ステファン・ベロフ
![]() ステファン・ベロフ(Stefan Bellof, 1957年11月20日 - 1985年9月1日[1])はドイツ出身のレーシングドライバーである。 経歴初期の経歴1980年にドイツカート選手権でチャンピオンを獲得し、翌1981年にはドイツFF1600でチャンピオンを獲得する。同時にドイツF3選手権に参戦、7レースに出場し、年間ランキング3位を獲得。 1982年、ヨーロッパF2選手権にマウアーから参戦。開幕2連勝して注目を浴びた。 1983年には、世界耐久スポーツカー選手権でポルシェのワークス・チームで956をドライブして活躍した。また、アイルトン・セナ、マーティン・ブランドルとともにシルバーストン・サーキットでのF1マシンテストに呼ばれ[2]、マクラーレンMP4/1Cをテストドライブした。 フォーミュラ1
![]() ティレルからF1デビューを果たした。この年のティレル・012は自然吸気エンジンを使用していたが、F1ではハイパワーなターボ・エンジンが主流になっており、非力な自然吸気エンジンを使用していたのは、ティレルとアロウズだけになっていた。シーズンが進むとアロウズもBMWのターボエンジン車のA7を投入したため、ティレルが最後の自然吸気エンジン使用チームになった。 ベロフは、第3戦ベルギーグランプリで6位に入り初入賞を記録すると、続く第4戦サンマリノグランプリでも5位に入賞した。 第6戦モナコGPでは、予選20位から追い上げ、3位表彰台を獲得。このレースは豪雨のために31周終了時点で打ち切られたが、終了時にベロフは2位のセナの13秒差、そしてトップのアラン・プロストの21秒差につけていた。またこのレースでのベロフのペースは、トップのプロストより明らかに速く、セナとほぼ変わらないものであった。加えて、セナはスタート前にガソリン漏れで背中を火傷しており、ギアボックスにもトラブルを抱えていたため、『本来の周回数だった77周は無理でも、せめて全周回数の75%である規定周回数の58周まで続いていればベロフが優勝しただろう』ともパドックでは囁かれていた。 ターボエンジンへの変更に遅れたティレルの車両ながら入賞圏内で複数回ゴールし、順調なデビューイヤーかのように見えたが、第8戦デトロイトグランプリにて、重大なエンジン規定違反が発覚。通称「水タンク事件」と呼ばれ、不正なエンジン出力の増大行為と判定された。これによって、ティレルの成績はドライバー、チームともシーズンの全成績を抹消され、シーズン終盤の出場も禁止された。 波乱のルーキーシーズンとなったF1と並行し、それまで通り世界耐久選手権にもポルシェ・ワークスとして参戦。この1984年シーズンの全9戦中5勝をマークし、ドイツ人初のチャンピオンに輝いた。
F1には、前年の不祥事によりスポンサーの殆どが撤退したティレルから参戦。自身の初陣となった第2戦ポルトガルグランプリでは、豪雨の中序盤にマンフレッド・ヴィンケルホックと接触して右フロントウイングを失いながらも6位に入賞した。また第6戦デトロイトグランプリでは4位に入る[注釈 1]など、戦闘力面で苦戦する中で奮闘していた。非力なマシンで非凡な才能を見せるベロフをフェラーリ総帥であるエンツォ・フェラーリも注目し、シーズン中にはチームとの関係が拗れつつあったルネ・アルヌーに変わってフェラーリ入りがほぼ内定とされた。 世界耐久選手権ではポルシェ・ワークスを離れ、プライベーターのブルンからポルシェ・956で参戦していた[注釈 2]。 事故死しかし、9月1日にベルギーのスパ・フランコルシャンで開催された世界耐久選手権第7戦スパ1000kmにて、ベロフは生涯の幕を閉じることとなる。 レース終盤、トップのジャッキー・イクスと激しいバトルを繰り広げていたベロフは、一旦先行された後、テクニックと度胸が要求されるスパの中でも特に難所とされる登りながらの高速ブラインドコーナー、"オー・ルージュ"で抜き返しに掛かったが接触。ベロフのマシンは、イクスのマシンに押し潰されるようにコンクリートウォールに激突し、大破炎上。すぐに火は消し止められたが、医務施設で死亡が確認された。即死の状態だったという。27歳没。マシンはクラッシュの激しさから、キャビン部分から「へ」の字型に曲がっていた。事故の瞬間はイクスの車載カメラに記録されており、ベロフのマシンが押しつぶされた瞬間には衝撃で一瞬映像が途切れるほどだった。 評価
期待の新人だったベロフの死は、近年でもモータースポーツファンや関係者の間で度々話題にされる。『ベロフが生きていれば、ドイツ人初のF1チャンピオンはミハエル・シューマッハを待つまでもなく誕生していた[注釈 3]』という意見がある一方、『速いが安定感に欠けていたため、生きていてもF1でチャンピオンにはなれなかった』という意見もある[注釈 4]。 またF1においてチームメイトであったマーティン・ブランドルやステファン・ヨハンソンとは予選戦績がほぼ互角であり、後にブランドル、ヨハンソン両者ともF1での優勝は達成できなかったことから、早世ゆえにベロフは過大評価されているという声もある。 しかし、一定の評価を与える点は多くの人物に共通しており、ベロフの死を『レース史でも有数の才能の損失』として挙げる人物は今日でも多い。 備考
レース戦績略歴
ヨーロピアン・フォーミュラ2選手権
フォーミュラ1
世界スポーツカー選手権
ル・マン24時間レース注釈
出典
参考文献外部リンク |
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