大黒摩季
大黒 摩季(おおぐろ まき、1969年〈昭和44年〉12月31日 - )は、日本のシンガーソングライター、作詞家、作曲家、編曲家、俳優。本名、大黒 摩紀[3]。所属事務所およびレコード会社はB ZONE。北海道札幌市南区出身、藤女子高等学校卒業。代表曲はミリオンセラーとなった「ら・ら・ら」「あなただけ見つめてる」「DA・KA・RA」など。 来歴生い立ち・学生時代実家は製パン業の札幌キムラヤを営んでいる[注 1]。2歳下の弟がいる[3]。幼い頃から協調性のないマイペースな性格で、興味を持ったらそれに突っ走るような子供だった。3歳の頃に、母がピアノを買ってくれた[注 2]ことでクラシックピアノを始める[3]。5歳の時、父親が1970年代の洋楽ロックのレコードを持って帰ってきたことから聴くようになる[注 3]。また、幼少の頃はピアノが玩具で、以降、母といる時はクラシック、留守番の時はレコードのロック[注 4]、自宅に母方の祖父・祖母が来た時は演歌、テレビでは歌謡曲が流れるというような音楽に囲まれて育つ[3]。 小学生の頃から作曲をしており、音楽がきっかけでテレビっ子になった。ただし小学校ではとにかく集団行動が苦手で、休み時間は一人の時間を楽しんだ[3]。中学入学後は、放課後の音楽室のピアノでよく一人で歌謡曲を弾き語りしていた[注 5]。15歳頃、たまたま店でジャケ買いしたアレサ・フランクリン[注 6]のレコードを聴いて衝撃を受け、ソウルミュージックにも惹かれ始める[3]。中学の終わりになると、休日には様々なバンド[注 7]のボーカルも始め、札幌のアマチュアバンド界隈では知られる存在となった[3]。ただし学校内では以前通り大人しくしており、バレー部に所属していた[注 8]。 当初高校卒業後の進路について音楽大進学を考えていたが、パン工場の経営には年によって収入に波があり、当時母から「短大で我慢してほしい」と頼まれた[3]。これにより、「それだったらいっその事東京でプロを目指して自分で音楽の勉強をしよう」と進路を変更し、親に2年間だけの約束で高校卒業後に上京した[3]。 デビュー前上京後は東京近郊にある叔母の家で暮らし、バイトしながらながらオーディションを受けたり、カバー曲や自作曲を含めた歌唱テープをレコード会社に送った[3]。1989年、テープを送っていたビーイングのオーディション[3]「第3回BADオーディション」に合格するも、コーラスをするよう言われる[注 9]。 同時期にソニーやビクターのオーディションに合格しており[3]、特にソニーからは「すぐにデビューしよう」という話があった。また当時ビーイングは小さい会社だったが、本人の「歌手になりたいけど、今はもっと色々と吸収して曲作りを学びたい」との思いからビーイングでの下積みの道を選ぶ[注 10]。下積み時代は、池尻大橋駅近辺の6畳のアパートで暮らしながら曲作りを始め、生活のためスーパーの品出しや交通整理などのバイトの日々を送った[3]。以後、B'z、ZARD、TUBE、T-BOLAN、織田哲郎などのビーイング系アーティストのコーラスを担当する。 1990年には安宅美春(後にKIX-Sを結成)のギターソロアルバム「孤独のRUNAWAY」にゲストボーカルとして参加し(当時の表記は大黒摩紀)、山下久美子の「WHY?」「LOVE & PEACE」「BIBBIDI, BOBBIDI, BOO」をカバーしている。1991年1月にSILK(大森絹子)のアルバム収録曲「ジョン・レノンが聴こえる夜」(作詞はみなみなみ)で作曲家デビュー。TUBEの春畑道哉のソロライブツアーにコーラスとして参加。またCM NETWORKの一員として「GO!GO!貴花田」という曲を歌っている。また、同年発売の西城秀樹のシングル「走れ正直者」のカップリング「HIDEKI Greatest Hits Mega-Mix」のコーラスに参加。後の2018年にBS朝日「My Anniversary SONG」に出演した際、西城から歌唱指導を受けたことを明かしている。 デビューからの快進撃本人が望んでいた歌手デビューがなかなか出来ないため(会社を辞めて)アメリカへ旅に出た[3]。その頃長戸は、SILK(大森絹子)が歌った大黒が作詞・作曲した楽曲「STOP MOTION」(1991年12月にアルバム「FACE」の収録曲としてリリースされ、大黒の作詞家デビューとなった)に注目。これがきっかけで滞在先で社長から「歌手デビューの話が進んでいる」という旨の電話連絡を受け帰国[3]、会社に復帰して活動を再開した。 1992年5月「STOP MOTION」で歌手デビュー[3]、ドラマ主題歌という大型タイアップがつくもセールスはいまいちだった。しかし、9月にリリースした2ndシングル「DA・KA・RA」がCMのタイアップがつき問合せが殺到。結果的にヒットチャートを上昇し最高位2位、初のミリオンセラーを記録する大ヒットとなり[3]、第34回日本レコード大賞新人賞受賞。 1993年、2月発売の織田哲郎が楽曲提供した「チョット」が83万枚、4月発売の「別れましょう私から消えましょうあなたから」が66万枚と立て続けにスマッシュヒット。12月に発売した「あなただけ見つめてる」はアニメ『SLAM DUNK』のエンディングテーマ曲に使用され、123万枚の大ヒットを記録し、翌年の年間シングルチャート9位にランクインした。 1994年、4月発売の「夏が来る」も97万枚の大ヒット、10月発売のアルバム『永遠の夢に向かって』は158万枚の大ヒットとなった。 1995年、2月発売の「ら・ら・ら」が中居正広初主演のドラマ味いちもんめの主題歌に使用され、自身最大となる133万枚の大ヒットを記録。7月に発売したアルバム『LA.LA.LA』も161万枚の大ヒットに[3]。更には、12月に発売した初のベスト・アルバム『BACK BEATs #1』は286万枚という驚異的なビッグセールスを記録した[3]。 1996年、7月発売の「熱くなれ」がNHKのアトランタオリンピックのテーマソングに起用され1位を記録、83万枚のヒットを記録。1996年度の長者番付では歌手部門で10位を記録。 少なかったメディア露出デビューしてから数年は大ヒットを連発しながらも露出を控え、メディア出演やライブ活動をすることは一切なかった。このため、当時は「謎のカリスマ歌姫」というような形容をされることも多かった[注 11]。さらに「大黒摩季は歌手担当、写真で顔を出すモデル担当、作詞・作曲担当とそれぞれ3人いる[注 12]」「大黒摩季はコンピューターで作られたもので実在しない[注 13]」という都市伝説まで存在した[5][6]。 当時本人は作詞・作曲からレコーディングまで一人でやっており、デビューからしばらくは3ヶ月に1枚のペースで作品を出した[3]。また、当時はテープによるレコーディングだったため、アナログな作業を“やってもやっても終わらない”という日々が1999年頃まで続いたという[注 14]。このことから当時は時間的にメディアに出る余裕がほとんどなく、結果として世間で上記の都市伝説が囁かれてしまったという[3]。 数少ないテレビ出演としては、デビュー前の1992年5月17日にフジテレビ『ミュージックフェア』において、初出演を果たしている。B'zと近藤房之助、坪倉唯子が昔の曲を歌う企画のコーラス参加だが、歌う前に大黒はB'zらと横一線に並び、司会に名前を紹介されていた。また1996年に「熱くなれ」がNHKのアトランタオリンピック中継テーマソングとなった関係から、同局の『サンデースポーツ』に出演しインタビューに答えているほか、同年6月1日には当時ビーイングがスポンサーに付いていたテレビ番組『ROX』(関西テレビ)の第1回で特集され、アマチュア時代の思い出を語るなどインタビューに応じている。またラジオ出演としては、B'zの松本孝弘が司会を務めたラジオ番組「BEAT ZONE」に出演したこともある。 1997年8月1日にレインボースクエア有明特設ステージで行われた初のソロライブ『LIVE NATURE#0〜Nice to meet you〜』で、初めて本格的にファンの前に姿を現す。このライブの一部はテレビ朝日『ミュージックステーション』で生中継された[7]ほか、ライブ・ビデオ『大黒摩季 LIVE BEATs』に一部収録されている。当時発売したアルバム『POWER OF DREAMS』はオリジナル・アルバムでは自身最高となる175万枚の大ヒットとなった。このライブ以降、全国ツアーを開催するようになった。 それ以前にもわずかながらステージに立ち、姿を現している。1990年5月に横浜バードで行われた近藤房之助と小島良喜のライブにゲストボーカルとして参加。1996年2月と3月には大阪・心斎橋にあるグランカフェで行われていた「SUNDAY BLUES LIVE」Qunchoのステージに飛び入りゲストとして参加している。その他にも「大黒摩季」個人として、1996年9月21、22日に札幌で行われた「ゆうあいピック北海道大会」に、大会テーマソングとして当時は未発表だった「風になれ」(のちにアルバム『POWER OF DREAMS』に収録)を提供した縁で、大会閉幕後に選手や大会役員、スタッフなどを招いて行われた後夜祭にサプライズ登場し、ミニライブを行ったことがある。 1998年、9月11日にテレビ朝日系「ミュージックステーション」に2度目の出演を果たした。前回と同様、全国ツアー『LIVE NATURE #2 〜BEST BEATs〜』のライブ会場からの生中継となった。9月9日発売のアルバム「MOTHER EARTH」に収録されている「この闇を突き抜ける」と「ROCKs」(アルバム「永遠の夢に向かって」に収録)の2曲を披露した[8]。 1999年、全国ツアー『LIVE NATURE #3』を開催。夏にはツアーファイナルとなるスペシャルライブを千葉マリンスタジアムで敢行。12月31日に奈良・東大寺で開催されたカウントダウンライブで充電休養を宣言。2001年にはビーイングから独立し[3]、古巣の東芝EMIにレコード会社を移籍して活動を再開(移籍以降、ビーイング側のCDでは作詞に「ビーイングスタッフ」と付けられている)。8月8日に復帰第1弾シングル「虹ヲコエテ」を発表した。 2000年代2003年、アルバム『RHYTHM BLACK』を引っ提げて、全国ツアー『Live BOMB!LEVEL.3』を開催。11月11日、友人の紹介で知り合った会社員と入籍。初対面の際、男性は大黒のことを知らず、「アーティスト?画家ですか」と訊かれたと、大黒は語っている[9]。 2004年、武部聡志、土屋公平、真矢、恩田快人らとコピーバンド“大黒摩季とフレンズ”を結成。3月17日に1980年代の曲をコピーしたアルバム『COPY BAND GENERATION VOL.1』を発表。シングル「ASAHI〜SHINE&GROOVE〜」がアテネ五輪ホッケー女子日本代表オフィシャルサポートソングに使用される。この曲は大黒が偶然見ていたテレビ番組に出演していたホッケー女子日本代表の選手が話していた女子ホッケーの現状を聞き、自分の下積み時代の姿と重なり何か出来ないかと思い作られたもの。出来上がった時には代表チームの合宿地へ訪問して聴いてもらったとのこと。 2005年、2年ぶりの新作『HAPPINESS』を発表し、7月15日より全国ツアー『Live BOMB!LEVEL.4』を開催。12月には初となる日本武道館単独ライブを行う。同31日、ナガシマスパーランド(三重県)にてカウントダウンライブを行なう。 2006年、初のバラード・シングル「胡蝶の夢」がフジテレビ系昼ドラマ『新・風のロンド』主題歌に使用される。3月にはバラード・ベスト・アルバム『weep』を発表。5月15日、ワールドカップ選手発表に伴って、FWに選出された大黒将志と巻誠一郎(二人合わせて大黒摩季(巻)だから)、友人の中田英寿にエールを送った。ちなみに「大黒巻」の共演は実現しなかった。10月20日より全国ツアー『Live BOMB!LEVEL.5 〜デビュー15周年前倒し企画・わりと津々浦々お客様大感謝TOUR “ダイブ見せますMaki Best”+ 〜』を開催。 2007年4月9日、北海道立校としては初の「中高一貫校」として誕生した北海道登別明日(のぼりべつあけび)中等教育学校の開校式にサプライズゲストとして登場。ノーギャラで作詞・作曲を手がけた同校の校歌「明日(あけび)の空に」を生で披露した。 4月18日にシングル「コレデイイノ?!/恋の悪魔 -She's no Angel-」を発表。「コレデイイノ?!」は前出の『Live BOMB!LEVEL.5』ツアーで披露され、観客と共に踊れる振付施されている。大黒曰く今時のイイ言葉はないかと考えて辿り着いたものが「コレデイイノ」と云う言葉であり、「これでいいの?」に「コレデイイノ!」と大黒流の背中を押すエールの言葉となっている。 5月24日、東京青年会議所と2016年東京オリンピックを望む学生の会が開催するイベント、「オリンピックを東京に2016!」にて、無料ライブを開催。 5月25日、夕張市において2万本のサクラやモミジを植え、地域再生を図る「しあわせの桜ともみじ」プロジェクトがスタートし、同市内の石炭の歴史村の公園内で記念植樹会に参加。新曲「桜ごころ」を初披露した。 5月27日(デビュー15周年日)、同日放送のフジテレビ『ウチくる!?』に出演。司会の中山秀征から「(バックコーラス担当時代に)こいつ下手くそだなっていうアイドルもいっぱいいたでしょ?」と聞かれ、「はい、ぶっちゃけ。何でアンタの気持ち悪い音程に合わせて私が歌わねばならないのだ!(中略)やっぱ顔か~、体か~!!みたいな」と答えた。この発言はZARDの坂井泉水を指しているのではないかという噂が立った(坂井は放送前日の26日に病院で転落、27日に急逝[10])。大黒は坂井の名前を出していたわけではなかったが、大黒のブログが炎上する事態に発展[11][12]。 6月26日、死去した坂井泉水の音楽葬に参列した。その後記者陣に対して終始泣き崩れながら「心遣いが素敵な女性でした」とコメントした[13]。後年、大黒は「泉水ちゃん(の声)にくっつく(=バックコーラスをする)のが好きでした」「泉水ちゃんの声が、私の体の中に入ってる」と語っている[14]。 8月19日に38歳でこの世を去ったプロウィンドサーファー飯島夏樹の誕生日に、表参道ヒルズにて飯島へ捧げた曲、「HEAVEN'S WAVES」を披露した。ハワイで行われた葬儀にて流された。飯島と大黒は同じサニーサイドアップに所属した。 10月、大黒摩季とフレンズを再結成し、青春ロックライブハウスツアーを開催。年末にはANAインターコンチネンタルホテル東京他で初のディナーショーを開催した。 2008年1月30日にアルバム『POSITIVE SPIRAL』を発表。2月9日より全国ツアー『MAKI OHGURO Live Bomb! Level.6 15th Anniversary Final Tour 〜ありがとう! そして…POSITIVE SPIRAL〜』(全21公演)。5月17日、ツアーフィナーレのスペシャルライブをパシフィコ横浜で開催。年末は2007年に続き、グランドプリンスホテル高輪他でディナーショーを開催。 2009年2月4日に初のセルフカバー・アルバム『LUXURY 22-24pm』とライブDVD『Maki Ohguro Live Bomb!!Level.6 15th Anniversary Super Final in パシフィコ横浜 〜My Music My Life〜』を同時発表。3月29日よりライブツアーを横浜BLITZ、Zepp Tokyo他全16公演開催した。 同年8月29日に一夜限りのファンクラブイベント、〜一見さんお断り〜「スナック摩季」を渋谷DUOにて行われた。 同年9月24日放送のTBSドラマ『JNN50周年記念 スペシャルドラマ 天国で君に逢えたら』(映画『LIFE〜天国で君に逢えたら』(2007年)のモデルとなったプロウィンドサーファー飯島夏樹の小説が原作)のテーマソング「最後のラブレター」を手掛けた。 活動休止2010年8月24日に13枚目のアルバム『すっぴん』の発表とともに子宮疾患の治療のため、2010年10月末で無期限活動休止を発表した。生理不順をはじめとする身体の異変は上京から数年後から感じており[3]、1996年には疾患が発覚していた。その際子宮腺筋症だけでなく、左卵巣嚢腫、子宮内膜症、子宮筋腫も併発し他の内臓を圧迫しており、これ以上の肥大は子宮全摘出しか方法がなくなる可能性があり、また治療のための体外受精や流産を繰り返しており、2010年にきて治療のために活動停止をせざるを得ない状況となった[15]。しかし、翌2011年にRESTART JAPAN with TUBEの楽曲である「RESTART」のレコーディングに参加している。 2014年には北海道夕張郡長沼町にて町内の三つの中学校の統合により新設される長沼町立長沼中学校の新校歌の制作を依頼され、「道産子として恩返しをしたい」と快諾、自らの作詞・作曲により『希望の丘』と題する新校歌を書き下ろして完成させ、新しい中学校に贈っている[16]。 2015年には、スカイマークの応援歌を手掛け、約4年半ぶりとなる本格的なレコーディングも実施した。応援ソング制作のきっかけは、スカイマーク社が大黒が2010年に発表した楽曲「TAKE OFF」の使用許可を取ろうとしたことで、このたび制作された応援ソングも同曲を原曲としている。タイトルは「TAKE OFF ~SKYMARK, Cheer UP← version~」で、スカイマーク社員たちに寄り添った応援歌にしたいという考えから、大黒自ら原曲の歌詞を3割程度変更し、「青く光る Skymark」などのフレーズも盛り込まれた[17]。さらに、同年3月19日には、YouTube上で本曲とスカイマークの映像を用いた動画が公開された[18]。 同年11月に子宮全摘出の手術を受け、長年患ってきた子宮疾患を完全克服した[19]。休養中の手術の影響で持ち前の力強い声が出にくくなったことから、「もう歌手としては歌えないかもしれない」と思った[3]。そんな中、吉川晃司やボイストレーナーの支えにより歌手として自信を持ち直し、復帰につながった[3]。 ビーイングでの再始動2015年には、大黒の古巣ビーイングの所属歌手La PomPonへ楽曲提供をするなど作家としての活動を本格化。9月16日発表の両A面シングル「謎/ヤダ!嫌だ!ヤダ! 〜Sweet Teens ver.〜」で「ヤダ!嫌だ!ヤダ! 〜Sweet Teens ver.〜」の作詞・作曲を担当。4月発表のLa PomPonの2ndシングル「HOT GIRLS」のカップリング曲「恋はずーく☆ダンス」にて「Maquita Grande Negro」というペンネームでも楽曲提供。その他TUBEやアンティック-珈琲店-などビーイング所属のアーティストへの楽曲提供、ビーイング在籍時に多くの作品でコーラスを担当していたZARDのデビュー25周年記念サイトへのメッセージの寄稿[20]、2016年5月18日に発売の「d-project with ZARD」にゲストボーカルで11曲参加する[21]など、古巣ビーイングでの活動が活発化してきた。 2016年、6月1日発売の郷ひろみの101枚目のシングル「IRREGULAR」の楽曲提供を行った。 6月20日、6年ぶりに活動再開と再びビーイングに所属することが発表され、8月11日開催のファンクラブイベント、8月13日の野外フェス「ライジング・サン・ロックフェスティバル」の参加が発表となる[22]。8月10日に6年ぶりの新曲となるシングル「Higher↗↗Higher↗↗」を配信限定でリリースした。 10月16日には、約5年半ぶりに単独ライブを地元でもある北海道・札幌市ニトリ文化ホールにて凱旋公演「Maki Ohguro 2016Live–HOP!~Reborn To The Future☆彡~ in Sapporo Nitori Bunka Hall 」を開催した。同会場にて、2017年に47都道府県にも及ぶ全国ツアー『Maki Ohguro 2017 Live-STEP!! 〜Higher↗↗Higher↗↗中年よ熱くなれ!! Greatest Hits +〜』の開催が発表された。 11月4日、AIR-G'(FM北海道)にてレギュラー番組「トーホウリゾート presents 大黒摩季♪大人のBreak Time」が開始。 11月18日、テレビ朝日『ミュージックステーション』へ自身3度目の出演をした。同番組への出演は1998年以来約18年振りとなる。また、番組でのスタジオ出演は18年越しで今回が初となった。代表曲である「熱くなれ」「あなただけ見つめてる」「ら・ら・ら」の3曲をメドレーで披露した[23][注 15]。 11月23日、2010年を最後に活動休止以来、約5年半振りとなる作品として再始動後初となるオールタイム・ベスト・アルバム『Greatest Hits 1991-2016 〜All Singles +〜』を発売。オリコン週間売上で初登場4位となり、1999年発売の「MAKI OHGURO BEST OF BEST〜All Singles Collection〜」以来16年10か月ぶりにTOP5に入った。また、11月24日付のデイリーチャートでも2位にランクインした。 2017年、1月7日よりbayfmでレギュラー番組「Your Playlist」が開始。 2月25日から2018年5月26日にかけて、およそ1年半に及ぶ47都道府県全国ツアー『Maki Ohguro 2017 Live-STEP!! 〜Higher↗↗Higher↗↗中年よ熱くなれ!! Greatest Hits +〜』が開催された。 5月27日にデビュー25周年を迎え、6月1日にはデビュー25周年記念特設サイトが開設された。 9月27日、復帰後初なおかつ、デビュー25周年記念第一弾シングルとして「Lie, Lie, Lie,」がリリースされた。この曲は、『名探偵コナン』のオープニングとして起用された。 12月31日、第1回ももいろ歌合戦に出場し、代表曲の「ら・ら・ら」を歌唱した。 2018年、全国ツアー後の5月から10月にかけて、6か月連続の新曲配信を行った。また、12月5日には復帰後初の8年ぶりオリジナルアルバム「MUSIC MUSCLE」を発表。同作を携え、2019年3月から7月にかけて全国ツアー「MAKI OHGURO MUSIC MUSCLE TOUR 2019」を開催。 2019年2月20日、北海道の民放5局とNHK札幌放送局による共同キャンペーン『One Hokkaido Project』のキャンペーンソングに参加[24]。 12月20日、同年4月に離婚していたことを明らかにした[25][26]。 12月31日より全楽曲の全世界サブスクリプション配信が開始。配信にあたり大黒本人立ち合いの下、マスタリングが行われた[27]。 2020年3月、地球ゴージャスプロデュースによるブロードウェイミュージカル「The Prom」で舞台女優デビューを果たした[28]。 2024年8月、「ブラックペアン シーズン2」に出演し、地上波ドラマ初出演となった[29]。 人物歌声、楽曲の特徴などR&Bなどのブラックミュージックをベースにした伸びやかで力強いボーカルが特色[30]。1990年代初頭のミュージックシーンに忽然と現れ、以後自作で数々のヒット曲を出したことから、一部メディアから「90年代を代表するシンガーソングライター」と称される[3]。楽曲では、『DA・KA・RA』『チョット』『あなただけ見つめてる』など、ロックやブラック・コンテンポラリー、ダンス・ミュージックなどの要素を併せ持つ打ち込み主体のサウンドで知られるが、後年はバンドサウンド寄りの楽曲に移行している[30]。アルバムでは初期からゴスペル・レゲエ・スカ的な要素の作品も発表しており、元来は幅広い音楽性の持ち主である[31]。 作詞に関しては、「自分との対話で生まれる。鏡の中の自分を叱咤激励するような感じで、オブラートには包まない」と述べている[32]。楽曲についてファンからは、「聴くと元気になれる」、「自分を応援してくれる」と評されることもある[3]。 楽曲提供する際にMaquita Grande Negroというペンネームを使用するときもある[33]。また東京スクールオブミュージック&ダンス音楽専門学校で非常勤講師も務めている[34]。 交友関係デビュー前からZARDの坂井泉水[注 16]とは“摩季ちゃん”、“泉水ちゃん”と呼び合うなど親しくしていた[35][3]。ちなみに大黒の30周年記念アルバム『BACK BEATs #30th Anniversary -SPARKLE-』の中の「君に届け」は、坂井のために制作した曲である[3]。また、B'zの松本孝弘・稲葉浩志との親交も深い[36]。デビュー前に松本から受けたアドバイスを今でも心の励みにしているという[36]。1996年のシングル「あぁ」の歌詞に出てくる「君」とは、松本と稲葉のことを指したものである[36]。甲斐よしひろ、土屋公平、氷室京介らとも交流がある[37]。 音楽業界以外では、神田うの[38]、藤原紀香[39]やはるな愛、川島なお美夫妻や山田邦子夫妻[40]、森三中などの他に、2005年に死去したプロウィンドサーファー飯島夏樹とも親交があった[41]。2007年の楽曲「HEAVEN'S WAVES」は飯島に捧げた曲である[41]。また、飯島の小説をドラマ化した2009年9月24日放送のTBSドラマ『JNN50周年記念 スペシャルドラマ 天国で君に逢えたら』のテーマソング「最後のラブレター」も担当している[42]。 ビーイングスタッフ表記問題大黒は全ての楽曲をリリース時には「大黒摩季」として作詞しているが、ビーイング離脱後の2001年にビーイングが発売したベスト・アルバム『BACK BEATs #2〜Maki Ohguro&Staff Works〜』で、作詞クレジットが「ビーイングスタッフ・大黒摩季」となっていた。同作の裏ジャケットには作詞クレジットが表記されており、歌詞カードを見ずとも「ビーイングスタッフ・大黒摩季」の作詞クレジットが確認できるようになっていたため、結果的に殆んどの作詞は大黒単独ではなく、ビーイングスタッフが作詞にも関わっていたと思われる表記が掲載されることとなった。 大黒離脱後にリリースされた「BEST OF BEST 1000」のライナーノーツによると、歌詞のほとんどをプロデューサーの長戸大幸が書き換えたとしている。文中では、「DA・KA・RA」の2フレーズを例に挙げ、大黒の歌詞の意味を長戸が逆にした、また「ら・ら・ら」は最初の1行のみ大黒の作詞でタイトルも含めて全て長戸が作ったとあり、「あなただけ見つめてる」は最初の頭のサビ以外全て、「夏が来る」は大半、それぞれ長戸が書いたとしている。文中では「詞の天才のZARDの坂井に対して、コーラスの天才の大黒」という風に長戸が評したとされている。 (出典は「BEST OF BEST 1000 liner note」。) 以降、ビーイング離脱後で移籍先の東芝EMIから発売された曲は「大黒摩季」表記になっているが、ビーイングが出版する大黒摩季の関連CDの作詞には(東芝EMI移籍後にビーイング時代の曲を再録音した音源のものであっても)「大黒摩季」単体のまま表記されないようになっている。『complete of 大黒摩季 at the BEING studio』では作詞・作曲のクレジットを一切表記しない方法を取った。大黒がビーイング離脱後にビーイングが発売したMANISH『complete of MANISH at the BEING studio』の作詞クレジットは「大黒摩季」のままであったが、ビーイングのオムニバスアルバム『IT'S TV SHOW!』ではMANISHの作詞も「ビーイングスタッフ・大黒摩季」に変更されている。その後にリリースされたMANISH『BEST OF BEST 1000 MANISH』では作詞クレジットが「大黒摩季」に戻っている。 大黒がビーイング離脱後に発売したベスト・アルバム『Weep〜maki ohguro The Best Ballads Collection〜』、及び『LUXURY 22-24pm』では、ビーイング在籍時代に発表された楽曲の作詞の表記は、「大黒摩季&ビーイング・スタッフ」と表記された。 なお、JASRACの音楽作品データベース検索サービスなどで収録曲やアルバムを検索しても、作詞・作曲に「ビーイングスタッフ」の表記は無い。大黒がビーイング復帰後に発売されたベスト・アルバム『Greatest Hits 1991-2016 〜All Singles +〜』では、作詞の表記は「大黒摩季」に戻されている。 作詞に直接言及しているわけではないが、大黒自身はビーイング復帰後の2016年12月、「『大黒摩季』ってみんなのものなんですよね。私の私物じゃないですから。(中略)わかりやすく言えば“大黒摩季”っていうブランドをみんなで作ってるのに近いと今は思ってて」と語っている[14]。 ディスコグラフィーシングルシングルCD
デジタルシングル
コラボレート・シングル
非売品シングル
アルバムオリジナル・アルバム
ベスト・アルバム
カバー・アルバム
非公認アルバム
参加作品
DVD-Video
著書
提供曲
主なコーラス参加作品大黒はデビュー前、またその以降に関わらず、多くのミュージシャンの楽曲にコーラスとして参加しており、本項目において全てを掲載することは不可能である。 本項目では、シングルカットされたなどの主要な楽曲ならびに明確にクレジットが確認できる楽曲を掲載する。
タイアップ一覧
テレビ出演テレビドラマ
情報バラエティ
ラジオ番組レギュラー番組
過去の出演番組
コンサートツアー
脚注注釈
出典
関連項目外部リンク
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