横山金太郎![]() 横山 金太郎[1][2](よこやま きんたろう[3][4]、1868年12月14日〈明治元年11月1日〉[5][6] - 1945年〈昭和20年〉9月25日[3][7])は、日本の弁護士[8]、政治家。衆議院議員(広島県第三区選出、当選9回)[3][4]。文部政務次官[9]。第16代広島市長[10][11]。族籍は広島県平民[12][13][14][15]。 経歴広島県比婆郡東城村(後の東城町、現在の庄原市)で[1][9]、行商人の家庭に生まれる[4]。横山要平の長男[2][5][13][14][16]。3歳の時に父・要平が死去する[2]。家督を相続する[17][18]。 役場の書記をつとめる[4]。1886年(明治19年)、代言人・渡邊又三郎を頼って家出、渡邊は「見処がある」と直覚して世話することにしたという[15]。 横山は玄関番・書生となり広島法律学校に入り[15]、1890年(明治23年)3月に同校を卒業[6]、同年4月に東京法学院(現在の中央大学)3年級に編入[10]。1891年(明治24年)7月、同学院を卒業[10]。同年11月に代言人試験合格[10][15]。 渡邊代言人事務所に入る[2]。代言人を開業[15]。1893年(明治26年)、弁護士登録[15]。 1895年(明治28年)10月、松山地方裁判所宇和島支部西条区裁判所判事に任官[10]。1897年(明治30年)11月、台湾台北地方法院判官に転ず[10]。1899年(明治32年)10月、官を辞す[10]。再び弁護士となり[6]、広島弁護士会長[10]、同常議員会長に選ばれた[3]。 広島市会議員、同議長、広島県会議員、同副議長をつとめた[6]。1908年(明治41年)の第10回衆議院議員総選挙に当選。憲政会[1]、立憲民政党[3][16]に所属。1931年(昭和6年)4月、第2次若槻内閣で文部政務次官に就任した[15]。 1935年(昭和10年)2月26日から1939年(昭和14年)2月25日まで広島市長を務めた[11]。 人物1894年(明治27年)、独立して小町に看板を掲げたが、事件の依頼人はほとんど無く[15]、業績は上がらなかった[2]。その頃弁護士から司法官となった山口県人の吉原謙亮から「何事も経験であるから」と司法官の勧誘を受けたので任官した[15]。更に台湾判官の勧誘も受け、台北法院に赴任した[15]。台湾では被告人達は大男で横山は小男であったので、睨みを利かす方法として関羽髭を生やした[15]。この髭は衆議院でも名物の一つとなった[15]。 趣味は読書[9]。住所は広島県広島市上流川町[6]、堀川町[12][16][17]、三川町[18]。 栄典家族・親族
脚注
参考文献
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