エリック・ヴァン・デ・ポール
エリック・ヴァン・デ・ポール(Eric van de Poele, 1961年9月30日 - )は、ベルギー出身のレーシングドライバー。1987年にドイツツーリングカー選手権(DTM)でチャンピオンとなる等、主にツーリングカーレースで活躍。元F1ドライバー。姓は現地語に近い「ファン・デ・ポーレ」「ファン・デ・プーレ」と表記されることもある。 プロフィール初期の経歴フォーミュラカーでは、1984年はフランスF3に参戦し、ランキング16位。1985年はベルギー・フォーミュラ・フォードでチャンピオンとなり、またベルギーツーリングカー選手権で3勝を挙げ、ランキング3位となった。 1986年はイギリスF3に参戦し、ランキング20位。ベルギーツーリングカー選手権は、3勝でランキング3位と、前年と同じ成績を収めた。1987年はDTMに参戦し、チャンピオンを獲得。またスパ・フランコルシャン24時間レースでも優勝している。1988年は、ヨーロッパツーリングカー選手権に参戦して2勝を挙げ、ランキング5位となる。 F30001989年に国際F3000にステップアップ。序盤から表彰台に立つなど上位に顔を出し、同年夏にはF1チームからの誘いも届きはじめた。同年8月末、イタリアのコローニと契約し、F1第11戦ベルギーGPでのF1デビューが一旦は決まった。しかしFISAはヴァン・デ・ポールのF3000選手権での成績が不十分としてスーパーライセンス発給が認められなかったため、F1デビューの話は流れてしまった[1]。 国際F3000での2年目となる1990年は、DAMSのエリック・コマスとチャンピオン争いを演じ、シーズン3勝を挙げランキング2位を獲得。これにより前年は認められなかったスーパーライセンスの基準を満たすことが出来た。 F11991年F1新規参戦チームのモデナ・ランボルギーニのシートを獲得。第3戦サンマリノGPで初めて決勝に進出しF1デビューとなった。このレースでは、サバイバルレースの中21番グリッドから一時5位まで浮上し、注目を浴びた。しかし、終盤にガス欠に見舞われ入賞を逃し、最終リザルトは9位となった。このサンマリノGP以外、全て予備予選不通過を喫し、予備予選が免除された後半8戦も全て予選を通過することが出来ず、同僚のニコラ・ラリーニが5度決勝に進出したのに対しヴァン・デ・ポールは1度のみと差をつけられた。モデナ・チームは同年のみでF1から撤退した。 1992年91年最終戦の会場でブラバムとの1992年契約締結が発表された[2]。開幕戦の南アフリカGPでは予選26位から13位で完走。しかし、この年のブラバムは資金難から解体寸前であり、以後は第10戦ドイツGPまで連続予選落ちを喫した。同年はF1と並行してル・マン24時間レースにもプジョー・ワークスの一員として参戦していたが、ル・マン開催中のパドックで「ブラバム買収に関心を持っているフランスのビッグスポンサー」を紹介され、ブラバムとの仲介役となった。フランスGPとイギリスGPの開催中もこの「ビッグスポンサー」によるブラバム買収の交渉は続行された[3]。 ヴァン・デ・ポールは第11戦ハンガリーGPより、フォンドメタルで予選通過に苦戦していた新人アンドレア・キエーザに代わって移籍した。このハンガリーGPを最後に、前週まで所属していたブラバムはF1から撤退し、ブラバムよりも力を持つマシンを得て3戦連続で予選を通過。地元の第12戦ベルギーGPでは決勝レースを10位で完走する。しかし続く第13戦イタリアGPをもってフォンドメタルのガブリエル・ルミオーナーが「参戦継続にカネがかかりすぎる」とチームの即時撤退を決めたため、F1シートを失った。 ツーリングカー1994年8月に、資金難に陥っていたラルースと地元ベルギーグランプリでのF1スポット参戦交渉をしたが、大詰めで合意に至らず参戦は幻となった[4]。以後、ル・マン24時間レース、スパ24時間レースに参戦。後者は2位という成績を収めた。メインの参戦カテゴリーはツーリングカーレースとなり、ヨーロッパ各国のツーリングカー選手権に日産・プリメーラで参戦した[5]。セブリング12時間レースにおいては、1995年・1996年と2連覇を記録。またル・マン24時間レースでは、1998年・2001年にクラス優勝。特に2001年は、総合でも3位に入る成績だった。 エピソード
レース戦績フォーミュラ国際F3000選手権
(key) F1世界選手権
ル・マン24時間レース
ツーリングカードイツツーリングカー選手権
ヨーロッパツーリングカー選手権
イギリスツーリングカー選手権
スペインツーリングカー選手権
ベルギープロカー選手権
スパ・フランコルシャン24時間レース関連項目脚注
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