上野消火器商一家五人殺し

上野消火器商一家五人殺し(うえのしょうかきしょういっかごにんころし)[1]とは、1974年昭和49年)2月7日東京都台東区上野七丁目で発生した大量殺人事件消火器販売業者の一家4人と、一家の知人である男性の計5人が殺害された。

被害者が5人におよんだ一家殺害事件であることから、報道では上野の一家五人殺しと呼称される場合がある[2][3][4]

事件の概要

事件現場は台東区上野七丁目で、被害者は同地の家に住んでいた消火器販売業を経営していた男性A(事件当時71歳)とその妻B(同69歳)、Aの三男C(同33歳)とその妻D(同27歳)、そしてA宅の元従業員であり、事件発生時に遊びに来ていた国鉄職員の男性E(同26歳)の計5人である[2]

1974年2月7日、被害者5人が殺害されているのが発見されたが、その現場は凄惨を極めていた。特に社長A(当時71歳)は頭を鈍器で殴られ致命傷を受けていたうえに、首をビニール紐で縛りつける念の入りようであった。

当初、警視庁一家心中を疑っていたが、タンスの中身が全てぶちまけられている様子から、複数による物取りもしくは怨恨の犯行であるとして捜査した。室内にあった犯人の脱ぎ捨てた衣類から身元が判明し、消火器商で以前セールスマンとして働いていた男T(当時36歳)と、知り合いのとび職の男K(当時39歳)が逮捕された。

犯行の動機と実行

Tは消火器のセールスマンをしていた頃、消火器販売業をしていたAに得意先を奪われたことを恨みに思い続け、金に困っていたKを誘い犯行に及んだ。1974年2月6日、犯人のTとKは被害者A宅に押し入り、AとAの妻をハンマーで撲殺した後、そのままA宅に居座り、その後帰宅したAの三男夫婦、元使用人を次々と襲って殺害。さらに84000円の現金を奪った[5]

Kは早々に逮捕されたが、Tは社員寮があるメッキ工場で働きながら潜伏を続けた。しかし手配書が出回ったことがきっかけとなり1974年3月8日に逮捕された[6]。逮捕後、Tのバッグから犯行を示唆するメモのような手記が発見されたが[7]、平仮名だらけの脈絡のない文章であった。

その後

犯人の2人はともに強盗殺人罪などで起訴され、いずれも責任が重大として死刑が言い渡され、1979年12月25日最高裁で死刑が確定した。

事実関係に争いが無く、二人は淡々と刑の宣告を受け入れたが、TはKを巻き込んだことを後悔していたという。2人は共に1986年5月20日に死刑が執行された。

脚注

出典

  1. ^ 最高裁判所判決 1979年(昭和54年)12月25日 集刑 第216号737頁、昭和52年(あ)第771号、『強盗殺人、窃盗』「死刑事件(上野消火器商一家五人殺し)」。
  2. ^ a b 読売新聞』1975年12月22日東京夕刊第4版6頁「上野の一家五人殺し 二被告に死刑判決 「鬼気迫る残虐犯行」」(読売新聞東京本社) - 縮刷版694頁。
  3. ^ 朝日新聞』1975年12月22日投稿夕刊第3版9頁「上野の一家五人殺し TとKに死刑 東京地裁判決」(朝日新聞東京本社) - 縮刷版699頁。
  4. ^ 『読売新聞』1979年12月25日東京夕刊第4版9頁「上野の一家(放火機販売業)五人殺し 二人の死刑確定」(読売新聞東京本社) - 縮刷版951頁。
  5. ^ 控訴審でも死刑を支持 上野の一家殺しの二人『朝日新聞』1977年(昭和57年)3月17日夕刊、3版、11面
  6. ^ 主犯 千住で逮捕 上野の5人殺し 元雇い主に使ってくれ『朝日新聞』1974年(昭和49年)3月8日夕刊、3版、11面
  7. ^ 「25年のうらみだ」手記見つかる『朝日新聞』1974年(昭和49年)3月9日夕刊、3版、9面
Prefix: a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9

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