田中義一
![]() 田中 義一(たなか ぎいち、1864年7月25日〈元治元年6月22日〉- 1929年〈昭和4年〉9月29日)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。勲等は勲一等。功級は功三級。爵位は男爵。 陸軍大臣(第14・16代)、貴族院議員(勅選)、内閣総理大臣(第26代)、外務大臣(第42代)、内務大臣(第45代)、拓務大臣(初代)、立憲政友会総裁(第5代)を歴任した。 生涯生い立ち元治元年6月22日(1864年7月25日)、萩藩士・田中信祐、みよの三男として、長門国阿武郡萩(現在の山口県萩市)に生まれた。父は藩主の御六尺(駕籠かき)をつとめる軽輩者の下級武士だったが、武術にすぐれた人物だったという[要出典]。 13歳で萩の乱に参加。若いころは村役場の職員や小学校の教員を務めた後、20歳で陸軍教導団に入る。 軍人として![]() 陸軍教導団で学んだ後、陸軍士官学校(旧8期)、陸軍大学校(8期)を経る。日清戦争に従軍、その後ロシアに留学した。ロシア留学時代は正教に入信し、日曜毎に知り合いのロシア人を誘って教会へ礼拝に行くなど徹底したロシア研究に専念した。 また、地元の連隊に入隊して内部からロシア軍を調査した。このため、日露戦争前は陸軍屈指のロシア通と自負していた。長州閥の後ろ盾もあったが、軍人としては極めて有能であった。しかし、同時期ロシアに留学していた海軍の広瀬武夫と一緒に酒を飲むと強硬な開戦論を叫ぶなど、一本気で短絡的な性格であった。 日露戦争では満州軍参謀として総参謀長児玉源太郎のスタッフを務めた。戦後の1906年(明治39年)に提出した『随感雑録』が山縣有朋に評価されて、当時陸軍中佐ながら帝国国防方針の草案を作成した[1]。 1915年(大正4年)、参謀次長。原内閣、第2次山本内閣で陸軍大臣を務め、この時にマスコミの論調を陸軍にとって有利なものにしようと考えた事から、陸軍省内に新聞班を創設した。 1918年(大正7年)、田中は原内閣で陸軍大臣になったあと、男爵に叙され陸軍大将に進級するなど慶事が続いた。その一方で、シベリア出兵での様々な意見の対立や前線のコルチャークら白軍の敗北、さらには尼港事件への対応、主導していた第二次満蒙独立運動など激務に追われていた。さらに追い打ちをかけたのは、西原借款問題などで原内閣が帝国議会で轟々たる非難を浴びたことからくる心労が重なったことである。 1921年(大正10年)、狭心症に倒れ、6月9日に辞任して大磯での静養生活を余儀なくされた。大臣を辞職してしばらくすると原敬暗殺事件が起こったこともあり、回復してからも軍事参議官の閑職に留まるなど大事をとっていた。 政党政治家へ![]() 1924年(大正13年)の第2次護憲運動の際に立憲政友会は分裂して第1党の地位を失った。総裁であった高橋是清は辞意を表明して後任選びが始まった。だが、最有力候補であった横田千之助は分裂を惹き起こした当事者ということで辞退し、やむなく党外から総裁を迎え入れる話となった。 当初、伊東巳代治と田健治郎の名前が挙がったが、両者ともかつて内紛で政友会を追われた経緯があり、これを辞退した。次に官僚出身ながら国民の人気がある後藤新平を迎えようとしたものの、後藤はかつて関東大震災後に自分が立案した帝都復興計画を政友会の反対で潰された経緯からこれも拒否、唯一就任に応じたのが田中であった。 ![]() 1925年(大正14年)4月7日、田中は宇垣陸相と会見して現役退役願いを提出[2](治安警察法第5条により現役軍人は政治結社に加入できないため)。同年4月10日、予備役に編入した[3]。将来は元帥ともいわれた田中であったが政界への転身を図り、高橋是清の後の政友会総裁に就任した。 田中は就任の際、300万円の政治資金を持参金としたことから、陸軍機密費から出たものではないかとする陸軍機密費横領問題が浮上。告発を受けた東京地方裁判所検事局が取り調べを行ったが、1926年(昭和元年)12月27日、証拠不十分で不起訴処分としている。なお、取り調べに携わっていた検事は、捜査途上で変死体となって発見されている[4]。また、在郷軍人会を票集めに利用したとする疑惑もあった[注釈 1]。真相は不明であるが、在郷軍人会の育ての親である田中の政友会総裁就任及び対立する憲政会(後に立憲民政党)の軍縮政策が在郷軍人の投票行動に影響したのは間違いなく、高橋前総裁時代に出されていた軍部大臣の文官化論が就任直後の田中による「鶴の一声」で否定されるなど、党の政策が軍備強化・対外強硬路線へと転換する。 折りしも田中の総裁就任直前に、唯一の潜在的競争者であった横田千之助が死去したことにより、田中を阻む人物が党内からいなくなったことも大きかった。田中の政友会招聘を最終的に決めたのは横田であったが、星亨・西園寺公望・原敬らの側近であった横田は板垣退助の自由党以来の自由主義と伊藤博文の立憲主義を併せ持つ政友会本流の継承者であり、第2次護憲運動と大正デモクラシー・軍縮路線の有力な担い手であったからである。1926年(大正15年)1月28日、田中は貴族院勅選議員となった[5]。 さらに、田中の誘いで政友会に入党した人物も、それまでの政友会とは異質な人々であった。鈴木喜三郎は国粋主義者として名高い平沼騏一郎(後の大審院長・枢密院議長・首相)が寵愛する司法官僚で自由主義を敵視していた人物であり、久原房之助は田中自身の出身母体である陸軍長州閥と結んでいた政商であった。やがて成立した田中内閣では、鈴木が内務大臣、同じく平沼系とされる弁護士の原嘉道が司法大臣に抜擢され、さらに鉄道大臣に小川平吉、外務政務次官に森恪(外相は田中の兼務)、内閣書記官長に鳩山一郎が任じられた。3人とも政友会の古参であるが、小川と森は国粋主義者として知られ、鳩山は鈴木の義弟で協力者であった。 2度の護憲運動や大正デモクラシーで活躍した政友会の古参幹部も閣僚には任じられたが、重要ポストからは外された。当時、青年政客として名を馳せていた肥田琢司に政治活動の協力を求め、第四代朝鮮総督の人選では肥田の推薦により山梨半造を任命した。 鈴木・原によって治安警察法が強化され、森・小川によって軍部と連携して中国への積極的な進出策が図られるなど、護憲運動などでかつて政友会が勝ち取った成果を否定する政策が採られた。もっとも、憲政会→民政党がリベラルな人々の支持を集めていく中で、これに代わる支持基盤をより保守的な人々に求めることで新たな支持層を開拓して、その受け皿になろうとした努力の現われとも考えることも可能である。こうした政策と第16回衆議院議員総選挙で鈴木が画策した選挙干渉によって、党勢は回復したものの、政友会はかつての自由主義政党とは離れた親軍的な保守政党に変質していくことになる。 田中の没後に起きた統帥権干犯問題における政友会と軍部の連携も、単に立憲民政党への対抗というよりも政友会の変質に伴う「親軍化・右傾化」現象の反映であった。その後も短期の犬養毅総裁を経て、鈴木喜三郎・久原房之助・中島知久平(久原と同じ軍需関連の政商)と、親軍派あるいは国粋主義派な総裁が同党の分裂・解党まで継続されることになる。 内閣総理大臣就任![]() →「田中義一内閣」も参照
1927年(昭和2年)3月、第1次若槻内閣のもとで全国各地の銀行で取り付け騒ぎが起こった(昭和金融恐慌)。 若槻内閣は同年4月17日に総辞職を表明し、代わって立憲政友会総裁の田中が4月20日に組閣した。田中内閣には元総理や次の総理を狙う大物政治家、そして将来の総理や枢密院議長などが肩を寄せ合い、大物揃いの内閣となった。
蔵相に起用された高橋是清は全国でモラトリアム(支払猶予令)を実施し、金融恐慌を沈静化した。 積極外交![]() 田中内閣は憲政会政権下で行われてきた幣原喜重郎らによる協調外交方針を転換し、積極外交に路線変更した。田中は外務大臣を兼任し、対中積極論者の森恪を外務政務次官に起用して、「お前が大臣になったつもりでやってくれ」と実務の全てをまかせていた。森は事実上の外相として辣腕を振るい、山東出兵や東方会議の開催、張作霖に対する圧迫などといった対中強硬外交が展開されるが、ある程度の協調が望ましいとする田中と、あくまでも積極的な外交をよしとする森は、やがて対立するようになる。そこに事務方の外務次官としてやってきた[注釈 2]のが、奉天総領事をつとめ、中国問題に詳しいと自負していた吉田茂であった。 普通選挙1928年(昭和3年)2月に第1回普通選挙が行われた。田中は主張を全国に知らしめるため、首相ならびに政友会総裁としての抱負をレコードに吹き込み[6]、全国の関係者に配布した。また、同時期、社会主義的な活動が目立ったことから、同年3月に全国の社会主義者、共産主義者を一斉に検挙した(三・一五事件)。この選挙後に、人事のもつれから辞意を表明した閣僚を昭和天皇に慰留させ、天皇を政局に利用したと批判され(水野文相優諚問題)、貴族院は異例の田中首相問責決議を可決した。 張作霖爆殺事件![]() 同年6月4日に起きた張作霖爆殺事件に際して、帝国の国際的な信用を保つためにも容疑者を軍法会議によって厳罰に処すべきと主張し、その旨を天皇にも奏上したが、陸軍の強い反対に遭ったため果たせなかった。 なお、この直後の6月8日、田中は上野駅で暴漢に短刀で襲撃されるも無事[7]。犯人と張作霖爆殺事件との関連性はなかった[8]。 このことを野党に批判され、立憲民政党の中野正剛は「尼港事件の際に田中が「断じて臣節を全うす」と称して陸軍大臣の職を辞したことは国務大臣として責を負うた適例であったが、済南事件の責任を福田司令官に帰し、満洲事件を村岡司令官に帰したことは厚顔無恥である」とした[9]。この批判に対して田中は「この如き事に責任を負うたら総理大臣は何万居っても足らぬ」と反論豪語したが[9]、中野は「政略出兵の責任を軍部に転嫁するような総理大臣がいたら日本帝国の国軍は何百万人居っても足らないこととなる」とさらに糾弾した[9]。 以上のように田中は軍法会議によって容疑者を厳罰に処すべきと主張していたが、天皇に対してもその旨を奏上していた。にもかかわらず、事件から一年もかけたのちの1929年(昭和4年)6月27日に田中は最終報告として「関東軍は張作霖爆殺事件とは無関係であった」旨を昭和天皇(以下「天皇」)に奏上した。真相追及や厳正な処分に陸軍の反発や日本の恥をさらすとして反対する閣僚がいたためと思われる[10][11]。この報告に天皇は「お前の最初に言ったことと違うじゃないか」[12]と田中を直接詰問した。なお、田中は自分の行為を「奏聞」「上聞」(天皇に経緯を報告する)と捉えていたようだが、天皇は「上奏」(天皇に処理を進言し裁可を求める)と捉えていたようである[11]。このあと奥に入った天皇は、同年に就任したばかりの鈴木貫太郎侍従長に対して、「田中総理の言ふことはちつとも判らぬ。再びきくことは自分は厭だ」[12][要ページ番号]との旨を述べた。これを鈴木が田中に伝えたところ、田中は諦め、その足で元老を訪れ、内閣総辞職の決意を伝えた[13]。7月2日に内閣総辞職。 一般には天皇が怒ったため、田中は辞職を決意したと解されている[10]。なぜ、これほど天皇が怒ったかについては怪訝に思う者も多く、秦郁彦は、日本軍人の関与の証拠はなく、他の犯人の証拠もないとしながら、河本を適当な理由で行政処分に付するといった、田中の上奏文の訳の分からなさを取り上げて、天皇の怒りを買ったのだろうとしている[10]。その上で、これが世間で通念として定着したのは、鈴木貫太郎から子息の鈴木一がまた聞きして『天皇さまのサイン』に話を紹介し、それが「天皇があの時は自分も若かったからと自ら反省した」と俗っぽく解釈されるようになったからだとしている[10]。一方で、秦は、国会での政敵からの追及の他、関係者の厳正な処分の断念に至るまでに田中が陸軍で孤立していったことも紹介している[10]。この俗説が語るような内閣総辞職の経緯は、例えば『昭和天皇独白録』にも述べられているが、これらは「このとき内閣が総辞職したため、以降、天皇は立憲君主制の枠組みに従い、不本意であっても内閣の上奏をそのまま裁可することにした」という弁明につなげる伏線にしており、しばしば、そのおおもとが、天皇の戦争責任を否定しようとする側の者からの主張であることに注意を要する[14][15]。事件当時の世上一般的な見解は、むしろ不戦条約締結において「人民の名のもとに」という字句を田中がそのまま残したことで天皇・宮中の怒りを買ったこと、田中と当時犬猿の仲であった上原勇作が田中失脚のために田中の張作霖爆殺事件処理を非として元老らに働きかけたこと等が原因というものであった[16][17]。天皇自身が、このときの発言について事前に他の者に相談しており、この天皇発言がむしろ宮中グループによって仕掛けられた倒閣の陰謀である可能性を指摘する意見もある[15][17]。 ![]() 総辞職後狭心症の既往があった田中に、張作霖爆殺事件で天皇の不興を買ったことはやはり堪(こた)えた。退任後の田中は、あまり人前に出ることもなく塞ぎがちだったという。内閣総辞職から3ヵ月もたたない1929年(昭和4年)9月28日、田中は貴族院議員当選祝賀会に主賓として出席するが、見るからに元気がなかった。 そして、翌29日午前6時、田中は急性の狭心症により死去した[注釈 3]。65歳没。田中の死により、幕末期より勢力を保ち続けた長州閥の流れが完全に途絶えた。墓所は多磨霊園。 昭和天皇は、田中を叱責したことが内閣総辞職につながったばかりか、死に追いやる結果にもなったかもしれないということに責任を痛感し、以後は政府の方針に不満があっても口を挟まないことを決意した[注釈 4]。 エピソード政治家としては厳しい評価の田中であるが、性格は気さくだった。
親族
栄典
著作
関連作品
脚注注釈
出典
参考文献史料
文献
関連項目
外部リンク
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