彼のオートバイ、彼女の島『彼のオートバイ、彼女の島』(かれのオートバイ、かのじょのしま)は、片岡義男の小説、またそれを原作にした大林宣彦監督の日本の映画。 音楽大学に通いつつ、オートバイ(カワサキの650RS-W3)に乗りアルバイトでプレスライダーをしている主人公と、瀬戸内海の離島出身の女性が、初夏の信州で知り合い、展開していく物語。 概要片岡義男の長編恋愛小説であり、角川書店の文芸雑誌『野性時代』1977年1月号に発表され、1977年8月に角川書店から単行本として出版された。のち、1980年5月に角川文庫に収録された。単行本のカヴァーには、作者自身がつけた「夏はただ単なる季節ではない。それは心の状態だ」という、サミュエル・ウルマンの「青春」という詩の一節をもじったコピーがつけられていた。その後「時には星の下で眠る」「幸せは白いTシャツ」などの一連のオートバイが登場する小説が続いた。主人公のコオこと橋本功とミーヨこと白石美代子の恋愛を、もうひとつの主人公ともいうべきオートバイとともに生き生きと描いた作品。「同時代のライダーのバイブル的地位を占めた」という見方がある[1][要出典]。
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映画
1986年4月26日公開。併映は角川春樹監督の『キャバレー』。映画監督の大林宣彦が、原田貴和子をヒロインに起用してメガフォンを取った作品である[3][4][5]。また竹内力の映画デビュー作である[6][7][8][9]。 「彼女の島」は瀬戸内の島(原作では岡山県笠岡市の白石島となっているが、映画では広島県の岩子島でロケを行っている[10][11][12]) あらすじ(映画版)初夏、東京のバイク乗りの若者・コオは旅に出て信州の峠の道路脇で休憩すると、若い女性・ミーヨと出会う。ミーヨがコオのオートバイ(大型バイク)に興味を持ったことがきっかけで親しくなり、旅から帰った後手紙や電話でやり取りを始める。お盆が近づきミーヨはコオに実家がある瀬戸内海の島に遊びに来るよう誘うと、後日島に憧れた彼がオートバイで訪れる。島でコオのオートバイに乗せてもらったミーヨの中で、オートバイを運転してみたいという気持ちが芽生え始める。 3泊4日の島での休暇で生命力を得たコオは東京に帰ると精力的にバイト生活を送るが、秋頃ミーヨがひょっこり現れる。コオはミーヨから「コオと一緒に走りたくなった」と夏の終わり頃に取得した中型免許を見せられ、2人はそのまま同棲することに。コオとツーリングに出かけたミーヨは彼から運転のコツを教わり徐々に上達し、「早く大型免許を取得したい」という気持ちが強くなっていく。 11月頃コオはミーヨを連れてバイク仲間とサーキット場[注 1]に走りに行くと、走りを見ながら仲間が彼女を褒めるのを耳にする。しかしコオが「ミーヨは中型免許を取って3ヶ月」と告げると、仲間から「大型に乗せるには運転歴が浅すぎる」と忠告される。その日からコオはミーヨに「大型免許を取るのは春先でいい」と先延ばしにし始めるが、彼女は徐々に不満を募らせる。 ある日ついに痺れを切らしたミーヨはコオとケンカになり、彼女のバイクへの思いに負けた彼は教習所通いを許してしまう。その後ミーヨは大型免許を取得するが、コオとギクシャクしたままの彼女は「私の中の風が止まったみたい。一度島に帰ります」と置き手紙を残してコオのオートバイで帰ってしまう。再び夏を迎えた頃、周りから以前と様子が変わったことを指摘されたコオは友人のバイクを借りてミーヨの島へと向かう。 ミーヨと仲直りしたコオはツーリングしながら、「彼女の存在はこの島のようで、俺の存在はオートバイのようだ」と気づき、バイクで風を切って走る彼女との一体感に自分を取り戻す。雨の中二手に分かれた道からお互い別ルートでドライブインを目指し、先に到着したコオは店内でミーヨを待つが彼女は現れない。後からきた客が「さっきトラックと女性ライダーの事故を目撃した」と周りに話すのを聞いたコオは、ミーヨのもとへ駆け出すのだった。 スタッフ
キャスト
劇中歌挿入歌
製作最初は小説が発表された1977年のゴールデンウィーク映画として[13]、松竹が郷ひろみ主演作として映画化を予定し[13]、郷も役作りを終え、ボルテージを高めていた段階で[13]、松竹は「あまりにも暗い。ゴールデンウィーク作品にふさわしくない」と製作を中止し[13]、郷の主演作を『突然、嵐のように』に急遽変更した[14][15]。郷は『冬の旅』が『さらば夏の光よ』になったことに続いてのことで怒り心頭だった[13]。それから10年経って映画化が実現した。 脚色シナリオは概ね原作に準拠したものであるが、二人の幸福な未来を予見させる原作とは大きく異るショッキングな結末となっている[注 4]。 キャスティング本作がデビューとなる竹内力は映画初主演[6][8]。それまで大阪で三和銀行の社員をしていたが[6][16]、役者になりたいと一念発起してオートバイで東京に出て来た[7][17]。アルバイトをしていたライブハウスでスカウトされ[6]、この話をオーディションで聞いた大林が竹内をすっかり気に入って「この映画に出るのはキミの運命だ」と主役に抜擢した[4][6][17]。竹内自身も「俺もピッタリだなあと思った」という[6]。 原田貴和子は、1984年夏の妹の主演映画『天国にいちばん近い島』のニューカレドニアロケに同行し、出演はしていないが、大林と会い「今度(映画を)一緒にやろうよ」と声をかけてもらっていた[18]。原田は『アフガニスタン地獄の日々』に続いての映画2作目だが、実質的には本作がデビュー作[11]。原田の出演決定は1984年6月[11]。『アフガニスタン地獄の日々』のロケで1985年3月にイタリアローマに立つ直前に本作の準備稿を渡され、『アフガニスタン地獄の日々』の撮影が終わり、帰国間もなく本作の撮影に入った[11]。『アフガニスタン地獄の日々』はローマでオールロケのため、撮影所での撮影は本作が初体験だったという[11]。『アフガニスタン地獄の日々』の撮影は、スタッフとのコミュニケーションもままならぬ状況で、大林の緻密で丁寧な映画作りに感銘を受けたと話している[11]。 1996年のインタビューで原田は、本作の主役に決ったときは「監督から要求されるものに対して、それに応えたいという気持ちは120%、この映画に対する意欲は本当に強かったです。監督を信じて、自分を全部透明にして、どんな色にでも染めてもらいますという潔さがありました」「作品中、盆踊りで浴衣を着ているシーンが本当に大好きです。何だか、昔からこの島で育った〈ミーヨ〉になりきってしまったほどでした。私も田舎は長崎なんですが、海と山の両方が手でつかめるようなところで、この島の町並みはすごく懐かしい。昔からこの島で生まれ育ってたような錯覚。昔から知っていたような景色がいくつもあって、そのときの空気の匂いまで覚えています」[18]「離れてみて初めて、人間的な意味でも映画監督としても大林監督の偉大さが分かる気がします。私は大林監督ほど、心から納得できる人とお会いしたことはないです」などと述べている[18]。 撮影コオがフェリーに乗って瀬戸内の島に上陸する場面であるが、フェリーは生口島(広島県尾道市瀬戸田町五本松)と伯方島(愛媛県今治市伯方町北浦)を結ぶ航路で撮影された。オートバイで港に上陸するのは北浦港での撮影であり、実際の映画撮影は個別の島に固定せず撮影場所を選んだようである。 ロケが全体の3分の2以上を占める[11]。1985年5月23日クランクイン[11]。ロケ隊が東京を出発し、長野県白糸の滝他[19]、新潟県をまわり、一旦帰京[11]。都内ロケ、世田谷区粕谷、新宿区市谷等をはさみ[11]、にっかつ撮影所にてセット撮影[11]。1985年6月末尾道ロケ[11]。盆踊りのシーンは岩子島の小学校の校庭で撮影された[11][12]。雨のシーンが多いのは実際に梅雨時の撮影で、予想外に雨の日が多く、また台風の接近で晴れを想定していたシーンも雨のシーンに切り換えて撮影した[11]。1985年6月末にクランクアップを予定していたが7月にずれこんだ[11]。 角川映画としては『スローなブギにしてくれ』『メイン・テーマ』に続く3作目の片岡作品で[11]、ファッショナブルな映画をイメージしがちだが[11]、大林は「ファッションの映画ではなく、心の渇望を描いた映画。50年代のハードアクションのエッセンスを施したハリウッドムービーに近い恋愛映画を狙った」などと話している[11]。モノクロとカラーを行ったり来たりするのは、テクノ・モノクロという新しい技術によるものだという[11]。モノクロは通常回想シーンで使用されることが多いが[11]、今回はオートバイの質感を出すために取り入れたという[11]。 編集最初は105分の映画だったが、併映の角川春樹監督作品『キャバレー』も長くなったため、「大林さんの方を15分切れませんか」といわれ、大林が承知し、大林自身が一番いいシーンと思っていた箇所を切った[20]。削った部分は、主にコオを優柔不断に描いていたシーンとミーヨが田舎に帰って死ぬまでの愛の葛藤を描いたシーン[21]。 音楽同作品の冒頭から5分程経過したあたりで、レコードがかかっているシーンと共に流れる音楽は、ショパンの「エオリアン・ハープ」である。 作品の評価受賞歴
影響原田貴和子は劇中でヌードを披露している[4]。撮影場所は群馬県にある法師温泉[10]の長寿館の浴室である[22]。このヌードシーンに角川春樹事務所のスタッフが誰一人同行せず[23]。素人同然の若い女性がヌードシーンを要求されるという日に、スタッフが誰も顔を見せない事態に不信感を募らせた原田は、1986年10月31日付けで角川春樹事務所から独立した[23]。この影響で原田知世、渡辺典子と相次いで所属女優が独立し、角川事務所の影響力は一挙に低下した[23]。原田は「脚本の段階で大林監督が『伊豆の踊子』の話をしてくださり『本当にちゃんと(ヌード)を撮りたい』と言われました。私も絶対必要なシーンだと思い、『やりましょう』と言いました」などと述べている[18]。 脚注注釈出典
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