善峯寺
善峯寺(よしみねでら)は、京都市西京区にある善峰観音宗の本山の寺院。山号は西山。本尊は十一面千手観世音菩薩 2躯。西国三十三所第20番札所。桜や紅葉の名所になっているとともに境内各所から京都市街や比叡山を一望できる。 本尊真言:おん ばざら たらま きりく そわか ご詠歌:野をもすぎ山路(やまじ)にむかふ雨の空 よしみねよりも晴るる夕立 歴史寺に伝わる『善峯寺縁起絵巻』(江戸時代)等によれば、長元2年(1029年)に源信の弟子にあたる源算が47歳で当山に入り、小堂を建てて自作の千手観音像を本尊として祀ったのが当寺の創建であるという。その後、長元7年(1034年)には後一条天皇により勅願所に定められ、「良峯寺」の寺号を賜った[1]。 長久3年(1042年)に後朱雀天皇の命で洛東鷲尾寺にあった仁弘法師作の千手観音像を当寺に遷して新たな本尊としている[1]。また、白河天皇より本堂、阿弥陀堂、薬師堂、地蔵堂、三重塔、鐘楼、二王門、鎮守七社の堂社を寄進されている。 鎌倉時代初期の建久3年(1192年)には慈円が住したこともあり、後鳥羽天皇直筆の「善峯寺」の寺額を賜ったことによって寺号を善峯寺と改めている。証空が住職を勤めた後は、西山宮道覚法親王を始めとして青蓮院門跡より多くの法親王が入山したため「西山門跡」と呼ばれるようになった[1]。 後嵯峨天皇や後深草天皇など皇室の崇敬をうけ、また後花園天皇の寄進によって伽藍整備がなされている。こうしたこともあって室町時代には僧坊の数は52を数えていた[1]。 応仁の乱に巻き込まれて伽藍の大半が焼失してしまうが、江戸時代になってから江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の生母・桂昌院が大檀那となって、現存する観音堂・鐘楼・護摩堂・薬師堂・経堂・鎮守社などが再建されて復興を遂げた[1]。 境内の北側には隣接して三鈷寺がある。 本尊秘仏本尊と脇本尊の2体の木造千手観音立像を安置する。秘仏本尊は木造漆箔、像高178.8センチ。平安時代後期から鎌倉時代初期の作とされる。寺伝では後朱雀天皇の命により洛東の鷲尾寺から移したもので、安居院(あぐい)仁弘法師の作という。開扉は現在毎月第2日曜および毎年正月三箇日に行われるほか、臨時に行われる特別開扉もある。今後寺の方針により2022年(令和4年)以降は秘仏とし、その後の開扉は開山から1,000年となる2028年まで行わない予定である。 脇本尊は像高174.5センチ。寺の創建と同じ11世紀前半頃の作とされ、像全体が黒ずんだ古色を呈する。寺伝では開山源算の作とする。京都洛西観音霊場の札所本尊でもある[2][3]。 境内![]() 境内は京都市域の西南端近く、釈迦岳(標高630.8m)の北東の支峰の善峯に位置し、山腹一帯に多くの堂宇が点在する。バス停留所から山道を、また駐車場から数分上ったところに山門が聳え、石段を上がった正面に本堂(標高305m辺り)があり、その左手(南)に文殊寺宝館がある。本堂右手の石段を上った一画には多宝塔などがある。そこから上ったところに釈迦堂、その上に阿弥陀堂があり、境内のもっとも奥には薬師堂、青蓮院宮墓地などがある。諸堂宇の大部分は江戸時代、桂昌院の援助で整備されたものである。
文化財重要文化財国の天然記念物![]()
京都府指定有形文化財![]()
前後の札所所在地
アクセス
1月6日から2月末日の間は善峯寺行バスは手前の小塩止まりとなる。2025年5月31日の運行をもって66系統は廃止となり、最も近い停留所は小塩よりさらに手前の灰方となる[9]。 参拝者向け駐車場がある(有料)。徒歩の場合は向日町駅から7.2km、東向日駅から6.8km、長岡天神駅から6.8kmで約2時間弱となる[10]。 入山料
周辺脚注注釈出典
参考文献
関連項目外部リンク |
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