横浜市の歴史
横浜市の歴史(よこはましのれきし)は、神奈川県横浜市の市域における歴史;自治体史。 概略旧石器時代から平安時代まで→「横浜市のあゆみ 略年表[1]」も参照
横浜市域は3万年前に陸化し、立川ロームの堆積が始まった。2万2000年前までには市内に人間が現れ、人類の活動痕跡である遺跡の形成が始まる。横浜市内における遺跡(周知の埋蔵文化財包蔵地)の分布状況は、市教育委員会刊行の『横浜市文化財地図』[2]や、市の公開する行政地図情報(遺跡地図)[3]で参照可能だが、市域内の遺跡数はおよそ2500か所に上る[4]。ただし大都市横浜にあって、この内の1700か所はすでに全域的または部分的に開発などによる破壊を受けているという(1998年時点)[4]。 旧石器時代の遺跡は、旭区の矢指谷遺跡や都筑区の北川貝塚・花見山遺跡・けんか山遺跡など、およそ25か所発見されている。 縄文時代の遺跡は市内各所に見られるが、市北部の都筑区では、1970年代から80年代に港北ニュータウン開発に伴って200を超える遺跡が一斉に発掘調査された結果(港北ニュータウン遺跡群)[5]、南堀貝塚や北川貝塚をはじめ三の丸遺跡・二ノ丸遺跡・月出松遺跡・神隠丸山遺跡・華蔵台遺跡など、縄文時代全時期に亘る多数の集落遺跡が発見されている。日本で初めて環状集落の姿が明らかにされた南堀貝塚や、縄文時代の掘立柱建物の存在が初めて確認された小丸遺跡など、考古学上の発見で知られる遺跡も存在した[6]。 弥生時代の遺跡は同時代中期までは少ないが、中期後半以降は、都筑区の大塚・歳勝土遺跡(国の史跡)・大原遺跡(おっぱらいせき)・権田原遺跡(ごんたっぱらいせき)・矢崎山遺跡・綱崎山遺跡、青葉区の朝光寺原遺跡、港北区の日吉台遺跡群[7]など、方形周溝墓を伴う環濠集落が現れる。 市内における古墳時代の古墳の出現は3世紀後半とされ、現在確認されている市内最古の古墳は2005年(平成17年)に発見された港北区の新羽南古墳(3世紀後半の円墳)である[8]。なお4世紀段階では、弥生時代以来の方形周溝墓のほか、弥生墳丘墓から古墳へと発展する過渡的な特徴を持つ陸橋付き方形周溝墓が併存しており、青葉区の稲ヶ原遺跡などでこの種の方形周溝墓が検出されている[9]。その後4世紀~7世紀にかけて市内各所に古墳(群)や横穴墓(群)が出現したほか、矢崎山遺跡など、同時代の集落遺跡も形成されるようになる。青葉区の朝光寺原古墳群・稲荷前古墳群・市ヶ尾横穴墓群・荏子田横穴、都筑区の矢崎山古墳、港北区の観音松古墳(日吉台古墳群の1つ、神奈川県内最大級の前方後円墳[10])・日吉矢上古墳、戸塚区の富塚古墳、西区の軽井沢古墳などはこの時代の遺跡である[11]。磯子区の三殿台遺跡(国の史跡)は、縄文時代・弥生時代・古墳時代の集落が同じ台地上に営まれた複合遺跡として知られる[12]。 市域の地名に関する最古の記録は、『日本書紀』に見られる[13]。安閑天皇元年(534年)[武蔵国]の笠原直使主(かさはらのあたいのおみ・かさはらのあたい おみ、おぬし[14])は大和朝廷と結び、上毛野君(かみつけぬのきみ)と組んだ小杵(おき・おぎ)を破った。この結果、笠原直使主は大和朝廷から武蔵国の国造(武蔵国造)の家(武蔵国造家)であることを認知され、横渟(よこぬ)、橘花(たちばな。橘樹郡)、多氷(たひ・おおい、歴史的仮名遣:おほひ)、倉樔(くらす。後に久良(くら)郡、さらに久良岐郡)の4ヶ所を屯倉として献上したと記される。 飛鳥・奈良時代以降は律令制導入に伴い、横浜市域にも郡(評)が置かれた。7世紀後半までに、市域には武蔵国橘樹郡、久良岐郡、都筑郡、相模国鎌倉郡が置かれた。橘樹郡は川崎市のほぼ全域と横浜市の北東部、久良岐郡は横浜市の中南東部、都筑郡は横浜市の北西部、相模国鎌倉郡は横浜市の南西部と鎌倉市をその領域とする。 都筑区の長者原遺跡は8世紀に成立した都筑郡衙(古代郡役所)跡とされ、郡庁舎・正倉の遺構などが発見されている。また、この遺跡は国道246号(旧大山街道)に面しており、この道が古東海道であったと考えられている。このほかの郡衙は、橘樹郡衙は川崎市高津区の橘樹官衙遺跡群(国の史跡)、鎌倉郡衙は鎌倉市御成町の今小路西遺跡が所在地に比定されているが、久良岐郡衙は判明していない。 なお、都筑郡の名が見える最古の記録は、『万葉集』である。万葉集には、都筑・橘樹の防人とその妻らの歌が収められている[15]。
『続日本紀』によると、768年(神護景雲2年)には、橘樹郡の飛鳥部吉志五百国が「久良郡」で獲た白雉を献上し、従八位下を授けられた、とある。 古代鎌倉郡に当たる栄区の㹨川流域には横穴墓群遺跡が発達し㹨川流域横穴墓群という約20群200基以上に上る横穴墓群が点在していた[16]。㹨川上流には上郷深田遺跡という古代関東有数の製鉄遺跡があった。近くの上郷猿田遺跡は製鉄作業に携わる人々のムラだという[17]。 平安時代には各所の開発も進み、三浦氏の一族平子氏、榛谷氏、稲毛氏など有力な豪族がいた。今に残る弘明寺などの寺院は、この有力豪族らにより建立されたものと考えられる。 927年(延長5年)には、杉山神社が、式内社とされた。杉山神社は、全国でも横浜市と川崎市、特に鶴見川流域にのみ散在鎮座し、数十社が現存する。このうちどの杉山神社を当時の杉山神社と特定するか、定説はない。杉山神社の論社には、緑区西八朔町の杉山神社、都筑区茅ヶ崎町の杉山神社、都筑区中川町の杉山神社、港北区新吉田町の杉山神社、および鶴見区鶴見中央の鶴見神社などがある[18]。 年表鎌倉時代から江戸時代まで
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江戸時代江戸時代、市域の大部分は幕府直轄領または旗本知行地となり、2国4郡にわたる215の村々から成っていた。人口はおよそ10万人、2万世帯と推定される。石高はおよそ8万石。市域には神奈川湊をはじめとして20以上の湊があり、廻船業が発達した。
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明治時代から第二次世界大戦まで![]() ![]()
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第二次世界大戦後
平成
令和以降
行政区域の変遷![]()
脚注注釈出典
参考文献
関連項目外部リンク |
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