北野建設 (長野県)
北野建設株式会社(きたのけんせつ)は、長野県長野市に本社を置く長野県大手の建設会社(ゼネコン)である。東京証券取引所スタンダード市場上場。 沿革1887年に現社長北野貴裕の曽祖父北野民蔵が製糸業を始める。生糸暴落をきっかけに祖父北野吉登の代に製材業に転換。戦後、焼け野原となった東京を舞台に父・北野次登が長野の木材をもとに建築業を始める。以後、高度成長とともに順調に業績を伸ばし、1973年に上場を果たす。元社長の北野次登は、ホテル経営や企業メセナにも熱心で、長野放送の社長や上田女子短期大学(学校法人北野学園)の理事長なども務め、経営者として名を馳せていた。
歴代社長
スキー部スキー部はオリンピック選手を多数輩出するなど、国内でも名門の実業団チームである。 所属選手過去に所属していた選手
社長交代騒動と北野グループ分裂2007年6月28日、定時株主総会後の取締役会において、社長交代の緊急動議が出され、当時副会長であった、北野次登社長の長女の夫・山口竹彦が新社長に就任した。 しかし、それから1か月後の同年7月27日に新社長が辞任、次登元社長の長男で副社長の貴裕が、新たに社長へ昇格・就任した。 これは、株主総会での説明がないままの社長交代に、株主や取引先などからの批判が強まっていたことや、新社長本人を含め、社長交代に賛成した取締役が一斉に辞任したことが背景にあるが、6月の社長交代が同社ホームページ上の沿革に掲載されていない(無かったことにされている)点からも、一連の社長交代が「異常事態」であったことが窺える。 追い出された形になった北野次登元社長は返り咲きを狙ったが、銀行はじめ、周囲の賛同を得られず断念。2008年に、『日経ビジネス』9月22日号で「敗軍の将、兵を語る-実の息子に会社を追われた」という手記を寄稿。次登は脳梗塞と難聴から経営の第一線に立てないとして、2007年に娘婿の山口から代表権を剥奪されたため、株式取得を重ね、1か月後に次登の長男で一人息子の貴裕を代表取締役に就任させたが、2008年にその息子から、取締役を解任されせられた、と説明している。この解任劇により、北野グループも大きく2つに分裂。貴裕が率いる「北野建設」と、次登と次登の次女小池佳子が率いる「北野アームス」、「The Kitano Hotel New York」、「北野美術館」、「北野カルチュラルセンター」が北野グループから離脱。次登は2015年12月92歳で死去した[6]。 熊坂トンネル手抜き工事事件2007年、東日本高速道路新潟支社が発注した上信越自動車道熊坂トンネル工事で、コンクリートの厚さ不足の手抜き工事を告発した、ピーエス三菱・北野建設共同企業体の下請け企業の現場監督(当時)が、自宅待機ののちに懲戒解雇された。その後、会社都合による退職をすることで和解。内部告発者に対する制裁事件として話題になった。 主な施工実績
関連企業・団体脚注
関連項目
外部リンク |
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