総持寺 (茨木市)
総持寺(そうじじ)は、大阪府茨木市総持寺にある高野山真言宗の寺院。山号は補陀洛山(ふだらくさん)。本尊は千手観音。西国三十三所第22番札所。開基である藤原山蔭は四条流庖丁道という新たな庖丁式(料理作法)を定めたことから料理人の信仰を受けている。 本尊真言:おん ばざら たらま きりく そわか ご詠歌:おしなべて老いも若きも総持寺の 佛の誓い頼まぬはなし 歴史当寺の草創説話は助けた亀の恩返しと観音の霊験に関するもので、当寺所蔵の縁起絵巻のほか『今昔物語集』『源平盛衰記』などにもこの話は書かれている[1]。 それによると、開基である藤原山蔭の父・藤原高房が筑前国の大宰府に赴任の途中、淀川を船で下っている際に漁師たちが大亀を捕らえているのを見て「今日18日は観音様の縁日だから」と、亀を買い取って淀川へ逃がしてやった[1]。 しかしその日の夜、山蔭が継母の計略によって船から川に落とされてしまった。高房はこれを悲しんで観音に祈ったところ、高房が助けた亀が山蔭を甲羅に乗せて眼前に現れた。こうして観音のご恩に感謝した高房は観音の造像を発願するが、造像する前に亡くなってしまった[1]。 そこで、高房の没後に山蔭が父の遺志を継ぎ、千手観音像を造立させて祀った、これが当寺の起源だとされている[1]。また、現在真如堂の境内にある新長谷寺[注 1]にも当寺と同じような創建伝承があるが、こちらの場合は千手観音像ではなく長谷寺式十一面観音立像となっている[2]。 なお、寺伝では元慶3年(879年)頃に藤原山蔭によって当寺は創建され、山蔭の三回忌の寛平2年(890年)に伽藍が完成したとしている[1]。 当寺は天正年間(1573年 - 1593年)に織田信長の兵火にかかって衰亡したが、慶長8年(1603年)に豊臣秀頼によって本堂が再建され、境内の復興が行われた。 藤原山蔭は本尊の像立に際し、千日間に渡って仏師に料理をお供えしたという縁により、我が国の包丁道の祖として祀られている。毎年4月18日には藤原山蔭の御宝前において伝統の「山蔭琉包丁式」(四条流庖丁道)が行われる[3]。「山蔭流庖丁式」とは、庖丁士が手で魚を触れることなく庖丁と真名箸のみで調理するというものである[4]。 本尊当寺の秘仏本尊の木造千手観音立像は像高75.4センチメートル[5]。寺伝に基づき、亀の背に乗っている。脇侍として善女竜王像と雨宝童子像を配する。 境内
文化財茨木市指定有形文化財
行事
御詠歌もともと「おしなべて 高き賤しき 総持寺の 仏の誓ひ 頼まぬはなし」だったが、近年の人権意識の高まりにより「おしなべて 老いも若きも 総持寺の 仏の誓ひ 頼まぬはなし」に変更されている。 前後の札所
拝観情報
所在地
アクセス
脚注注釈
出典
関連項目外部リンク
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