自己認識をなさっておいでですね、依然としてさして重要とはいえない「すでに廃語となった関連語」という余事を過大に取り沙汰すために冒頭直下に書き入れようと躍起になっているのですから、しかも昨今では脈絡無く「だから入れるべき」と言い始めてしまっていて、それこそ「ヤダヤダヤダ、いうこと聞いてくんなきゃヤダ」の様相まで呈してます。関係不明なことを書くことがそんなに重要ですか、それも出典不明で本来の趣旨も不明なことをことさらクローズアップするために。そのあたりを切り離してしまったら、それこそ「ここにその一文を挿入すべきという根拠が不明」です、もっとも無くても説明が成立すると言うその一点のみを持って根拠は不明どころか皆無といっても語弊は無いのですけれども。結局はその「挿入すべき」という根拠は野曽木明文さんの価値観だけなのです、それも自己顕示欲のようなもので読者にとってはどうでもいいような。そのような無意味に硬直した態度を柔軟というのであれば、ウナギのごときは不定形に等しいですよ。時代劇やホームドラマは知ったことではありませんけどね、野曽木明文さんの今までの態度とあわせれば信憑性もありませんし。主要ではないとわたくしが指摘する関連語に関してですが、あいかわらず論理が繋がっていません、主となる語があってこその関連語なのに、しかも主題となる説明がまだなのに、それを差し置いて関連語に言及する、それどころか関連語が当時転用された経緯もまだなのに主題に関連語の転用された意味が掛かる、これのどこが逸脱していないと言えるのですか。こじつけにもなっておりません。それは野曽木明文さんのご自身の発言を反証になっているという認識についても同じ事で、二重に意味が無いと言われているご自身の発言をもっと意味の無い理由付けで肯定することはできません。なおご自身の持論は机の引き出しに今すぐ放り込んで鍵をかけその鍵を窓から投げ捨ててから発言願います、もしくはその鍵を飲み込んでくださってもかまいませんが。すくなくとも記事ではそのような持論は独自研究として扱いようがありませんから記事の扱いに関する議論でも必要ではありません。百科事典と語源辞典ももちろん違いますが、だからといって物事を順序を追って説明することを否定する理由にもなりませんね。出歯亀と池田亀太郎の関係は集合論で言えば「池田亀太郎は出歯亀の範疇に含まれる」ともいえるかもしれませんし「全ての出歯亀は池田亀太郎のみで構成されるわけではない」ともいえるかもしれません。しかし出歯亀の語が池田亀太郎の渾名から発したのは純然な事実ですしその内包する意味も池田亀太郎の行動に基づくのが事実、ならば池田亀太郎は出歯亀の概念を説明する上で避けられないものであるし、また出歯亀から池田亀太郎を抜き去るわけにもいきません。「どう説明するか」の順序なのです、合理的理由に基づいての。その上で出歯亀全般の意味の上に池田亀太郎の存在が掛かるのであるし、説明はまず前提から入るのが筋なのですから前提となる池田亀太郎が最初に出るのはまったく理にかなっていますよ、少なくとも前提を欠いて関連語を冒頭に並べるよりは。それに何より件の記事は全体を通読するにしてもそれほどの量ではありません。さすがにどこかの掲示板で朝から晩まで短い発言で応酬するばかりで書籍などで長い文章を読みなれていない側からすれば1KBを超える文章は「長文」といえるかもしれませんが、そのような特殊例はこのさい無視してもいいでしょう、百科事典の記事として説明を前後させずに一連のものとして書いた結果としてそのくらいの分量になるのであれば。逆に野曽木明文さんが主張するような端折ったせいでいくらでも勘違いできるような不明瞭な文章を冒頭に置いてしまったら、それこそ1KBで文章を理解する知性がオーバーフローを起こしてしまうような連中が冒頭の不完全な説明だけ読んで分ったような気になって方々で桐壺源氏よりも悲惨な恥ずかしい勘違いを披露するようになりますよ、丸掃的な。しかもその冒頭ガイダンスと称するものへ割り振ったものを本文から除いてしまったら正しい理解をしようとすると文章の構造としては何度も冒頭文と本文を往復させるような格好になってしまいます。それなら冒頭は端的に、詳しい説明は順序立って本文でしっかりとやるのが合理的でしょう、それがWikipedia:スタイルマニュアル (導入部)の趣旨なのです、繰り返しになりますが。その意味でも野曽木明文さんが主張したような冒頭ガイダンスは邪魔なだけでいらないのです、繰り返しになりますが。このためにも冒頭文は本文の説明の順序をなぞって池田亀太郎を最初に出す意味がありますね。ちなみにわたくしの提示した冒頭文改定案は本文の説明の順序にもきちんと対応しているのです、文末の関連語にいたるまで。記事をきちんと構成するというのはこういうことなのです。そのあたりにおいて野曽木明文さんが重要視しているのはご自身が注視する事柄を過大に取り沙汰して冒頭に挿入すべきだと主張する文章が記事に設置できるかどうかだけですから、ことさら全体に掛かる箇所に「口を挟まないでください」ということに過ぎません。わたくしは単に野曽木明文さんと対話するのみならず出歯亀の記事がどうすればより説明的になるかを考えているのです。わたくしにとって野曽木明文さんの主張などというものでウィキペディアの理念に反せず拾えるものはすでに現時点の提示した改定案に織り込み済みです。野曽木明文さんがわたくしの主張を尊重するというのであれば「野曽木明文さんの主張する文章は独自研究も混ざっているので記事にいらない」という当初から述べていることを尊重すべきですね、そこを折れられないというのであれば野曽木明文さんはまったく冷静ではないということです。もっともわたくしが本当に野曽木明文さんに望むのはウィキペディアの理念を理解して準じ、独自研究やご自身の価値観に沿って本題から外れたことを記事に書き込まないで欲しいということなのですけれども、繰り返しになりますが。--219.126.25.253 2014年10月30日 (木) 11:01 (UTC)
利用者:219.126.xx.yyy さんとの対話 (その10)いやまったく野曽木明文さんは日を追う毎に書き込みが劣化しております。それはさておき野曽木明文さんの書き込み前半部に見るべき場所がほとんどありませんから後回しにいたしまして、最初に野曽木明文さんの冒頭改定案についてコメントいたしますね。結論からいたしますと「使えませんよそれ」です、なぜかというと出典元に無い解釈(編集ブロック対象)や情報の合成(独自研究)が混ぜられているからです。その野曽木明文さん版冒頭部の「出歯る」という語に掛けられた「暴力行為や、既成道徳に反する行為などにも用いられることがある」という箇所ですが、それは元々「出歯亀主義」が「既成道徳を否定した社会主義や無政府主義」にまで用いられるようになったという日本国語大辞典に書かれた件や、隠語大辞典の「でばる」の節にある学生間でふざけて「まごまごすると出歯るぞ」とする乱用とを、出典元の趣旨を無視して勝手に合成した結果でしょう。野曽木明文さんは「男同士で「出歯ってやるぞ」とか脅し文句にもなった」と10月17日時点で主張しているわけですが、そもそもその「男同士」や「脅し」などという認識が合理性を欠いた「出典元にも無い独自の解釈(あるいは空想)」に過ぎないのですけれども。それはさておきましてもわたくしの言う「具体的な資料にそのような記述は無い」ということと野曽木明文さんが主張する「あるんだか無いんだか資料が無いからわからない」ようなことが何故に同じになるのですか。資料に無いならわからないというのですらなく資料も無いからわからないようなことを関係するんだかしないんだから分らないから書くなんていうのは、その実態は「関係させたいから無理にでも書く」でしかありませんし、主張でしかないならウィキペディアのいう中立性にも相容れないからいりません。そのようなスピード違反の抗弁でしかない詭弁はむだですよ、10月4日の繰り返しになりますけれども。また「出歯る」を洒落て言ったのは東京二六新聞1908年6月17日の用例として表された記事に述べられた者単数のことで、それを一足飛びに全体に掛けるのは出典元から逸脱していますね。いやはや軽く確認しただけでもたったこれだけの文章にこれほど粗が出てくるとは、まるで無精者の寝床のようです。つまりわたくしの言う「使えない」とは、こういった問題を野曽木明文さんの文章が多々抱えているためにウィキペディアの理念に相容れないし他の記述の信憑性まで損なうからに他なりません。このあたりに関して野曽木明文さんは妥協を要求したりされていますが、わたくしは当初から明確にガイドラインを示してこれらに見合う水準より下のものはウィキペディアでは扱えませんよと一貫して案内しているのです。それを何故にたかが野曽木明文さんのために引き下げなければならないのですか、それも根拠ともいえないようなこじ付けを理由として。それにしてもまた語義重視ですか、辞書ではないと申し上げているのですけれどもね、説明の形態としての合理性を述べた上で。とどのつまりとして野曽木明文さんはご自分の書き込もうとしている内容を全否定され、意地になっているだけではありませんか、それも他人にとってはまったく価値のない野曽木明文さん自身のプライドとかを理由として。記事の正当性よりも主張の可否を重要視するなどと言うのは、ウィキペディアの上では意味がありませんよ意味が。さて本題はこれくらいにしましてちょっと息抜きに余事にお返事しましょうか。まず「部科学省とNHKへの摩り替え」に関連して野曽木明文さんは「主語がない」などと言われていますが、これはそういう問題ですか。わたくしはこの場で常に野曽木明文さんに話しかける形で、野曽木明文さんの問題は批判し、野曽木明文さんの提示した情報で酌める要素はわたくしの案に組み入れ、野曽木明文さんの脈絡も無くブツブツ言ってる無関係な発言はこの場に関係なかろうと突っ込んでいるのですか、これらのどこに他者が介在していますか、まして一足飛びにどうして具体的な組織名が何の脈絡も無く出てきますか、オカルト過ぎです。野曽木明文さんの後ろに立っているのはわたくしではないといことがまだ分りませんか、もしかしたら野曽木明文さんのお母さんが「なんでこんなアホな子に(ヨヨヨ」と言いながら立ってるのかもしれませんが。「「ヤダヤダヤダ、いうこと聞いてくんなきゃヤダ」の様相」について野曽木明文さんは「やっぱりそんなんですか。」と述べられておられますが、それは文脈からすると「(客観的には)やっぱりそんな具合に見えるのですか」と野曽木明文さんが言っているように読めましたから、「そうですね野曽木明文さんの態度は理屈も何もあったものではない駄々っ子のようですよ」とより明確に答えておきます。「関係不明なことを書くことがそんなに重要ですか-後略」にたいして野曽木明文さんは「そうですよね。」は返しているのですが、それはどう解釈しても「野曽木明文さんは無関係なことを過大評価して書き込むことを重視している」としか読めません、ウィキペディアでそんな指向は他の利用者から「二度と来ないでください」と言われる種類の発言なのですが。「桐壺源氏うんぬん」については、ああやっぱり野曽木明文さんには文脈が難し過ぎましたね、わたくしの発言の趣旨がすっかり野曽木明文さんの意識から粗方蒸発して残った源氏物語の残滓を語り始めてしまいました、野曽木明文さんの思考バッファー容量の無さにもこまったものです。しかも野曽木明文さんはご自身の冒頭ガイダンスを抄録だから不完全でも構わないと言い出してしまいましたが、それならもっと無駄をなくして瑣末事である流行当時の関連語なんか全部取っ払ったほうがすっきりしますね。結局のところとして野曽木明文さんが主張されているのはその程度のことなのです。野曽木明文さん自身が注視する事柄だけを意味の無い誇大解釈で修飾したのがあの冒頭ガイダンスですから、野曽木明文さんが自分の価値観に執着さえしなければまったく弁護する必要も無い箇所なんですよ。もちろん野曽木明文さん以外の人にとっては価値なんてありませんね。「高島説が誤解を与えないように」のあたりは、氏がどのような趣旨のことを主張したかの典拠も無いのに野曽木明文さんの憶測を混ぜてしまったら誤解とか何とかという以前に事実からも逸脱しかねませんよ、記述に信頼性も何もあったものではなくなってしまうのです。それこそ味噌糞混ぜるような暴挙です。繰り返しになりますが、既存の出典元からも完全に外れるような野曽木明文さんの主張や憶測を記事に混入することには断固反対します、だれも野曽木明文さんの出汁が入ったスープなんて飲みたくは無いのです(意訳「独自研究および小便無用」)。ともあれ野曽木明文さんいうところの妥協案は野曽木明文さんご自身の主張と独自研究や中立性に欠いた解釈が混入されたものであるので、実際問題としてウィキペディアの信頼性を損なうため誰にとっても妥協すべきではないし記事でも扱うべきではないものに過ぎません、繰り返しになりますが。--219.126.30.100 2014年10月31日 (金) 10:07 (UTC)
紳士的にですか、これは異なことを。紳士的と言うか真摯に対話をする者がこれほど本題に関係のない余事脱線を本文に盛り込みますか。まったくもって不誠実なのか、あるいはそもそも対話するだけの能力が無いのかのどちらかです。それはさておきまして余事脱線は読み飛ばすと致しまして、いや前半部が全て余事脱線と言うのは如何ともしがたいのですが、スピード違反の抗弁は前述リンク先をご覧になってください。ウィキペディア用語の一種なのですが、わたくしは10月4日にも言及しておりますものの、繰り返し説明させて頂くと「スピード違反で検挙された者が『あの車もスピードオーパーしているじゃないか』と抗弁する」ようなもの」という意味で、自身の行為の問題を指摘されているのに、たいして関係しないほかのことを持ち出して「あっちも悪いじゃないか、何故あちらを注意しない」と言い出すようなことです。ただまずもってそのような態度に走る行為やそれを行う者にはより批判的な評価が与えられるのです。そのあたり野曽木明文さんはさも悪意に満ちた引っ掛けだと思っているようですが、ちがいます。ひらたくいえば野曽木明文さんのような「自分の主張を記事に盛り込まんがために批判してきた相手をすべて悪意によるものだと決め付ける」とか「批判してきた相手に関係のない話を長々として相手があきらめるように仕向ける」ような利用者はいままでも掃いて捨てるほどいたし、実際に掃いて捨てるようにブロックせざるを得ない事態は多々あったし、とにかく今更なのです。それはさておき野曽木明文さんの冒頭修正案ですが、まだわたくしが前述した指摘が野曽木明文さんの修正案冒頭部のどこを問題視しているか理解していませんね。何度も言っておりますが、出典元とも違うような内容を独自研究で合成しないでください、それができないならその文章はいりませんというほかないのです、繰り返しですが。また野曽木明文さんのいう「言うまでもない」は、結局のところとして根拠を持たない独自研究なのです、理解できませんか。その野曽木明文さんの「明白な」と仰っている事柄は辞書にも無いようなただの思い込みなのが明白なのです、もしくは誤用をみてそれが誤りの無い真理だと誤認しているとか。まだありますね、Weblioシソーラスのあの一文だけ、それも具体的な説明も付与されていない断片的な情報で何が証明出来ると言うのですか、単に読音が同じだから機械的に列記されただけなのか、それともそれ以外の意味づけがあるのかも不明ですよ。結局野曽木明文さんがなさっているのは断片的情報に飛び付いて視野狭窄に陥ったまま自説を強引に正当化しようとしているだけに過ぎません。また野曽木明文さんは「事実自体が明白にされていない」ことをご自身の主張を盛り込む口実になさっていますが、不明なことを過剰に取り上げるような脚色は必要ないでしょう、それは誇張です。誇張は事実からはみ出すだけにその真偽は「偽」にしかならないのです。またわたくしの冒頭部修正案に出典が無いと言われていますが、それは英語に言及した既存箇所以外は箇所以外は日本国語大辞典第二版第九巻に準じており、なおもいえば既存文章の趣旨を違えた訳ではなく単に文章として贅肉をそぎ落としただけなのです、贅肉どころか「何か別のもの」を増やしてしまおうと仰る野曽木明文さんとは違いまして。以上簡単ながら。--219.126.30.100 2014年10月31日 (金) 16:03 (UTC)
--以上の署名のないコメントは、野曽木明文(会話・投稿記録)さんが 2014年11月2日 (日) 02:49 に投稿したものです。 さて一ヶ月にわたり対話してきたわけですがここにいたり、いやちょっとまってください、また署名忘れてます。署名はさておきまして、約一ヶ月にわたってわたくしは野曽木明文さんとこの場で対話してきたわけですが、いまだに出典もとの趣旨を誇大解釈することや情報の合成をしてご自身の主張へと誘導するような理屈付けに使ういずれも独自研究に該当する行為が著しい問題を抱えているという、いうなれば正常にウィキペディアに参加し問題なく記事の編集をしている側からすれば著しく建設的ではないため意識しないくらい当たり前に回避している事柄への理解が無さ過ぎます。情報の合成がまずいことはもちろんなのですが、編集と称して意味が違ってしまえば同様にまずいのです、どうしてこのように当たり前のことすらわかりませんか、わたくしは野曽木明文さんの提示した修正案で具体的に出典元として提示された辞書の記述とどう食い違うか折に触れ幾度と無く繰り返しになると判っていても再三にわたって指摘してきたのに、たった2行かそこらからの書き込みからすらその問題が払拭できないとは。推論や仮説や証明とかもうされておられますが、ウィキペディアの記事で野曽木明文さんがそれをやる必要はどこにもありませんでして、というより逆にそういうことは記事を書く側がやるべきでないことなのです。ましてその独自研究を路地裏変態男よろしく方々の記事に開陳することは、他の記事に関わる利用者にとって内容をチェックしたり不適切ならば除去しなければならないと言う意味で迷惑なのです。しかもその独自研究を批判されて逆に食って掛かるなどは百害あって一利ないのですが。いずれにせよ野曽木明文さんの冒頭案も文末の「不明」うんぬんもわたくしの指摘した問題がまったく改善されていませんからあれはつかえませんよ。さて前置きはこれくらいにいたしまして、本題に入りましょう。この場で一ヶ月にわたって対話してきたわけですが、一ヶ月記念と言うわけではありませんしここでささやかながらサプライズと言うわけでもないもののコメント依頼で他の方の意見を呼び入れてみます。 さてコメント依頼では被依頼者である野曽木明文さんにも発言の場所をご用意しております。Wikipedia:コメント依頼/野曽木明文#野曽木明文さんのコメントを開いて、ご自身が思うこと、あるいは弁明、もしくは主張などがありましたらご随意にお書き込みください。もちろん被依頼者コメントを書くことを拒否するも自由です。--219.126.29.163 2014年11月2日 (日) 04:48 (UTC)
いえいえ「ということで、冒頭文についてはOKでいいでしょうか。」とは相変わらず論理が繋がっておりませんね。はっきりとあれはつかえませんよと申し上げたではありませんか、そのわたくしとの対話の中で別の声を聞く(意訳「受信」)癖は治りませんか。そして野曽木明文さんが「その前文の出典のない記述部分」とおっしゃっている実際には広辞苑第五版を示して無いから無いと言っている箇所と、どうして高島氏のとなえた異説からも遊離した野曽木明文さんが挿入に執着する意味の無い誇張がなされた文章を交換条件にしますか、等価ではないですから意味のない条件です。しかしなんといいますか相変わらず考えなしに発言なさってますね、冒頭で意味も無く同意しておいて、野曽木明文さん自身の書いた部分の問題を繰り返し指摘した箇所は読んでないといい、記述者の独自の解釈などウィキペディアの記事には必要ないことに同意しておいて、さらにはご自身の今まで散々行ってきた行為を「社会的には害悪です。」とまで言ってみて、しかし野曽木明文さんご自身の文章を批判されてるのに「厳しいですね」といきなりトーンダウン、出典元に無い情報の合成にともなう独自研究が混入しているというわたくしの指摘に「じゃあ出典外しましょう」と返してさらに独自の解釈を述べ立て、挙句に批判された文章をそのまま掲載してよいかと来る。もう理屈も何もあったものではないくらいにグダグダですよ。それら「独自研究を残すために出典を外すという冒頭部」や等価でない交換条件に対するわたくしの返答はそれはもっとつかえませんよです。なおコメント依頼は客観的な第三者意見を導入するための措置でしかありませんのでお間違えの無い様願います。--219.126.17.196 2014年11月2日 (日) 22:42 (UTC)
おや香具師の口上ですか、これは嬉しいことを言ってくださいますな、さもない物品を魅力的に説明していた香具師はわたくしが幼少の折に憧れた職業でございますよ。などと心にも無い冗談はさておきまして、かたや野曽木明文さんの誇大解釈や独自研究を含んだ冒頭文、かたやわたくしの余計な脚色を含まずに後述に誘導する冒頭文、どちらが百科事典の記事冒頭に必要かは考えるまでも無いと思うのですけれども、まま野曽木明文さんはご自身の主張または注視する事柄が記事冒頭で強調され場合によっては過大に扱われていないとご自身の存在意義に関わるかのようにお思いのようですね。ただウィキペディアの各々の記事には編集内容を統括する主任のような立場のものはおりませんが、その記事に関わった全ての者が各々自分の編集内容に責任を持つというシステムになっており、同時に「信頼されるフリーの百科事典」には必要ではない記述を取り除くのも各々の編集者もといウィキペディア上では利用者と呼ばれる編集参加者に任された裁量の範疇です。して野曽木明文さんの記述は、あれは本当に使えないのです、特に10月31日に提示なさった内容では逆に独自研究の発表が増加しているくらいですし。ウィキペディアが目指しているのは「信憑性も何もあったものではないフールな百裂雑記ノート」ではないことくらいは理解して頂けませんか、最低条件として。ところで「商売」ですか、何を言っていますか。そもそも野曽木明文さんの側に売れるほどの価値のあるものがありますか、ありませんよ。それどころかマイナスです。思弁うんぬん申されていますが、独自研究の何がまずいのか理解していれば思弁なんて言葉出ませんよ、あいかわらず考えなしですね野曽木明文さんは。また「事実として文献に記載が無いことを無いという」ことと「文献に書かれてもいないような解釈を記事に盛り込む」をどうして同じだと思えるのですか、考えなしですね野曽木明文さんは。まして野曽木明文さんのなさったのは「出典として示されていた資料を見たら別の意味だった」ようなことを指摘され、出典と違う箇所を直すなら至極当然な対応のところを出典のほうを外して自ら独自研究だと認めてしまう、認めてなお記述の盛り込みを理屈も何もあったものではない態度で要求するなどに至っては、考えなしにも程がありますよ野曽木明文さん。また広辞苑には当たり前のことが書いてあると読めることを言われていますが、何を当たり前なことをしたり顔で言っていますか、恥ずかしい人ですね野曽木明文さんは。辞書の知っている単語の項目を見れば知っている内容が載っているのは当たり前ではありませんか。もっとも野曽木明文さんの場合はその辞書をひきもしないで語におかしな解釈を混ぜたまま気付かなかったり、あるいは誤字脱字をしたまま使い続けて間違いを指摘した側を否定しそうですけれども。字統の類を良く使うとか言われていますが、野曽木明文さんがやらかしそうなのは成句の文章どころか熟語すら分解して自ら混乱した挙句に民間語源のできそこないを成句に対して新造して、それをしたり顔で誰彼にでも吹聴して失笑を買うことくらいですか。まずもって多少は物を考えられる人が野曽木明文さんのその「字統類の方がまだ使いますね」などという言い草を聞いたら、まともに取り合うほうが間違っている種類の相手だなとしか感じませんよ。なおウィキペディアの中立性は、きちんと出典の整備された出典に忠実な記述と単なる独自研究の間を取って信憑性を損なう必要までは認めておりませんよ、そんなバランスを取るくらいなら独自研究の掲載を主張する側をつまみ出すほうに向かいます。--219.126.25.217 2014年11月4日 (火) 09:14 (UTC)
いやいや、どこをどう転がしたら「私の記述が誇大解釈でも独自研究でもなく出典もいらないぐらいの部分もある」と出ますのやら真に理解に苦しみますね、不注意などと生易しい言葉では括れないくらいに考えなしの発言です。独自研究を含んでいるのが拙いとわたくしが言っているのと、野曽木明文さんおっしゃるところの誇大解釈や独自研究でもない部分もあるという発言、今更何を仰いますやらと呆れ果てんばかりのわたくしです。さて誇大解釈や独自研究を含んでいない箇所という部分は野曽木明文さんの改定案で前文の手付かずの場所のことを仰っているのでしょう。そして追記箇所のこれまた使えないこと甚だしく、野曽木明文さんはまるで考えなしですよ、いつもどおりに。よろしいでしょう、追記箇所をきちんと拝見しましょう。ああこれはいけませんね、その冒頭箇所差し替え部分ですが隠語大辞典「出歯亀」は明治以降の原文がそのまま使われ、当時の解説文がそのまま掲載されているため現用の言葉とも意味の食い違いが出てきていますから、冒頭で現用の語の説明としては適切とはいえませんね、明らかに出典の選択ミスでしょう。好色男性を指すという解釈は当時のものと注釈を入れなければいけませんし、それでは冗長になってしまうので後述の歴史的経緯に含めたほうがいいでしょうね、それはわたくしの第2節改定案に含まれています。次に「必ずしも性欲の遂行を条件としない」は隠語大辞典「でばる」に「必ずしも性慾の遂行を条件とせず」(原文まま)とあるのですがこれはあくまでも「出歯る」の説明であってしかも「然し流行語を乱用するの風ある学生間にては」(原文まま)と前置きがあるとおり流行語の乱用という位置付けなので「出歯亀」という語そのもの説明でもない上に乱用である以上は明らかに拡張された概念ですから主要な意味ととれる野曽木明文さんの改定案は誇張に過ぎません。しかもその一文が野曽木明文さんの改定案では「既成道徳に反する行為にも用いられる。」の一文に掛かっておりますが隠語大辞典では「只斯く云つて笑語となすのみ。」(原文まま)とあるので出典元と食い違う情報の合成に過ぎません。ついで野曽木明文さんの改定案「これは事件後に「出歯る」と洒落て言う動詞が流行して」と日本国語大辞典を出典にしたと書かれておられますが実際の日本国語大辞典第二版第九巻(ちなみに第一版も同じ)を参照しますと「中には怪しかる挙動を成すことを出歯るなどと洒落て動詞に用ひる者など出来たるが」(原文まま)と東京二六新聞1908年6月17日の引用があり流行したなどとは一切書れておりませんでしてそのように表現する者もいたという程度なので出典から逸脱している誇張です。そして最後の一文は完全に野曽木明文さんの独自研究に立つ見解でしかありません。おや全滅ですね、野曽木明文さんの改定案は。やっぱり野曽木明文さんの改定案は使えませんよ、そのような有様では自信満々にそのような文章に改定しようと主張する野曽木明文さんという一個人そのものの評価が「使えない」で確定されても仕方の無いことですよ。ああそれと今気付きましたが隠語大辞典の出歯亀の説明もまず事件ありきですね、いつでしたか野曽木明文さんはわたくしの冒頭改定案に「どの辞典類を見ても「出歯亀」は一般名詞を優先しています。由来は後回しです。」(2014年10月28日16:38(UTC)より原文まま)などと申されておられましたが。野曽木明文さんが参照した2つの辞書とも由来優先だったというのにこの発言、やはり考えなしに書き込んでおられるのですね、もっとも「国語辞典の記述から百科事典を記述するというのは主客顛倒どころか邪道」(2014年10月6日16:52(UTC)より原文まま)とまで言い放った野曽木明文さんが「どの辞典類を見ても」と主張すること自体がはばったいのですけれどもね。--219.126.25.217 2014年11月4日 (火) 14:42 (UTC)
--以上の署名のないコメントは、野曽木明文(会話・投稿記録)さんが 2014年11月5日 (水) 02:45 に投稿したものです。 一体何を持ち出しておられますか、無名個人のブログやツイートなどコメントしようも無いくらいに無意味ですよ、いやいや「云うに事欠いて」という慣用句が良く似合います。さて野曽木明文さん自身の書き込み前部1/3は見るべきところもないブツブツ呟きですからさらっと流しまして、ああいやまた署名忘れですか、わたくしが対応するのは四度目です、進歩無いですね。しかしその糞も味噌もという慣用句の使い方は奇妙に間違ってます。それはさておきまして隠語大辞典の第五義で何か着想を得られたようですがその後がいけませんね、「挑む」がどういうニュアンスであったのかで野曽木明文さんのご自身に都合のいいほうに都合のいいほうにと考える癖が出てしまって、結局は自家薬籠中の鹿の糞のような有様になってしまっているようですよ。さて実際の隠語大辞典で「挑む」がどういうニュアンスで使われているのかを見るにはリンクを辿るだけとなんとまあ便利な時代なのではありますが複数辞書横断検索「挑む」の結果を見ますと一般語としては挑戦とか闘争を仕掛けるとかアグレッシブな意味になっているのですが隠語大辞典では男女の情事に絡む語として扱われ、その意を酌んで「強制的に情事を仕掛ける」とくればそは強姦だろなあという次第。何が「無理からぬ」なのですかね、野曽木明文さんの解釈には強引なこじ付けが多過ぎるのに、それを自覚されていないとあってはまずもって中立的で一般論化できるような適正な記事の作成は無理無理放題なのではないですか。Peeping Tomに関してはいくつかの英和辞典を引いてもそのような解釈に行き当たるだけに、すくなくとも自分で挙げた出典元からすら食い違う野曽木明文さんの改定案とは正確性の次元が違うのですよ、そういう「いくつかの文献を紐といても正確性が確認できる」ような内容ならわたくしも残すことに異論は無いのです。しかし野曽木明文さんの記述ときたら文献を紐解いてもそういう解釈が見当たらない、なおも問い質せば斯く斯く云々が出典元だというがその出典元を見ると違うことが書いてある、さらに問い質せば「私の持論なわけです」(原文まま2014年10月29日17:32(UTC)より抜粋)などといい始める。そのようなものをなぜにウィキペディアの記事に使えますか、ゴミや糞以下ですよリサイクルどころかサーマルリサイクルもできませんから。にもかかわらず「私の冒頭文ならうまく説明がつくでしょう」ですか、独自研究と情報の合成と出典捏造の混和物ごときが何を説明できるかといえば野曽木明文さんがウィキペディアで活躍できる余地はありませんということくらいですね。--219.126.18.16 2014年11月5日 (水) 09:31 (UTC)
まず最初に以下でJapaneseAさんに申し上げたとおりトーンダウンする所存でございますが、何点か訂正をしておきましょう。わたくしは当初から申し上げていることですが、野曽木明文さんに求めているのは情報の合成を含む独自研究の類を記事に盛り込もうとするのは止めて欲しいということです。野曽木明文さんという個人に憎悪を抱いているのではありません。蚊を叩き潰すときに刺された痒みに不快感を抱くことはあっても、蚊に憎悪からくる殺意を抱いているわけではないのと程度の差こそあれ同じことなのです。もちろん蚊が血を吸わず痒くならなければわざわざ蚊柱に飛び込んで行って蚊への憎悪で殺戮するようなこともないように、野曽木明文さんがご自身のブログで独自研究を書き立てたりしていてもわたくしはまったく気にしないのです。またわたくしが隠語大辞典を出典として扱うことに否定的なコメントを出したのは、それが現代の説明に掛かってしまっているからです。隠語大辞典は史料として大変に参考になる文献であり、またインターネットで参照することのできる参照性のよい資料だと考えています。しかし史料をもって現代の説明とするのは比喩としても独自研究、まして史料の内容を直接現代の説明として持ち出すのは情報の合成に過ぎません。そのことを野曽木明文さんには理解して欲しかったですね。また「出張る」と「出歯る」を強固に紐付けているのは野曽木明文さんのみで、唯一Weblioのシソーラスに関係性の説明も何も無く断片的に表示された内容では単に「関連性不明」でしかありません。実際には辞書をいくつか紐解いても両者を関連付ける解説は無いのですから紐付け自体が無意味で、それを強行に掲載しようとすれば単に個人の主張という目的外利用でしかないのです。それを出典をつけたと称して出典にない解釈を盛り込んでしまえば、偽情報の書き込みとしてWikipedia:投稿ブロックの方針#虚偽情報の記載でブロックされることもあることをご了承くださいませ。なお出典を参照して書くということと盗作をすることはまったく違うのです。引用の概念をよく理解した上でWikipedia:ガイドブック 著作権に注意をきちんと読んで理解してください。この著作権の問題があっても引用自体は可能ですし資料を要約するなどで内容を違えずその内容を記事に組み入れることは出来ます。しかしどう書こうとも資料にも無いような解釈が混入してしまえば情報の合成という独自研究になります。特に野曽木明文さんは思慮が足りず考えをまとめるのが苦手でご自身の考えと願望と外部から得た情報が断片化された上で混交してしまう傾向が非常に強いようですのでご注意ください。まずは自分の考えと外部の考えを切り分けて扱う訓練を受けたほうがよろしいでしょう。最後に、野曽木明文さんの提示された案はわたくしが指摘した情報の合成と独自研究による結びが一切解消されておりませんし、しかも今回は複数の出典を合成してしまっておりますから、それを記事に書き込めば洩れなく他の全ての利用者に出典の正しい解釈に基づいた記述に差し替えられる権利を発生させますし、なおかつ野曽木明文さんに方針文章の熟読を求めるための編集ブロックを要請できる理由が生まれることを理解してください。--219.126.24.249 2014年11月6日 (木) 09:38 (UTC)
なぜウィキペディアの上での野曽木明文さんの言動に対した呼び掛けに朝日新聞が出ますか。もしかしたら野曽木明文さんはマスメディア批判をするご自身をクールだとおもっているのかもしれませんが、それをこの場でわたくしに見せてもご自身を慰めているようにしか見えません。それ以外の発言も同様で見るべきところがありません。ご自分を慰めるためだけの他人に意味の無い発言ならこの場でしないでください。--219.126.24.249 2014年11月6日 (木) 22:32 (UTC)
無意味な発言はおやめください。--219.126.18.32 2014年11月7日 (金) 21:44 (UTC)
無意味な発言はおやめください。--219.126.25.35 2014年11月9日 (日) 00:07 (UTC)
署名のお願い
(追記)署名は、上記マークアップを使用して記入して下さい。以前は署名が正しく記入できていたこともあったようですので、記入方法が分からないと言うことはないと思いますが。--153.173.20.40 2014年10月7日 (火) 08:50 (UTC)
ブロックいたしました道徳教育での加筆、拝見しました。ひとつの出典は、加筆内容のことがまったく触れられていません。もう一つの出典はそもそも出典として不適です。Wikipedia:信頼できる情報源を熟読ください。 これまで様々な方からいろいろとごアドヴァイスされてきたかと思いますが、編集内容に改善が見られないのでしたら、さらに長期にわたって、編集をご遠慮願うことになりかねません。どうかご自制いただき、理性的で方針に合致した編集をお願いいたします。--アイザール(会話) 2014年10月10日 (金) 18:01 (UTC)
脚注
仲裁にもなりませんがあまりにも膨大な量なので、読み飛ばしていた当会話ページですが、よくよく見ると、記事の話からかなり脱線していると思います。御二方は多分、会話を楽しんでおられるのだと思います。しかし、野暮を申して申し訳ありませんが、Wikipediaではそれは目的外利用となります。どうかメールなどで誰にも邪魔されず、御二人だけの空間で御存分に御願いします。その際は、利用者のコメント依頼も無意味なのでクローズして下さい。もし記事の話がしたいのであれば、各記事のノートにて御自身の主張を簡潔にまとめて、後は合意形成のコメント依頼として、暫く静観して下さい。私もよく失敗するのですが、当事者同士で発言し過ぎると第3者が入って来れなくなり、泥沼と化します。あっ勿論加筆(あるいは除去に反対)する側は出典をつけるのは最低限です。御忘れなく。--JapaneseA(会話) 2014年11月5日 (水) 17:53 (UTC)
日本放送協会の記事への書き込みについて。日本放送協会の記事にある出典の付いていた文章へと書き込みをされていましたが出典もとの内容とも食い違っていましたから差し戻しておきました。幾人もの方に繰り返し言われていることですがWikipedia:出典を明記するを理解してください。--219.126.17.128 2014年11月13日 (木) 22:33 (UTC)
日本放送協会の記事にある出典の付いていた文章にある出典と同じものを使って書き足されましたが、出典もとの内容とも食い違っていましたから差し戻しておきました。幾人もの方に繰り返し言われていることですがWikipedia:出典を明記するを理解してください。また以前にも同じ理由でブロックを受けておられましたが、出典元と異なる内容を書き込むことはWikipedia:投稿ブロックの方針#虚偽情報の記載にあたります。また無意味な発言はおやめください。--219.126.31.154 2014年11月14日 (金) 22:14 (UTC)
日本放送協会の記事にある出典の付いていた文章にある出典と同じものを使って書き足されましたが、出典もとの内容とも食い違っていましたから差し戻しておきました。幾人もの方より返し言われていることですがWikipedia:出典を明記するを理解してください。また以前にも同じ理由でブロックを受けておられましたが、出典元と異なる内容を書き込むことはWikipedia:投稿ブロックの方針#虚偽情報の記載にあたります。また無意味な発言はおやめください。--219.126.26.46 2014年11月16日 (日) 01:40 (UTC)
出典を掲げながら、その出典元と趣旨の違う内容は書けません。食い違う内容を何度掲載しても同じ事です。また関係ないことは書かないでください。--219.126.30.72 2014年11月16日 (日) 21:43 (UTC)
警告Wikipedia:存命人物の伝記を今一度熟読願います。あなたの編集を原因としてWikipedia:削除依頼/橘梨紗 20150515、Wikipedia:削除依頼/米沢瑠美 20150515、Wikipedia:削除依頼/成瀬理沙 20150515が別利用者さんにより提出され、またあなたについてWikipedia:管理者伝言板/投稿ブロックに通報したことをご報告します。今後も不適切な編集を継続する場合は一切Wikipediaへの参加が出来なくなりますのでご注意下さい。なんでもかんでも書けば良いわけではありません!--Mee-san(会話) 2015年5月16日 (土) 03:36 (UTC) 修正--Mee-san(会話) 2015年5月16日 (土) 03:40 (UTC)
この節での会話内容自体(16日17:34以降)がB-2抵触で削除の必要性があるように思えるのですが……。削除依頼の場では「不適切記述」と具体的な内容に触れずぼかすことで依頼ページ自体が削除の対象とならないようにしているのと同じく、会話ページやノートページでも同様の配慮が求められているはずです。--Claw of Slime (talk) 2015年5月17日 (日) 06:06 (UTC)--Claw of Slime (talk) 2015年5月17日 (日) 06:09 (UTC)追記
パソナに関連した記述について野曽木明文さんがパソナと関わりがあるかどうか知りませんし、お答えいただく必要もありませんが、パソナなどでのパソナ関連の加筆があたかも関係者が宣伝を行っていると疑わせるようなものになっているので、抑制した編集をお願いします。パソナグループ公式発表の情報などをそのまま加筆することはおやめください。--Tiyoringo(会話) 2015年5月17日 (日) 05:12 (UTC)
ブロックのお知らせ
Wikipedia:投稿ブロック依頼/野曽木明文 追認によってあなたへの暫定対処は妥当であったと判断が行われました。会話ページをロックした状態で無期限ブロックとなっています。--アルトクール(話/歴) 2015年6月2日 (火) 11:33 (UTC) |
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