アマンシオ・アマロ
アマンシオ・アマーロ・バレーラ(Amancio Amaro Varela、1939年10月16日 - 2023年2月21日[1])は、スペイン・ア・コルーニャ県ア・コルーニャ出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはフォワード。 「イエイエ・マドリード(Yé-yé Madrid)」と呼ばれた1960年代のレアル・マドリードの黄金期にあってエースストライカーを務め、2022年10月から2023年2月までレアル・マドリードの名誉会長を務めた。 経歴15歳の時にビクトリアに入る。1958-1959シーズンにデポルティーボ・ラ・コルーニャに移籍、当時2部リーグだったデポルティーボ・ラ・コルーニャを1部に押し上げ、その活躍によって多くの強豪チームのスカウトにインパクトを与え、1962-1963シーズンにレアル・マドリードに加入した。 ![]() レアル・マドリードでは、リーグ優勝9回、コパ・デル・レイ3回、UEFAチャンピオンズリーグ優勝などを成し遂げ、自身もレアル・マドリードの選手としてリーグ119得点、その他大会も含めると155得点を挙げ、2度のピチーチ賞に輝いた。1964年のバロンドールでは、デニス・ロー、ルイス・スアレスらに次いで3番目に多い得票数を集めた。代表でも1964 欧州ネイションズカップ、1966 FIFAワールドカップのスペイン代表に選ばれた。1975-1976年に引退し、レアル・マドリードのテクニカルスタッフに参加した。 引退後はコーチとしてレアル・マドリードのジュニアチームを1年間指導し、その後ビジネスに専念する決意をしたが、1982年に会長のルイス・デ・カルロスによって再びレアル・マドリードに戻った。レアル・マドリード・カスティージャの監督として将来キンタ・デル・ブイトレと呼ばれるエミリオ・ブトラゲーニョ、ミチェル、マルティン・バスケス、マヌエル・サンチスらを率い、就任2年目の1983-1984年に2部リーグ優勝に導いた。その後、トップチームの監督もしたが結果が出せず、監督を辞任した。 2022年10月2日に行われたレアル・マドリードの年次総会にて、同年1月に死去したフランシスコ・ヘントの後任としてレアル・マドリード第3代名誉会長に任命された。 2023年2月21日、レアル・マドリードが公式サイトにて死去した事を発表[2][3]。83歳没。 個人成績クラブ成績
代表成績
タイトル
脚注注釈出典
外部リンク
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