長崎医科大学 (旧制)旧制長崎医科大学(きゅうせいながさきいかだいがく)は、1923年(大正12年)4月、長崎市に設立された旧制官立大学。略称は「長崎医大」。 この項目では長崎医学専門学校(長崎医専)などの源流・前身諸校についても述べる。
概要
沿革→「長崎養生所 § 沿革」、および「長崎医学校 § 沿革」も参照
五高医学部時代(1887 - 1901年)
医専時代(1901 - 23年)
医大時代(1923 - 1960年)
歴代学長第五高等(中)学校医学部長(主事)
長崎医学専門学校長長崎医科大学長
附属専門部長
校地の変遷と継承被爆以前の浦上校地第五高等中学校医学部設立当時の校地は、長崎養生所以来の小島郷字稲荷岳の校地(小島校地,現・長崎市立佐古小学校校地)を継承していたが、1891年9月11日、県下西彼杵郡浦上山里村里郷(1920年10月長崎市に編入合併 / 現・坂本町)に新校舎が建設されて移転し、在来の小島校地は分教場とされた。以後浦上校地は医専・医大に継承され、医大の原爆被災まで存続した。また正門(現在の長崎大学医学部裏門)を入って右手奥にある丘は、「虞美人草の咲く路の丘」略して「グビロが丘」と呼ばれ、丘の上の広場には医学校当時の木造2階建ての洋館が小島から移築された(1930年7月の暴風雨で倒壊した)こともあり、この丘は新校地のシンボルとなった。
原爆被災から浦上校地復帰まで1945年8月の原爆被災で浦上校地の全校舎・病院施設が壊滅し使用不能となったため、その直後から大学本部は片渕の長崎商工会議所、長崎経済専門学校、次いで新興善国民学校に移転され、同国民学校を臨時の附属医院として膨大な数の被爆者の診療を行った(新興善校舎)。同年9月には大村市の旧海軍病院で診療・講義が開始(大村校舎)、翌46年にこれが諫早の旧佐世保海軍病院分院に移転した(諫早校舎)。ついで1947年には浦上の附属医院外来本館の修理が始まり、大学本部の一部と基礎医学教室が同館に復帰した。しかし諫早・新興善に残る臨床各教室(各科)が浦上に復帰し、附属病院(附属医院を改称)が完全に復旧したのは新制長崎大学発足後の1950年である。以後、浦上校地は長崎大学医学部(および歯学部)キャンパス(坂本町キャンパス)として継承され、現在に至っている。 原爆による被害![]() 概観(官立)医科大学の所在地である長崎では、戦災時には医大が救援活動の中心的な役割を担うことが期待されていた。しかし皮肉にも原爆は長崎医大そのものを直撃することになった。すなわち、1945年8月9日午前11時2分、爆心地(市内松山町)より600 - 800mの至近距離に位置していた長崎医大は、基礎教室・臨床教室(附属医院)・附属医専・附属薬専・東亜風土病研究所・看護婦寄宿舎など全ての校舎・施設が一瞬のうちに倒壊・炎上し、この時点で講義・診察中であった教官・学生・看護婦・事務職員ら合計892名が犠牲となった[6]。これに加え多数の入院・外来患者も犠牲となり、(直前の8月1日の空襲で附属医院が爆撃されていたため、入院患者の多くは退院、外来患者は制限されていたものの)その数は約200名とされるが実数は把握できない[6]。特に木造の基礎教室(爆心地より約550m)で受講していた医大生・附属医専生400名余は、大半が爆風で倒壊した校舎の下敷きになり火災により焼死(教官・学生が講義の時の位置そのままで白骨化していた教室もあった)、運良く校舎から脱出できたものも被爆後1ヶ月以内に死亡したため全滅となった。これに対し、RC造の堅固な建物であった臨床教室(爆心地より約700m)で卒業試験のため出席していた医科大4年生と附属医専3年生の中には、被爆時の場所によっては九死に一生を得たケースもあった。 角尾学長の死去角尾晋学長は、被爆の直前、東京出張からの帰途の8月7日、被爆翌日の広島を歩いて惨状を目の当たりにし、翌8日医大に帰任してその詳細を学生・教職員に報告していた。長崎での被爆時には角尾学長は内科病棟で診察中であったが、爆心地方面に近い北側の窓から爆風の直撃を受け重傷を負い、8月22日避難先の防空壕で死去した。角尾学長のほかには附属医院長の内藤勝利教授が圧死、附属医専部長の高木純五郎教授も重度の急性原爆症に冒されほどなくして死去した[10]。同じく勤務中被爆したものの比較的軽傷で角尾から後事を託された古屋野宏平・調来助両教授は、それぞれ学長事務取扱、附属医院長となり、大学の再建および被爆者の治療が進められた。とくに放射線科の永井隆助教授は自らも重傷を負いながら8月12日以降「救護班」を組織して傷ついた市民に対する医療活動を進め、9月20日彼自身が一時昏睡状態に陥り解散をよぎなくされるまで活動を続けた。この活動の記録は10月、危機を脱した永井により『原子爆弾救護報告書』にまとめられて医大に提出され、被爆直後の実態や初期の医療活動を知るための貴重な資料となっている。 大学の機能移転大学の建物が倒壊したことから、大学本部を長崎経済専門学校へ、教室を大村海軍病院へ、付属薬専を佐賀市に、附属病院を長崎新興善国民学校へと機能分散が行われた。大学は大村海軍病院を医大に転用するよう佐世保鎮守府に対し要請を行ったが、「目下の日本の情勢では大学教育を必要としない」「南方から引き揚げてくる傷痍軍人の病院として残さねばならない」として却下された[11]。 慰霊碑の建立かろうじて即死を免れた多くの重傷者が逃げのび、命を落とした構内「グビロが丘」(先述)では、敗戦後の10月から11月にかけて数多くの学生たちの遺体が収集・埋葬された。これによりグビロが丘は原爆の惨劇を象徴する聖地として位置づけられるようになり、1947年にはこの丘に、大講堂の玄関に用いられていた花崗岩を用いて慰霊碑が建立された(現在の碑は1955年に建てられたもの)。旧医大校地(現・長崎大医学部キャンパス)内で、このほかに原爆被災を記念するモニュメントとしては、角尾晋学長の銅像、爆風により前に9cmずれ傾き台座との間で隙間が空いたまま現場保存されている旧医大正門の門柱(現医学部裏門)がある。 この正門門柱は「長崎原爆遺跡」として国の史跡に指定されている[12]。門柱には「わが師わが友、850有余もが死に果てし、長崎医科大学の正門門柱にて、被爆当時のままの状態を生々しくここに見る」との碑文が刻まれ、被爆時の爆風圧を測定する基礎データとしても利用された[13]。
著名な出身者・教員
東亜風土病研究所日中戦争が全面化すると、中国大陸からの感染症の侵入を防止する研究の需要が高まり、1940年秋、長崎医大には病理学教室・細菌学教室を母体にした大陸医学研究班が設置された。翌年、同班は大陸医学研究所病理部と改称、病理・細菌2学科を設置し、1942年3月にはこれを拡充して東亜風土病研究所が開設されるに至った。 東亜風土病研究所は九州南部の風土病調査などを行う一方で、中国大陸の日本軍占領地で医療・衛生行政を担っていた同仁会と提携し、漢口などで野外調査を進めた。また当時長崎で大流行をみたデング熱の調査も行った(この時のデータは原爆被災を免れ現在も保存されている)。 1945年8月9日の原爆被災により、研究所は研究資料とともに一瞬のうちに焼失し、金子直教授(病理学)を始めとして多くの所員が爆死するなど大きな打撃を受け、研究活動は一時頓挫した。第二次世界大戦後の1946年4月、研究所は名称から「東亜」を削除して「風土病研究所」と改称、翌5月には諫早に移転して研究活動を再開した。 新制長崎大学の発足により風土病研究所は同大学の附置研究所となり、1960年には旧所在地である坂本町キャンパスへの復帰を実現、さらに1967年には国立学校設置法の一部改正により「熱帯医学研究所」と改称、現在に至っている(以後の沿革は当該項目参照)。 脚注
関連書籍
外部リンク
関連項目
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