昭和天皇の戦後巡幸昭和天皇の戦後巡幸(しょうわてんのうのせんごじゅんこう)は、戦後(第二次世界大戦における日本の降伏後)の混乱期と復興期に当たる1946年(昭和21年)2月から1954年(昭和29年)8月までの間に、第124代天皇の昭和天皇が行幸して各地を巡った(巡幸)ことである。 概要第二次世界大戦の終結後、1945年(昭和20年)11月12日、伊勢神宮及び山陵に戦争終熄の御奉告のため、同月11月15日までの日程で三重県、奈良県、京都府に行幸した。天皇は、後日、この行幸に際して国民との近接を図り得たと感じたため、国民と皇室との親しき結びつきについても効果を望む旨を述べている[1]。その後、昭和天皇自身の発案により[2]、1946年(昭和21年)2月から1954年(昭和29年)8月まで、8年半をかけて全国各地(米国統治下の沖縄を除く、全46都道府県)を行幸した。 当初は日帰り又は短い旅程であったが、次第に10日~数週間に及ぶ長い旅程のものに変化した。行幸は天皇単独で行われることが多く、香淳皇后が同伴したのは1947年(昭和22年)の栃木県行幸、1954年(昭和29年)の北海道行幸の際の2回のみである(静岡県へは同一旅程であるが、皇后単独で沼津市に行啓)。 長期間に及ぶ場合には適宜、休養日が設定されたが、1947年(昭和22年)の東北行幸の例では、前日に行幸先に加えた病院を慰問に訪れたり、地域の篤農家から農林業に関する知識について奏上を受けるなど休養とは名ばかりの状態となっていた。また、8月15日の終戦記念日など節目の日にも行幸は続けられた[3]。 行幸先各地では、奉迎場(学校・公営グラウンド・駅前など大勢が集える広場)や特産品天覧会場が準備された。行在所(宿泊先)も、各地の公的機関や旧家の邸宅のみならず、保養地の温泉旅館・ホテル等も選ばれている。 1946年(昭和21年)11月13日、終戦連絡中央事務局は連合国軍最高司令官総司令部に対し、巡幸時の国旗掲揚の可否を照会したが「好ましいものではない」との回答を受けた。1949年(昭和24年)1月1日、国旗掲揚が許可されるようになった[4]。 現地で説明をした市民に対して昭和天皇が連発した「あ、そう」は当時流行語になった。 出来事
1946年(昭和21年)近県への行幸東海行幸1947年(昭和22年)9月21日、カスリーン台風により甚大な被害に遭った埼玉県に行幸したが、「現地の人々に迷惑をかけてはならない」との意向から「お忍び」で現地を視察、避難所を訪れて激励を行った[5]。 近畿行幸行く先々に、多くの市民が詰めかけた。京都駅前では、御料車が約1万5000人の市民に取り囲まれて動けなくなった[6]ほか、大阪府庁前には約4万人の市民が押し寄せたため、警備していたアメリカ軍憲兵隊が空砲を打つ事態も生じた[7]。 行幸後、今後の地方行幸先の元国幣社ならびに戦災を受けた元官幣社に対して幣饌料を奉納することが決められた[8]。 東北行幸行幸直前の1947年(昭和22年)8月1日、東北地方に集中豪雨があり、河川の氾濫など被害が多数発生[9]。各地で水害からの復旧、救助作業に従事した者への慰労や激励も行われた。 甲信越行幸北陸行幸中国行幸11月から12月にかけて鳥取県、島根県、山口県、広島県、岡山県を行幸。連合国最高司令部の意向により、この行幸から供奉員を大幅に削減。食事や宿泊料の官給も取りやめとなった。また、原子爆弾の被災地である広島市の視察が組み込まれたことから、外国通信記者十数名も同行[10]。12月1日に頃から風邪を患い、12月2日の午前中を休養に充てるなどスケジュールの変更が行われた[11]。 1949年(昭和24年)九州行幸1949年(昭和24年)4月1日、九州行幸に先立ち、内閣は行幸に関する御趣旨を通達。地方への行幸は国民のありのままの姿に接せられることを本旨とするので、諸事簡素を第一にお迎えすること、行幸のために特に工事営繕は行わないこと、自治体は行幸に関する経費を原則として計上しないこと、御泊所となる一般旅館において調度・設備等の新調は差し控え、御食事は各地方において容易に調整しうる簡素なものにすること、随従者は必要不可欠の範囲とすること、献上は差し控えること、警衛は国民との節度のある円滑な接触に意を用いて行う事などが示された[12]。 1950年(昭和24年)四国・淡路島行幸市町村や郡単位による奉迎の形式が固まった巡幸となった。天皇は行幸先に到着すると、議員や地域の功労者に会釈を行い、首長から戦災などからの復興状況を尋ねた後に奉迎場に向かう。奉迎場の動線上には引揚者、遺家族、留守遺族、傷病者が出迎え、会釈をしながら奉迎台に臨む。奉迎者による君が代の合唱、次いで首長の発声よる奉迎者全員の万歳三唱を受けるといったもの[13]。1箇所あたりの奉迎の時間は短くなったが、多いときには1日あたり8市町村をまわるといった強行スケジュールとなったため、3月28日には体調を崩して日程を1日ずつ順延することもあった[14]。戦後間もない時期であり、瀬戸内海にはアメリカ軍の機雷が残存していたため、御召船の航路上では、事前に海上保安庁による掃海作業が行われた[15]。 1951年(昭和26年)近畿行幸同年5月17日に皇太后(貞明皇后)が崩御し、昭和天皇は1年間の服喪中であった[16]が、近畿行幸の間は除喪されることとなった[17]。 1954年(昭和29年)北海道行幸日程・行幸先
![]() ![]() ※各都道府県内の地名(市町村名又は名所旧跡、駅名)は、全て当時のもの。奉迎場は自治体名を冠した場合のみ記載。
沖縄県について戦後巡幸が行われた昭和20年代当時、同地はアメリカ合衆国による統治下にあったため、巡幸は不可能だった。 戦後は、沖縄県が沖縄戦による民間人被害が甚大であったことや、遡って琉球処分に対する県民感情から、1972年(昭和47年)の本土復帰後の記念植樹祭や翌1973年(昭和48年)の復帰記念沖縄特別国民体育大会(若夏国体)への行幸を行うことができなかった[60]。 その後、皇太子明仁親王(当時)の尽力もあって、沖縄県民と皇室の関係が改善され、1987年(昭和62年)秋の第42回国民体育大会(海邦国体)では、ついに天皇自身の行幸が実現する予定だった[61]。しかし、同年9月18日に発熱、翌19日には大量吐血となる等、天皇自身の不例が続き[注釈 3]、同月28日には沖縄行幸が正式に中止された[61]。同年10月24日、皇太子明仁親王が名代として国体開会式に出席した他、平和祈念堂で昭和天皇の「おことば」を代読した。天皇は、沖縄県民の労苦をねぎらい、行幸断念を「誠に残念でなりません」とした上で、回復次第「できるだけ早い時期に訪問したい」と表明した[62]。 1989年(昭和64年)1月7日、昭和天皇は崩御し、沖縄行幸はついに叶わなかった。1921年(大正10年)の皇太子時代に欧州を歴訪した際、その往路、3月6日に沖縄本島に寄港し、約6時間余り滞在したのが、結果的に生涯唯一の訪問となった。 脚注注釈出典
参考文献
外部リンク
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