徳川治済
徳川 治済(とくがわ はるさだ[1])は、江戸時代後期の武士。御三卿の一つである一橋家第2代当主。江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗の孫。第11代将軍徳川家斉の実父として権勢を誇り、幕政に隠然たる影響力を持った。 生涯宝暦元年(1751年)11月6日、徳川宗尹の四男として生まれる[2]。母は細田時義の娘・由加。幼名は豊之助[2]。 長兄・松平重昌は寛延2年(1749年)に、三兄・松平重富は宝暦8年(1758年)3月21日に、それぞれ越前国福井藩を継いでいた[2]。このため、宝暦8年12月19日、豊之助が一橋家の世子となり、徳川を称する[2]。宝暦12年(1762年)12月1日に元服、従兄弟である将軍徳川家治より偏諱を賜り治済と名乗り、民部卿となる[2]。明和元年(1764年)11月11日、従三位左近衛権中将に叙任される[3]。同年閏12月19日、一橋家の家督を継いだ[4]。 明和4年(1767年)12月4日、京極宮公仁親王の娘・在子女王を正室に迎える[4]。 田沼意次が幕政を指揮する中、一橋家には意次の弟・意誠や、甥・意致が家老となり、一橋家家臣とも縁戚関係を築いていた。しかし治済は松平定信ら反・田沼派の黒幕として運動し、天明6年(1786年)、将軍家治が亡くなり、家斉が11代将軍に就任すると、意次の罷免、田沼派の一掃を行わせた。 天明8年(1788年)に家斉は治済を「大御所」待遇にしようと幕閣に持ちかけるが、当時朝廷で光格天皇が実父・閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとしてこれに反対した老中の松平定信と対立する尊号一件が発生していた。その結果、治済の大御所待遇もできなくなり、治済・家斉父子の怒りを買った定信は失脚した。 寛政11年(1799年)1月27日、従二位権大納言に叙任される[4]。同年、一橋家の家督を六男・斉敦へ譲って隠居し、幕府から5万石の賄料と5千両の年金を別に受ける[1]。文政元年(1818年)6月5日、剃髪して穆翁と号す[4]。同年12月11日、 文政3年(1820年)4月21日、従一位に叙せられる[4]。文政8年(1825年)3月7日、准大臣にのぼる[4]。 文政10年(1827年)2月20日、77歳で死去[4]。法名は最樹院[4](最樹院殿性體寶徹大居士)。墓所は東叡山寛永寺(現・東京都台東区上野)。 文政11年(1828年)1月19日に内大臣[4]、文政12年(1829年)2月8日に太政大臣をそれぞれ追贈された[4]。 妻・子女
徳川治済 准大臣の辞令(宣旨)正二位行權大納言源朝臣重能宣 (「甲子夜話続篇」) 評価漢学者・五弓久文が著した徳川家斉の伝記『文恭公実録』によると、当時その豪奢な生活ぶりから、「天下の楽に先んじて楽しむ」三翁の一人に数えることわざが作られたという(残り二人は中野清茂、島津重豪。一方、正反対に「天下の憂に先んじて憂う」人物として松平定信が挙げられている)[12]。 関連作品小説
映画
テレビドラマ
漫画脚注
参考文献
外部リンク
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