1995年日本グランプリ (4輪)
1995年日本グランプリ (1995 Japanese Grand Prix) は、1995年F1世界選手権第16戦として、10月29日に鈴鹿サーキットで決勝レースが開催された[1]。 概要1月に発生した阪神・淡路大震災の影響で、4月に予定されていたパシフィックGPが前週の10月22日に日程変更されたため、この年の日本GPは同一国での2週連続F1開催という珍しいケースになった。パシフィックGPの終了後、F1サーカス一行は岡山県のTIサーキット英田から三重県の鈴鹿サーキットへ移動した。 パシフィックGPでミハエル・シューマッハの2年連続ドライバーズチャンピオンが決定しており、日本GPではベネトンとウィリアムズのコンストラクターズチャンピオン争いが注目された。ベネトンはウィリアムズを21ポイントリードしており、ここでシューマッハが優勝すればベネトンの初タイトルが決定する。 予選シューマッハが第6戦カナダGP以来となるポールポジションを獲得し、ウィリアムズのデビッド・クルサードの5戦連続ポールポジションを阻んだ。虫垂炎の手術のため前戦を欠場したマクラーレンのミカ・ハッキネンが3番グリッドを獲得した。 予選2回目、リジェの鈴木亜久里がタイムアタック中にS字コーナー入口でスピンし、後ろ向きでバリアに激突。鈴木は背中を強打して病院へ搬送され、決勝は不出場となった。1988年にF1デビューし、1990年には3位表彰台を獲得した想い出の日本GPが、鈴木にとって最後のF1レースとなった。 マクラーレンのマーク・ブランデルは金曜・土曜ともクラッシュしてマシンを壊し、予選最後尾グリッドとなった。 結果
決勝展開アレジの熱走前年の日本GPと同じく、決勝はウェットコンディションでのスタートとなった。全車レインタイヤを装着してグリッドに並んだが、スタート時点では雨は上がり、天候も回復に向かっている。 スタートではポールシッターのミハエル・シューマッハ(ベネトン)以下、ジャン・アレジ(フェラーリ)、ミカ・ハッキネン(マクラーレン)、デイモン・ヒル(ウィリアムズ)が順当に1コーナーを通過した。先頭のシューマッハをアレジが追う展開となるが、3周目にアレジとゲルハルト・ベルガーにフライングスタートの判定が下された。フェラーリの2台は前後してピットインし、ピットロードで10秒ストップペナルティを消化した。 コースはレコードライン上が乾き始め、レインタイヤのラップタイムが落ち始める。ペナルティで後退したアレジは7周目にピットインし、いち早くドライタイヤに交換した。アレジは最終コーナーで大スピンを喫するが、すぐさまレインタイヤを上回るタイムを記録。そのタイムを見た他チームも続々とマシンを呼び入れ、タイヤ交換作業を行った。しかし、路面はまだ滑りやすく、13周目にティレルの片山右京がダンロップコーナーでクラッシュ。16周目のシケインではジョーダンのチームメイト同士が絡み、ルーベンス・バリチェロがスピンしてリタイアした。20周目のシケインではザウバーのハインツ=ハラルド・フレンツェンがジョーダンのエディ・アーバインに追突し、ノーズを壊してピットインした。 アレジは早めの交換が成功して、ペナルティストップのロスを挽回。10周目のシケインでヒルをかわして2位に浮上すると、ファステストラップを連発しながら、トップのシューマッハとの差を1周1秒のペースで縮めていく。両者の差は2秒以内にまで縮まったが、シューマッハもタイヤが温まるとファステストラップを出して応戦する。25周目、ヘアピンを通過したフェラーリ・412T2が白煙を吹き始め、アレジの猛追は無念のリタイアに終わった。 ウィリアムズの失態30周目を過ぎると2回目のタイヤ交換が行われ、上位はシューマッハ、ヒル、クルサード、ハッキネン、ジョニー・ハーバートの順となる。天候は晴れとなり、路面もドライコンディションに回復したが、コース上に撒かれたオイルや砂に乗ってコースアウトするマシンが続出する。 36周目、2位のヒルはスプーンカーブ入口でサンドトラップに飛び出し、フロントウィング交換のためピットインして5位に後退した。40周目、チームメイトのクルサードも同じ箇所でオーバーラン。コースに復帰後、裏ストレートから130Rにむけて減速した際、スプーンカーブで拾った砂利がサイドポッドから噴き出し、それに乗ってクラッシュした。41周目、ヒルにピットレーン制限速度違反のペナルティが下されるが、その周に再びスプーンカーブで砂に乗ってスピンし、リタイアした。ウィリアムズ勢の自滅により、この時点でベネトンのコンストラクターズタイトル初制覇が決定した。 シューマッハはピットイン以外はトップを譲ることなく、独走で日本GP初優勝を果たした。前週のパシフィックGPとあわせて、日本での2連戦を連勝で締めくくった。今季の勝利数は9勝となり、1992年にナイジェル・マンセルが残したシーズン最多勝記録に並んだ。 2位ハッキネン、3位ハーバートまでが表彰台を獲得。以下、アーバイン、オリビエ・パニス(リジェ)、ミカ・サロ(ティレル)までがポイントを獲得し、地元勢では井上隆智穂が12位で完走した。 結果
第16戦終了時点でのランキング
脚注
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