セルジュ・オーリエ
セルジュ・アラン・ステファヌ・オーリエ(Serge Alain Stéphane Aurier (フランス語: [sɛʁʒ oʁje]), 1992年12月24日 - )は、コートジボワール・ウラガヒヨ出身のサッカー選手。コートジボワール代表。ポジションはDF。 来歴クラブフランスのRCランスでキャリアをスタートさせ、2009年1月13日、クープ・ドゥ・ラ・リーグのFCロリアン戦でプロデビューを果たした。2012年、トュールーズに移籍した。1月28日、SMカーン戦で移籍後初出場した[5]。 ![]() 2014年7月23日、パリ・サンジェルマンFCにレンタル移籍した[6]。2015年4月29日、パリ・サンジェルマンに完全移籍したと発表された[7]。 2016年2月、自身のFacebookにてファンからの質問に答えている際に、ローラン・ブラン監督に対して「ブランはホモ野郎さ」と発言し、チームメイトのアンヘル・ディ・マリアに対しては「操り人形だ」と侮辱した。これがパリ・サンジェルマンから問題視され、2月16日のUEFAチャンピオンズリーグ決勝トーナメント1回戦チェルシー戦のメンバーから外される事が発表された[8]。さらに、その後に18万ユーロ(約2280万円)の罰金と無期限試合出場停止処分を科された事が発表された[9][10]。同年5月には警察官への暴行行為で有罪判決を受けている[11]。 2017年8月31日、トッテナムと2022年までの契約を結んだ[12]。9月23日ウェストハム・ユナイテッドFCとのゲームで先発デビューをしたが、2枚目のイエローカードを受けて、退場となった[13]。12月13日のブライトン戦でプレミアリーグ初ゴールを決めた[14]。 2019年1月に婦女暴行・傷害の疑いで逮捕・勾留された[15]。 同年9月21日のレスター・シティ戦で60分に追加点を挙げたかに思われたが、僅かの差でオフサイドとなり得点が取り消され物議を醸した[16]。11月に監督がジョゼ・モウリーニョに交代し新監督の2戦目となったCLグループ第5節オリンピアコス戦では、見事な右足のボレーシュートで決勝点を挙げた。以降新監督の下で信頼を掴み、右SBのレギュラーとして継続的に出場。リーグ28節ウォルバーハンプトン戦では先制点に繋がるパスを供給し、同点にされて迎えた45分には自らの左足で勝ち越しのゴールを決める活躍をしたが、試合には2-3で敗れた。最終的にリーグ戦では移籍以降最多となる33試合に出場して1ゴール5アシストを記録し、トッテナムのEL出場権獲得に貢献した。 2020-21シーズンは、ウォルバーハンプトンから加入したマット・ドハーティとポジションを争った。10月4日、リーグ4節マンチェスター・ユナイテッド戦にて1ゴール1アシストの活躍で6-1の歴史的大勝に貢献した。12月のレスター・シティ戦では軽率にもエリア内で背後から突き飛ばす形のタックルを行い、PKによる決勝点を献上した。21年5月2日、リーグ34節シェフィールド・ユナイテッド戦ではガレス・ベイルの3得点のうち2つをアシストした。最終的にリーグでは19試合に出場して2ゴール3アシストを記録し、トッテナムのECL出場権獲得に貢献した。 2021年8月31日、双方合意の下にトッテナムとの契約を解消[17]。10月4日、2年延長オプション付きの1年契約を結んでビジャレアルに加入した[18][19]。 ビジャレアルが延長オプションを行使しなかったため2021-22シーズン終了後はフリーとなったが、9月7日にノッティンガム・フォレストFCへの加入が発表された[20]。 2024年2月2日、スュペル・リグのガラタサライに移籍した[21]。 代表コートジボワール代表として2013年6月8日、ガンビア代表戦でA代表デビューを果たした[22]。 2014 FIFAワールドカップに臨むコートジボワール代表に選出され、右SBとしてグループステージ3戦全てに先発出場する。日本戦においては2アシストを記録しチームを勝利へ導くが[23]、コロンビア、ギリシャには敗れ、チームはグループステージ敗退となった。 2017年1月11日のウガンダとの親善試合で代表初得点をあげた。 エピソード
個人成績クラブ
代表歴出場大会試合数
タイトルパリ・サンジェルマン
脚注
外部リンク
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