十字街 (函館市)
十字街(じゅうじがい)は、北海道函館市末広町の繁華街である。正式な町丁名ではない[1]。 なお、一本東側の通り「銀座通り」(豊川町・末広町にまたがる)も併せて解説する。 ![]() ![]() ![]() 概要
函館市の旧市街地、函館山山麓の函館港側に位置する繁華街である。明治期までの函館経済の中心は青函航路の東浜桟橋(旧桟橋)付近だったが、街の拡大に伴い大正期に移動しできた[2]。十字街とは十字形をした街路の通称[3]で、国道279号/国道338号(重複区間)と北海道道675号立待岬函館停車場線が合流する交差点付近のことをいう。道路は明治18年函館大火復興改正で東浜町~蓬莱町間の通り、現在の電車通りができた[4]。1910年(明治43年)の「馬車鉄道開業路線図」には十字街と名乗る停留場はなく、恵比須町停留場となっているが、1913年(大正2年)の「電車線図」に十字街停留場が出ている[3]。 当時の十字街付近は、映画館4軒や旧丸井今井函館店などを擁した函館を代表する中心繁華街であり、当時は全国有数の繁華街でもあった。[要出典]しかし、1934年(昭和9年)の昭和9年函館大火によりこの繁華街付近も大きな被害を受け、徐々に衰退が始まっていった[5]。 太平洋戦争後の1960年(昭和35年)には末広町5番地・6番地・7番地を中心に取り囲むように新しいアーケードが設置されたが[6]、同年に十字街商店街について「このままでは場末街になる」という診断書が出され、衰勢が明らかとなった[7]。1969年(昭和44年)には、丸井今井が本町地区に移転[7]、建物は函館市役所末広分庁舎、現・函館市地域交流まちづくりセンターとなったが、これは十字街を含む西部地区の斜陽化を防ぐ目的だった[7]。 2002年(平成14年)10月に再開発ビル「アクロス十字街」が竣工、函館市水道局(現・函館市企業局上下水道部)が入居した。当初香港の日系企業の事業参加による中華街を予定していた[5]。 のちに市長になる工藤壽樹は2010年(平成22年)に「デザインと芸術の洋風の街」とし、五稜郭地区との棲み分けを提唱していた[8]。
十字街の東隣りの歓楽街。栄国橋があったことから栄国橋通り、高田屋嘉兵衛の屋敷があったことから(旧)高田屋通り、恵比須通り(恵比須町通り)とも呼ばれている[9][10]。1888年(明治21年)頃願乗寺川(亀田川分流)を埋め立てて道幅8間(14.5m)の道路を作ったもの[4]。大正10年函館大火後に防火線とするためにコンクリート建築物を建築した。昭和9年函館大火後に函館駅前・大門に客足を奪われて衰微した[10]。 年表
イベント主要施設
かつてあった主要施設
その他市街地となる以前については、戊辰戦争中の1869年6月20日(明治2年5月11日)、旧幕府軍の幹部土方歳三が箱館にある新政府軍の包囲で孤立していた弁天台場を救出しようと一隊を率いて五稜郭より進撃を試みたが、土方自身が腹部を撃たれて落馬、そのまま亡くなった最期の地とする説がある(十字街異国橋説)ものの、関連小説の影響の可能性もあり、史実かどうかははっきりしていない[45][46][47]。 脚注
参考文献
関連項目
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