ハビエル・アギーレ
ハビエル・アギーレ・オナインディア(西: Javier Aguirre Onaindía、1958年12月1日 - )は、メキシコ・メキシコシティ出身の元プロサッカー選手、現サッカー指導者。ハビエル・アギレとも[2]。 両親はスペイン・バスクからメキシコへの移民者で、アギーレ自身はバスク系メキシコ人[1]。長男は弁護士、次男はサッカー指導者、三男はサッカー選手である。 現役時代のポジションは、フォワードとして選手生活をスタートし、やがてミッドフィールダー、選手生活晩年はディフェンダー(CB)。メキシコ代表選手として1986年ワールドカップ・メキシコ大会に出場した。現役引退後、1994年ワールドカップ・アメリカ大会にアシスタントコーチとして代表に同行し、また代表監督として2002年ワールドカップ・日韓大会、2010年ワールドカップ・南アフリカ大会の2大会で指揮を執った。2014年7月から2015年2月まで日本代表監督を務めた。 経歴選手としては、所属したクラブで392試合に出場し56得点、メキシコ代表選手として59試合に出場し14得点を記録している。監督としては、メキシコ国内のCFアトランテ、CFパチューカで実績をあげる。メキシコ代表監督としては、2002年ワールドカップの最終予選、10節中5節を終えて1勝3敗1分、勝ち点4の6ヶ国中4位と、本大会への出場が危ぶまれる状況にあった段階で就任し、2001年7月1日に初采配。アルベルト・ガルシア・アスペ、クアウテモク・ブランコ、フランシスコ・パレンシアを代表に呼び戻し、残り5節を4勝1分で乗り切って、5勝3敗2分の勝ち点17で11月11日の最終節に本大会出場3位以上を確定させ、母国を救った。本大会でもグループリーグを2勝1分で突破し16強に導いた。大会終了後はスペインのCAオサスナの監督に就任。弱小であった同クラブで2005-06シーズンにはリーガ・エスパニョーラで4位に入り、翌シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ出場権を獲得できるまでに強化した。その実績を買われ、翌シーズンからはアトレティコ・マドリードの監督に招聘された。アトレティコでの2シーズン目となる2007-08シーズンには12シーズンぶりに4位以内に入り、暗黒期からの復活を期すアトレティコとして一定の成果を残した。2008年12月、UDアルメリアの監督にウーゴ・サンチェスが就任し、スペイン1部で指揮を取るメキシコ人監督はふたりになった。2009年に入ってから2分3敗と1勝も出来ず、2月3日に解任された[3]。 2009年4月、2010年ワールドカップの最終予選において、3節を終えて1勝2敗と再び本大会出場に黄信号が灯り、スヴェン=ゴラン・エリクソン監督は解任され、これを受けて7年ぶりにメキシコ代表監督に就任した。就任後、代表から退いていたブランコを再び呼び戻して主将を命じた。代表は4節を落とし窮地は深まったが、ここから一気に5連勝(最終節は引き分け)し、6勝3敗1分の勝ち点19でチームを2位に押し上げて2010年ワールドカップ出場に導いた。本戦でもフランス代表を撃破して再び16強に進出した。同大会後、メキシコ代表監督を辞任。2010年にはJFAが日本代表監督に打診していたが、家族の事情もあり見送った。 2010年11月18日、レアル・サラゴサの監督に就任[4]。2012年からRCDエスパニョールの監督を務め、2014年5月に退任した。 2014年7月、JFAが日本代表監督に招聘[5]。8月に就任した。 2014年12月には、2011年5月に指揮していたサラゴサのリーガ残留をかけたレバンテUD戦を廻る八百長疑惑で、スペインの検察当局から関与した疑いのあるアンデル・エレーラ、ガビらとともに告発された[6]。2015年1月14日、スペインメディアにより、バレンシアの裁判所が訴追を受理、同年2月には事情聴取が始まるとの報道がなされた[7]。日本代表監督就任後初の国際大会となったアジアカップ2015ではグループステージを無失点で3連勝し首位通過するも、決勝トーナメントでは準々決勝UAE戦でPK戦の末に敗れ、ベスト8で敗退した。八百長に関与した疑いにより、2015年2月3日、日本サッカー協会からサッカー日本代表監督としての契約解除が発表された[8]。 2015年6月、UAE・アラビアン・ガルフ・リーグのアル・ワフダFCの監督に契約期間1年で就任[9]。 その後1年間契約を延長し、2017年6月末に契約満了となり退任した[10]。 2018年8月1日、サッカーエジプト代表の監督に就任した。 しかし、2019年7月に地元エジプトで開催されたアフリカネイションズカップ2019にて、グループリーグを首位通過しながらも決勝トーナメントラウンド16で南アフリカに0-1で敗れたことから、7月6日に解任が発表された[11]。 2019年11月4日、CDレガネスの監督に就任したことが発表された[12]。最下位の状態で監督に就任後、すぐに好成績を収めたが、最終節で2部リーグに降格することになった。 2020年12月7日、アントニオ・モハメドに代わってC.F.モンテレイと2シーズンの契約を結んだ。CONCACAFチャンピオンズリーグで優勝し、5度目のタイトルとFIFAクラブワールドカップ出場を達成した。 2022年3月24日、ルイス・ガルシア・プラザの解任に伴い、スペイン・プリメーラ・ディビシオンのRCDマジョルカと契約すると、ラスト3試合で2勝1分の粘りを見せ、降格圏とのポイント差は『1』でプリメーラ・ディビシオンに踏みとどまった。 就任2年目となった2022-23シーズンは前年と一転。MFイ・ガンインとFWヴェダト・ムリキのホットラインを最大限に活かすスタイルで、開幕前は降格候補に挙げられながらも、蓋を開けてみれば9位フィニッシュとトップハーフ入りを果たした。 2023-24シーズンは再び残留争いに巻き込まれるものの、第37節でプリメーラ・ディビシオン残留を確定させた。コパ・デル・レイではクラブ史上4度目のファイナリストとなった(決勝戦はPK戦の末に、アスレティック・ビルバオに敗れた)。2024年5月22日、同シーズン限りでの退任が発表された[13]。 2024年7月22日、自国開催となる2026年のワールドカップを控えたメキシコ代表監督への就任が発表された。自身3度目の就任となる[14]。 人物・エピソード
代表歴出場大会試合数
監督成績
脚注
外部リンク
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