ラファエル・マルケス (サッカー選手)
ラファエル・マルケス・アルバレス(スペイン語: Rafael Márquez Álvarez, 1979年2月13日 - )は、メキシコ・サモラ出身の元サッカー選手。サッカー指導者。元メキシコ代表。現役時代のポジションはDF(センターバック)、MF(センターハーフ)。 2001年12月にメキシコの女優と結婚し、2人の子どもをもうけたが、2007年初頭に離婚している[1]。 クラブ経歴CFアトラス1996年、17歳の時にCFアトラスでキャリアをスタートさせ、CFアトラスでは77試合に出場した。 ASモナコ1999年、移籍金600万ユーロでリーグ・アンのASモナコに移籍した。ASモナコのスカウトはチリ代表のパブロ・コントレラスを視察するためにコパ・アメリカに赴き、その試合でマルケスが活躍をしたことから、両者と契約を結んだ。マルケスはすぐに成功を収め、クラブをリーグ制覇に導いた。 FCバルセロナ2003年、リーガ・エスパニョーラのFCバルセロナに移籍金500万ユーロで移籍した。FCバルセロナではかつてFWオラシオ・カサリンがプレーしており、クラブ史上2人目のメキシコ人選手となった。2003-04シーズンはリーグ戦21試合に出場し、リーグ戦は2位で終えた。2004-05シーズン途中にはティアゴ・モッタ、エジミウソン、ジェラール・ロペスなど中盤の底を務めていた選手が相次いで離脱したため、本来のポジションであるセンターバックではなく守備的ミッドフィールダーとして起用されたが、チームは17度目のリーグタイトルを獲得した。レバンテUD戦ではリーグ優勝を決めるサミュエル・エトーの得点をアシストしている。2005-06シーズン終盤には左膝を負傷して1ヶ月の間チームを離脱したが、UEFAチャンピオンズリーグ準決勝ACミラン戦ファーストレグで復帰した。2006年5月17日に行われたアーセナルFCとの決勝にも出場して2-1で勝利し、メキシコ人として初めて同大会優勝を果たした[2]。 2006 FIFAワールドカップ後、マルケスは2010年6月までの延長契約にサインした。2006-07シーズンに負傷したにも関わらず2007年夏には他クラブへの移籍が噂され、クラブでの未来は漠然としたものであった。コパ・アメリカ2007でトップフォームを取り戻し、大会有数のディフェンダーとして3位というまずまずの結果を得た。2007-08シーズンは素晴らしいスタートを切り、キャプテンのカルレス・プジョルの負傷離脱中は新加入のガブリエル・ミリートと強固な信頼関係を築いた。しかし、度重なる怪我によりフォームを崩した後半戦はほとんどチームに貢献できず、チームもビジャレアルCFに追い抜かれてリーグ戦3位に終わった。2008年夏にはアメリカのヒューストンで開催された「フリーキックマスターズ2008」という大会に出場し、ロナウジーニョ、リオネル・メッシ、ロマーリオら多くの名フリーキッカーを抑えて優勝し、優勝トロフィーと共に賞金100万ドル(約1億円)を獲得した。 2008年夏にロナウジーニョがACミランに移籍したことで、フランク・ライカールト前監督が就任時に獲得した選手の最後の生き残りとなったが、ジョゼップ・グアルディオラ新監督はマルケスへの信頼を示した。2008-09シーズンはプジョルとともにセンターバックのファーストチョイスであり、2008年12月13日のレアル・マドリード戦ではFCバルセロナでの公式戦通算200試合出場を達成した。2009年4月28日のUEFAチャンピオンズリーグ準決勝・チェルシーFC戦で左膝を負傷し、チームメイトより一足早くシーズンを終えた[3]。2008-09シーズンはリーグ、コパ・デル・レイ、UEFAチャンピオンズリーグの3冠を達成する歴史的なシーズンであったが、マルケスはピッチの外から優勝を喜んだ。2009年夏にはセリエAのACFフィオレンティーナからオファーを受け取ったが[4]、FCバルセロナで選手生活を終えたいと主張して残留した[5]。2009年11月にはクラブとの契約を2012年まで延長した[6]。2010年2月20日、ラシン・サンタンデール戦で復帰後初得点を決めた。7月31日、クラブとの契約を解除してフリーの身になった。FCバルセロナで最も成功を収めた外国人選手のひとりであり、7シーズンの在籍期間中に12個のトロフィーを獲得している。242試合に出場して14得点したが、この試合数は外国人選手としてはクラブ史上8位、非欧州国籍選手としてはクラブ史上最多の記録だった[7]。 ニューヨーク・レッドブルズ2010年8月2日、MLSのニューヨーク・レッドブルズと3年契約を結んだ[8]。マルケスはクラブにとって3人目の特別指定選手(Designated Player)であり、8月3日にティエリ・アンリとともにレッドブル・アリーナでお披露目が行われた。8月8日のシカゴ・ファイアー戦でMLSデビューを飾り、8月21日のトロントFC戦で初得点を決めた。10月21日にニューイングランド・レボリューションに勝利してイースタン・カンファレンス優勝を決めた[9]。 エラス・ヴェローナ2014年8月4日、セリエAのエラス・ヴェローナに移籍することが所属元のクルブ・レオンから発表され[10]、8月7日にエラス・ヴェローナからも移籍が発表された[11]。 アトラスFC2015年12月20日、古巣アトラスFCに復帰することが発表された[12]。 2018年7月自身のインスタグラムにて現役引退を発表した[13]。 代表経歴![]() 1999年にはナイジェリアで行われたFIFAワールドユース選手権に出場し、グループリーグのU-20オーストラリア戦とU-20アイルランド戦で得点を挙げた。決勝トーナメントではルシアーノ・ガジェッティらを擁するU-20アルゼンチン代表に勝利したが、累積警告のために準々決勝のU-20日本代表戦には出場できず、チームも敗れた。 1997年2月5日のエクアドル戦でメキシコA代表デビューした。1998年の1998 FIFAワールドカップには招集されなかったが、同年のCONCACAFゴールドカップと1999年のFIFAコンフェデレーションズカップ1999では優勝を勝ち取った。 日本と韓国で共催された2002 FIFAワールドカップでは23歳だったにもかかわらずハビエル・アギーレ監督からキャプテンを任され、メキシコ代表の4試合すべてに先発出場した。グループリーグでは力強いプレーを見せたが、アメリカとの決勝トーナメント1回戦ではレッドカードを受けて退場し、0-2で敗れてベスト16に終わった。 2006 FIFAワールドカップ・北中米カリブ海予選では必要不可欠な選手であり、リカルド・ラ・ボルペ監督に選出されて本大会にも出場した。グループリーグ3試合すべてに出場し、決勝トーナメント1回戦のアルゼンチン戦では1-2で敗れたもののメキシコ唯一の得点を決めた。 2010 FIFAワールドカップでもキャプテンを務め、開催国の南アフリカ戦では79分に得点を決め、2-0で勝利したフランス戦ではハビエル・エルナンデスの先制点をアシストした。 2014 FIFAワールドカップのメンバーにも選出され、キャプテンとして4度目のワールドカップ出場を果たした。グループリーグ第3戦のクロアチア戦では自身3大会連続ゴールとなる先制点を挙げ、さらにエルナンデスのゴールをアシスト。大会選定のマンオブザマッチに選定される活躍で、メキシコの6大会連続の16強入りに貢献した。 FIFAコンフェデレーションズカップ2017のメンバーにも選出され、グループリーグ第2戦のニュージーランド戦に途中出場し、準決勝のドイツ戦にも途中出場した。3位決定戦となるポルトガル戦には先発出場し、延長106分までプレイした。 2018 FIFAワールドカップのメンバーにも選ばれた。グループリーグ初戦のドイツ戦に途中出場し、ワールドカップ5大会連続出場を記録した。これは、元メキシコ代表アントニオ・カルバハル、元ドイツ代表ローター・マテウス、元イタリア代表ジャンルイジ・ブッフォンに次ぐ4人目の偉業となった[14]。 監督2022年7月14日、バルセロナBの監督に2年契約で就任した[15]。 個人成績クラブでの出場記録
代表歴出場大会試合数
得点
タイトルクラブ
代表
個人脚注
関連項目外部リンク
|
Portal di Ensiklopedia Dunia