慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団![]() 慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団(けいおうぎじゅくワグネル・ソサィエティーだんせいがっしょうだん、英語: Keio Gijuku Wagner Society Male Choir、ドイツ語: Keio Gijuku Wagner Gesellschaft Männerchor)は、慶應義塾大学の学生により構成される男声合唱団。1901年(明治34年)に創立された「慶應義塾ワグネル・ソサィエティー」の男声合唱部門である。初代指揮者は大塚淳 (1908 - 1937)、元顧問指揮者は木下保(1926 - 1932・1955 - 1982)、元指揮者は山口雅章 (1937 - 1939)、梅原文雄 (1939 - 1953)、桂冠指揮者は畑中良輔 (1960 - 2012)、音楽監督は佐藤正浩 (1995 - )、常任指揮者は福永一博 (2024 - )、客演指揮者は北村協一 (1959 - 2002) 他多数、元ヴォイストレーナーは大久保昭男 (1960 - 2014)、綱川立彦 (2001 - 2012)、現ヴォイストレーナーは小貫岩夫 (2012 - )、学生指揮者のトレーナーは浜田広志 (2020 - )。(カッコ内は在任年) 概要ソサィエティーは、オーケストラと本団、そして1950年に結成された女声合唱団から成る。誕生については「明治34年(1901年)の10月か11月……三田の牛鍋屋の二階で結成式を行った」という[1]。これに先立つ1899年に関西学院グリークラブが発足しているが、聖歌隊を発祥としていることから、当団は「日本最古の『演奏団体』」を名乗っている。発足当初からオーケストラパートと合唱パートが存在したが、その区分は緩やかで、大半がオーケストラと合唱の双方に参加[2]しており、オケと合唱は行動はすべて皆同じ[3]であった。オーケストラパートの者が合唱に加わり、合唱目当てに入団した者が入団後に楽器を手にしたりすることなどが普通に行われていた。 畑中は「嘗って日本の洋楽は『上野の杜』か『三田の丘』であった[4]」と述べているが、両者の関係は非常に密接であり、上記の指導者の中で大塚、木下、山口、畑中、佐藤、大久保がいずれも東京音楽学校・東京芸術大学の出身である。とりわけ木下は、東京音楽学校在学中から「大塚先生の頼みで、定演でワグネリアンに化けて堂々と(?)ヴィオラを演奏し、合唱ボーイとしてトップテノールを歌い、演奏旅行では歌ったり、ヴィオラを弾いたり、ピアノ伴奏までして、日本の各所から朝鮮まで遠征した[3]」という。また、杉山長谷夫、澤崎定之、関鑑子、柳兼子、永井郁子、武岡鶴代、立松房子、橋本國彦、徳山璉、早川(平井)美奈子、平原寿恵子、中村淑子、増永丈夫、四家文子、佐藤美子、松原操、松田登志、ベルトラメリ能子、奥田智重子、柴田睦陸、関種子、長門美保、川崎静子など、東京音楽学校出身で(東京音楽学校出身以外でも藤原義江、本居貴美子の名もある)日本の洋楽を支えた面々はほとんどワグネルの演奏会に登場している[5][6]。とりわけ戦後の木下の再招聘後、畑中、大久保の指導陣が加わった際、福永陽一郎は「ワグネルの指導陣のよさは、ほかに想像できぬほど強力」と評した[7]。 第二次世界大戦後、合唱パートがいち早く復興し、女声合唱団の結成もあって、それぞれのパートの独立性が高まり、1950年代まではそれぞれのパートが協力して演奏会を開くかたちとなった。1958年には合同で慶應義塾100周年記念演奏を行い、同年の定期演奏会は実施されなかったが、男声合唱パートのみは独自の「特別演奏会」を開催した。1960年の第85回定期演奏会から、3パートが独立して定期演奏会を開催するようになった。 年3回の演奏会(東京六大学合唱連盟定期演奏会、東西四大学合唱演奏会、定期演奏会)が団の活動の中心であり(詳細は外部リンクを参照されたい)、定期演奏会は2024年12月までに149回実施している。それ以外にも、海外(米国・欧州・中国・豪州)演奏旅行、日本国内各地への演奏旅行や依頼演奏などを数多く実施している。オペラ出演やオーケストラとの共演が多いことも当団の特徴の一つである。1983年にはNHK大河ドラマ『徳川家康』のテーマ音楽を担当し、全国の家庭に歌声を響かせるなど、放送への出演も非常に数多い。 「ワグネル」の名は、作曲家のリヒャルト・ワーグナーから取られており、「慶應義塾ワグネル・ソサィエティー[8]」の名は1901年の創設時から変わっていない。団員はワグネリアン[9]と呼ばれ、そのハーモニーにはワグネルトーンという名がついている。実際には、ワーグナーの楽曲[10]を演奏することは少なかった[11]ものの、第88回定期演奏会(1964年)にオリジナルも男声合唱である『さまよえるオランダ人』の二重合唱、『タンホイザー』の巡礼の合唱を原語のドイツ語で演奏(指揮: 畑中良輔)した。『さまよえるオランダ人』『タンホイザー』全曲が日本で原語初演されるのは双方ともその後の1966年(前者がベルリン・ドイツ・オペラ、後者が二期会による)である。1969年からは『さまよえるオランダ人』『タンホイザー』などに一部編曲を組み合わせたワーグナープログラムを4年に1回は演奏し、「ワグネル在籍期間中に、必ず一回はヴァーグナーの作品の何かを歌って卒業」(第94回定期演奏会(1969年)プログラムにおける畑中の寄稿より)するように配慮がなされ、伝統となっている。1991年には、管弦楽つきの合唱曲『使徒の愛餐』を東京都交響楽団の定期演奏会にて日本初演している[12]。また、1983年11月7日[13]、1989年9月7日[14]には、来日したヴォルフガング・ワーグナーのパーティーに招かれ巡礼の合唱などを披露し、1988年10月28日にはノルベルト・バラッチュ(独語版)(バイロイト祝祭劇場合唱団指揮者)の特別レッスンを受ける[15]など、ワーグナーとの縁は深い。他にもドイツ・オーストリアの音楽を取り上げることが多く、特に発音については現代のドイツでも使われることが少なくなってきた舞台ドイツ語 (de:Bühnendeutsch) の伝統を守っている。この発音については特別レッスンを行ったノルベルト・バラッチュが「ほとんど完璧」と驚きを示している[15]。 当団創設当初は大塚淳がオーケストラと合唱の双方を指導していたが、大塚は合唱の育成は課題の一つと考え、1926年に東京音楽学校声楽科の木下保に合唱の指導を委ねた。合唱発展の基盤は木下の指導によって作られたところが非常に大きかった。木下は1932年にドイツ留学のため離任する。 1937年、大塚が新京交響楽団の指揮者となり渡満することとなったため、当団OBから東京音楽学校に進み助教授となっていた山口雅章が正指揮者に就任した。しかし山口は病を得て、わずか在任2年で33歳で没し、その後は「やむをえず」(第88回定期演奏会(1963年)プログラムにおける梅原の寄稿より)OBの梅原文雄が合唱パートの指揮者を引き継ぐこととなった。梅原は木下の精神を伝達することが自身の使命と考え、戦中の三田キャンパスの大講堂消失や活動の中断を乗り越え、戦後に合唱パートをいち早く復興させた。また梅原は1953年6月に慶應義塾ワグネル・ソサィエティーOB合唱団を組織し発足させている。しかしながら本業が多忙となり同年に指揮者を辞任せざるを得なくなった。 梅原の辞任後、指揮は一旦学生に委ねられたが、梅原のアドバイスと、当時学生指揮者であった池田文雄等の奔走により、1955年に木下の再招聘が叶った。木下はドイツ留学でものにしたシューベルト、メンデルスゾーン、シューマンなどのドイツロマン派はもちろんのこと、自身が提唱した「やまとことば」による『沙羅』等の信時潔作品などの邦人作品に繰り返し取り組み、中でも1969年に全日本合唱連盟の推薦で招待された「第2回世界大学合唱祭」における間宮芳生作曲『合唱のためのコンポジションIII』の演奏は、ニューヨーク・リンカーンセンターで好評を博した。他にもルネサンス期のポリフォニー、バッハ、近代スイスのF.ヘーガー、フランスのアルベール・デュオパ (Albert Duhaupas) の他、シベリウス、バルトーク、コダーイなど、当時まだ一般的ではなかったフィン・ウゴル語派の作品に原語で取り組む等、先進的な役割を果たした。取り上げる曲はオリジナルの男声合唱曲が多く、歌曲を編曲したものは『沙羅』(当初は福永陽一郎、のちに自身による編曲)のみであり、合唱曲の編曲もミサ(皆川達夫編曲)、バッハ(B.Treharne・C.D.Dawe 編曲)と團伊玖磨作曲の『岬の墓』(福永陽一郎編曲)のみである(髙田三郎作曲の『ひたすらな道』男声合唱版を作曲者自身に委嘱し初演しているが、第106回定期演奏会プログラムおよびカワイ楽譜には「作曲: 髙田三郎」のみクレジットされている)。 畑中良輔招聘においてキーマンとなったのは、1960年当時在学中だった学生指揮者の田中宏幸、そして特に淀野隆である。畑中が淀野の父である淀野隆三を尊敬し交流があったことに加え、自宅がすぐ近くであったことから、淀野宅が畑中招聘の「前線基地」となった。当初は多忙を理由に固辞していた畑中であったが、ついに根負けし、当初はヴォイストレーナー、ひいては指揮者就任を承諾した。木下がオリジナルの男声合唱曲を多く取り上げた一方で、1960年に招聘されて以来、指導に長年たずさわった畑中については、歌曲やオペラ、ミュージカル、混声合唱曲などの他ジャンルから、男声合唱曲に編曲したものを演奏する傾向が強く、多くの曲が福永陽一郎や北村協一などによって編曲されている。これについて畑中は、第102回定期演奏会(1977年)プログラムにおいて、「男声合唱曲は、オリジナルなものだけでは、真にすぐれた音楽性を持つ曲は限られて来る」また、第112回定期演奏会(1987年)プログラムにおいては、「《合唱を通じて世界の音楽に眼をひらいてほしい》というのが、ワグネルに対する私の基本姿勢である」と語り、古今東西の名曲を選りすぐって取り上げることを旨としている。これらのレパートリーが日本の男声合唱団のスタンダードとして定着していることは特筆に値する。 北村協一は、上記の編曲者として指導にも参加する等の長年の尽力に加え、畑中が「君の領分だよ」とした意を受け、黒人霊歌等の英米曲や、ミュージカル等の演出ステージ、多田武彦の作品を担当する等、客演指揮者としては異例の出演回数を数えている。また、学生指揮者の多くが北村に師事するなど、多くの面で特別の存在として認識されている。 佐藤正浩は、畑中同様に「合唱」の枠にとらわれず様々な分野から名曲を選曲する方針をとっており、自身による編曲も多く手掛けている。さらには、自身が得意とするフランス音楽等や、現代の邦人作曲家の作品へと裾野を広げている。また、毎年著名な客演指揮者を招き、団員がより広く高度な経験を積めるように配慮を行っている(ただし2020年は宮本益光を指揮者として招聘予定であったがCOVID-19により実現しなかった)。2024年には福永一博を招き、後の福永の常任指揮者就任へと発展した。 福永一博は2025年4月の常任指揮者就任にあたり、(1) ワグネルのドイツものの伝統を受け継ぐこと、(2) 埋もれてしまっている名作を掘り起こして新しい光を当てること、(3) 現代の作曲家に委嘱し新しい合唱曲を作ることの3点を挙げている。 これまで作曲家への新作の委嘱に対しては、早稲田大学グリークラブや関西学院グリークラブほど積極的ではないものの、多田武彦の『草野心平の詩から』や、清水脩の『朔太郎の三つの詩』『「智恵子抄」より』『魂しずめの祭』『鎮魂歌』、間宮芳生の『合唱のためのコンポジションIII』、加藤昌則の『ふなたび』、新実徳英の『愛のうた - 光太郎・智恵子 -』などを初演した。 当団と、他の著名な大学合唱団が大きく異なっている点は、当団はコンクール出場歴が戦後の一時期に限られ、非常に少ないことである[8]。これについて畑中は、第110回定期演奏会(1985年)プログラムにおいて、「僕は慶應にコンクールに今まで出ろとも出ようとも言わないのは、やっぱり音楽は数で決まるものでないから嫌なんですね。それに人と比べて自分がどうだとかすぐ気にする人間になってほしくない。」と語っている。 出身者元国立音楽大学学長・NHK交響楽団副理事長の有馬大五郎、セノオ楽譜の妹尾幸次郎、歌手の竹山逸郎、美術史研究者の西川杏太郎、ヴォーカルグループのダークダックス(高見澤宏、佐々木行、喜早哲、遠山一の4人全員)、元タレントの栗原玲児、テノールソリストの笠井幹夫、都留俊輔、平尾啓、峯岸世羽武、河野大樹、河野泰佑、バリトンソリストの堀内康雄、大久保光哉、杉田あきひろ、谷口伸、ピアニストの辻敬夫、演出家の鵜山仁、前原拓也、音楽評論家の三善清達、渡邊學而、合唱指揮者の吉川貴洋、村山俊介、茂木謙介、合唱指揮者・ピアニストの和田太郎、映画監督の河崎義祐、テレビプロデューサーの池田文雄、宮島将郎、イベントプロデューサー・作家の淀野隆、音楽プロデューサー / ディレクターの本城和治、経済学者の千種義人、中島隆信、心理学者の井下理、安藤寿康、工学者の森山剛、工学者で長崎大学副学長の柴田裕一郎、服飾ジャーナリストの飯野高広、ヴォーカルグループ ジャミン・ゼブの仲光甫、飯泉暁斗、教育研究者で『こども六法』著者の山崎聡一郎などを輩出。 またブックオフコーポレーション創業者・俺の株式会社代表取締役社長の坂本孝、トヨタ自動車の渡辺捷昭(2005年 - 2009年社長、2009年 - 副会長)、南都銀行の石田諭(2025年4月 - 頭取)を初め、経済界にも多くの人材を輩出している。 主な関連人物三浦洋一(ピアニスト)、井上直幸(ピアニスト)、皆川達夫(編曲、指揮)、福永陽一郎(編曲)、大場俊一(ピアニスト)、細川哲朗(ピアニスト)、平野忠彦(バリトン歌手)、長野羊奈子(メゾソプラノ歌手、朗読)、大石潤(ピアニスト)、増山(旧姓: 木下)歌子(ピアニスト)、瀬山詠子(ソプラノ歌手)、築地利三郎(バリトン歌手)、粟飯原美智子(ソプラノ歌手)、久邇之宜(ピアニスト)、岩淵雅俊(ピアニスト)、西義一(バリトン歌手、指揮)、永田峰雄(テノール歌手)、小泉惠子(ソプラノ歌手)、本庄篤子(ヴァイオリニスト)、塚田佳男(ピアニスト)、三林輝夫(指揮)、秋葉京子(メゾソプラノ歌手)、花岡千春(ピアニスト)、千代正行(バンジョー、ギター)、荒道子(メゾソプラノ歌手)、若杉弘(指揮)、志村年子(メゾソプラノ歌手)、大川隆子(ソプラノ歌手)、谷池重紬子(ピアニスト)、荻久保和明(作曲、指揮)、西川秀人(ピアニスト)、藤田雅(ピアニスト)、伊藤京子(朗読)、大島洋子(ソプラノ歌手)、前田勝則(ピアニスト)、腰越満美(ソプラノ歌手)、小濱妙美(ソプラノ歌手)、藤井宏樹(指揮)、辻博之(指揮)、永澤友衣(ピアニスト)、大里みどり(パーカッション)、雨森文也(指揮)、平林知子(ピアニスト)、牧戸太郎(作曲、編曲)、山田章典(ベース)、松本望(作曲、ピアニスト)、清水敬一(指揮)、小川里美(ソプラノ歌手)、相澤直人(作曲、指揮)、森田花央里(作曲、ピアニスト)、清水雅彦(指揮)、宮本益光(指揮)、辻裕久(指揮)、原田太郎(指揮)、濱野基行(ピアニスト)、キハラ良尚(指揮)など。[6] 海外での演奏
オペラ、オーケストラ演奏会等への出演以下の他にも有志が藤沢市民オペラ、オペラ彩などに数多く出演している。
放送出演注記のないものはNHKクロニクルの記録による[57]。東京六大学合唱連盟定期演奏会、東西四大学合唱演奏会の曲目については外部リンク参照。
主なディスコグラフィー「合唱名曲コレクション」シリーズの発売元は東芝EMI、「日本合唱曲全集」の発売元はビクターエンタテインメント(のち、日本伝統文化振興財団)。この他、慶應義塾関連の歌を演奏したCD、レコードが数多く存在する。
脚注
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