生島ヒロシ
生島 ヒロシ(いくしま ヒロシ 、本名:生島 博〈読み同じ〉、1950年〈昭和25年〉12月24日[1] - )は、日本のフリーアナウンサー、タレント、総合司会者、芸能プロモーター、ファイナンシャルプランナー。東北福祉大学客員教授。プロダクション会社・生島企画室(現在のFIRST AGENT)の創業者で、元最高経営責任者。元TBSアナウンサー(16期生)。フリーアナウンサーになってから時期は不明だがホリプロと業務提携していた[3]。 略歴宮城県気仙沼市出身[4]。宮城県気仙沼高等学校卒業後、法政大学経営学部に入学した [5]。20歳の夏の1971年、大学紛争を機に大学を中退して[6]単身で渡米した。 1975年、カリフォルニア州立大学ロングビーチ校ジャーナリズム科を卒業した[5]。1976年4月、TBS(現在のTBSHD。以下同じ)にアナウンサー16期生として入社(同期は鈴木順・高橋進・松宮一彦)[7][8][注釈 1]。入社3年目の1978年4月から1979年秋までTBSラジオの夜ワイド『生島ヒロシの夜はともだちII(セカンド)』を担当し、人気を得る。また30歳の時にテレビに進出し、『そこが知りたい』内のコーナー「各駅停車路線バスの旅」や『アッコにおまかせ!』などに出演した[5]。 情報番組・バラエティ番組の担当が多く、同局アナウンサー時代は『JNNニュース』など報道番組を担当することはなかった。1989年3月に退社[9][10]・独立し、株式会社生島企画室を設立した(2025年1月までの役職は最高経営責任者)。この頃の約10年間は年収億単位の状態で、バブル期もあって不動産投資や金融投資をした[5]。しかしその後、テレビの仕事の激減やバブル崩壊が重なって10億円もの借金を抱えた。月額700万円の返済に追われたが、本人の頑張りや周りの人に助けられてなんとか乗り越えた[5]。 古巣のTBSラジオでは、1998年から2025年1月まで平日の早朝に冠番組『生島ヒロシのおはよう定食』と『生島ヒロシのおはよう一直線』を担当した。TBSラジオ内では生島による再春館製薬所の痛散湯など、健康に関係する薬品や食品のCMがたびたび放送された。 軽快な口調を「デフォルメ」して、『大沢悠里のゆうゆうワイド』の投稿コーナー『お色気大賞』では「軽いノリの部下、生島君」「一直線なサラリーマン・生島」「悪友ヒロシ」として大沢悠里が声色を駆使させ、時折登場していた[11]。 なお、生島は大沢悠里の「後輩」「元・部下」であり、洒落っ気を利かせた大沢が、上記のように『お色気大賞』に仮称:生島を登場させたり、『おはよう一直線』放送終了間際に大沢が「ゲリラ出演」したり、逆に『ゆうゆうワイド』ラストを前に大沢とのトークを『おはよう一直線』において対談を果たしている[12]。 2004年10月23日、新潟市で行った講演会を終えて帰京するため、17時19分新潟発東京行き上越新幹線「Maxとき332号」のグリーン車2階席にマネージャーと乗車していた際に、56分に発生した新潟県中越地震の直撃を受け、浦佐駅と越後湯沢駅間で約6時間も新幹線の中に閉じ込められた。また、同じ列車に嶌信彦も同乗していた。この経験から、防災士の資格を取得した[13]。 2011年3月11日の東日本大震災発生時は、ラジオを終えてから宮城県仙台市の仙台国際ホテル4階に出向き、講演会を行っている最中だった。その後、道路も各所で被害を受けた中、仙台市から約15時間をかけて帰京した。気仙沼市の実家に居住中の妹夫婦が津波に流され、妹のみが5月に遺体で見つかった。義弟は未だ行方不明である[14]。なお、2011年2月2日に85歳で亡くなった母の四十九日法要&納骨式を行うため妹夫婦は遺骨と位牌を携えて3月12日に上京する予定が、母の遺骨と位牌も津波に遭い流失した[15][16][17]。 2018年2月、緑内障の手術を受け経過良好であると伝えられた[18]。 2019年8月、右眼の白内障手術を受けた事を明らかにした[19][20]。 2025年1月27日、後述の不祥事により芸能活動を無期限自粛することとなり、自身が設立した生島企画室における全役職を解かれ、同年2月21日には退社し、生島企画室は社名を「FIRST AGENT」に変更したことが発表された[21]。 自粛中は自ら坊主頭にし、毎週寺で座禅や住職との会話を1時間ほど行っており復帰にも意欲を示していることが取材で明らかになった[22]。 人物ファイナンシャル・プランナーや福祉住環境コーディネーターの資格を持ち、自身の番組スポンサーでもある日興コーディアル証券のCMに出演したり、ヘルスケアアドバイザーとして、コジマのストアサポーターに就任した。義母の介護体験から『おばあちゃま、壊れちゃったの?』を出版(のちにドラマ化)するなど福祉への造詣も深く、健康や福祉、金融や人生をテーマにした講演を精力的に行っている。 2020年7月、新型コロナウイルス感染拡大で学費が払えなくなった学生のために、法政大学と青山学院大学と合わせて計1,000万円を寄付した[6]。 持論は、「元気でさえあればなんとかなる」[5]。 主な資格
主な役職(元職も含む)交友関係など武道家の東孝は高校の同級生[24]、元テレビ岩手アナウンサーの藤村惠一とマジシャンのマギー審司は高校の後輩、俳優の村上弘明は高校と大学の後輩にあたる。また、お笑いタレントのヒロシの芸名は生島にちなんで名づけられた。 菅義偉とは法政大学の同級生である[注釈 3]。当時同大学で生島が所属する準体育会の松濤館流と、菅が所属する同好会の剛柔流は同じ場所で練習をしており、会話こそなかったもののお互いの存在は知っていた[26]。その後TBSアナウンサー時代に、議員秘書をする菅と再会して意気投合し、長きに渡り交友を続けている[27]。 アメリカ留学時代に空手家の山崎清司の下で空手を習い、ベニー・ユキーデと試合を行う予定もあった。しかし、これは師範の山崎にキャンセルされた。本人曰く、「ユキーデが弱い日本人に勝利して自身の経歴に箔をつけようとしていたことに気付いたから」とのこと。師範からは黒帯を授与されたが、生島本人は後の空手雑誌での山崎との対談で、「名誉初段みたいなものです」と謙遜した[28]。アメリカ留学中は、同じように修行中の後の映画スター、ショー・コスギとも出会っており将来について意気投合していた[24]。 家族4兄妹の長男であり、「企画室」相談役の生島隆(元社長)は次弟、スポーツジャーナリストの生島淳は末弟。隆との間に一般人の妹がいるが、略歴で説明した通り、妹夫婦は東日本大震災で被災し亡くなった(義弟は行方不明)。また2人の息子がおり、長男の生島勇輝は生島企画室に所属してタレント活動をしていたが、現在はケイダッシュに移籍して俳優に転身した。次男の生島翔はダンサーとしてアメリカを拠点に活動している[29]。 子供時代活気のある漁港街に生まれ、父親は会社員として働き、母と母方の祖母が営む飲食店「伊勢浜食堂」が繁盛していた[5]。当時市内に映画館が5つもあり、子供の頃は邦画洋画問わず様々な映画を鑑賞していた[5]。また、アメリカのメリーランド州に住む叔母から時々カッコいいシャツや洒落たお菓子を送ってもらっていたため、幼い頃からアメリカに憧れていた[5]。高校進学後、飲食店の売上が減るなどした[注釈 4]ため、経済事情を考えて大学進学を諦めかけた。しかし高校3年の時、父に「これからは国際化の時代が来るから大学に進学したらどうか?」と助言されて受験を決意した[5]。 法政大学に合格後は北区十条の三畳一間で暮らし、そば屋、引っ越し屋、地下鉄工事など様々なバイトをして生活費を稼いだ[5]。大学の空手同好会に所属した後、アメリカで道場を開くという顧問から「アシスタントとして同行しないか?」と誘われた[5]。その渡米話は諸事情により流れたが、「憧れのアメリカに行きたい」との気持ちが強くなり渡米を決意する。横浜の港で港湾労働者として働いたり、京王プラザホテルやホテル精養軒の配膳会などのアルバイトで30万円を貯めて[30]大学2年生の終わり頃に[注釈 5]渡米し、ロサンゼルス(カリフォルニア州)で暮らし始めた[5]。 アメリカでの生活ロサンゼルスでは、当初語学学校に通おうとしたが授業料が払えずに断念した。しばらくは日本人村の空手道場で寝泊まりしながら、空手ショーへの出演や日本人庭師のもとで庭木の剪定などを手伝った[5]。他にも畑仕事、白人家庭でのハウスキーピング、レストランでの皿洗いなど様々なアルバイトで生計を立て、2,000ドルを貯めた[5]。 フルトン・コミュニティ・カレッジ(日本の短大のような2年制の大学)に入学し、DJの技術を学ぶ授業[注釈 6]を専攻した[5]。DJの面白さに目覚め、「それなら放送ジャーナリズムを学ぼう」との考えからカリフォルニア州立大学への編入を考えた。「ヒロシ・イクシマ・ガーデニングカンパニー」を起業した後、顧客付きで会社を売り、そのお金で同大学に編入してからアナウンサーに憧れるようになった[5]。 不祥事26年9か月出演中の「TBSラジオのレギュラー番組『生島ヒロシのおはよう定食』およびJRN系列『生島ヒロシのおはよう一直線』を降板する」と2025年1月27日(月曜日)に発表された。生島の出演は7000回を目前にした6995回を放送して終了。降板が決定した当日も通常通り出演をしていた。TBSラジオのリリースによれば「TBSグループ人権方針に背く重大なコンプライアンス違反があったことを確認したため」として番組出演の継続が不可能と判断し、生島の番組降板を決定したとしている。コンプライアンス違反の詳細については、関係者のプライバシー保護の観点から、説明を控えるとした[31][32][33]。 デイリースポーツの取材によれば、関係者の話として生島による複数の関係者へのハラスメント行為が発覚し、27日の放送後に降板を通達したという。生島も事実を認めて降板を受け入れた。なお、直近で問題になっているフジテレビや中居正広の不祥事などとは関係なく、生島が会長を務める生島企画室のタレントや過去に所属したタレントが関わっているかについては「あくまで生島さん個人の問題」とした。なお、降板した両番組は同月28日以降は「生島ヒロシ」の名前をタイトルから外す形で放送を継続した[34]。そして、『おはよう定食』ならびに『おはよう一直線』そのものも、2025年3月31日をもって27年にわたる放送を終了した。 同日、生島企画室のサイトに代表取締役社長の飯尾友康の報告文、及び生島本人の謝罪文が記載された。それによれば「ネット上に掲載されていた不適切な写真を友人から送られ、それをラジオスタッフに転送し、女性スタッフから大変不愉快との指摘があった」「番組制作者への厳しい言動があった」ことが原因であると説明した上で、今回の件により、生島は生島企画室における全役職を退任し、芸能活動を無期限で自粛することとなった[35][36]。 2011年から2017年9月まで生島企画室に所属していた長瀬サエコによると、同社所属中の長瀬が生島の通うフィットネスジムに同伴させられ、一緒にトレーニングをしたり泳いだりすることを誘われていたという。また2016年の春から夏にかけてはハイヤーの中で生島に手を握られ生島の股間に手を持って行かれたり、電話口で生島の自慰行為中とみられる声を聞かされ共同で自慰行為をするテレフォンセックスに誘われており、長瀬は後々の仕事に影響が出ることを恐れてこれらのセクハラ行為を淡々と受け流していたという[21]。 この長瀬の告発を受けて行われた取材において、生島の代理人弁護士は「依頼人はいずれも思い当たることがないが、知己の人物から苦言を呈されるということは、わが身の至らなさゆえのことと深く内省している」との主旨で答えた[21]。上記の長瀬へのセクハラに関する取材があった同日となる2025年2月21日、生島が生島企画室を退社し、社名を「株式会社FIRST AGENT」に変更したことを発表した[21]。 書誌著書
共著
監修書籍
出演番組TBSテレビ番組
ラジオ番組
フリー情報・ワイドショー番組
バラエティ・ラジオ番組・その他
出演映画
出演CM
その他
出演舞台
音楽シングル
脚注注釈出典
参考文献
関連項目外部リンク
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