マイク・サックウェル(英語: Mike Thackwell, 1961年3月30日 - )は、ニュージーランド出身の元レーシングドライバー。1980年にF1デビューし、当時のF1最年少出走記録を樹立した。
プロフィール
母国でのレーシングカートを経て、1977年、16歳で渡英。イギリスフォーミュラ・フォード1600で4輪レースデビュー。翌1978年に同シリーズのチャンピオン獲得。
1979年にイギリスF3にステップアップすると、5勝を挙げランキング3位を獲得。このシリーズにはナイジェル・マンセル(25歳)やスポット参戦でアラン・プロスト(24歳)なども参戦していたが、20代中盤の世代が多く、18歳と若いサックウェルの活躍はイギリスで関係者の目を引き、その名はケン・ティレルの知る所となっていた。
1980年、ヨーロッパF2選手権にステップアップ。しかしシーズン途中でケン・ティレルからF1スポット参戦のオファーを受け、カナダGPでティレルからF1デビュー、19歳182日のF1最年少出走記録を樹立(2016年現在のF1最年少デビュー記録はマックス・フェルスタッペンの17歳165日)。決勝ではチームメイトに再スタート時にマシンを譲ったためDNFとなった。
以後のメイン参戦カテゴリーはヨーロッパF2であった。1984年シーズン途中にはF1の小規模チームRAMから声がかかりカナダGPに出走したが、RAM・02が搭載するハート・ターボエンジンは完走能力を持たず、DNFとなった。
ラルト・RH6/84・ホンダ(1984年)
1984年のヨーロッパF2選手権ではラルト・ホンダRA264Eで7勝を挙げる圧勝のチャンピオン獲得だったが、F1の正シート獲得はできず、翌1985年の国際F3000選手権でもランキング2位を獲得。シーズン終了後にはマカオグランプリF3に出場し2位となるなど結果を出し続けたが、戦闘力を持つF1シートには結びつかなかった。
1986年は当初、2年前にも乗ったF1のRAMレーシングと契約し開幕前のブラジル合同テストで乗っていたが、チームは参戦資金が無く開幕前に撤退したため、同年は日本の全日本F2選手権にノバ・エンジニアリングのマールボロ・マーチでフル参戦した。8月の第6戦富士スピードウェイでは中嶋悟、星野一義を寄せ付けない完勝劇を見せるなど活躍、ランキング5位を獲得した。
F1直下カテゴリーでランキング2位・1位・2位と3年連続で結果を残しながら、大きなスポンサー資金を持たなかったことでF1シート獲得は難航し、1987年はノバ・エンジニアリングから全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権にフロムAポルシェ・962Cで参戦。1988年シーズンを最後に27歳でレーシングドライバーを引退した[1]。その後は、パイロット、材木切り出し、金鉱掘りといった職業を転々とし、現在はロンドン郊外で教師として恵まれない子供たち相手に教鞭を振るっている[2]。
1998年10月、ツインリンクもてぎで催された「ホンダ50周年ありがとうフェスタ」に姿を見せ、観衆の喝采を浴びた[3]。なお、もてぎに隣接の「ホンダコレクションホール」にはサックウェルがチャンピオンを獲得したラルト・ホンダが展示されている[4]。
レース戦績
イギリス・フォーミュラ3選手権
ヨーロッパ・フォーミュラ3選手権
全日本F2選手権
ヨーロッパ・フォーミュラ2選手権
国際F3000選手権
F1
(key)
CART PPGインディカー・ワールドシリーズ
マカオグランプリ
ル・マン24時間レース
関連項目
脚注
- ^ SPOT NEWS 史上最年少19歳182日でF1に出走したマイク・サックウェルがレースから引退することを示唆している。彼はまだ26歳だ。 Racing On No.022 43頁 武集書房 1988年2月1日発行
- ^ 『F1グランプリ特集』 ソニーマガジンズ、2月号、1998年、113頁。
- ^ 「Racing On」No.280、p.19、ニューズ出版、1998年。
- ^ ラルトホンダ RH-6-84 ホンダモビリティランド
- ^ a b JAF(日本自動車連盟)ライセンスではない外国ライセンスドライバーはポイント対象外。
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太字はティレルにおいてドライバーズワールドチャンピオンを獲得。 |
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