都営地下鉄大江戸線
![]() 一般の車両に比べて横幅が狭く、上すぼみになっており、天井が低い(2005年1月)。 大江戸線(おおえどせん)は、東京都交通局が運営する鉄道路線(都営地下鉄)である。東京都練馬区の光が丘駅から新宿区の都庁前駅までを結ぶ放射部と、同駅から反時計回りに都心・下町・山の手を環状に繋ぎ、再び都庁前駅に至る環状部から構成される[注釈 2]。『鉄道要覧』における名称は12号線大江戸線[注釈 3]。一般的に都営大江戸線と呼ばれることが多い。 環状の路線を形成しているが、山手線や大阪環状線、名城線などとは異なり、「エンドレス循環型」運転ではなく「6の字型」の運転である(運行形態については後述。他の環状運転路線の例は「環状運転」を参照)。なお、起点は都庁前駅、終点は光が丘駅である。推進方式は、鉄輪式・リニア誘導モーター推進方式を採用している。 路線名の由来は東京の古称である江戸の雅名「大江戸」から(決定経緯については後述)。車体および路線図や乗り換え案内で使用されるラインカラーは「マゼンタ[注釈 1]」、路線記号はE[注釈 4]。 概要
この路線は、1962年(昭和37年)6月8日の都市交通審議会答申第6号において答申された第9号線[注釈 5]「芦花公園方面 - 方南町 - 新宿 - 春日町 - 厩橋 - 深川及び月島の各方面を経て麻布方面に至る路線」に由来する[9][10]。ただし、同年8月29日の東京都市計画高速鉄道網の改訂(都市計画)では、線形、経過地について引き続き検討するものとされた[10]。 この路線ルートでは、新宿駅から方南通り(都道14号線)地下を西へ進み、方南町を通って京王井の頭線西永福駅で交差し、芦花公園に至るルートであった[11][12]。しかし、この路線ルートは京王バスの重要な営業エリアを通るもので、地下鉄が開業すればバス事業の経営に大きな影響を与えると、京王が反対の意見を示した[11]。また、この計画では新宿駅は北側の新宿大ガード下の地下を通るもので、既存の新宿ターミナルから大きく外れるものと、問題点が指摘された[11][12]。京王は芦花公園 - 新宿間は京王線を複々線化させ、第9号線と直通運転して都心へ乗り入れる、第9号線は新宿駅南口で甲州街道(国道20号)の地下を通る案(現行の新線新宿経由)を主張した[11][12]。 これを受け、1964年(昭和39年)3月27日、都市交通審議会は京王の主張した案を採用し、第9号線芦花公園 - 新宿間の経由地は京王線を複々線化させて、桜上水、明大前、幡ヶ谷を経由することに変更した[13][11]。 1968年(昭和43年)4月10日の答申第10号において、それまでの第9号線は第12号線に変更され[14][15]、「新宿方面より春日町、上野、深川及び月島の各方面を経て麻布方面に至る路線」として示され[9]、「なお、本路線は環状線とすることも考えられるので、路線の一部については、将来再検討することとする」とされた[14]。この第10号答申では、京王線芦花公園方面 - 新宿 - 住吉町に至る都市計画第10号線(都営新宿線)が新たに制定されている[14][12](第9号線と京王線との乗り入れから、新たに制定された第10号線と京王線が乗り入れることに振り替え[15]。第9号線→第12号線の他社乗り入れは計画はなくなった[15])。 1972年(昭和47年)3月の答申第15号では新宿方面 - 麻布方面を環状線とし、新宿から新宿に戻り、さらに新宿 - 高松(練馬区)間および東京8号線から削除した護国寺 - 目白 - 西落合間を加える形に変更された[9](現在の環状部・放射部に準じたルートと、旧8号線の西落合 - 護国寺間に整理される[9])。なお、同時に高松町(現:光が丘パークタウン付近)から大泉方面への延伸も検討されている[9]。このうち、放射部にあたる光が丘駅 - 練馬駅 - 都庁前駅 - 新宿駅間が「都営12号線」として開業し、後に環状部延伸開業時に「大江戸線」に改称している。なお、支線にあたる西落合 - 護国寺間は免許申請しないこととされ[16]、1985年(昭和60年)の運輸政策審議会答申第7号ではこの区間が削除されている[注釈 6]。 建設費を削減するため、大阪市営地下鉄(現在のOsaka Metro)長堀鶴見緑地線に次いで日本で2番目に鉄輪式リニアモーターミニ地下鉄が採用された。都営地下鉄の路線の中では唯一、他社路線との直通運転を行っていない。また、大江戸線の営業線は全線地下だが、車両は検査を行っている馬込車両検修場で地上に姿を現す(#車両節を参照)。浅草線も自局営業線は全線地下にあるものの、車両は馬込車両検修場や直通先の他社線で地上に姿を現す。そのため、営業運転において車両が地上に出ない路線は、都営地下鉄では大江戸線のみとなる。 都営地下鉄で初めてワンマン運転を実施した。単一の地下鉄路線としては日本最長 (40.7 km) であり[17]、全線がトンネル(地下区間)構造のため、連続した地下鉄トンネルとしても日本最長である。 後発で建設された地下鉄路線のため、既存の路線より深部を走り、全般的に駅ホームがかなり深いところに設置されている。特に2層構造の六本木駅は下部の内回り1番線ホームが地下 42 m と、地下鉄駅としては日本で最も低い場所に位置する。また、中井駅北方 - 西新宿五丁目駅西方にかけての区間は並行する首都高速中央環状線山手トンネルの直下を通過しており、中井駅・東中野駅・中野坂上駅の駅躯体は山手トンネルと一体化した構造になっている(「山手トンネル#都営地下鉄大江戸線との関係」も参照)。 日本の地下鉄では最深部を走行しており、耐震性に富み、災害時には救助作業の大動脈として利用されることになっている。そのため、非常用の備蓄倉庫が麻布十番駅と清澄白河駅に設置されている[18]。 路線データ
内回りは光が丘駅 - 都庁前駅 - 大門駅 - 両国駅 - 都庁前駅着まで[19]。外回りは都庁前駅 - 両国駅 - 大門駅 - 都庁前駅 - 光が丘駅着まで[19]。 沿革建設までの経緯前述した答申第15号に基づき、1974年(昭和49年)8月に全線(現在の光が丘駅 - 都庁前駅間全線・放射部及び環状部)の地方鉄道敷設免許を取得し、1985年(昭和60年)の全線開業を目標に建設計画を進めていた[16]。この時点では新宿線と同様の 20 m 車両による10両編成(軌間は 1,435 mm)で建設することを計画していた[16]。建設費用は6628億8100万円と見積もられていた[16]。 しかし、1973年(昭和48年)のオイルショックによる社会情勢の急変、また交通局の財政悪化から、1976年(昭和51年)半ばから建設計画は一時凍結された[9][20]。ただし、1975年(昭和50年)12月に大型規格(20 m 車・10両編成)による練馬 - 光が丘間の工事施工認可を運輸省に申請したが[16]、事業凍結から未審査のまま自動消滅している[16]。 その後、1978年(昭和53年)5月に東京都知事の諮問機関である東京都交通問題対策会議において[20]、地下鉄12号線を「再度交通需要の予測を行い、路線立地、交通機関の構造、経済性、補助制度等を検討のうえ建設されるべきである」と提言した[20]。 さらにグラントハイツ跡地(光が丘地区)に大規模住宅団地建設をはじめとした再開発を行うことが決定され、交通網整備の必要性が高まった[20]。そのため、東京都が1982年(昭和57年)12月に策定した『東京都長期計画』の10ヵ年計画において、地下鉄12号線を建設することを決定した[20]。この時点で需要及び建設費用の見直しを行い、小型地下鉄車両(16.5m車両・8両編成)によるトンネル断面の縮小[20]、駅設備を縮小する方針とすることを決定した[20]。これは大江戸線着工前までに同線以外で地下鉄の延伸開業が相次いでいたことも影響している。 計画時のルートは現行ルートと一部異なり、練馬付近、新宿付近、六本木付近、汐留付近、飯田橋付近で大きな見直しが行われている[21]。大きく変更されたのは、中野坂上 - 都庁前(仮称:西新宿駅) - 国立競技場間で、都庁前駅は9号街路(東通り)の京王プラザホテル前に上下2層構造のT字型配置とする計画から、西新宿五丁目駅を経由して4号街路(中央通り)地下を通過するルートに変更した[22]。 →「都庁前駅 § 新宿付近の経由ルート変更」も参照
大門 - 勝どき間は竹芝埠頭 - 豊海町を横断するルートから[22]汐留駅、築地市場駅を経由するルートに、春日 - 牛込神楽坂間は直行するルートから[22]飯田橋を経由するルートに変更した[23]。ルート見直しは大型車を使用する必要性がなくなり、さらに乗り換え駅や公共施設等へのアクセスを向上させることで、利便性向上と建設費低減の必要があったためでもある[21]。 環状ルートの建設も検討されたが、これを実現するためには新宿と新宿西口を結ぶ新たな線路の建設と、2駅のうち1駅を2面化する工事を行わなければならなかった。しかし、両駅の地上部は道路幅が狭くビルが密集し、2面ホームの設置が難しく、難工事による費用と期間の膨大が懸念され、さらに新宿駅前後の環状方向の旅客流動は少ないと見込まれ、費用対効果を検証した結果、6の字型ルートとなった。 大江戸線建設工事着手時の資料によれば[24]、当初計画による放射部の建設費用は2640億円、環状部は5850億円、合計で8490億円とされていた[24]。光が丘 - 練馬間の開業は1990年度末(1991年3月)[24]、練馬 - 新宿への延伸開業は1994年度末(1995年3月)、環状部は1996年度末(1997年3月)開業予定とされていた[24][25]。実際には、いずれの区間も用地買収の難航から建設工事に遅れが発生し[26]、建設費用は計画のおよそ1.5倍以上に膨れ上がった。 最終的に、この路線の建設費用は、放射部で3991億円、環状部で9583億円、全線では1兆3574億円となった[27]。1 km あたりの建設費用は、放射部で286億円、環状部で323億円[27]。このことから、東京湾アクアラインや関西国際空港などの国家プロジェクトに匹敵する建設費用となった[27]。 環状部の建設また、環状部区間は早期の建設、全線同時開業を行う必要性があることから[28]、資金面などにおいて柔軟な対応ができる第三セクター方式で建設することとされた[28]。そして、1988年(昭和63年)7月に東京都地下鉄建設が設立され、第3種鉄道事業者として環状部の建設を行った[28]。同社が建設・製造した鉄道施設・車両は東京都交通局が長期分割支払いで譲受し、放射部と一体で経営を行うこととされた[28]。 なお、国立競技場 - 新宿間は環状部であるが、開業は環状部の他の区間より早い。これは、国立競技場駅に非常渡り線があり折り返し運転ができることや[25]、乗客への利便性向上などを考慮して、東京都交通局が東京都地下鉄建設から先行して買い取って開業させたためである[25]。 環状部の駅建設にあたり、エレベーター約60台・エスカレーター約250基を要することから、建設費削減のために複数駅をまとめて一括発注するとともに、日本国外の企業を参入させることとなった[29]。その結果、エレベーターはコネのモノスペース型(マシンルームレス)を採用し(施工は東芝が担当)、エスカレーターはシンドラー(オーストリア)(代々木 - 汐留)・三菱電機(築地市場 - 蔵前)・日立製作所(新御徒町 - 新宿西口)の3社に発注した[29]。 2000年(平成12年)11月29日には環状部の鉄道施設が完成[25]、翌11月30日に東京都地下鉄建設から東京都交通局に鉄道施設を譲渡した(建設工事完成・譲渡記念式典を開催)[25]。 リニアモーター方式の採用1986年(昭和61年)4月に、12号線用の12-000形試作車が製作され、浅草線馬込検車場(当時)において、小型地下鉄として新しい技術の試験を含めた走行試験を実施した[30]。この車両は都営地下鉄で初めてのVVVFインバータ制御方式を採用し、主電動機は小型の誘導電動機を使用した[30]。また、馬込検車場内では走行速度が制限されるため、浅草線の終電後に西馬込駅 - 戸越駅間で高速走行試験を実施した[30]。 その後、1987年(昭和62年)6月、地下鉄12号線建設推進本部が「現在開発されつつあるリニアモーター車両のメリットも大きいので、1987年3月下旬に開始されたリニアモーター車両の試験の状況および車両技術の動向などを踏まえ、今後、車両の駆動方式(リニアモーター方式・回転形モーター方式)について、放射部車両の製作時期までに決定する。」とされた[31]。これを受け、1988年(昭和63年)に12-000形試作車をリニアモーター車両へ改造し、同年4月 - 6月・9月 - 11月に馬込検車場においてリニアモーター方式の走行試験を実施した[32]。 この試験結果を踏まえ、1988年12月21日に地下鉄12号線にリニアモーター駆動方式を採用することを決定し[31][33]、まもなく練馬以南の放射部および環状部の線形を変更(リニア地下鉄の長所である急曲線と急勾配を活かし、民有地地下から道路や公園の地下を通るルートに変更など)することとなった[21][34]。 路線名決定までの経緯1991年(平成3年)12月の開業当初は都市計画路線名の「12号線」のままで営業を行っていたが[35]、1999年(平成11年)8月初旬、2000年(平成12年)4月20日の環状部一部区間(新宿駅 - 国立競技場駅間)の先行開業を発表するとともに、プロ野球セントラル・リーグ会長(当時)の高原須美子を委員長とする都営地下鉄12号線路線名称選考委員会によって路線名の公募が行われた。 その結果、同年11月末に、応募が多かった候補の一つである「東京環状線」(愛称として「ゆめもぐら」)が第一候補に挙げられたが、東京都知事(当時)の石原慎太郎は「なんでこれが『環状線』なんだ」として難色を示し、意中の名称は「大江戸線」だと明かした[36]。その結果、同年12月15日の委員会で大多数の支持を得て「大江戸線」に決定した。 委員会では当初、新宿などは江戸の範囲(朱引)の外部にあたる[注釈 7]として議論があったが、交通局では、路線がこれを囲むように走ることと、「大」を付けることにより地理的、経済的、文化的な広がりを表現できるとして委員会を説得し、決定にこぎつけた。なお、最も多かった名称は「都庁線」だった。 年表
運行形態環状運転をしているように思われるが実際は通常の複線路線と同じ運行形態をしており、都庁前駅 - 飯田橋駅 - 両国駅 - 大門駅 - 六本木駅 - 都庁前駅 - 光が丘駅間を往復運転(6の字型運転)する。運転方向の呼び方は「内回り」「外回り」という(定期券の経路にも表示)が、各駅の案内上は方面呼称となっている。正式には「内回り」をA線、「外回り」をB線と呼ぶ。なお、都営地下鉄でA線・B線の呼称を使用するのは大江戸線のみである。 ![]() 2005年末までは内回り区間について光が丘駅→都庁前駅間を「六本木・大門方面行」、新宿駅→新宿西口間駅を「(○○経由)都庁前行」、外回り区間について新宿西口駅→練馬春日町駅間を「(○○経由)光が丘行」と呼称していたが、現在は内回り区間が光が丘駅→築地市場駅間では「○○・○○方面行き」、勝どき駅→新宿西口駅間では「(○○経由)都庁前行き」、外回り区間が都庁前駅 - 蔵前駅間では「○○・○○方面行き」、両国 - 練馬春日町間では「(○○経由)光が丘行き」に呼称を変更している。○○に入る駅は都庁前・六本木・大門・両国・春日・飯田橋各駅から2駅(ただし春日駅は大門駅 - 森下駅間の内回りのみ、都庁前は大門駅 - 新宿駅間の外回りのみ)。 このため、各車両のLED式前面・側面行先表示は走行区間によって変化する。 朝夕ラッシュ時は最短3分間隔で運転されており、
という区間運転列車が多数設定されている。これらのほとんどは、清澄白河駅東側にある木場車庫の入出庫の都合で設定された列車である。清澄白河駅以外にも汐留駅と新御徒町駅には、都庁前駅方面への折り返しが可能な引き上げ線があり[61]、練馬駅・国立競技場駅・赤羽橋駅・牛込神楽坂駅に非常用の渡り線が設けられている[61]。この関係で早朝・夜間には、
といった区間運転列車が少数ながら設定されている。 日中は全線往復運転が基本であり、2012年3月17日のダイヤ改正以後は6分間隔で運転されている。この改正前までは180分間に29本運転(6分12秒間隔)であった。 また、終日を通して都庁前駅では六本木・大門方面の列車から飯田橋駅方面の列車へ、および飯田橋方面発都庁前行きの列車から光が丘行き列車への乗り継ぎ時間が少なくなるように設定されている。 他の都営地下鉄路線と同様に、沿線の花火大会や国立競技場でのサッカーの試合やコンサートなどの大規模イベントが行われる際に臨時列車が設定されることがある。 ワンマン運転開業当初より全線でワンマン運転を実施している。このため、保安装置にATC装置を、また列車の自動運転機能を有するATO装置を採用している。 開業当初の本路線では車上監視方式を採用しており、8両編成分137mのホームを列車のモニター画面で運転士が監視していた[62]。ホーム上でのドア扱いならびに発車時から列車最後部がホームを抜けるまでの間、運転士がホーム監視モニター画面でホーム上を監視し[62]、触車事故などの場合には運転台の非常停止スイッチで列車を停止させる方式を採用していた。 この伝送システムには日立製作所と八木アンテナ(当時)が開発した赤外線で地上と車上の通信を行う「対列車光空間伝送システム」が採用されている[63](近赤外線空間波伝送方式)。ホーム監視カメラ(ITV)からの映像は、トンネル内壁面に設置した送光回路・送光器に送信される[62]。送光回路により映像は近赤外光信号に変換され、送光器によって車両に搭載している受光器に送られる[62]。車両で受光した近赤外光信号は、受光回路で映像データに復元して、運転室の監視モニター画面に表示する[62]。光信号は列車の最後部から受光し、列車の停止位置より列車最後部がホームを抜けきるまで送光される[62]。 ホームドア
ホームドアは、2011年4月23日に、清澄白河駅での供用開始を皮切りに順次整備が進められ[56]、2013年4月27日には西新宿五丁目駅での供用開始により大江戸線全駅でのホームドアの運用が開始された[57]。ホームドアの導入は三田線に次いで2路線目となる。 既にホームドアを設置した三田線では、当初からATO装置やATO車上子等を使用してホームドアを制御・車両ドアと連動させている[64]。しかし、大江戸線のATO装置はホームドアの制御・車両ドアとの連動には対応しておらず、また、対応させるには多額の費用を要することから、ホームドア制御用に別の機器を整備して対応させている[64]。 ホームドアの開口幅は、ATO装置の定位置停止精度が前後500 mmとしていることから、停止位置の誤差を考慮して車両のドア幅である1,300 mmより1,100 mm広い2,400 mmとしている[64]。停止位置の検知には駅先端部に停止位置検知センサーを設置しており、赤外レーザー光で車両最前部の突起を測定し、ショート(定位置手前)、定位置(ジャスト)、オーバー(定位置超過)を判断している[64]。 ホームドアと車両ドアの連動には無線通信を使用しており、UHF帯無線(極超短波)とLF帯無線(長波)を使用して、車両側と地上側のインタフェースを行っている[64][65]。対応装置として、乗務員室には車上伝送装置(運転台上部の白い箱、伝送制御部(UHF送受信部))を、地上側には地上伝送装置を設置している[65]。車両側のフロントガラス左右にはLF受信部を設置している[65]。 車両以下の車両が使用されている。開業前に試作車が1986年に製造され、浅草線の馬込検車場(当時)で各種試験が実施された(前記沿革表を参照)。その後、1990年より量産車が製造された。第54 - 60編成は欠番。
光が丘 - 練馬間の開業当初は6両編成で運用されていたが[44](12-000形1・2次車を使用)、新宿延伸開業を控えた1997年(平成9年)5月25日から12-000形3次車を使用して全列車が8両編成での運転となった[44]。これには、当時の光が丘 - 練馬間の最大運用本数が4本・予備2本のため[44]、同数の12-000形3次車(第07 - 12編成)を投入して1・2次車を編成替えのため一時的に置き換え、その間に1・2次車を8両編成化させて運用復帰させる形をとった[44]。 大江戸線の車両は、2006年4月より浅草線の馬込車両検修場で検査・修繕を行っているが、リニアモーター方式ではない浅草線を自走できないことから、重要部・全般検査時はE5000形電気機関車で牽引して馬込車両検修場に車両を移動している。このための連絡線が汐留駅構内から浅草線の新橋駅と大門駅の間付近まで設けられている。 2016年2月に発表された『東京都交通局経営計画2016』によると、さらに3編成を増備することが計画されている。これにより最大車両編成数が現行の55編成から58編成に増加する[68]。 女性専用車2023年1月18日より、平日朝ラッシュ時間帯に女性専用車を導入した[59][69][70]。以下の列車の4号車で設定され、いずれも終点到着までの全区間で実施される。
経営状況2017年度の大江戸線単独での純利益は約8億7600万円[71] である。約570億円の収益に対して費用が約562億円かかっており、特に約222億円の減価償却費が大きな負担となっている。損益は、2006年度には約156億円の赤字であったが年々改善しており、2016年度には開業以来初めての黒字化を達成し、2017年度も前年度比で約5億6000万円の増益であった。乗車料収入についても2012年度は約380億円、2013年度は約392億円、2014年度は397億円、2015年度は416億円、2016年度は421億円、そして2017年度は427億円と増加傾向にある。 利用状況2019年(令和元年)度の1日平均輸送人員は978,206人で、都営地下鉄4線の中では最も多い[72]。都心回帰の追い風を受けて増加傾向で推移しており、環状部を中心に沿線の大型プロジェクトや大規模マンションの着工が相次いでいることなどから、今後も長期的には増加傾向が続くと状況が予想されている[73]。 2022年(令和4年)度の最混雑区間(A線、中井→東中野間)のラッシュピーク時の混雑率は、135%(輸送力:15,600人/輸送人員:21,014人)となっている[74]。 開業以降の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤で、最低値を緑で表記。
駅一覧
駅デザイン大江戸線の各駅は、利用者に魅力あるものとするため、改札口付近に「ゆとりの空間」を設置するとともに、地域の特色を活かしたデザインを随所に取り入れている。なお、都庁前・新宿以外の環状部26駅については、公募プロボーザル方式によりパブリックアートとして駅デザイン(主に内装)を土木業者とは別の建築などの設計事務所に委託した。 コストとの兼ね合いで、駅全体の設計そのものにはデザイナーが関わっていないものの、地下部のデザインに全面的に関わることになった試みとして評価されている。これにより、2001年には一部の駅がグッドデザイン賞建築・環境デザイン部門の金賞[77]、インター・イントラ スペースデザイン セレクションの大賞、および土木学会技術賞を受賞している。 駅の深さこの路線では、都営地下鉄の中でも地上から深い駅が多い。 東京都交通局における「駅の深さ」とは、駅中心部における地表からホーム面までの深さを表す[78]。東京地下鉄(東京メトロ)における「駅の深さ」とは、駅中心部における地表からレール面までの深さを表す[79]。よって厳密には、両者の単純な比較は適切ではない。 都営地下鉄全駅の中では深い順に[78]、
となり、大江戸線の駅(路線名を書いていない駅)が8駅もランクインしている。
となり、大江戸線の駅(路線名を書いていない駅)が5駅もランクインしている。 なお、東京地下鉄との共用駅である白金高輪駅と白金台駅の深さは、東京都交通局の資料[78]と東京地下鉄の資料では数値が異なる[79](東京地下鉄の白金高輪駅の深さは29.8 m、白金台駅の深さは28.3 m[79])。本項目では東京都交通局の資料(『都営交通のあらまし2019』)から記載した[78]。 将来の計画延伸構想
光が丘から大泉学園町を経て東所沢までの路線図
建設時より、光が丘駅の構造・配線は将来の延伸を考慮したものとなっている[80]。1997年より、練馬区と東京都清瀬市および埼玉県新座市・所沢市を会員、埼玉県狭山市を準会員とする1区4市が都市高速鉄道12号線延伸促進協議会を設置し、光が丘駅から各市区を経由してJR武蔵野線方面へ延伸する要望活動を、東京都と埼玉県に対して行っている[81]。 2000年の運輸政策審議会答申第18号では、光が丘 - 大泉学園町間については「2015年までに整備着手することが適当である路線」、大泉学園町 - 武蔵野線方面間については同じく「今後整備について検討すべき路線」として位置付けられた。 2016年の交通政策審議会答申第198号では、光が丘駅から大泉学園町・埼玉県新座市・清瀬市を経由して武蔵野線東所沢駅までの延伸が答申されている[82]。 練馬区内では、整備中の都市計画道路補助第230号線直下を導入空間とし、土支田駅、大泉町駅、大泉学園町駅の3駅(駅名はいずれも仮称)を新設する計画である[83][84][85][86]。 新座市では、1972年の12号線免許申請段階では、同市片山に車庫及び車両工場を設置し、光が丘駅との間を5.3 kmの非営業の入出庫線で連絡する計画が存在し[87]、また東京都から非公式に同市内への1駅設置と車庫建設を提案された経緯があり[88]、車両基地として4ヘクタールの土地を無償提供する、市南部に設置するとみられる新駅(同市では「新座中央駅」と仮称している)周辺の約90ヘクタールを区画整理した上で大学や商業施設を誘致する、といった構想を公表し、早期延伸の実現を目指している[89][90]。 →「新座料金所 § スマートインターチェンジ設置構想」も参照
また、2019年8月31日に埼玉県知事に就任した大野元裕は、延伸を公約に掲げている[91]。 このほか、都庁前駅の引き上げ線を活用し、大泉学園町から南下して世田谷区を経由し都庁前駅に戻るという8の字型運転の構想がされたこともあるが、正式な計画として採用されるには至っていない[92]。 その他旅客案内
空調大江戸線は全区間が地下トンネルであり、また車両やトンネル断面が小さく熱がこもりやすいこともあって、原則として暖房は使用しない。一方で、冷房は都営地下鉄の他線より低い設定温度とされている[94][95]。 曲線・勾配
イベント
脚注注釈
出典
参考文献
関連項目外部リンク
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