黒澤治樹
黒澤 治樹(くろさわ はるき、1977年9月26日 - )は、レーシングドライバー・レーシングチーム監督。静岡県出身。 父は1960~1970年代にドライバーとして活躍した黒澤元治であり、兄の黒澤琢弥、弟の黒澤翼もレーシングドライバーである。 経歴![]() ![]() 幼少期からポケットバイクに親しんだり、富士山の麓で開かれたモトクロス大会に何気なく出て優勝するなど、二輪で才能を示していた。10代半ばでモトクロスのSRS-J(鈴鹿サーキットレーシングスクール、現在のSRS-Moto)を卒業した後、SRS-Kartに入学し、レーシングカートの世界の扉を叩いた。父・元治はプロレーサーは厳しい世界なのでどちらかといえば消極的な立場を取っていたが、やる以上は徹底的にやるという条件の下に息子をサポートした。 ヘルメットはこの頃から父や欧州で活躍することを意識しての日の丸をモチーフにしたナショナルカラーであり、これは40歳を過ぎた現在でもあえて変えていない。 SRS-Fでスカラシップを獲得し、全日本F3選手権を3戦経験した後、1997年に単身でイギリスF3選手権に挑戦。チームメイトはマーク・ウェバーと五十嵐勇大であったが、日本に比べてあまりに熾烈な競争に晒され、年間通して1ポイントしか取れなかった惨状を目の当たりにし、一時はレーシングドライバーの道を諦めかけたという[1]。 しかし最終的にはレースの世界に留まり、全日本F3、フォーミュラ・ニッポンを経てスポーツカーレースを中心に活動。1999年には鈴鹿1000kmのC-GTクラスで優勝を挙げた[2]。 2005年は M-TEC EBBRO NSXでSUPER GTに参戦し、GT300クラスのシリーズランキング2位の成績を残した。なおこの年の菅生では、黒澤がドライブ中のピットロードでオフィシャルが接触してきてリアウィングが破壊されるという事件があり、それがなければタイトルを獲得していた。 その後も全日本スポーツカー耐久選手権をはじめとするカテゴリーにM-TEC製のエンジンの開発ドライバーとして携わった。またSUPER GTにおいてもM-TECエンジンを搭載しているR&D SPORTから参戦した。 ル・マン24時間レースをはじめとする海外のスポーツカーレースにも幾度かスポット参戦をしており、2004年と2007年のル・マンでそれぞれクラス2位表彰台に上っている。 2012年からはGT300のLEON RACINGのエースとして毎年表彰台に上がる活躍を見せた。 2016年菅生では、スーパーGT参戦100戦目を迎えた[3]。 2016年の開幕戦岡山では自身9年ぶり、チームにとっては初勝利を達成。 2017年には最後の開催となった鈴鹿1000kmと最終戦もてぎで優勝し、ランキング2位の好成績を収めた。 2018年シーズンは最終戦まで一度も表彰台に上がることができなかったが、4位4回と安定してポイントを積み重ねランキング2位に着けた。最終戦のもてぎで2番手スタートから優勝し、大差をつけていた55号車が下位に沈んだため、自身・チームともに初となるシリーズチャンピオンを獲得した。なお黒澤が四輪キャリアでシリーズチャンピオンとなったのはこれが初であった。 このまま連覇に向けて勇往邁進と思われた2019年9月、第6戦オートポリスを前に、「以前から才能ある若手がいれば乗せるつもりだった」として菅波冬悟にシートを譲る形でチーム監督に就任し、第一線を退いた[4]。 その後もチーム監督としてLEONを支えていたが、2023年の第5戦および第7戦に第3ドライバーとして登録されることが発表された[5]。リザーブドライバーとしての立ち位置としての登録となる。SUPER GTにおいては2シーズン以上SUPER GTをドライブしていないドライバーにルーキーテストを受ける義務があり、シリーズチャンピオンの実績を持つ黒澤であってもそのレギュレーションに沿う必要があるため、Rd.5を前にテストを受験、合格したことが発表された[6]。 2024年のSUPER GT第4戦富士でも第三ドライバーとして登録。実際は予選・決勝を通じて搭乗しなかったが、ポールポジション及び優勝のドライバーとして6年ぶりに記録に名を刻んだ。 レース戦績
全日本F3選手権
フォーミュラ・ニッポン
全日本GT選手権/SUPER GT全日本スポーツカー耐久選手権
ル・マン24時間レース
脚注
外部リンク
|
Portal di Ensiklopedia Dunia