慶應義塾志木高等学校
慶應義塾志木高等学校(けいおうぎじゅくしきこうとうがっこう、英: Keio Shiki Senior High School)は、埼玉県志木市本町四丁目に所在する私立高等学校。 略称は、学外では「慶應志木(高)」であるが、塾内では単に「志木高」(しきこう)[1]と呼ばれる。 概説1948年(昭和23年)に発足した慶應義塾農業高等学校を前身とする。10万m2にわたる校地には、暗渠の野火止用水が横断し、道路をはさんで隣接する「慶応ふれあいの森」(マンションの脇)もかつては校地で、旧寄宿舎(有隣寮、高翔寮、1990年閉寮)があった。広大な敷地の中には、300メートルトラック、サッカー兼ホッケー場、バレーコート、ラグビー場、軟式テニスコートなどの運動場の他、500種類以上の植物が見られる森林や小規模な農地もある。 慶應義塾大学と連携して高大一貫教育を行っている。慶應義塾が設置、運営する中学校のうち慶應義塾中等部、慶應義塾普通部からも本人、保護者の希望により進学でき、毎年計20名程度の進学がある。 本校での教育は「受験のためでなく自分のため」とされ、教員も「半学半教」を旨とする。特徴的なカリキュラムとして、「総合的な学習の時間」では24の言語を学べる「語学課外講座」が用意されている。校内の自然環境を一般に公開する「自然観察会」、地震観測といった活動もある。音楽や美術など、芸術系科目の教育も充実している。 卒業すれば慶應義塾大学へ進学でき、交通の便も良いことから、人気と知名度が高く、埼玉県だけでなく首都圏全域から生徒が受験、進学する。 ただし、慶應義塾大学の各学部には人数枠があるため、希望の学部に進学できるとは限らない。特に医学部と法学部は例年人気が集中し、進学難易度が高い。また、他大学への受験対策等を行うことは厳しい環境であり、医学部以外の他大学を受験する場合は慶應義塾大学への推薦を辞退しなければならない。特例として、医学部志望者だけは、慶應義塾大学医学部への推薦進学を優先する、という条件の下で、推薦を辞退することなく他大学の医学部を受験することができる。 一般入試の難易度は非常に高く、高校入試では全国トップレベルである。入試問題の難しさだけでなく、募集定員の少なさ(一般入試は例年約190名)も難易度の高さの要因となっている。 また、自己推薦入試もある。定員は約40名。自己推薦入試では、大会・コンクール等での実績の他、主体的な学習への意欲や将来の目標などが重要な判断材料とされるのが特徴である。また、帰国生入試もあり、例年20~40名(募集要項には「若干名」と記載されている)が入学する。学校全体の生徒数が少ないため、一般入試以外で入学する生徒の割合は決して小さくない。 慶應義塾中等部、慶應義塾普通部など、系列中学校からの内部進学者は少数で、例年10名にも及ばないことが多かったが、近年微増している。 沿革略歴![]() 1944年、慶大日吉キャンパス内に慶應義塾獣医畜産専門学校が開設された。当初は大学農学部を置く予定であったが、戦時下での政府の方針などから専門学校に縮小された経緯がある。戦後、アメリカ軍により日吉キャンパスが接収された時期があり、川崎市蟹ケ谷の旧海軍東京通信隊の施設を借用して授業を再開したが、1947年に塾員の松永安左エ門から東邦電力東邦産業研究所跡地の寄贈を受けて移転した。1948年、学制改革により慶應義塾農業高等学校へ転換、1957年に普通科高校へ転換し、系列大学への無試験進学が認められた。 年表
環境![]() 校内の敷地は広大(32529坪)で、武蔵野の面影を伝える樹林や竹林があり、埼玉県の準絶滅危惧種であるカタクリが生育するなど植生が豊かである。校内には池が3か所、水田が1か所あり、ヒキガエル、アマガエル、カルガモなどが繁殖している。池の周辺では、カルガモの雛を狙うアオダイショウの姿もよく観察される。まれにタヌキ、モグラなども見かける。学校周辺は完全に市街地化しているため、校内のタヌキは遺存的な個体群であり、貴重なものである。自然度が高いためオオスズメバチが生息しており、近年駆除を行ったが未だに校内でよく見られる。志木市天然記念物に指定されているチョウショウインハタザクラ(長勝院旗桜)が敷地内に植樹されている。 近年、生物部が飼育していたモリアオガエルが逸出し、野生化するという事案が発生した。同種は一時的に校内の環境に適応、繁殖も確認されたが、数年で絶滅したとみられている。また、これにより元来生息していたニホンアマガエルが絶滅に追い込まれ、構内に生息するカエルはアズマヒキガエル一種のみとなった。 農業高等学校時代の名残から、校内に作られた畑で耕作授業も行われている。このような恵まれた自然環境は本校の特徴の一つである(生徒1人あたりの敷地面積は他の高校と比べて非常に広い)。 農業高校時代に農地だった土地は現在グラウンドとして活用されている。以前は野火止用水が流れていたが、現在は暗渠化されている。現在の敷地面積は農業高校時代と比べ、半分ほどに減っている(慶應義塾の財政難の対策として所有地を売却したため)。 教育方針・目的教育方針慶應義塾の創設者である福澤諭吉による「慶應義塾の目的」(演説の一節をのちに抜き書きしたもの)、「独立自尊」の精神に基づき、志木高ではさらに以下の四つを教育目標に掲げている[2]。
目的生徒手帳の1頁目には、「慶應義塾の目的」が載っている。
校風校則がなく自由な校風である。例えば、普段の服装は自由(制服は存在するが、式典等でのみ着用する)で、ヘアカラーやパーマ、イヤリング等を施しても注意されることは皆無である。しかし、同時に自己責任が問われることも事実である。これは福澤諭吉の建学精神である「独立自尊」に由来する。緑豊かな環境、卒業すれば原則全員が慶應義塾大学へ進学可能であるため進学の心配が少ないことなども、伸び伸びした校風を形成している要因である。 始業前後のホームルームや集会は一切なく、授業開始直前に登校し、授業終了後すぐに下校する生徒も多い。ホームルームは、週に一度、50分間のみである。清掃の時間もなく、放課後などに清掃業者が清掃を行う。上履きを履くのは体育館のみであり、生徒は校舎内でも土足で生活する。また、教員の都合で授業が無くなる(休講)ことがあっても、自習や課題が課されることはほとんどなく、自由時間とされる。さらに、こうした自由時間や昼休みには、校外へ出かけて買い物をしたり昼食をとることができる。こうした点から、本校の雰囲気は大学のそれと似ている部分があるといわれる。 こうした理由から、授業態度や試験の成績が芳しくなくても、教員から注意されることがほとんどない。それゆえ、成績不良で留年する者も、毎年一定数存在する。 評定は3~10の8段階評価で、「全教科の評定の平均が6以上」でなければ進学・進級ができず、留年になる。また、「評定3を1点、4を0.5点としたとき、全教科で2.5点に達する」と、同様に進学・進級ができない。 式典も少なく、始業式や終業式は一切行われず、学期の初日から通常の授業が始まる。また、期末試験終了から2週間程度の授業の後、長期休業に入る。 教育教育課程慶應義塾の一貫教育校で、1学年250名の男子校。6クラス編成で、内部進学者(慶應義塾中等部、慶應義塾普通部、例年計約20名)と入試を経て進学する者(外部入学者約230名)とは第一学年から混合クラスを編成する[3]。 卒業すれば学校長から慶應義塾大学の各学部への推薦を受けられるため、受験のための勉強は多くの場合しない。カリキュラムも非常に独特で、個性ある教員によってユニークな授業が展開される。レポートも多い(特に化学と物理はレポートが多いだけでなく定期試験も非常に難しい)。教科書は数学系しか用いず、大学受験などを行うのは難しい環境になっている。自由選択の化学と物理のカリキュラムは大学二年の課程までに修了させる。 2学年時の「総合的な学習の時間」では、言語や民族そして文化や歴史などに関する24の講座がある。 2学年時と3学年時の語学課外講座では以下の24の言語と文化が学べ、その言語を母語とする講師を招いている例もある。 教員不在により授業が休講になることが多々ある。 語学課外講座として開講されている言語進級・卒業一学期制としているが、第1回定期試験の6月末までを「1期」、第2回定期試験の11月初めまでを「2期」、第3回定期試験の2月末までを「3期」と呼んでいる[5]。各科目の成績は3 - 10の8段階評価でなされる。1と2は用いられない。留年の基準として、評定平均が6を下回る場合または3を1.0、4を0.5として、それらの合計が各学年の成績算出時に2.5を超える場合には留年となるが、恩赦により仮進級処分となることもある。留年は各学年で1度だけが許される(したがって、最長で6年間在籍可能)。2度続けて留年になると学則により退学となる。 進路卒業すれば全員が学校長から慶應義塾大学への推薦を受けられるが、各学部で推薦の人数枠があるため、医学部をはじめ、法学部、経済学部などの人気が集中しやすい学部枠の獲得には相応の成績が必要となる。他大学を受験する場合は、慶應義塾大学への推薦を辞退しなければならない。在学中の成績・出欠状況を考慮した上で、各学部毎に設けられた定員に従って決定される。 理工学部、医学部、薬学部のいずれかに進学するためには、2年および3年次の必修選択科目で化学・物理を選択することの他に、3年次での自由選択科目で定められた理系科目(理工学部、薬学部と医学部では多少異なる)を選択することが必要である。 卒業生の殆どが慶應義塾大学の各学部へ進学している。
※薬学部は2008年4月に開設 象徴
入試慶應義塾が設置・運営する一貫教育中学校のうち、慶應義塾中等部の男子と慶應義塾普通部の卒業生は本人・保護者の希望により慶應義塾志木高等学校に進学できる。実際はそれぞれ大半が塾高へ進学し、志木高への進学は例年計20名程度である。 外部の中学校からの入試として、以下がある。 一般入試と帰国入試の第1次試験の筆記試験は2月上旬に一緒に行われる。第1次試験の筆記試験では、国語・数学・英語の3教科で合否判定される。その第1次試験の合格者は次の日の第2次試験の面接に進み、それで最終的な合否が決まる。 慶應志木の入試日は例年、2月の上旬に行われる。これは、都内の高校の入試解禁日(近年は2月10日)より前であるので、首都圏全域から最難関高の併願、腕試しとして受験生が集まる傾向にある。 慶應志木は、塾高(神奈川県)と比べると募集定員が少なく、塾高の入試日が都内の入試解禁日や神奈川県立高入試日と重複するなどから、合格するには相応の学力と志望理由が必要である。一般・帰国入試では例年併せて募集定員が約190名だが、前述の通り第一志望校としない生徒が多数受験し、成績上位を占めるため、募集定員を超える合格者を出し、補欠合格も多めに設定する。補欠合格は電報で個々に伝えられるが、早ければ合格発表日当日に電報が届く。 自己推薦入試は、高校生活において自ら学ぶ目的を明確に示すことができる受験生を対象とする。この自己推薦入試では、入学志願書と面接によって合否を決める。受験生はこれまでの中学生活において、自分が熱心に取り組んできた活動と、そこから自分が何を得たのか、何を学んだのかを入学志願書に細かく示す必要がある。これは必ずしも、全国大会・コンクール等の成績順位を重視するものではない。慶應義塾の「独立自尊」の精神にふさわしい人材かどうか、慶應義塾志木の高校生活において、自ら考えて、自らの責任をもって知性を磨ける人間かどうかを試す試験である。 アクセス旧寄宿舎かつては自宅からの距離が遠いため通学困難な生徒のために寄宿舎(有隣寮、高翔寮)が併設されていた。有隣寮は1962年、高翔寮は1964年に完成。慶應義塾の一貫教育校で唯一寮を持つ高校であったが、当時通学生の比率の方が高く、公共交通機関が発展してきたため、年々入寮者が減少、1987年度の新入生を最後として募集を終了し、1990年に閉鎖された。 旧寄宿舎寮跡地の売却問題道路を挟んで旧寄宿舎のあった敷地は、2002年頃大手不動産に売却された[7]。旧寄宿舎の周囲は野火止用水が与えた広大な樹林の流れを汲む森[8]であり、この地域に暮らす市民の耳に届いたのは2002年盛夏の頃であった。 志木市大原地区の市民は「慶応高校の緑に想いを寄せる会」を設立。開発業者と志木市に要請するための署名を集め、一万人以上の署名を集めた要請書を志木市長に提出[9]、開発業者に対しては直接市民が開発計画に参画することを要請した。同年12月11日には市民、志木市、開発業者の三者協議の会が発足した。 協議は毎週行われ、マスタープランを完成するにあたり、「緑のワークショップ」を聞くなどのプロセスが取り入れられた[10]。三者協議は5回にも及び、その結果、敷地内に充分なパブリックスペースを確保し、北側・西側の斜面林は一体となって保存する方向となった。 しかし、跡地北側、東側の反対陳情書により、道路に面した南側に建設され、地上14階建ての建物は空を覆う形となり、すでに道路で隔てられていたとはいえ、森林の連続性がさらに失われた。志木市市民プレス第8号では、文末に「志木市の「緑のまちづくり」の重要な拠点だった現地を、もっと早く開発の規制をしておくべきだった。志木市と慶応義塾に対して、その無念の思いはつのる。」としめくくっている。 残された北側・西側の斜面林は「けいおうふれあいの森」として協定緑地となっており、かつての野火止用水も緑地のへりを通過している。 年間行事
部活動系列の慶應義塾大学、慶應義塾高等学校、慶應義塾女子高等学校との合同練習が行われる部もある。以下の18の体育部と11の文化部がある。
著名な関係者出身者政界・官界・法曹界
実業
学術・研究
マスコミ
芸能・文化・スポーツ
教職員その他
脚注
関連書籍
関連項目外部リンク
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