桜蔭中学校・高等学校
桜蔭中学校・高等学校(おういんちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、東京都文京区本郷に所在し、中高一貫教育を提供する私立女子中学校・高等学校。 概要1924年(大正13年)、東京女子高等師範学校(現:お茶の水女子大学)の同窓会「櫻蔭会」により設立。国立女子高等教育校の卒業生の力で設立した学校としては国内で初であり、女子にも価値の高い教育を行うべく、「礼と学びの心」を創立の精神として、桜蔭会の寄付と手で設立された中等教育校である[2]。東京女子高等師範学校(現:お茶の水女子大学)の伝統を受け継ぎ、学問を尊ぶ姿勢は初代校長後閑菊野の言葉「学べや学べ、やよ学べ」にも現れている。 初代校長後閑菊野は桜蔭会より選出、後閑は昭和天皇の皇后、香淳皇后の教育係も務めていた。 中学、高校で「礼法」の授業がある。聡明で思いやりのある、多方面で活躍できる女性の育成を目指している。 進路毎年多くの生徒が東京大学をはじめとした首都圏の難関大学へ合格している。1994年、初めて東大合格者数の高校ベスト10以内に入り、2024年現在まで連続している。また、医学部など医歯薬理系学部への合格者が多いのも特徴である。2022年の東京大学理科三類女子合格者は20名だが、このうち13名が桜蔭高校出身である。 沿革桜蔭学園は1924年(大正13年)、関東大震災の翌年に創設された。現校地には東京女子高等師範学校(現:お茶の水女子大学)桜蔭会(同窓会組織)の寄宿舎が建っていたが[3]、大震災によって焼け野原となった。当時桜蔭会の会員はわずか2800人であった[4]が、その直後に桜蔭会は教諭である会員に全国から寄付を呼びかけ[5]、女子教育の理想を実現し、社会に恩返しをしようと[6]本校が設立された。 当時はまだ女性の地位が低く、あるのは師範学校、裁縫学校、実学や語学教育ばかりで[7]、大学への道は開かれていなかった。そのような中で、本格的に女子に高等教育の門戸を広げたいと考え設立された。設立当時は、職業訓練を主とした「実務学校」としての性格が強かったという[8]。 女性の手による女性のための学校とし、初代校長は桜蔭会会員による選挙で選ばれた。初代校長後閑菊野は校訓「勤勉・温雅・聡明であれ」など現在の素地を作り上げた[9]。 東京女子高等師範学校は設立から日本の女子教育界をリードしてきた高等教育校であり、その中等教育校である桜蔭は、開学時から優秀な教師を集めることができた[9]。現在でも教員にはお茶の水女子大学出身が多く、男性教員は数名程度である。また、ベテラン教員が多い[10]。 その結果、大学や病院の多い文京区に住む医師や教員など高学歴層の子女が、桜蔭に入学した[9]。 創立時より「礼と学び」を建学の精神とし、華美に走ることなく、高い品性と学識を磨くことを一貫して実践する女子中等教育を行っている[5]。 近年新校舎が竣工したが、創立時より所在する本館も大切に使い続けられている。制服は開校当初から現在まで変わらず、丸襟の白ブラウスに紺色のブレザーとジャンパースカートで、紺色の腰紐を特徴としている。 年表
歴代校長施設
校外施設制服制服は丸襟の白ブラウスに紺色のブレザーとジャンパースカートで、腰には紺色の腰紐を締める。夏は半袖ブラウスに、スカートは素材が薄くなり、色もやや薄くなる。ジャンパースカートのみの着用の際には左胸に校章を付ける。冬はスカートの上に学校指定のoinという赤い刺繍入りのセーターや、ブレザーを着る。ブレザー着用の場合はブレザーの左胸にあるポケットに校章を付ける。衣替え時期の規定はなく、夏冬の制服の組み合わせであれば自由。様々な正式な式典の際には正装として校章の付いたブレザーの着用と黒長靴下(黒タイツ)を履くことが義務付けられている。校章は、桜の模様で、桜の中に旧字で櫻蔭と書かれている。大小2種類がある。小さい方は襟章で、冬用コートまたはレインコートの襟に付ける。2021年秋からはスラックスも選択できるようになった。 カリキュラム1学年5クラス。クラス替えは毎年行う。中3から高3は担任団を結成して持ち上がっていく[14]。成績順位は出さない。 高2から文系・理系に分かれる。高2から数学と英語は習熟度別授業となる。ただし本人が希望するクラスとなる。
年間行事
交通
部活動
著名な卒業生政治家・官僚・弁護士
学者
実業家文化人
作家歌手・女優 ・タレント
アナウンサー・気象予報士
関連項目脚注および参照
外部リンク |
Portal di Ensiklopedia Dunia