近藤昭一
近藤 昭一(こんどう しょういち、1958年〈昭和33年〉5月26日 - )は、日本の政治家。立憲民主党所属の衆議院議員(10期)。衆議院環境委員長、立憲フォーラム代表[1]、サンクチュアリ会長[2]。 環境副大臣(菅直人第1次改造内閣・菅直人第2次改造内閣)、衆議院総務委員長、衆議院懲罰委員長、民進党副代表、旧立憲民主党副代表兼選挙対策委員長、立憲民主党企業・団体交流委員長を歴任した。 父は元名古屋市会議員の近藤昭夫[3]。弟も名古屋市会議員を務めたが在職中に死去(いずれも中村区選挙区選出)。 来歴生い立ち愛知県名古屋市中村区生まれ。名古屋市立亀島小学校、同笈瀬中学校、愛知県立千種高等学校を経て、上智大学法学部法律学科卒業。大学時代、中国の北京語言学院へ留学。1984年、中日新聞社に入社。 1993年1月、中日新聞社を退職[4]。同年6月18日、衆議院解散。6月22日、愛知県庁で記者会見し、旧愛知1区から無所属で立候補する意向を表明した。あわせて羽田新党からの公認、もしくは推薦を求めることを明らかにした[5]。ところが6月29日、「新生党からの公認、推薦が得られなかった」として立候補取りやめを表明した[6]。 1994年、前年に結党した新党さきがけに入党し、さきがけ愛知準備会代表に就任する[4]。愛知5区からの出馬を目指し、中村区に事務所を構える[7]。 衆議院議員へ![]() 公表された肖像写真 1996年5月29日、新党さきがけは愛知5区をめぐり、社民党との選挙協力を決めた。この結果、同選挙区で準備を進めてきた近藤は、社民党現職の赤松広隆との対決を避けて愛知3区に回ることとなった[8]。同年8月30日、鳩山由紀夫は新党旗揚げの宣言をするとともに、さきがけを離党[9]。近藤も鳩山に追随。9月19日までにさきがけを離党し「民主党」設立委員会に参加することを決めた[10]。同年10月の第41回衆議院議員総選挙に愛知3区から民主党公認で立候補。選挙区では新進党の吉田幸弘、自由民主党の片岡武司の後塵を拝したが、重複立候補していた比例東海ブロックで復活し、初当選した。 2000年の第42回衆議院議員総選挙では、愛知3区で自民党の片岡武司を破り、再選。2001年、「2001政権奪取大作戦/明日があるさ隊」の隊長に就任[11]。2003年の第43回衆議院議員総選挙では、かつて敗れた吉田幸弘が自民党公認で出馬したが、吉田に3万票超の差をつけ、3選。 2005年9月11日の第44回衆議院議員総選挙では、小泉旋風が吹き荒れる中で愛知3区の議席を守るが、自民党新人の馬渡龍治の比例復活を許した。同年9月12日、民主党代表の岡田克也が、総選挙大敗の責任をとり辞任を表明[12]。岡田の辞任に伴う代表選挙(9月17日実施)では菅直人の推薦人に名を連ねた[13]。同年よりリベラルの会代表世話人を務める。 2007年、格差是正に取り組む議員有志の会を結成し、座長に就任する[14]。2008年より国土審議会委員[15]。 2009年の第45回衆議院議員総選挙では、馬渡に比例復活を許さない大差をつけ、5選。選挙後、衆議院総務委員長に就任した[4]。 2010年6月2日、鳩山由紀夫が民主党代表と首相辞任を表明[16]。鳩山の辞任に伴う代表選挙(6月4日実施)では菅直人の推薦人に名を連ねた[17]。同年9月、菅直人第1次改造内閣で環境副大臣に任命され、菅直人第2次改造内閣まで務める。野田内閣発足に伴い、環境副大臣を退任した[4]。 2012年12月16日の第46回衆議院議員総選挙では、愛知3区で自民党新人の池田佳隆に敗れたが、重複立候補していた比例東海ブロックで復活し、6選[18]。同年12月25日に行われた民主党代表選挙では海江田万里の推薦人に名を連ねた[19]。衆議院懲罰委員長に就任。 2013年、日本国憲法第96条の改正に反対する超党派の議員連盟「立憲フォーラム」発足の呼びかけ人を務め、議連の代表に就任した[4]。 2014年12月14日の第47回衆議院議員総選挙では、愛知3区で前回敗れた池田に1万票差をつけて当選し7選[20]。この選挙で民主党代表の海江田万里が落選。海江田の辞任に伴い2015年1月18日に行われた代表選挙では長妻昭の推薦人に名を連ねた[21]。長妻は1回目の投票で最下位に終わり、決選投票で岡田克也が当選した[22]。同月、民主党幹事長代理に就任[23]。 2016年3月27日、民主党と維新の党が合流して結成された民進党に参加し[24]、民進党幹事長代理に就任。同年9月15日に行われた民進党代表選挙では蓮舫の推薦人に名を連ねた[25]。蓮舫の当選後、民進党副代表に就任。 2017年7月27日、民進党代表の蓮舫が、同月の東京都議会議員選挙の結果を受けて辞任を表明[26][27]。蓮舫の辞任に伴う代表選挙(9月1日実施)では枝野幸男の推薦人に名を連ねた[28]。 立憲民主党![]() 2017年9月28日、民進党は希望の党への合流を決定[29][30]。9月29日、希望の党の小池百合子代表は定例記者会見で、安保法制や憲法改正などで政策が一致しない公認希望者について「排除いたします」と明言した[31][32][33]。 同年9月30日未明、共同通信が「枝野幸男が無所属で出馬する方向で検討に入った。考え方の近い前議員らとの新党結成も視野に入れている」と報道[34]。同日中に民進党の前職、元職計15人の「排除リスト」が出回る[35][注 1]。同日夜、枝野、長妻昭、辻元清美、近藤、参議院議員の福山哲郎らは都内のホテルに集まり、対策を協議[37][38]。10月1日夜、再び枝野、長妻、近藤、福山の4人が集まり、翌2日に枝野が一人で結党の記者会見を行うことなどを決めた[38]。10月2日夕方、枝野は記者会見し、新党「立憲民主党」を結党すると表明した[39][40]。 同年10月3日早朝、名古屋市内での街頭演説で立憲民主党から立候補する意向を明らかにした[41]。同日午前、立憲民主党が設立される[42]。同日午後、希望の党は衆院選の第1次公認192人を発表。同党が愛知3区に減税日本の名古屋市会議員の余語冴耶香を擁立したことが明らかとなった[43][44]。日本共産党は9月下旬に早々と候補者を取り下げていたが[45]、この措置のため野党共闘は実現しなかった。10月4日、余語は市議を辞職[46][47]。10月6日、立憲民主党副代表に就任した[48]。10月22日、総選挙執行。近藤は前回の衆院選挙より得票を増やし、22000票差で池田を破って8選した[49]。10月26日、執行役員会で選挙対策委員長の兼務が決まる[50]。 2018年10月24日、会費制イベントの収支を政治資金収支報告書に記載しなかったこと(後述)の責任を取り、副代表と選挙対策委員長を辞任した。 2020年8月24日、旧立憲民主党と旧国民民主党は、2つの無所属グループを加えた形で合流新党を結成することで合意した[51]。同年9月10日に行われた新「立憲民主党」の代表選挙では枝野幸男の推薦人に名を連ねた[52]。 2021年10月31日の第49回衆議院議員総選挙で池田を破り9選[53]。同年11月5日、党内の旧社会党系グループ・サンクチュアリの会長に就任した[2]。枝野幸男代表の辞任に伴う代表選挙(11月30日実施)では逢坂誠二の選対本部長を務め[54]、かつ推薦人に名を連ねた[55]。 2022年9月13日、立憲民主党の次の内閣でネクスト環境大臣に就任した。 2024年9月23日に実施された代表選挙では枝野幸男の推薦人に名を連ねた[56]。 2024年10月27日の第50回衆議院議員総選挙では、自民党を除名され不出馬となった池田に代わる自民党新人ら4人を破り10選[57]。同年11月13日、衆議院環境委員長に就任[58]。 国内政策![]()
安全保障
外交政策アジア外交を重視し、1992年に行われた日中国交正常化20周年記念式典に出席した際、近藤は「目先の利益にばかり走り本当の政治をしていない日本の政治家で、この中国ときちんとやっていけるのだろうか。アジアの平和と発展にきちんと寄与していかなくては日本の未来はない」と決意し、政治家を志したとしている[77]。また、「日本は朝鮮半島の平和と安定に寄与し、この地域の発展につくすべきと考えます」[78]と主張している。 朝鮮民主主義人民共和国
大韓民国
中華人民共和国
アジア諸国に対する日本の公式謝罪
人物
選挙歴
所属団体・議員連盟
脚注注釈出典
外部リンク
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