笠井信輔
笠井 信輔(かさい しんすけ、1963年(昭和38年)4月12日[1] - )は、日本のフリーアナウンサー。元フジテレビエグゼクティブアナウンサー。 オールラウンド所属。 来歴同じ人形劇団「太郎座」の座員から市役所勤めの公務員となった人物を父に、主婦となった女性を母に、東京都世田谷区で誕生。祖父は劇作家・脚本家の阿木翁助。母方の伯父に東宝の演劇プロデューサーがいる。信輔誕生の1年後(1964年)および6年後(1969年)に2人の弟が誕生し、男3人兄弟の長男となる。町田市の公団住宅で17年間家族と暮らす。 町田市立本町田東小学校(児童会長)、町田市立薬師中学校(生徒会副会長、生徒会長)、東京都立狛江高等学校(同校では放送委員となり、文化祭のクイズ大会で司会を担当)、1浪をし早稲田大学商学部入学。大学時代は放送研究会とスキークラブの両方に所属[2]、大学時代にアナウンス学校に通う。3年生の時にTBS『ぴったし カン・カン』でアルバイトスタッフとして働いていた。就活時に、TBSでは男性の募集がなかったため、フジテレビ・日本テレビ・テレビ朝日に応募したが、日テレとテレ朝は不合格で、フジテレビは合格。
1987年、フジテレビにアナウンサーとして入社。毎年7月に放送されている『FNS27時間テレビ』の「提供読み」[注 1]を、記念すべき第1期生として、同期の塩原恒夫とともに務めた。 1988年4月4日からは、午後の情報番組『タイム3』で須田哲夫などとともに総合司会を担当。1994年9月30日の『タイムアングル』終了まで6年半出演した。 1997年3月31日から、夕方の報道番組『FNNニュース555 ザ・ヒューマン』メインキャスターを笹栗実根(報道局記者)と担当。 1998年3月30日からは、午前の情報番組『ナイスデイ』で榊原るみとともに総合司会として出演した。 1999年から2019年9月まで『ナイスデイ』の後番組『情報プレゼンター とくダネ!』のサブ司会兼メインアシスタント・ニュースデスクを歴任し、2007年7月から2019年9月までアナウンス室専任部長(情報担当部長)を務めた。また、フジテレビのホームページおよび携帯サイド内の「アナウンスマガジン」の編集長でもあった。東日本大震災の際には民放関係者として最初に被災地入りし、生レポートを行なった。のちに当時の様子、またあまりの惨状にPTSDを患ったことなどをルポルタージュにまとめた。 『とくダネ!』の中の1コーナー「とくダネ!TIMES」(のち「得もり」)を担当していた。「得もり」となってからはスタジオ登場の前に副調整室で最初の話題を出す。季節を問わず常にベストを着用。後輩の伊藤利尋がサブ司会に就任するまで、総合司会の小倉智昭の休暇時は代理総合司会をしていた。 2015年9月16日、声帯ポリープの除去のため、一時休養と発表される[4]。9月28日放送の『とくダネ!』で復帰[5]。 2019年7月30日、同年9月30日付けでフジテレビを退職しフリーアナウンサーに転身する、と伝えられた[6]。同年9月30日を以てフジテレビを退職[7]。同年10月1日より芸能事務所オールラウンド(『とくダネ!』で総合司会を務める小倉智昭などがいる)に所属し、フリーアナウンサーとしての活動を開始。 2019年12月18日、悪性リンパ腫に罹患していることを所属事務所を通じて公表[8]。19日、『とくダネ!』の生放送に出演し、病名が「びまん性大細胞型B細胞リンパ腫」であることや、公表に至った心情などについて語った[9]。21日、ブログを開設。病状や闘病生活について綴った[10][11]。 その後は活動を休止しブログで闘病について綴っていたが、治療は順調に進み、2020年5月1日に退院[12]。自宅療養に入りながらも、15日に退院後初めての仕事として文化放送のラジオ番組『くにまるジャパン 極』に出演し、活動を再開した[13]。 2020年6月5日、主治医から悪性リンパ腫が完全寛解したと伝えられたことをブログで報告[14][15]。 2020年7月31日、白血球の数値が安定したため普通に働いてよいことを主治医から告げられたとブログで報告し、活動を本格的に再開[16]。 2020年10月ころから放送されているアフラックのCMに出演。CMの内容は、コロナ禍の中、同CMキャラクターをつとめる櫻井翔とリモートで対談を行い、自身のがん闘病体験を語り、がん保険が役立つことを視聴者に訴求する、というもの[17]。 人物・パーソナルデータ趣味・特技はスキー(1級)、カラオケ、(映画、ビデオ、宝塚歌劇)鑑賞、パソコン通信。ミステリー小説を愛読し,推理作家・折原一のファンであるとのこと。さらには自称オタクを公言し、宝塚歌劇団や最新ハリウッド映画[18]、また、かつての同僚ならびに上司でもあり、現在はフリーアナウンサー・鉄道文化人に転身した堺正幸や、のちに共演を果たした福澤朗と同様に鉄道に詳しく[19]、親子2代で鉄道が好き[20]で、もしアナウンサーになっていなかったら車掌になりたかった[21]と語るほどの鉄道ファンでもある。あるいは映画会社の宣伝士になりたかったとも発言している。そのため同期の塩原と同様、映画鑑賞をたくさんしている。映画に関しては、新作のハリウッド映画だけで年間130本以上を鑑賞する、といい[22]、仕事でもフジテレビクラブ会員限定イベント「笠井信輔のシネマン坊トークショー」(年2回程度開催)の司会を務めるほか、「お台場冒険王」内のイベント「The Movie King お台場映画王2005」ではゼネラルプロデューサーに就任した。軽部と同じく名実ともにフジテレビのナンバーワンシネフィル(映画狂)を自称しており、軽部とともにフジテレビが東宝とともに経営するCSチャンネル「日本映画専門チャンネル」に出演している。『ゴジラ2000 ミレニアム』『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』『UDON』では本人役で登場し、シネフィルならではの芝居を披露している。 フジテレビの先輩の軽部真一と公私ともに仲が良く、「男おばさん」とのコンビを組んでいる/いた。 立憲民主党の柳沢剛(元仙台放送)とも仲が良く、学生時代からの親友である[24]。 フジテレビアナウンサー時代は毎朝3時半に出社していた[注 2]。
妻は元テレビ東京アナウンサーの茅原ますみ。3人の息子。漫画『鉄子の旅』(小学館)では息子のユウくん、はるボンとともに出演している(単行本第3巻に収録)。
身長は170cm、体重は([いつ?]かつて健康時に)62kg(だった)。血液型はA型(Rhマイナス)。 出演テレビ番組
バラエティ番組・その他
報道・情報・ワイドショー番組
テレビドラマ
テレビアニメフリー以降報道・情報番組
その他
映画
配信映画吹き替え
舞台CM
漫画
著書
脚注注釈出典
外部リンク
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