陽のあたる坂道 (小説)『陽のあたる坂道』(ひのあたるさかみち)は、「読売新聞」に連載された石坂洋次郎の小説。1958年に石原裕次郎主演で映画化された。その後も1967年に渡哲也主演で日活、1975年に三浦友和主演で東宝映画により映画化されている。1965年にはTBS、1986年にはフジテレビの「木曜ドラマストリート」にてテレビドラマ化された。 概要「読売新聞」に1956年12月から1957年10月まで連載。1957年11月25日付けで講談社から刊行された。本作は内容だけでなく、石原裕次郎主演で映画化され、ブルーリボン賞監督賞を受賞したことで、世評を高めた。批評家の山本健吉は「作者は裕次郎の魅力に惹(ひ)かれて、(中略)主人公信次の像を描いたらしい。」[1]と推測したが、石坂によれば、本作を書き出したときは全く頭になかったが、執筆中信次像が揺らいだとき、実在の人物に当てはめたほうがよいと思い、裕次郎の存在を頭に置いたという。また『エデンの東』がヒントになっているという説があるが、石坂は映画は見たことがあるが原作小説は知らないとこれを否定している[2]。 あらすじ倉本たか子は山川大学主事に家庭教師の仕事を紹介され、九月の末、緑ヶ丘の坂道にある田代家を訪問する。汚れた服にふざけたような態度で出迎えた信次は「ぼくの憲法」とたか子の胸をさわり、たか子を激怒させる。女子高生のくみ子の家庭教師になったたか子はその兄の雄吉とともに田代家の家族のように親しくなる。音楽会に行った夜、たか子をアパートに送っていった雄吉は隣の部屋から顔を出した民夫と信次が似ていると指摘する。 ある日くみ子は大ファンの「ジミー・小池」が出演するジャズ喫茶にたか子を連れて行く。歌っていたのは民夫だった。民夫は二人を食事に誘い、くみ子と意気投合する。信次はたか子から民夫の母親が自分の生みの親であるらしいことを聞きだす。 正月、アパートに一人でいた民夫の前に突然信次が現れ、民夫は動揺する。雄吉はたか子の実家に遊びに行ったくみ子を追ってたか子の故郷に行くが、スキーで捻挫して入院する。毎日病院に来てかいがいしく世話をするたか子に雄吉は結婚を申し込む。二人は交際をはじめるが、たか子は自分の気持ちに違和感を覚える。再び民夫のアパートに信次が現れ、母親のトミ子は恐縮するが民夫は反発し追い返してしまう。 四月、雄吉に捨てられた川上ゆり子はいとこの上島が間違えて捕まえた信次を通じて金を要求する。話をきいた雄吉は信次のやったことにして親から金を引き出そうと提案、信次はたか子を口説いてもよいという条件をつけて身代わりとなる。だがみどりは兄弟のウソを見抜く。たか子も信次のやったこととは信じなかった。 玉吉はバーのマダム雪子を山川と見合いさせ、ゆり子にちょっかいを出していた。雪子とゆり子の策略で玉吉と雄吉はホテルで鉢合わせた上、部屋に閉じ込められる。 たか子とくみ子は川原で信次と民夫を引き合わせる。二人は殴りあったあと和解。その後遊びに行ったキャバレーで踊っていると、信次は突然たか子に接吻、彼女への思いを叫ぶ。後日、たか子は信次と雄吉を呼び出し、雄吉の前で自分を偽っていたこと、信次を愛していることを告白。からかう雄吉を信次ははじめて殴る。雄吉はたか子に信次の劣等感を暖かく包み込んでやってほしいと頼む。 民夫は病院の前でくみ子を待っていた。病院から出てきたくみ子は足をなおすため腰の手術を受けることにしたと報告する。 登場人物
映画1958年版
データ1958年4月15日公開。 スタッフキャスト
外部リンク1967年版1967年3月25日公開。 スタッフキャスト
外部リンク1975年版1975年11月1日公開。 スタッフキャスト
同時上映
テレビドラマ1965年版1965年7月3日から同年12月25日までTBSで放送。全26回。三共(現:第一三共/第一三共ヘルスケア)の一社提供。 放送時間土曜21:30 - 22:00 キャストスタッフ1986年版1986年8月7日にフジテレビの「木曜ドラマストリート」にて放送された。 放送時間20:00 - 21:48 キャスト
舞台宝塚歌劇団が1978年、米国に舞台を翻案し『丘の上のジョニー』のタイトルで上演した。詳細は別項「丘の上のジョニー」を参照。 外部リンク
出典 |
Portal di Ensiklopedia Dunia