OSK日本歌劇団
OSK日本歌劇団(オーエスケーにっぽんかげきだん)は、大阪市中央区にある劇団。 かつて宝塚歌劇団とは同じ関西でしのぎを削り、踊りを中心としたレビューを行っていたことから、「歌の宝塚、踊りの松竹」と並び称された[2]。 1922年(大正11年)4月に大阪・天下茶屋に松竹楽劇部生徒養成所として創設された[3]。 2003年(平成15年)5月に一時解散したが[4]、同年8月から団員有志による「OSK日本歌劇団存続の会」として実質的に活動を継続し、翌年4月に「New OSK日本歌劇団」として再結成。2007年(平成19年)、再び「OSK日本歌劇団」に改称し、現在に至る。 「OSK」は、以前の劇団名であった「大阪松竹歌劇団(Osaka Shochiku Kagekidan)」の略称。 概要![]() 未婚の女性により構成されるレビュー劇団。劇団の象徴は、1930年(昭和5年)『第5回 春のおどり』のテーマ曲だった「桜咲く国」[5]。これが『春のおどり』のテーマソングとして長年歌い継がれ[注釈 1]、やがて劇団を象徴する歌となった[5]。公式ファンクラブは「桜の会」[7]、ファンとの交流イベントは「桜まつり」[注釈 2]など、桜の花がシンボルとして使われている。 少女歌劇文化の特徴として、劇団員は男役と娘役(女性役)に分かれ、生年および本名は非公表だが、芸名に本名を用いることができる[注釈 3]。また、劇団内では、男役から娘役への転向だけでなく、娘役から男役への転向例もある[注釈 4]。 かつては上から幹部技芸員、準幹部技芸員、技芸員と明確に区別されていたが、現在ではこの呼称は用いられていない(後述、#序列制度を参照)。代わって、ベテラン脇役を除いた序列最上位の男役がトップスターと呼ばれ、松竹座や南座などの重要な公演で主演を務める[注釈 5]。 「芸術的傾向の強い舞踊団」として創立した経緯があり[10]、旧来より「踊るOSK」[11]や「ダンスのOSK」として知られ、「群舞力」を魅力とする[12]。 かつて宝塚歌劇団とは同じ関西でしのぎを削り、踊りを中心としたレビューを行っていたことから、「歌の宝塚、踊りの松竹」と並び称された[2]。特に、速いテンポで高く足を上げるラインダンスは劇団名物の一つになっており[13]、OSK日本歌劇団発行の『100周年記念史』では、ラインダンスのことを「OSKのすべての基本であり、アイデンティティであり、誇りでもある」と表現している[14]。体力の消耗が激しいダンスであり、3分弱が限界とされる[15]。
やがて松竹はOSK(当時:大阪松竹楽劇部)に続く劇団として東京を本拠とするSKD(当時:東京松竹楽劇部)を創設する(後述)。OSKとSKDとの棲み分けや、OSKの松竹独立等を背景に、OSKの東京での単独公演は、1950年代以降、約半世紀にわたり中断されることとなった[注釈 6]。この間に東京宝塚劇場の改築や宙組新設による通年公演体制により、東京においても常時公演できる体制を整えた宝塚歌劇団に、OSKは関東圏など全国レベルでの人気・知名度で大きく差をつけられることとなる。 現在は、大阪松竹座や京都四條南座、新橋演舞場等における松竹主催公演、福井県越前市のたけふ菊人形会場での1か月公演[注釈 7]を軸に、常設スペースBrooklyn Parlor(OSK Revue Cafe)及び、関西地方を中心とした様々な規模の公演・イベント出演を行っている(後述)。 また、2012年(平成24年)の劇団創設90周年と同時期に、学習指導要領改定による中学校でのダンス必修化が行われたことを契機に、社会貢献活動として各地の学校で「訪問ダンス授業」を行っている[22]。 歴史松竹時代黎明期![]() 1921年(大正10年)、松竹は洋式劇場である大阪松竹座の開業に当たり、白井松次郎社長の発意により、新たな出し物として少女歌劇に取り組むこととなった[3][23]。同年10月の告知文には、「『日本の楽劇』を創造する」という強い決意が示されている[23]。 すでに成功を収めていた宝塚少女歌劇団から、舞踏家の楳茂都陸平、作曲家の原田潤、松本四郎を招聘し[24]、1922年(大正11年)4月に大阪・天下茶屋に松竹楽劇部生徒養成所を創設した[3][23]。 同年10月に大阪の中之島公会堂で『小さき謀反』『時』を、同年12月16日・17日の同じく中之島公会堂でジョコンダの『時の踊り』の試演をした[23]のち、1923年(大正12年)2月の京都の南座で第1回公演を行い、『アルルの女』や『時の経過』などを上演した[3]。 1923年(大正12年)5月、大阪松竹座が開場すると養成所も同劇場内に移転して本拠地とし、映画『ファラオの恋』[注釈 8]と『母』の封切りに合わせて『アルルの女』を上演した[3][23]。発足当初の劇団員[注釈 9]24名は、早朝5時から「爪先から血の滴るまで」と言われるほどの猛稽古に励んで臨んだ[25]が、創設当初は映画との併演で毎月の公演すら行えず、実力・人気はいまひとつであった[3][26]。 『春のおどり』と東京松竹楽劇部誕生![]() ![]() 大きな転機となったのが、1926年(大正15年)4月1日から上演された『春のおどり~花ごよみ~』だった。これは、当時の関西の名物だった花柳界の「芦辺踊り」「浪花踊り」「都踊り」に倣って企画された[26]。これらの「踊り」をモチーフにした長唄と日舞で構成された前半部ののち、後半は一転して西洋音楽とダンスという構成だった[16][26]。豪華な舞台装置と様々に変化する美しい衣装と多数の踊り子[注釈 10]による迫力ある踊りが人気を集め[3]、狙い通り大成功を収め[26]、5月1日からは京都松竹座でも続演[27]。その後は毎年恒例となり[28][16]、春の名物とされるようになった[3][26]。 タイトルは、特に当時の仮名遣い(歴史的仮名遣い)では“をどり”が正しいにもかかわらず、白井松次郎の意見で意図的に“おどり”と表記[29]して以降、今日まで一貫して“おどり”表記を用いている。 1927年(昭和2年)の『第2回 春のおどり~御空ごよみ~』では、振り袖姿でレビュー風に踊る演出が行われ、レビュー様式の導入が始められた[28][16][26]。 さらに同年9月の宝塚少女歌劇団のフランス風レビュー『モン・パリ』が成功したことを受け、1928年(昭和3年)の『第3回 春のおどり~花五色~』では五色の衣装と早い舞台転換を取り入れて後のレビュー様式の基礎が出来上がった[28][16][17]。 そして、同年8月の浅草松竹座の開場に合わせ、大阪松竹楽劇部から100名の劇団員が上京し、東京公演『虹のおどり』を実施して人気を集め[28][16][17]た。これを契機に、同年10月に同劇場を本拠として「東京松竹楽劇部」(後の松竹歌劇団、略称:SKD)が誕生している[3]。 1929年(昭和4年)の『第4回 春のおどり~開国ごよみ~』では、テーマ曲を一般公募し「春の唄の夕べ」という曲が完成した[30]。そして、フィナーレで紙吹雪が口に入らないように傘を用い、その後も傘が演出に用いられるようになった[30][16][17]。 1930年(昭和5年)の『第5回 春のおどり~さくら~』では、フランスから帰国した大森正男が演出を担当[30]。幕無しのノンストップレビュー形式が採用され、洋舞からフィナーレでモダンバレエを踊る演出となった[16]。「麗美優(レビュー)」の当て字や、タップダンスが初めて用いられた公演でもある[31]。 そして、この公演で「春の唄」が初登場し、歌詞の一部から「桜咲く国」に改題して長く愛唱されるようになった[32]。また「春だ!おどりだ!おどりだ!春だ!」のキャッチフレーズもこの公演で誕生した[32]。『第5回 春のおどり』は大評判で、40日に及ぶロングラン公演となった[32]。同年5月、大阪日日新聞社制定の第1回芸術トロフィーを、最初期のスター飛鳥明子[注釈 11]が受賞した[32]。 大阪松竹楽劇部の人気は高まり公演回数は増加し、その後も『春のおどり』をはじめ、名古屋、京都、また東京での東京松竹楽劇部との合同公演などが行われるようになった[34]。一方、若い女性が露出度の高い衣装で歌い踊ることが、「日本の良風美俗」に反し「衛生的に有害」であると見なされたため、警察から8項目の禁止事項を示され、演出も制約を受ける事態となった[31]。 桃色争議と第二次世界大戦→詳細は「桃色争議」を参照
![]() 1933年(昭和8年)4月、大阪歌舞伎座にて『第1回 歌舞伎おどり~春の花束~』を上演し、「新進十スター」として若手10名を売り出した[35]。 ところが、6月16日に桃色争議が発生[36][37]。まず、東京松竹楽劇部で6月から7月にかけて発生[37]。これと同時期に、大阪松竹楽劇部も待遇改善を会社側に要望したが、6月24日に決裂した[10]。翌25日にストライキが決行され[10]、飛鳥明子ら幹部スター以下約20名の争議団は高野山金剛三昧院(和歌山県)に立てこもり、規則正しい団体生活を送りながら籠城した[38]。7月8日に金剛峰寺の仲介で調停が成立し、争議団側が実質的に勝利したものの、飛鳥のほか瀧澄子、若山千代らが責任を取って退団した[39]。 同年11月には『(第1回)秋のおどり~女鳴神~』が上演され、河原涼子・三笠静子が主演して熱演し、「十スター」の若手たちが奮闘した[35]。こうしてスタークラスの幹部劇団員を大量に失い不振に陥るが、柏晴江(のちハルエ)、美鈴あさ子(のちアーサァ美鈴)、三笠静子(のち笠置シズ子)ら、新スター台頭のきっかけとなった[40]。また、既に東京松竹楽劇部では水の江瀧子が1930年(昭和5年)9月公演で断髪(ボブヘア)し、翌1931年(昭和6年)6月にさらに短髪にして男役スタイルが生まれていたが、いよいよ大阪松竹楽劇部でも男役の魅力が脚光を浴びるようになる[10]。 さらに、桃色争議の痛手を克服するため[41]、1934年(昭和9年)7月5日に「大阪松竹少女歌劇団(OSSK)」に改称し[42]、8月1日]に千日土地建物と松竹が提携して千日前の大阪劇場(大劇)を本拠地とした[43]。 OSSK改称後の第1回公演『カイエ・ダムール』では、コロムビア・レコードともタイアップしてレコードを発売するなど大々的に宣伝を行い、大衆娯楽路線へ転換を図った[40]。このレコードのA面が「恋のステップ」(作曲:服部良一、唄:三笠静子)であった[44]。 同年秋~冬頃[注釈 12]より松組・竹組の2班に分けて公演が行われるようになり[43][45]、三笠静子・美鈴あさ子が人気を集めた。1936年(昭和11年)に、松組・竹組は解消され、新たに若手の秋月恵美子・芦原千津子はレビューの花と呼ばれるようになった[44][46]。 1937年(昭和12年)3月、大阪劇場『第12回 春のおどり~桜咲く国~』は人気絶頂だった林長二郎(のちの長谷川一夫)のレビュー振付という企画でも話題となり、林による六代目尾上菊五郎の舞踊に着想を得た振付が評判となる[47]。この公演は、NHKラジオ(大阪)で実況中継され、また川島芳子が観劇した[47]。同年7月、盧溝橋事件を端緒に日中戦争(当時の呼称:支那事変)が勃発。この頃より、OSSKレビューの舞台にも、士気高揚を目的とした演目が登場するようになった[47]。同年12月16日、本拠地の大阪劇場の内部が全焼した[48][49][50]。 1939年(昭和14年)2月、内務省はポスター・ブロマイド等、写真における「女優の軍装」禁止を通達したが、興業としては軍事劇が奨励される、矛盾した状況だった[51]。同年9月、大阪劇場『翼の友情』で、楽器を持って踊る6人のスターユニット「ジェルモン・シスターズ」が登場し、これがユニット(少人数のチーム、後述)作りの嚆矢となった[51]。さらに10月には、国策に沿った華美ではない服装として、黒紋付(三つ紋)に濃い緑の袴を、制服として採用するに至った[51][52]。 1941年(昭和16年)5月1日、OSSKは松竹本社から、千土地建物に運営が移管される[53]。 1943年(昭和18年)3月の『第13回 春のおどり~日本むすめ~』では、「松竹ロケットガールズ」の名が登場し、ラインダンスがさらなる発展を遂げることとなった[47]。同年5月15日、大阪劇場が復興して再開場している[54][47]。 1943年(昭和18年)5月[注釈 13]、劇団名を「大阪松竹歌劇団(OSK)」に改称し、再び「松組」「竹組」の二組制をとった[56][55]。 1944年(昭和19年)2月24日より、松組・竹組合同で『第19回 春のおどり~戦士に捧ぐ・必勝さくら~』を上演していたが、翌25日に決戦非常措置要綱が閣議決定され、高級娯楽の営業停止が通達された[57]。このため、『第19回 春のおどり』は3月4日を以て打ち切られた[57]。以後は、秋月恵美子、芦原千津子、勝浦千浪、そして京マチ子を班長とした4班に分かれ、軍や軍需工場での慰問公演を行うこととなった[57]。劇場公演は若干緩和されたが、大阪劇場でのレビュー上演が困難となったため、千日前のあしべ劇場での公演が継続された[58]。 1945年(昭和20年)1月1日に大阪劇場で映画の合間に公演を再開した[59][60]。しかし同年3月13日、大阪大空襲で、本拠地の大阪劇場やあしべ劇場は焼失した[59][46]。そこで、奇跡的に焼け残った大阪松竹座で同年4月12日より新作公演『必勝音頭』を上演[61]。大阪劇場は突貫工事で修復され[46]、同年7月26日から『夏まつり』を上演し、同劇場での公演を再開している[59][60]。 同年8月15日、玉音放送により戦争は実質的に終結した。秩序の安定のため、興行界は7日間の営業停止を申し合わせた[59]。 戦後復興と千土地スト![]() 1945年(昭和20年)9月19日、さっそく大阪劇場でOSK復興第1回『秋のおどり』を上演し、同年11月中旬から松組と竹組が大阪劇場と大阪松竹座で交互に公演活動を行うようになった[62][59]。 1946年(昭和21年)2月より「梅組」を加え、松竹梅の三組制となった[62][59]。同年3月1日より上演された『第21回 春のおどり』以降『夏のおどり』『秋のおどり』は三組総出での公演が行われるようになった[62]。この公演中、感染症(発疹チフス)の蔓延の影響により、大阪府下の劇場公演が中断(3月22日~4月10日)された[59]。 1950年(昭和25年)3月、あやめ池遊園地の春季の催し物として、あやめ池大劇場での公演が初めて開催された[63][64]。近鉄側の宣伝も奏功し、実に40万人を動員する大成功をおさめ、以後も同遊園地で公演が継続されることとなった[65]。 1952年(昭和27年)8月、梅組が廃止され、再び松・竹の二組制となった[66]。 1954年(昭和29年)6月、当時の親会社千土地興行で労働争議が勃発。OSKの劇団員のうち、秋月・芦原・勝浦や香住豊らのタレント契約者を除く、米花真砂子以下約80名がこれに加勢し、ストライキや劇場前のビラまき等に参加した[67]。スターのストライキ姿を観ようと、少女・女性ファンらが集まり声援を送った[68]。争議の背景には、インフレによる制作経費の上昇から赤字体質になったOSKを、千土地興行から独立させる動きがあり、実際に経営難から生徒募集が停止されるなどの苦境に陥りつつあった[69]。6月の第一弾ストでは独立を阻止することができた[69]が、12月の第二弾ストではユニオン・ショップ制を巡る抗争から第一労働組合が上演中の演劇を中断させる強硬手段に打って出たため、OSK劇団員は第一組合を脱退して中立の立場を取った[70]。この結果、スト終息後も、会社に意見できる「組合員」の立場を喪失し[71]、また第一組合の団結の輪からも外れ[72]、後の独立会社化への動きにつながっていくこととなった。 前年の千土地ストの影響で、『夏のおどり』『秋のおどり』は中止になっていた[69]。このため1955年(昭和30年)3月の大阪劇場『第30回春のおどり』は特別な意味を持つ公演となった[73]。さらに、続く5月の大阪劇場『楊貴妃』(作・演出:香村菊雄)は、勝浦千浪が玄宗役、米花真砂子が安禄山役、そして牧香織が楊貴妃役を演じ、大好評を博し、1982年・1987年にも上演されるなどOSKの名作の一つとなった[74] [75]。 1956年(昭和31年)3月、あやめ池円形大劇場が開業し、OSK『春のおどり』がこけら落とし公演となった[76]。 独立運営時代1957年(昭和32年)7月1日、千土地興行と近畿日本鉄道が共同で資本金1000万円の「株式会社 大阪松竹歌劇団」を設立し、OSKは松竹から独立した[77][78][79]。そして、同月に旧・「あやめ池温泉場・自然博物館」に「大阪松竹歌劇団音楽学校」を移転した[80]。またこの年のうちに、新たに「専科」が設立され[81]、また大阪劇場『春のおどり』公演にて米国映画『サヨナラ』のロケが行われ、作中にはフィナーレなどが使用がされた[82](なお日本国内での封切りは、翌1958年(昭和33年)1月だった[81])。 1958年(昭和33年)、公演場所を増やす方針の表れとして明石演舞場と枚方大劇場での公演を開始。9月30日には、大阪劇場、あやめ池、明石演舞場、枚方大劇場それぞれの『秋のおどり』に出演する全劇団員約300人が大阪劇場に集まり、合同前夜祭を開催した。[83] 1959年(昭和34年)、前年に開場した新歌舞伎座にて『夏のおどり』を公演。勝浦千浪はじめ全劇団員300人がそろって出演した。[84] 1963年(昭和38年)3月3日午前2時半ごろ、高さ約4.85mの宙吊り舞台が落下し、舞台上の踊り子43名と下敷きになったスタッフ1名の重軽傷を負う事故が発生した[85][86]。公演直前[注釈 14]の深夜の舞台稽古が当時の労働基準法の禁じる女子の深夜労働[注釈 15]に当たる可能性が明るみに出て、芸能界における深夜稽古の常態化が問題視された[88]。労働省は翌3月4日に主要劇場での抜き打ち査察を行い、全国に波紋が広がる事態となった[89]。公演は4日遅れの3月7日から、負傷者を除く出演者で実施された[90][注釈 16]。また、ファンから寄せられた見舞いの千羽鶴に感謝する意図で、同年9月の『秋のおどり』で鶴をモチーフとした舞踊が披露され、繰り返し上演される名場面となった[92]。 一方、同年8月に「日本歌劇団(NKD)」に改称するが[87]。しかし、すでに愛称のOSKが定着していたため、1970年(昭和45年)に「OSK日本歌劇団」と改称した[93][94]。 1965年(昭和40年)5月14日よりソビエト連邦共和国公演を行った[95][96]。以後、共産圏を含む各国での海外公演が行われ、国際親善の一翼を担った[97]。 1967年(昭和42年)の『春のおどり~夢のファンタジア~』を最後に大阪劇場を離れ、本拠地を奈良市の近鉄あやめ池遊園地の円型大劇場に移した[98][99]。 近鉄時代1971年(昭和46年)に近畿日本鉄道・近鉄興業・朝日放送・日本ドリーム観光の共同出資となる[100]。 宝塚歌劇団と同じく鉄道会社の支援のもと遊園地を本拠地にすることとなる[注釈 17]。 少女歌劇そのものの人気が低迷するなか、宝塚歌劇団が『ベルサイユのばら』『風と共に去りぬ』などのミュージカル化で起死回生の大ヒットにより、空前のブームを創出して今日につながる人気を築いたのとは対照的に、OSKは低迷の一途をたどる[101]。特に1970年代後半には、劇団員総数および新規入団者が激減している[102][103]。1979年(昭和54年)当時の劇団員は、65人まで減少していた[101]。さらにOSKはダンスのレベルの高さを大きな特徴としていたこと自体が、1980年代のミュージカルブームに乗り遅れる遠因となる[104]。 1970年代後半より、オリジナルミュージカル『シンデレラ・パリ』『虹いろのハネムーン』等、ミュージカル路線をとる[105]。一方、秋の公演では、NHK大河ドラマに因んだ日本物を上演することが定番となっていた[106]。 1980年(昭和55年)10月、初のたけふ菊人形公演『華麗なるファンタジー』が上演され、以後恒例となる[107]。 1982年(昭和57年)、創立60周年記念公演『楊貴妃』が好評を博し、実に8万人の観客を動員した[108]。観客の6割増を背景に、あやめ池遊園地からの撤退と新劇場(後の近鉄劇場)での常打ち公演の計画も持ち上がった[109]。劇団創立65周年を機に、1987年(昭和62年)より近鉄劇場でのミュージカル公演を定例化、大阪中心部での公演をようやく再開させた[110]。近鉄劇場では、有名作家作品を原作とした話題作も多く上演された[12]。しかし当初の報道・発表とは異なり、常打ちではなく年数回の公演に留まった。 劇団創設70周年を迎えた1992年(平成4年)、「64年ぶり」[注釈 18]と銘打った東京公演『Dancing Wave ARABESQUE』が実現した[112]。この東京公演を機に、OSK後援会の一般会員数が前年から50%の大幅増となり、またNHKで全国放送される等、知名度が向上した[112]。 1990年代には、あやめ池遊園地で童話を題材にしたファミリーミュージカル路線を打ち出す[113]。2000年代には、北林佐和子らによる和物ミュージカル『闇の貴公子』がヒット作となっている[114]。 平成不況の中、1998年(平成10年)頃より、親会社である近鉄の業績悪化に伴い、歌劇団にも経営自立が求められるようになった[104]。しかし、本来はレビュー劇団であるにもかかわらず、劇場での公演回数は減少。この頃までに、近鉄グループのテーマパークである・志摩スペイン村や都ホテルグループの宴会場などでのショー、プロ野球球団の大阪近鉄バファローズの応援パフォーマンスなどが、主な収入源であったが、やがて出演機会も激減し業績が悪化[104]。 2002年(平成14年)6月27日、近鉄からの支援打ち切りに伴う解散が発表され、翌日には劇団員にも正式に通達された[注釈 19][101]。通告直後から当時の最上級生・吉津たかしと男役スターの一人大貴誠を中心に劇団の存続活動が開始され[116]、8月6日に「OSK存続の会」(代表:吉津たかし)が結成された[117][101]。OSK存続の会は、同年9月15日から署名運動を開始[117][101]。劇団員は紋付き袴姿で街頭に立つこともあった[116]。一時解散までに18万人分の署名を集めたが、近鉄側の決定を覆すには至らなかった[101]。 2003年(平成15年)5月の近鉄劇場公演『Endless Dream~終わりなき夢~』が最終公演となった[4]。解散公演時の団員数は69名であり、5月30日に全劇団員と職員21名が劇団本社に集まって解散式が行われた[118]。全員に解職辞令が渡され、ここに劇団は一時解散を余儀なくされた[118]。 この解散は、近鉄グループのリストラ策、特にレジャー部門見直しの一環であった。なお、解散時の出資比率は近鉄が15%、子会社の近鉄興業が85%である[119]。翌2004年には大阪近鉄バファローズも同様に解散し、あやめ池遊園地と近鉄劇場も閉鎖される。 新OSK時代劇団の「解散」後も団員は存続運動を続け、2003年(平成15年)5月にOSK存続の会の吉津会長、大貴副会長による記者会見が行われ「市民劇団構想」を打ち出す[120]。同年8月にはOSK存続の会による立上げ公演『熱烈歌劇 re-Birth〜OSK復活のススメ〜』が近鉄劇場でおこなわれた[121]。同年9月にはOSK存続の会を支援していた経営コンサルタントを社長とし、残存の団員全員を株主とする「株式会社OSK存続の会」が設立される。近鉄側との話し合いにおいて「OSK存続の会がOSK日本歌劇団の正当な後継者であること」が確認され[122]、同月12日に商標権問題に決着がついたことが、存続の会より公表された[注釈 20]。同年9月には劇団付属の研修所を開設し、日本歌劇学校の閉鎖以来途絶えていた新人の育成も再開された[120]。同年12月に松竹座公演『春のおどり』開催が決定した。 2004年(平成16年)4月、大阪松竹座での『春のおどり』公演復活を機に「New OSK日本歌劇団」として旗揚げ。この時点で、近鉄時代から残留した団員は23名(他に研修生が9名)まで激減した[123]。同年7月に近鉄レジャーサービスより正式に名称の使用を認められ[124]、同年10月1日付で会社名も「NewOSK日本歌劇団」に変更した。これに伴い旧劇団時代の衣装・音源などを無償で引き継いでいる[124]。この決着に至るまでの間、「桜咲く国」が歌えない時期があった[125]。 松竹座および小劇場・世界館での定期公演を軸に活動していたが、約20社の企業および約130人の個人による寄付支援はあったものの大きなスポンサーはなく、当初から赤字経営が続いた[126]。法人としてのNewOSK日本歌劇団は、2004年12月期決算で約2500万円、2006年12月期決算では約8400万円の営業赤字であった[127]。その後も状況は改善されず、劇団員への給料の遅配が続いたため、自主再建を断念[127]。大阪地方裁判所に民事再生法による再生手続き開始申請を行い、2007年(平成19年)9月17日付で再生手続き開始の決定が出される[127]。このような中、同年11月、52年ぶりとなる京都四條南座公演『レビュー in KYOTO』が上演された[128]。 その後、吹田市のイベント企画会社ワンズ・カンパニーに事業譲渡され[129]、名称は再び「OSK日本歌劇団」となった[128]。2009年(平成21年)2月に、株式会社として独立した[130]。 OSKの躍進のために、東京での知名度向上が不可欠であるという考えから、2012年(平成24年)に劇団創設90周年を迎え、一連の記念公演の「掉尾を飾る」と銘打ち、日生劇場で「東京では73年ぶり」となる『春のおどり』が上演された[131]。これは、歌舞伎座新築再開場とも時期を合わせ、インパクトのある形で東京公演の本格的再開を企図したものだった[132]。 2013年(平成25年)に、大阪のITコンサルタント企業・ネクストウェアの支援によりマネジメント・マーケティング分野を強化。劇団員自ら販売するチケットの販売実績をベースに、劇場の大きさに沿った団員配置・公演回数を設定するなどITコンサルティングの手法を取り入れ、観客の増加につなげた[133]。また、日本芸術文化振興協会や大阪府の助成事業を手掛けたことに伴いOSK日本歌劇団の収益も大きく改善し、単年度の黒字決算を挙げるまでになった[広報 1]。 2017年(平成29年)1月30日から2月4日にかけ、JTB西日本の主催による訪日外国人向けの日本物レビュー公演「Revue JAPAN」を期間限定で開催したところ好評であったことから、同年12月より、さらに松竹の協賛も得て道頓堀角座で常打ち公演として継続されることとなった[広報 2]。 2018年(平成30年)8月、ネクストウェアと簡易株式交換を行い、完全子会社となった[広報 3]。2020年(令和2年)2月、新型コロナウィルス感染拡大のため、近鉄アート館『愛と死のローマ』が2日間の公演後、翌3日目より上演中止[134]。同年はトップスターの交代及び翌年の創立100周年を控え、松竹座をはじめとした松竹系列大劇場での公演が大々的に計画されていたが、10月までの7か月間にわたり、有観客での公演はすべて中止された[135]た。当初のマスク不足を受け、劇団員が手作りマスクの全国無料配布や、またインドア型に生活様式が変化した世相に合わせ、youtubeによる動画の無料配信キャンペーン・公式グッズ(DVD、Blue-ray等)のセール販売等による情報発信を継続した[136]。さらに、心斎橋のBrooklyn Parlor大阪に専用スペースを設け、ライブ配信や緻密な映像演出の設備を整えた[137]。 2022年(令和4年)、創立100周年を迎えた。同年1月30日、大阪松竹座で100周年記念式典が盛大に執り行われた[7]。 年表![]() ![]()
公演松竹時代独立株式会社時代
上記の三大おどりに加え、地方公演を実施。
株式会社大阪松竹歌劇団時代日本歌劇団時代
新OSK時代(現在)
主なスター→「Category:OSK日本歌劇団団員」も参照
現在のトップスター
序列制度松竹時代から現在に至るまで、劇団員の序列が名簿化されている。本節では、各時代ごとの序列名簿(連名表)による、主なスターを記載する。幹部制度の廃止以降は、トップスター以外は、上位16名及び序列外のベテラン団員を掲載する。なお、OSK日本歌劇団では、2021年(令和3年)をもって、従来の劇団員全員の序列の公表が廃止され、公表される名簿は入団期別に基づく表記に変更されている[広報 24]。 なお、各刊行物の発行時期によるため、名簿の基準日と、正確な劇団創設からの期間とにずれが生じている。 1938年(昭和13年)
1954年(昭和29年)
1960年(昭和35年)
創設50周年時
創設80周年時
創設90周年時
創設100周年時
ユニット
OSK日本歌劇団研修所2003年開設[120]。2001年の日本歌劇学校の休校(事実上の廃校、2000年募集停止)以後、新規の入団が途絶えており、劇団存続に不可欠な課題となっていた[120]。9月に81期生が入所。以後、従来の「歌劇学校の期数」と異なり、「劇団の期数」となり、入所年の劇団創設年数が合うようになっている。そのため75期生から80期生は存在しない。初年度のみ1年制のため、2004年に入団。 卒業後に入団試験があり、その成績により入団の可否が決まる。劇団員になるため、劇団附属の養成機関(松竹楽劇部生徒養成所→大阪松竹歌劇団音楽学校→日本歌劇学校→現:OSK日本歌劇団研修所)を卒業し、「試験に合格しなければならない」ことは、劇団創設以来一貫しているとされる[199]。 主な楽曲・等楽曲
団歌等
主な出身者→「Category:OSK日本歌劇団出身の人物」も参照
劇団関係者
歴代トップスター
芸能界![]() ![]()
舞踊家、演出家等
実業家海外公演()内は訪問国。地名・国名、国旗は当時。
OSK日本歌劇団を題材とした作品細部は各内部リンク先を、また、架空の劇団を題材としたものは、少女歌劇#少女歌劇を題材とした作品を、それぞれ参照されたい。 テレビドラマ
演劇
参考文献
脚注注釈
出典
広報資料・プレスリリースなど一次資料
関連項目外部リンク
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