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この項目では、日本で死刑が確定した歴代の死刑囚の一覧(1990年代)について説明しています。
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日本における死刑囚の一覧 (1990年代) (にほんにおけるしけいしゅうのいちらん)は、1990年(平成2年)から1999年(平成11年)の日本で、刑事裁判によって死刑判決を言い渡され、確定した死刑囚(死刑確定者)の一覧記事である。
1990年 - 1994年
1990年
1990年(平成2年)に死刑判決が確定した死刑確定者は6人である[1]。
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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銀座社交クラブママ殺害事件 (N) |
1990年2月22日 |
1978年5月21日 1978年6月10日 |
1946年(昭和21年)12月18日生まれ。共犯のHは1988年に上告を取り下げ、死刑が確定(参照)。 1980年1月18日、東京地裁刑事第6部(小野幹雄裁判長)でHとともに死刑判決を受けた[6]。控訴したが、1982年1月21日に東京高裁(市川郁雄裁判長)で控訴棄却判決を受けた。 1990年2月1日に最高裁第一小法廷(佐藤哲郎裁判長、定年退官のため四ツ谷巖裁判官が代読)で上告棄却判決を受け[7]、同月22日付で死刑が確定。 1996年12月20日に東京拘置所で死刑執行(50歳没)。
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熊本主婦殺人事件(金川一[8]) |
1990年4月21日 |
1979年9月11日 |
1950年(昭和25年)7月7日生まれ。2020年9月27日時点で福岡拘置所に収監中(現在74歳)。 1979年9月11日14時ごろ、熊本県球磨郡免田町(現:あさぎり町)の路上で、偶然すれ違った主婦(当時21歳)を乱暴しようと追いかけ、近くの畑で襲って首を絞めた上、持っていた短刀で滅多刺しにして殺害した[13]。同事件以前にも少年時代に強盗殺人事件を起こし[14]、懲役5年以上10年以下の不定期刑の判決を受け[13]、10年間服役していたが[15]、その刑期を終えて出所してから3か月後の犯行である[13]。凶器は未発見のままだが、確定判決はKの供述から「短刀様の鋭利な刃物」と認定している[16]。 検察官は1981年7月9日に熊本地裁八代支部で開かれた第一審の公判で死刑を求刑したが、Kは同月17日の最終弁論でそれまでの供述を翻して殺害を否認、弁護側も自白以外の証拠がなく、凶器も未発見であることを主張。証拠の見直しが行われたが、検察官は1982年3月15日の公判で改めて死刑を求刑した。同月6月14日、熊本地裁八代支部(河上元康裁判長)は有罪を認定、残忍な犯行であることや反省がないことから「極刑も考えられる」としながら死刑求刑を退け、無期懲役の判決を言い渡した[17]。検察官が「残忍であり、再犯の恐れも極めて高い」と控訴した一方、弁護人も控訴し、控訴審では「凶器のナイフが見つかっていないなど不確定なものを残して死刑にすべきでない。異常人格で犯行時は心神耗弱に近い状態だった」と主張していたが、福岡高裁第2刑事部(緒方誠哉裁判長)は1983年3月17日に原判決を破棄自判し、Kを死刑とする判決を言い渡した[15]。 1990年4月3日に最高裁第三小法廷(安岡満彦裁判長)で上告棄却判決を受けた[13]。異議申立も同月20日付で棄却され、同月21日付で死刑が確定。 死刑確定後、2006年12月までに福岡高裁に3回の再審請求を起こしている[18][19]。
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永山則夫連続射殺事件(永山則夫) |
1990年5月9日 |
1968年10月11日 - 11月5日 |
「警察庁広域重要指定108号事件」[20]。 1949年(昭和24年)6月27日生まれ。各事件当時19歳の少年死刑囚。 1979年7月10日に第一審・東京地裁刑事第5部(蓑原茂広裁判長)で死刑判決を受けたが控訴し[22]、1981年8月21日に控訴審・東京高裁刑事第2部(船田三雄裁判長)は第一審判決を破棄自判して無期懲役判決を言い渡した[23]。 しかしこの控訴審判決を不服とした東京高検が最高裁へ上告したところ[24][25]、1983年7月8日に最高裁第二小法廷(大橋進裁判長)は上告審判決公判で「死刑を回避した控訴審判決は量刑不当。破棄しなければ著しく社会正義に反する」などとして原審を破棄し、審理を東京高裁に差し戻した[26]。最高裁が量刑不当を理由に被告人に不利益な方向で控訴審判決を破棄して高裁への差し戻しを命じた事例は戦後刑事裁判史上初で、最高裁は同時に判決理由で死刑適用基準について初めて詳細に明示した[26](後の「永山基準」)。 差し戻し後の控訴審では1987年3月18日に東京高裁刑事第3部(石田穣一裁判長)が第一審・死刑判決を支持して被告人・永山の控訴を棄却する判決を言い渡した[27]。そして1990年4月17日に最高裁第三小法廷(安岡満彦裁判長)が上告棄却判決(差し戻し控訴審の死刑判決を支持)を言い渡し[28]、永山は同判決に対し訂正を申し立てたが、これも最高裁第三小法廷(坂上壽夫裁判長)から棄却決定が出されたため、(決定が永山に通達された)1990年5月9日に死刑が確定[29]。 1997年8月1日に東京拘置所で死刑執行(48歳没)[30]。
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長崎3人殺害事件(村竹正博[31]) |
1990年5月12日 |
1978年3月21日 |
1944年(昭和19年)3月30日生まれ。 第一審・長崎地裁佐世保支部(亀井義朗裁判長)では情状酌量により無期懲役判決(1983年3月30日)を受けたが、控訴審・福岡高裁(桑原宗朝裁判長)で1985年10月18日に一審破棄・死刑判決を受けた。 1990年4月27日に最高裁第二小法廷(藤島昭裁判長)で上告棄却判決を受け[32]、同年5月12日付で死刑が確定。1998年6月25日に福岡拘置所で死刑執行(54歳没)。
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空知連続殺人事件 (H) |
1990年10月25日 |
1972年5月6日 1972年8月19日 1974年5月12日 |
1934年(昭和9年)5月8日生まれ。離婚後、重機の運転手として勤務しながら男で1つで小学生の息子2人を育てていたが、1972年5月6日に空知支庁管内・月形町で女子専門学校生A(当時19歳)を乗用車内で暴行して窒息死させた[35](殺人・強姦致死事件)ほか、同年8月19日には同管内奈井江町でデパート店員の女性B(当時19歳)を同様の手口で殺害して遺体を山林に遺棄した[35](殺人・強姦致死および死体遺棄事件)。また1974年5月12日には奈井江町内で農家の主婦C(当時40歳)を乗用車で拉致し、強姦して負傷させた上で農道上に放置する事件(強姦致傷事件)を起こし、同年5月26日にC事件の容疑で緊急逮捕された。その後A・B両被害者の殺害を自供し、1974年6月6日にC事件(強姦致傷)の加害者として、同月22日にはA事件(殺人・強姦致死)とB事件(殺人・強姦致死および死体遺棄)の加害者としてそれぞれ起訴された。「証拠は違法捜査による自白のみで物証がない」として無罪を主張。1976年6月24日に札幌地裁岩見沢支部は3罪状のうち死体遺棄を無罪と判断し、殺意も否定して無期懲役判決を言い渡したが[37]、被告人H・検察官とも控訴した[38]。札幌高裁(山本卓裁判長)は1979年4月12日の判決公判で、原判決が強姦致死と認定した2事件について未必の殺意があったと認定、また死体遺棄も有罪と認定して原判決を破棄、殺人、死体遺棄、強姦致傷の3罪状を適用して死刑判決を言い渡した[38]。上告審では安田好弘らが弁護団を再編して弁護活動を行ったが[注 1]、1990年9月13日に最高裁第一小法廷(角田礼次郎裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され[40][41]、同年10月23日付で判決訂正の申し立ても棄却されたため、同月25日に死刑が確定[注 2]。 死刑確定後の1992年9月24日に札幌高裁へ再審請求したが、2001年2月16日に再審請求棄却決定がなされた。同月19日に異議申し立てをしたが2003年3月31日に異議申し立ても棄却されたため、同年4月7日に最高裁へ特別抗告していた。 札幌刑務所札幌拘置支所[注 3]に収監されていたが、2003年8月にスキルス性胃癌と診断され、同年12月には胃の全摘手術を八王子医療刑務所で受けた後、収監先・札幌拘置支所へ戻り[35]療養していた。しかし2004年6月4日、癌性悪液質により札幌刑務所[注 3]の病舎内で病死(70歳没)。
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三崎事件(荒井政男[45]) |
1990年10月31日 |
1971年12月21日[46] |
1927年(昭和2年)2月4日生まれ。事件当時は神奈川県横浜市金沢区谷津町363に在住し、横浜の寿司店「あらい」と藤沢市内の鮮魚店2軒を経営していたが、経営不振に陥り、店舗の家賃など約50万円が未納となり、返済を迫られていた[47]。 1971年12月22日23時35分ごろ、神奈川県三浦市三崎町二丁目18番6号の船舶食料品販売業者宅1階で、経営者の男性(53歳)に対し、100万円の借金を申し出たが、断られたことに立腹[48]。持ってきた魚切包丁で男性と妻(当時49歳)の胸・首・背中などを刺して殺したほか[注 4]、2階にいた夫婦の長女(当時17歳:県立大津高校2年生)も胸などを刺して殺害した[48]。夫婦の次男(14歳:市立三崎中学校2年生)は事件当時、殺された姉(長女)とともに同宅2階にいたが、窓から飛び降りて助かった[48]。その後、犯人の男2人は駐車してあったコロナマークIIで国道16号沿いに横須賀方面へ逃走した[46]。当初の目撃証言によればマークIIのボディカラーは「グリーン」だったが[46]、後に「グレー」となっている[49]。 被害者の男性と荒井は約20年前から知り合いだった[47]。被害者遺族である次男(当時14歳)らの証言から、車のナンバーは「4375」と断定されたほか[49]、次男の証言により、顔見知りの犯行と推測されていた[47]。現場の住宅の瓶に遺されていた清涼飲料水の瓶に付着していた指紋が荒井のものと一致したことや、荒井が目撃された車のナンバーとよく似た「横浜5む4379」のコロナマークIIを持っていたことから、荒井の犯行と断定された[47]。 逮捕直後は犯行を自供していたが[47]、1974年2月24日の初公判以降は自供を翻して殺人を否認、凶器が未発見に終わるなど物証が乏しかったことから、判決公判までに35回の審理が重ねられ[48]、初公判から判決公判(第36回公判)まで4年7か月の長期審理となった[50]。しかし、横浜地裁横須賀支部(秦不二雄裁判長)は唯一の手掛かりである次男の証言の信用性を認め、1976年9月25日に死刑判決を言い渡した[50][48]。 荒井は控訴したが、東京高裁第12刑事部(小野慶二裁判長)は1984年12月18日、現場に遺留されていた足跡などから荒井の犯人性を認定し[51]、控訴棄却の判決を言い渡した[52][51]。荒井は上告したが、1990年10月16日に最高裁第三小法廷(坂上壽夫裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され[53][54]、同月31日付で死刑が確定。 東京拘置所に収監されていたが、高血圧や糖尿病などの持病があり、2009年7月ごろから体調を崩して拘置所内の病棟で酸素吸入や投薬治療を受けるようになり、9月3日に所内で敗血症のため病死(82歳没)[55]。死後、1991年からなされていた再審請求を荒井の長女が継承し[56]、2023年(令和5年)1月17日には遺族が横浜地裁横須賀支部へ第3次再審請求した[57]。 救援会の機関紙『潮風』がある。
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1991年
1991年(平成3年)に死刑判決が確定した死刑確定者は5人である[1]。
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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福岡県直方市強盗殺人事件 (T) |
1991年1月16日 |
1980年4月23日 |
1932年(昭和7年)6月20日生まれ。 1956年(昭和31年)9月9日に福岡県飯塚市外二瀬町の質屋へ3人組で押し入り、経営者を刺殺する強盗殺人事件を起こし、飯塚警察署(福岡県警)に逮捕された[58]。同事件では1957年(昭和32年)10月30日に福岡高裁で無期懲役判決を受けて熊本刑務所に収監され、1978年(昭和53年)11月22日に仮釈放されたが[59]、仮釈放中に本事件を起こした(再犯)[60]。 1980年4月23日に福岡県直方市頓野で女性(当時64歳)宅に侵入し、金品を物色中に被害者に見つかったことから絞殺して現金2,000円を奪った[60]。また同年6月25日には同県北九州市八幡西区楠木二丁目へ盗みに入り、それを見つけて追いかけてきた男性の首などをナイフで突き刺し[61]、約6か月の怪我を負わせたほか、1979年11月 - 1980年6月にかけて15件の盗みを重ねた[62]。 1981年7月14日に第一審・福岡地裁小倉支部(佐野精孝裁判長)で死刑判決[62]。1986年12月2日に控訴審・福岡高裁刑事第1部(永井登志彦裁判長)で控訴棄却判決を受け[63]、最高裁第二小法廷(中島敏次郎裁判長)で1990年12月14日に上告棄却の判決を受けたが、上告審の判決文に殺人事件と余罪の空き巣の間隔を「2か月」とすべきところ「1年2か月」と誤記していたため、これを把握した最高検察庁が同日中に判決訂正の申し立てを行い[60]、同月17日に改めて訂正判決が言い渡された[64]。最高裁が刑事事件判決における誤記などを訂正する判決を言い渡した事例は1964年(昭和39年)[注 5]以来26年ぶりで、死刑事件では史上初だった[64]。その後、1991年1月16日付で死刑が確定。 1998年6月25日に福岡拘置所で死刑執行(66歳没)。
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パチンコ景品商殺害事件 (S) |
1991年2月28日 |
1983年1月16日 |
1931年(昭和6年)12月28日生まれ。1950年11月、強盗殺人などで無期懲役の判決を受け、1975年10月に仮釈放された。 知人男性(当時69歳)に借金を申し込み、拒絶された場合は殺害して現金を奪うことを考え、1983年1月16日深夜、男性宅に忍び込んで借金を申し込んだが、拒絶されたため頭部を殴打して殺害し、現金128万円を強取した。 1984年1月23日に東京地裁(田尾勇裁判長)で死刑判決を受け、1985年7月8日には東京高裁(柳瀬隆治裁判長)で控訴棄却判決。 1991年2月5日に最高裁第三小法廷(可部恒雄裁判長)で上告棄却判決を受け、同月28日付で死刑が確定。 1998年6月25日に東京拘置所で死刑執行(66歳没)。
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自殺偽装夫殺害事件 (M) |
1991年3月2日 |
1974年8月8日 1978年4月24日 |
1932年(昭和7年)3月10日生まれ[67]。本籍地は東京都江東区東陽一丁目、住居は同区南砂二丁目、飲食店経営[67]。戦後5人目の女性死刑囚[68][69]。 元バー経営者[70]。夫(死亡当時47歳)に愛人ができ、家庭を顧みなくなったことから、自身の愛人である元バーテンの男A(事件当時80歳)[注 6]と共謀した上で[70]、夫を殺害して退職金を得ることを計画[69]。1974年8月8日夜、東京都江東区南砂二丁目の自宅で都市ガスを放出して就寝中の夫を一酸化炭素中毒死させ[70]、犯行後にAとともに夫の遺体を風呂場へ運び、入浴中に一酸化炭素中毒死したように偽装した[71]。また自身が経営していたバーにホステスとして勤めていた女T(殺人罪などで懲役15年が確定)が[71]、内縁の夫O(死亡当時36歳)と別れたがっていたことから[70]、死亡保険金1,200万年の保険に加入していたOを殺害して保険金を分配することを計画[70]。A・Tの2人に加え、Tの愛人だった店のバーテン(懲役10年が確定)も含む3人と共謀した上で、1978年4月24日深夜、江東区内の有明埋立地にOを誘い出して睡眠薬入りドリンクを飲ませ、首を絞めて殺害、遺体を叢に遺棄した[70]。 1978年、共犯者らと経営していたバーの店員の内縁の夫を殺害して死体を遺棄。警察がMらを逮捕して取り調べる過程で、1974年にMが夫をガス中毒死に偽装して殺していた事実も判明した[72]。 殺人・死体遺棄の罪に問われた[71][68]。裁判でMは夫殺害については無実を主張したが[70]、1980年5月6日に東京地裁刑事第15部(小林充裁判長)は両事件ともMの有罪を認定した上でMを死刑(求刑通り)、Aを懲役9年(求刑:懲役12年)とする判決を言い渡した[71]。女性に対する死刑判決は当時、「日本閣事件の」の犯人である女(戦後3人目の女性死刑囚)に宣告されて以来と言われた[71]。 2人とも控訴したが、1986年6月5日に東京高裁刑事第10部(寺沢栄裁判長)は2人の控訴を棄却する判決を言い渡した[70]。 M・Aともに上告したが、1991年1月31日に最高裁第一小法廷(四ツ谷巖裁判長)は2人の上告を棄却する判決を言い渡した[68]。判決訂正申立も同年3月1日付で棄却され[73]、Mは同月2日付で死刑が確定。 東京拘置所に収監されていたが、再審請求中の2007年7月17日に所内で病死(75歳没)。
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泰州くん誘拐殺人事件 (T) |
1991年7月1日 |
1984年2月13日 |
1939年(昭和14年)8月15日生まれ。 1985年7月17日に広島地裁福山支部(雑賀飛龍裁判長)で死刑判決を、1986年10月21日に広島高裁(久安弘一裁判長)で控訴棄却判決を受けた。 1991年6月11日、最高裁第三小法廷(園部逸夫裁判長)で上告棄却判決を受ける[75]。判決訂正申立も同月28日付の第三小法廷決定[事件番号:平成3年(み)第5号・6号]で棄却され[76]、同年7月1日付で死刑が確定。 死刑確定後に俳句の投稿を禁止され、1998年11月19日に広島拘置所で死刑執行(59歳没)[注 7][78]。
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大宮母娘殺害事件(佐川和男) |
1991年12月18日 |
1981年4月4日 |
1951年(昭和26年)3月21日生まれ。 1982年3月30日に浦和地裁(米沢敏雄裁判長)で死刑判決を、1987年6月23日に東京高裁(小野慶二裁判長)で控訴棄却判決を受けた。 1991年11月29日に最高裁第二小法廷(藤島昭裁判長)で上告棄却判決を受け[80]、同年12月18日付で死刑が確定。共犯は逃亡中に病死。 1999年12月17日に東京拘置所で死刑執行(48歳没)。
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1992年
1992年(平成4年)に死刑判決が確定した死刑確定者は5人である[1]。
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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市原の両親殺し (S)[82] |
1992年2月25日 |
1974年10月30日[82] |
1952年(昭和27年)9月14日生まれ。事件当時は千葉県千葉市殿台在住、ドライブイン従業員[82]。2019年10月1日付で東京拘置所に収監中(現在72歳)。 確定判決によれば、1974年5月ごろ、千葉市栄町でトルコ嬢と知り合い、結婚を考えるようになっていたが、市原市八幡北町でタイヤ修理業を営んでいた両親(当時59歳の父親、48歳の母親)から何度も結婚をやめるよう説得されており、10月29日には女性から自分にかかってきた電話を取り次いでもらえなかったら父親と口論になった[82]。同月30日には実家に行き、将来のことなどを話し合ったが、まとまらないまま16時50分ごろに家路についたものの、車を借りるためにすぐ実家に戻り、父親に車を2、3日貸してほしいと頼んだところ、父親から女性を侮辱されたことに憤慨し、17時20分ごろ、父親を登山ナイフ(刃渡り約13.7 cm)で刺殺[82]。直後、2階から降りてきた母親も同様に刺殺した上で、11月1日5時30分ごろ、2人の遺体を毛布で包み、市原市五井南海岸の養老川河口公共物物揚場第3号岸壁まで運び、遺体にそれぞれ錘としてタイヤホイール各1個を取り付け、海に捨てた[82]。 事件後、Sは自ら市原警察署に「両親が行方不明になった」と届け出たが、同年11月5日に殺人、死体遺棄容疑で逮捕され、同月9日から10日にかけてそれぞれ両親の遺体が発見され、Sは同月26日、殺人・死体遺棄罪で起訴された[85]。 1975年3月17日に千葉地裁刑事第2部で第一審の初公判が開かれたが、Sは父は母によって殺害され、母も自身の知っている第三者によって殺されたとして無罪を主張した[85]。1979年2月23日にはいったん結審したが、検察官が新証拠を申請し、同年3月12日から弁論が再開された[85]。同刑事部(太田浩裁判長)は1984年3月15日の判決公判でSによる犯行と認定し、死刑判決を言い渡した[82]。Sは控訴したが、1986年8月29日に東京高裁(石丸俊彦裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[86]。 Sは上告したが、最高裁第一小法廷(大堀誠一裁判長)は1992年1月30日にSの上告を棄却する判決を言い渡した[87][88]。Sからなされた判決訂正申立も同月24日付の決定で棄却されたため[89]、25日付で死刑が確定。事件発生から約18年後の死刑確定だった[87]。 この事件をモデルに、愛人への傾倒と両親への愛憎から[86]、両親を殺害した青年の心理をめぐり、中上健次の小説『蛇淫』や[90]、同小説を原作とした映画『青春の殺人者』(監督:長谷川和彦)が制作された[88]。
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東京都北区幼女殺害事件 (S) |
1992年2月29日 |
1979年7月28日 |
1937年(昭和12年)2月12日生まれ。無期懲役刑の受刑者が仮釈放中に再犯した事件。1979年9月9日に逮捕されたSは、20年前にも7歳の少女を殺害した前歴があり、15年間服役して仮釈放を受けている最中の事件であった[92]。 1981年3月16日に東京地裁(松本時夫裁判長)で死刑判決を、1985年9月17日に東京高裁(寺沢栄裁判長)で控訴棄却判決を受けた。 1992年2月18日に最高裁第三小法廷(可部恒雄裁判長)で上告棄却判決を受け[93]、同月29日付で死刑が確定。 1999年9月10日に東京拘置所で死刑執行(62歳没)。
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福島女性飲食店経営者殺害事件 (T) |
1992年7月3日 |
1990年5月2日 |
1938年(昭和13年)4月27日生まれ。無期懲役刑の受刑者が仮釈放中に再犯した事件。 1992年6月18日に福島地裁郡山支部(慶田康男裁判長)で死刑判決を受けた。控訴せず、同年7月3日付で死刑が確定。 1999年9月10日に宮城刑務所(収監先・仙台拘置支所に隣接)[注 3]で死刑執行(61歳没)。
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熊本"お礼参り"母娘殺害事件 (M) |
1992年10月6日 |
1985年7月24日 |
1930年(昭和5年)4月10日生まれ。無期懲役刑の受刑者が仮釈放中に再犯した事件。 1986年8月5日に熊本地裁(荒木勝己裁判長)で死刑判決を受け、1987年6月22日に福岡高裁(浅野芳朗裁判長)で控訴棄却判決を受けた。 1992年9月24日に最高裁第一小法廷(大堀誠一裁判長)で上告棄却判決を受け[97]、同年10月6日付で死刑が確定。 1999年9月10日に福岡拘置所で死刑執行(69歳没)。
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赤穂同僚妻子殺害事件 (N) |
1992年10月19日 |
1983年1月19日 |
1950年(昭和25年)6月17日生まれ。 1983年1月、兵庫県赤穂市で同僚の妻(当時33歳)と長男(同4歳)を車で連れ出し、妻を絞殺したほか、長男も千種川に投げ込んで水死させた[98]。また健康保険証や印鑑を奪い、その保険証を悪用して現金100万円を引き出した[98]。ゲーム機賭博に凝った末、サラ金への借金返済に困ったことが動機である[99]。 1984年7月10日に神戸地裁姫路支部(藤原寛裁判長)で死刑判決を[100]、1987年1月23日に大阪高裁第6刑事部(家村繁治裁判長)で控訴棄却判決を受けた[101]。 1992年9月29日に最高裁第三小法廷(貞家克己裁判長)で上告棄却判決を受け[98][99]、同年10月19日付で死刑が確定。 2007年4月27日に大阪拘置所で死刑執行(56歳没)。
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1993年
1993年(平成5年)に死刑判決が確定した死刑確定者は7人である[1]。
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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連合赤軍事件(坂口弘) |
1993年3月10日 |
1971年 - 1972年2月 |
1946年(昭和21年)11月12日生まれ。2020年9月27日時点で東京拘置所に収監中(現在78歳)。 共犯の一部が超法規的措置で出国。 1982年6月18日に東京地裁(中野武男裁判長)で死刑判決を、1986年9月26日に東京高裁(山本茂裁判長)で控訴棄却判決を受けた。1993年2月19日に最高裁第三小法廷(坂上壽夫裁判長)で上告棄却判決(第一審・控訴審の死刑判決を支持)を受け[103]、同判決への訂正申し立ても1993年3月9日付で棄却されたため[104]、同月10日付で、坂口・永田の死刑が確定。また、植垣康博(元兵士)も懲役20年の判決が確定している[105]。 著書『坂口弘歌稿』『あさま山荘1972』や歌集『常しへの道』『暗黒世紀』など。
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連合赤軍事件(永田洋子) |
1993年3月10日 |
1971年 - 1972年2月 |
1945年(昭和20年)2月8日生まれ。坂口の共犯(裁判経緯は坂口と同一)。 脳腫瘍の手術後に脳萎縮・誤嚥性肺炎などを患い[106]、2011年2月5日に多臓器不全のため東京拘置所内で死去(65歳没)[106][107]。死去時点で再審請求中だった。著書『十六の墓標』『私生きてます』など多数。
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山中湖連続殺人事件(澤地和夫) |
1993年7月5日 |
1984年10月11日[108] 1984年10月25日[108] |
1939年(昭和14年)4月15日生まれ。元警視庁警部[109]。 1980年1月、21年あまり勤務した警視庁を退職し、新宿に大衆割烹店を開店したが、経営が悪化、1983年8月には1億5,000万円の負債を抱えて閉店に追い込まれ、一攫千金を狙って強盗殺人を計画した[108]。 1984年10月11日、自分と同じく借金に苦しんでいた仲間の男2人(I・Pの両名。それぞれ死刑と無期懲役が確定)と共謀し、東京都北区の宝石商男性(当時36歳)を山梨県南都留郡山中湖村の別荘に誘い出して絞殺、現金や指輪など6,000万円相当を奪い、死体を床下に埋めた[108]。次いで同月25日、Iと共謀して埼玉県上尾市の女性金融業者(当時61歳)を土地をめぐる融資話で誘い出し、浦和市(現:さいたま市浦和区)内を走行中の車内で絞殺、現金2,000万円や指輪、預金通帳などを奪い、死体を別荘床下に埋めた[108]。 刑事裁判では強盗殺人・死体遺棄罪などに問われた[110]。1987年10月30日、東京地裁刑事第2部(中山善房裁判長)は澤地・Iの両被告人を死刑、P被告人を無期懲役とする判決を言い渡し[108]、東京高裁第9刑事部(内藤丈夫裁判長)も1989年3月31日に3被告人の控訴をいずれも棄却する判決を言い渡した[111]。 その後澤地・Iの両被告人は最高裁に上告していたが、1993年3月に死刑執行が3年4か月ぶりに再開されると、澤地はそれに対する抗議の意図で[112]、同年7月5日、東京拘置所長に上告取下書を提出[113](同日付で死刑確定)[注 8]。なお、共犯Iは1995年(平成7年)7月3日に最高裁第二小法廷(大西勝也裁判長)で上告棄却の判決を受け、死刑が確定している[116]。 2007年10月から胃癌の治療を受けていたが[110]完治せず延命治療を拒否し、2008年12月16日に東京拘置所内で多臓器不全のため獄死(69歳没・再審請求中)[109]。公判中の1989年1月に手記『監獄日記 東京拘置所の四季』(彩流社)を出版。以後、死刑確定後には『東京拘置所死刑囚物語 獄中20年と死刑囚の仲間たち』(2006年3月・彩流社)・『なぜ死刑なのですか 元警察官死刑囚の言い分』(2006年10月・柘植書房新社)を刊行したほか、死後にも『殺意の時 元警察官・死刑囚の告白』(2010年4月・彩流社)が刊行された。
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今市4人殺傷事件(藤波芳夫[117]) |
1993年10月4日 |
1981年3月29日 |
1931年(昭和6年)5月15日生まれ。本籍地は埼玉県鴻巣市逆川一丁目75番地1[118]。 栃木県今市市大室(現:日光市大室)で離婚した妻の実家に押し入り、親類の男女2人を刺殺した[119]。 1982年2月19日に宇都宮地裁(竹田央裁判長)で死刑判決を受け、1987年11月11日に東京高裁(岡田満了裁判長)で控訴棄却判決を受けた。 1993年9月9日に最高裁第一小法廷(味村治裁判長)で上告棄却判決を受け[118]、判決訂正申立も同年10月1日付の決定で棄却され[120]、同月4日付で死刑が確定。 死刑確定後に「事件当時は覚醒剤の影響下にあり、飲酒によりフラッシュバック状態になって事件を起こした」として、責任能力の問題を主張し、再審請求していた。 2006年12月25日に東京拘置所で死刑執行(75歳没)[122]。この年齢は同日に処刑された秋山芳光(当時77歳)とともに[122]、それまで戦後最高齢とされていた古谷惣吉(71歳3か月)を上回っている。 2008年10月11日に開催された「響かせあおう死刑廃止の声2008 死刑囚からあなたへ」では「死刑執行時は車椅子に乗った状態から刑務官に両脇を抱えられて刑場に立たされた」とする死刑執行の場面が再現されているほか、『年報・死刑廃止2007』には遺書全文が掲載されている。
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半田保険金殺人事件 (H) |
1993年10月12日 |
1979年11月19日 - 1983年12月25日 |
1950年(昭和25年)11月3日生まれ[127]。旧姓T。 経営していた板金塗装会社の経営不振から、1979年11月に知人の共犯Iと共謀して知り合いの織布工A(当時20歳)[130]に生命保険(2,000万円)を掛け[131]、衣浦港(愛知県知多郡武豊町)に突き落として殺害した[130]。さらに1983年1月にも雇っていた従業員B(同30歳)に生命保険(2,000万円)[131]を掛けた上で京都府相楽郡加茂町内にて交通事故を装って殺害したほか、同年12月には愛知県半田市内で金融業者C(当時39歳)を[130]借金逃れのために殺害した[131]。 1985年12月5日に名古屋地裁刑事第2部(鈴木雄八郎裁判長)で共犯Iとともに死刑判決を受け、1987年3月31日に名古屋高裁刑事第1部(山本卓裁判長)で控訴棄却判決を受けた[131]。共犯Iは控訴審判決後に上告せず、死刑が確定(参照)。 自身も1993年9月21日に最高裁第三小法廷(園部逸夫裁判長)で上告棄却判決(5裁判官全員一致)を受け[135]、判決訂正申立も同年10月8日付の決定で棄却され[136]、同月12日付で死刑が確定。同判決に当たり、裁判官・大野正男が「死刑制度は憲法違反とは断言できないが、合憲判断を下した1948年の大法廷判決以降、死刑が「残虐な刑罰」(日本国憲法36条違反)に当たると評価される余地は著しく増大した[注 9]。死刑廃止に向かいつつある国際的動向と、死刑制度の存続を支持する我が国民との意識とが大きな隔たりを持ち続けることは好ましくない。一定期間、死刑執行を法律で実験的に停止し、犯罪増加の有無との相関関係を調べるなどの立法的施策が考えられる」と補足意見を述べた[130]。 死刑確定後には1997年11月[137]・2000年5月下旬と[138]2度にわたり恩赦出願をしたが、2度とも名古屋拘置所から「恩赦不相応」の告知がなされた[137]。死刑が確定した1993年および死刑確定後の2000年には被害者Bの遺族(母親・兄ら)が「Hを許すことはできないが、生きてこそ償いだ。死刑執行は望まない」とする嘆願書を収監先・名古屋拘置所宛に提出し、後者は死刑囚Hの弁護人が2000年5月下旬に提出した恩赦願いに添えていた[138]。 Bの兄は2001年4月にも高村正彦法務大臣に対し死刑執行の中止などを訴えたが[139]、森山眞弓法務大臣の死刑執行命令により2001年12月27日に名古屋拘置所で死刑執行(51歳没)[140]。
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北九州母娘殺傷事件 (M) |
1993年11月16日[141] |
1990年3月12日 |
1950年(昭和25年)3月18日生まれ。無期懲役刑の受刑者が仮釈放中に再犯した事件。 1993年10月27日に福岡地裁小倉支部(森田富人裁判長)で死刑判決を受け、弁護人が控訴したが、1993年11月16日に自ら控訴を取り下げたことで死刑が確定した。その後公判再開を申し立てたが棄却され、2009年1月29日に福岡拘置所で死刑執行(58歳没)。 本事件の死刑確定以降、被害者1人の殺人事件に対する死刑確定は1998年4月(熊本大学生誘拐殺人事件)までなかった[142]。
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平取事件 (O)[143] |
1993年12月21日 |
1979年7月18日 |
1944年(昭和19年)1月19日生まれ。 1979年7月18日夜、日高振興局管内沙流郡平取町振内の剥製業者男性(当時51歳)から貸してほしいと求められていた22口径自動ライフル銃を持って男性宅を訪れた[145]。Oは持参したライフル銃を担保に毛皮の取引代金127万円の支払いの猶予を求めたが[146]、断られた上[147]、支払いを激しく迫る男性にライフルを振り回されたため[145]、咄嗟に銃を奪い返し[146]、男性の頭を銃撃して殺害。さらに犯行を隠すため、男性の妻(当時37歳)、次男(同2歳)、長女(同22歳)の3人も相次いで射殺した[146][147]。 Oは被害者と取引上の借金があり、事件前に胆振管内大滝村で凶器の銃を試射したことがあったことから、事件から1年4か月後の1980年11月に逮捕された[146]。物的証拠が乏しかったこの事件の第一審では、32人の弁護団が結成され、「証拠不十分」などを理由に無罪を主張したが、初公判でOは起訴事実を認めた一方、法廷ではほとんど事件について語らなかった[143]。1984年3月23日、札幌地裁刑事第3部(安藤正博裁判長)はOの自白の信用性を認め、Oに死刑判決を言い渡した[145]。 控訴審以降は国選弁護人が事実関係を認め、無期懲役を求めたが[143]、1987年5月19日に札幌高裁第3部(水谷富茂人裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[148]。 上告審で弁護人は死刑制度の違憲性や、Oが深く反省していることなどを訴え、量刑を無期懲役に減軽するよう求めていたが[146]、1993年12月10日に最高裁第三小法廷(小野正男裁判長)で上告棄却判決を言い渡された[149][147]。同月21日付で死刑が確定。 1999年11月8日に収監先の札幌拘置支所(札幌刑務所に隣接)[注 3]で入浴中、貸し出された剃刀で右頸部を切り、頸動脈切断のため失血死した(55歳没)[143]。法務省によれば当時、自殺した死刑囚は1936年以降で4人目だった[143]。主任弁護人の三津橋彬によれば、Oは反省と悔悟に苦しんでいたという[150]。
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1994年
1994年(平成6年)に死刑判決が確定した死刑確定者は3人である[1]。
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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勝田清孝事件(勝田清孝) |
1994年2月5日 |
1972年9月 - 1983年1月 |
1948年(昭和23年)8月29日生まれ。事件の一部(1982年10月 - 1983年1月 / 警察官を襲撃して拳銃を強奪し、その拳銃で起こした連続強盗殺傷事件)は「警察庁広域重要指定113号事件」に指定された[154]。 強盗殺人罪など合計33の罪状・計27の犯罪事実で名古屋地方裁判所へ起訴されたが、併合罪(刑法第45条)の規定により[注 10]、「113号事件」を起こす以前に受けた有罪判決X[注 11]を境に「X判決前の強盗殺人7件ほか17罪」(前半事件)+「X判決後の殺人1件ほか『113号事件』16罪」と分離されて判決が言い渡された[156]。 1986年3月24日に名古屋地裁刑事第4部(橋本享典裁判長)で、前半事件・113号事件ともに死刑判決を受け[156]、名古屋高裁に控訴したが[157]、1988年2月19日に名古屋高裁(吉田誠吾裁判長)で控訴棄却判決を受けた[158]。 1994年1月17日に最高裁第一小法廷(小野幹雄裁判長)で上告棄却判決を受けたが[159]、同日に支援者である来栖宥子の実母(藤原姓)と養子縁組して「藤原清孝」に改名していた。 1994年1月26日付で最高裁判決を不服として最高裁第一小法廷(小野幹雄裁判長)に判決を訂正するよう申し立てたが、1994年2月3日付で同小法廷から申立て棄却決定が出され、同決定書が1994年2月5日に勝田宛に届いたことで正式に死刑判決が確定した。 2000年11月30日に名古屋拘置所で死刑執行(52歳没)。
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岐阜前妻一家殺害事件 (M) |
1994年3月7日 |
1989年2月14日 |
1943年(昭和18年)7月26日生まれ。殺害した被害者3人のうち2人については傷害致死罪を主張したが、1989年12月14日に岐阜地裁(橋本達彦裁判長)で死刑判決。 1990年7月16日に名古屋高裁(吉田誠吾裁判長)で控訴棄却判決を受け上告したが、上告を取り下げ、1994年3月7日付で死刑が確定。2000年11月30日に名古屋拘置所で死刑執行(57歳没)。
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北海道庁爆破事件(大森勝久) |
1994年9月6日[161] |
1976年3月2日[162] |
1947年(昭和22年)9月7日生まれ。岐阜県多治見市出身[162]。2020年9月27日時点で札幌刑務所札幌拘置支所[注 3]に収監中(現在77歳)。 1976年3月2日9時2分ごろ、北海道札幌市中央区北3西6の北海道庁舎1階ロビー西側のエレベーター前でバッグの中に仕掛けられた時限装置付き消火器爆弾が爆発し、道庁職員2人が死亡、95人が重軽傷を負った[162]。事件後の12時40分ごろ、北海道新聞社へ「東アジア反日武装戦線」を名乗る男の声で電話があり、地下鉄大通駅コインロッカーからテープライターを使った犯行声明文が発見された[164]。大森は同年8月10日、岐阜県警からの情報提供を受けて内偵捜査を行っていた北海道警により、木炭や硫黄などを投棄して本州へ向かおうとしたところ、苫小牧フェリーターミナルで逮捕された[162]。また道警爆破事件(1975年7月19日)でも逮捕されたが、処分保留となっている[162]。 爆発物取締罰則違反、死亡した2人への殺人罪、負傷者95人のうち殺意がおよんだとされる81人に対する殺人未遂罪で起訴された[162]。刑事裁判で大森は一貫して無実を主張したが[162]、初公判(1977年2月)から6年1か月後となる1983年3月29日に開かれた判決公判(第128回公判)で、札幌地裁刑事第5部(生島三則裁判長)は大森の犯行を全面的に認定し、死刑判決を言い渡した[164]。大森は控訴したが、1988年1月21日に札幌高裁第3部(水谷富茂人裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[165]。 大森は上告したが、1994年7月15日に最高裁第二小法廷(大西勝也裁判長)で上告棄却の判決を言い渡された[162][166]。大森は同判決に対し「本件は冤罪」と不服を訴え[167]、主文を「原判決を破棄し、被告人を無罪とする」へ訂正するよう求めたが[168]、同申立は同年9月5日付で棄却されたため[169]、同月6日付で死刑が確定[161]。新左翼過激派の闘争事件に関する死刑確定は、1987年に死刑が確定した「連続企業爆破事件」の死刑確定者2人(大道寺将司・益永利明)や1993年に死刑が確定した「連合赤軍事件」の死刑確定者2人(永田洋子・坂口弘)に次いで3件目[162]。 1985年、支援者と獄中結婚。獄中で極左から保守主義に転向し、外部協力者によって論文を雑誌に掲載しているほか、政治評論のホームページを運用している。
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1995年 - 1999年
1995年
1995年(平成7年)に死刑判決が確定した死刑確定者は3人である[1]。
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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鳥栖親子3人殺害事件 (O) |
1995年5月10日 |
1983年5月16日[170] |
1945年(昭和20年)1月10日生まれ。 1983年5月16日夕方、佐賀県鳥栖市で近くに住む会社員男性(当時38歳)の長男(当時13歳)が、自宅の水道用ホースの取付用金具を盗んだと思い込み、男性と口論になった。男性と妻(当時36歳)を包丁で刺殺した上、逃げ出した長男も追いかけて滅多突きにして殺害した[170]。 刑事裁判では「事件当時は精神障害だった」として責任能力を争ったが、1987年3月12日に佐賀地裁(早船嘉一裁判長)で死刑判決。1989年10月24日には福岡高裁(丸山明裁判長)で控訴棄却判決を受けた。1995年4月21日に最高裁第二小法廷(中島敏次郎裁判長)で上告棄却判決を受け[170]、判決訂正申立も同年5月8日付の決定で棄却され[171]、同月10日付で死刑が確定。 2000年11月30日に福岡拘置所で死刑執行(55歳没)。
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山梨・新潟連続殺人事件 (F)[172] |
1995年6月27日[173] |
1986年3月6日 1986年3月11日 |
1958年(昭和33年)4月22日生まれ、秋田県大館市出身[174]。 傷害事件で執行猶予中だった1986年3月、以下の2事件を起こした[174][175]。また甲府市・京都府京都市などで盗みを重ねたほか、恐喝もしていた[174]。
- 1986年3月6日13時30分ごろ、前妻に会うために山梨県東山梨郡春日居町寺本(現:笛吹市春日居町寺本)の前妻の祖母A(当時73歳)[注 12]宅を訪れたが、Aに見つかったため、警察に通報されて前妻との交際を邪魔されることを恐れ、Aの手足を縛った上で浴槽に沈めて殺害[175]、遺体を6畳間の床下に隠した[174]。
- 1. の事件を起こして逃亡中の同月11日17時ごろ、前妻と共謀した上で、新潟県新潟市本町通(現:新潟市中央区本町通)のホテル「シノン」で前妻の元交際相手である男性会社員B(当時26歳)を1. 事件と同様の方法で殺害した[174]。
『山梨日日新聞』は一連の事件を「県内の事件史上、例のない連続殺人事件」と報じた[176]。 殺人、死体遺棄、窃盗などの罪に問われ、1987年7月6日に甲府地裁(古口満裁判長)で求刑通り死刑判決を言い渡された[174]。甲府地裁における死刑判決は、1982年に宣告された司ちゃん誘拐殺人事件の第一審判決以来5年ぶりで、戦後4件目と報じられている[174]。また2. 事件の共犯である前妻(当時29歳)も同日に懲役5年(求刑:懲役10年)の判決を言い渡され[174]、同月21日付で判決が確定している[177]。 控訴審でFは死刑違憲論や情状、量刑不当を主張したが、1988年12月15日に東京高裁(石丸俊彦裁判長)で控訴棄却の判決を受けた[178]。 上告審では情状が認められておらず、量刑不当である旨を主張したが、1995年6月8日に最高裁第二小法廷(高橋久子裁判長)で上告棄却判決を受け[175]、判決訂正申立も同年6月26日付の決定で棄却され[179]、同月27日付で死刑が確定[173]。 2013年12月12日に東京拘置所で死刑執行(55歳没)[180][173]。
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山中湖連続殺人事件 (I) |
1995年7月25日[181] |
1984年10月 |
1949年(昭和24年)7月2日生まれ。2020年9月27日時点で東京拘置所に収監中(現在75歳)。 1987年10月30日に東京地裁(中山善房裁判長)で死刑判決、1989年3月31日に東京高裁(内藤丈夫裁判長)で控訴棄却判決を受けた。共犯の澤地和夫は1993年7月に上告を取り下げ死刑が確定(参照)。 自身も1995年7月3日に最高裁第二小法廷(大西勝也裁判長)で上告棄却判決を受け[116]、判決訂正申立も同月24日付の決定で棄却され[182]、同月25日付で死刑が確定[181]。
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1996年
1996年(平成8年)に死刑判決が確定した死刑確定者は3人である[1]。
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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徳島隣人3人射殺事件 (I) |
1996年3月20日 |
1985年6月3日[183] |
1932年(昭和7年)12月12日生まれ。 徳島県海部郡日和佐町奥河内井ノ上(現:美波町奥河内井ノ上)で1985年6月3日[183]、隣人である親類の男性(当時46歳)とその妻(同54歳)の夫婦が自宅裏山にあるユズ畑に勝手にゴミを捨てたと思い込み、自宅から狩猟用散弾銃を持ち出し、男性宅で夫婦を射殺した[184]。さらに以前から恨みを持っていた近隣住民の男性(当時71歳)を近くの路上で射殺した[184]。また、別の1人も事件現場近くで農作業をしていたところ[184]、流れ弾が当たって2週間の怪我を負った[185]。動機は射殺した被害者の1人が自分に嫌がらせをしたと思い込み、文句を言ったところ怒鳴り返されたことに立腹したことだった[185]。 犯行後に軽トラックで逃走したが、徳島県警捜査一課と牟岐警察署が捜査本部を設置して捜査を行った結果、同町山河内でIの車が発見され、警察官80人と地元消防団員による山狩を行っていたところ、翌4日未明に町内の県道を歩いていたIを捜査員が発見、Iは殺人容疑で緊急逮捕された[186]。事件後、被害者の姉が事件のショックから自殺している[187]。 殺人・殺人未遂罪に問われた[188]。公判で弁護人は一貫して、Iが犯行時心神耗弱状態だったと主張した[184]。第一審の徳島地裁(山田真也裁判長)は1988年3月22日[189]、Iの刑事責任は重大であるが、犯行は1回限りの感情の爆発であり、刑を減軽する余地があるとして検察官の死刑求刑を退け、無期懲役の判決を言い渡した[184]。同判決は、Iの犯行は一般的に犯罪の動機となる利欲や情欲の満足を目的としたものではなく、破滅型の犯行であり、仮に死刑を適用しても一般人の犯行を予防する意義がないこと、無差別的大量殺人とも類型が異なることを指摘したもので、Iの主観的内面を重視した判決であると評されている[187]。 しかし高松高裁(村田晃裁判長)は1989年11月28日の控訴審判決公判で、犯行の残忍性や執拗性(被害者を至近距離から狙い、逃げ惑うところを追いかけて銃撃するなど)、3人の生命が奪われた結果の重大性、そして公判中からIが犯行を「記憶にない」などと否認し、反省の色が見られない点を指摘した上で[190]、極刑をもって臨むほかないとして原判決を破棄し、Iを死刑とする判決を言い渡した[184]。同判決は結果の重大性を重視した判決と評されており、同様に第一審の無期懲役判決が控訴審で破棄され、死刑判決が言い渡された事件は1975年以降、1996年3月までに6件あった[187]。 Iは同判決を不服として上告したが、1996年3月4日に最高裁第二小法廷(河合伸一裁判長)で上告棄却判決を受け[184][188]、判決訂正申立も同月18日の決定で棄却され[191]、同月20日付で死刑が確定。 2007年12月7日に大阪拘置所で死刑執行(74歳没)[192]。
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不動産会社連続殺人事件(山野静二郎[193]) |
1996年11月13日 |
1982年3月21日 1982年3月25日[194] |
1938年(昭和13年)7月31日生まれ。2020年9月27日時点で大阪拘置所に収監中(現在86歳)。 自身が経営していた不動産会社が2億円超の負債を抱えて資金繰りに困ったことから[195]、1982年3月21日に知人である大阪府豊中市の不動産会社「ダイケン企業」の社長(当時39歳)に架空取引を持ち掛け、豊中市にあった自分の会社事務所まで誘き出し、後頭部を金属バットで殴りつけて気絶させ、麻紐で首を絞めて殺害、社長が持参していた小切手1通(額面3,000万円)を奪った上、社長の遺体を豊能郡豊能町川口の山林に埋めた[194]。その小切手を同社取締役総務部長(当時56歳)に頼んで現金化したが、さらに金を奪う目的や[194]、社長殺害を隠す目的などから[195]、この総務部長の殺害を計画、同月25日には滋賀県滋賀郡志賀町(現:大津市)の分譲用別荘に総務部長を誘い出し、金属バットで数回殴って殺害、手付金として持ってきた2,100万円を奪い、遺体を別荘地内に埋めた[194]。 強盗殺人・死体遺棄の罪に問われた[194]。刑事裁判では殺意や殺害の計画性を否定したが、1985年7月22日に大阪地裁(池田良兼裁判長)で死刑判決を受けた[194]。控訴したが、1989年10月11日には大阪高裁(西村清治裁判長)で控訴棄却判決を受けた[196]。 1996年10月25日に最高裁第二小法廷(福田博裁判長)で上告棄却判決を受ける[195]。判決への訂正申立も、同年11月11日付の決定で棄却され[197]、同月13日付で死刑が確定。 著書に『死刑囚の祈り』『死刑囚の叫び』、支援会誌に「オリーブ通信」がある。
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練馬一家5人殺害事件 (A) |
1996年12月4日 |
1983年6月27日 |
1935年(昭和10年)3月9日生まれ[198](秋田県秋田市出身)・元不動産鑑定士[198][200]。1961年9月10日に死亡した父親の遺産を巡り、弟が姉の夫に対し暴力をふるったことから弟を出刃包丁で刺し、左目を失明させる事件を起こしたことで殺人未遂罪・傷害罪に問われ、1962年8月7日に秋田地裁で懲役3年の実刑判決を受けた前科がある。 「競売で落札した物件に立退き料吊り上げのために居座っていた賃借人が邪魔になった」という動機から、一家5人を玄能やまさかりで殺害し、遺体をバラバラにした[202]。 1985年12月20日に東京地裁(柴田孝夫裁判長)で死刑判決を、1990年1月23日に東京高裁(高木典雄裁判長)で控訴棄却の判決を受けた。 1996年11月14日に最高裁第一小法廷(高橋久子裁判長)で上告棄却の判決を受ける[202]。判決への訂正申立も、同年12月3日付の決定で棄却され[203]、同月4日付で死刑が確定。 2001年12月27日に東京拘置所で死刑執行(66歳没)[140]。
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1997年
1997年(平成9年)に死刑判決が確定した死刑確定者は4人である[1]。
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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姫路・神戸3人連続殺害事件 (M) |
1997年1月19日 |
1985年11月29日 1985年12月3日 |
1961年(昭和36年)8月17日生まれ。 長崎県生まれで旧姓は「Ma」だが、判決時点では「Mu」姓[205][206]。姫路少年刑務所に住居侵入罪で服役中「大金を手にして遊んで暮らしたい」と強盗殺人を計画、出所から3日後の1985年11月29日昼、兵庫県姫路市仁豊野の民家に押し入って主婦(当時30歳)から現金約42,500円を奪い、持っていた刺身包丁で主婦と泣き叫ぶ長男(3歳)を刺殺した[205]。4日後の同年12月3日、神戸市東灘区魚崎北町一丁目[205]のアパートに侵入し、果物ナイフで主婦(当時34歳)を突き刺して殺害したが、金を見つけることはできなかった[207]。 強盗殺人罪に問われ、1988年2月26日に神戸地裁第2刑事部(加藤光康裁判長)で死刑判決を受けた[205]。弁護側は犯行時、Mが8年前の交通事故による頭部外傷のため心神耗弱状態にあったとする主張や、犯行の背景には複雑な家庭事情(小学生時代に母親が家出するなど)があり、「母親に捨てられた」という心の傷が凶行に結びついたとして、懲役刑を求めていたが、同地裁は犯行が計画的で冷酷・残忍であることから「酌量の余地はない」として死刑を適用した[205]。 控訴したが[205]、1990年10月3日に大阪高裁(池田吉兼裁判長)で控訴棄却判決を受けた[206]。 1996年12月17日に最高裁第三小法廷(尾崎行信裁判長)で上告棄却判決を受け[207]、判決訂正申立も翌1997年(平成9年)1月17日付の決定で棄却され[208]、19日付で死刑が確定。 2003年9月12日に大阪拘置所で死刑執行(42歳没)。死刑執行直前には控訴審から弁護人を務めた中道武美と席巻したが、その際に拘置所からの指導で遺言を書き残したことを打ち明け、「生きすぎた。疲れた」と話していた[209]。アムネスティ・インターナショナル日本支部が2006年に出した報告書によれば、死刑囚Mは精神状態に問題があり、死刑執行当時は再審請求準備中だった。
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大阪府和泉市宝石商夫婦殺害事件 (N) |
1997年3月2日 |
1982年5月20日 |
1943年(昭和18年)12月24日生まれ。 1982年3月ごろ、喫茶店などで貴金属を売り歩いていた男性(事件当時70歳:大阪府和泉市鶴山台在住)と出会い、「宝石販売の手伝いをしたい」と近づき顔見知りとなったが、ギャンブル好きで金に困ったことから、同年5月20日19時40分ごろ、繰り小刀を持って男性宅を訪れ、台所にいた妻(当時58歳)を背後から刺殺。駆けつけた男性も胸などを刺して殺害し、応接間にあった財布から24,000円を盗んで逃走した[211]。3日後の23日には再び現場の家に行き、男性の遺体の右手にはめられていた金のブレスレットや、背広につけてあったダイヤのネクタイどめ(計時価25万円相当)を奪って逃走、それらを入質した[211]。 強盗殺人・窃盗の罪に問われたが、夫婦殺害については大阪地裁堺支部(重富純和裁判長)で開かれた第一審の初公判から無罪を主張した[211]。検察官は1984年1月の第15回公判で死刑を求刑したが、その直後にNは「現場検証の際、自分のものではない血染めの足跡を見た」などと供述したため、弁護人が証人調べ再開を申請して認められ、4回の公判を経て同年7月に結審したが、その後も重富裁判長が職権で証人尋問を続けた[211]。1985年5月16日、同地裁支部はNが盗みのときに使った鍵を入手した経緯や、凶器と遺体の傷が一致することなどといった数々の状況証拠、および自白の信用性の高さから有罪を認定し、Nに死刑判決を言い渡した[211]。 Nは控訴したが、1991年10月27日に大阪高裁(池田吉兼裁判長)で控訴棄却判決を受けた[212]。1997年1月28日に最高裁第三小法廷(可部恒雄裁判長)で上告棄却判決を受け[213]、判決訂正申立も同年2月28日付の決定で棄却され[214]、同年3月2日付で死刑が確定。 死刑確定から約11年1か月後の[215]2008年4月10日に大阪拘置所で死刑執行(64歳没)[216]。
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徳島・愛知主婦連続強盗殺人事件 (M) |
1997年5月9日 |
1988年4月18日 1988年6月1日 |
1944年(昭和19年)3月19日生まれ。香川県高松市生まれ[217][218]、本籍地は岡山県玉野市[219]。 以下の罪を犯した[217]。事件前に別の窃盗罪で服役しており、事件当時は仮釈放中だった[220]。
- 1988年4月18日、徳島県麻植郡山川町川田(現:吉野川市山川町川田)の菓子製造販売業者(当時65歳男性)宅に窓ガラスを割って侵入し、寝室を物色していたところ、外出から帰宅してきた男性の妻(当時61歳)に発見されたため、電気コタツのコードで首を絞めて殺害[219]、現金28,000円を奪った[217]。事件後、室内にあった指紋などから犯人と断定され、同年5月2日に徳島県警察から強盗殺人容疑で全国に指名手配された[219]。
- 逃走中の同年6月1日、愛知県刈谷市幸町一丁目の会社員男性宅に侵入し、帰宅した妻(当時44歳)の首を絞めて殺害、現金99,000円余を奪った[217]。
- このほか、九州から東海地方までの19県で計23回にわたって空き巣を働き、現金46万円余と、乗用車など時価約223万円相当を奪った[217]。この事件後、警察庁から重要凶悪犯として全国各警察本部に手配された[219]。
愛知県の事件から2日後の6月3日、群馬県吾妻郡長野原町長野原の旅館に投宿していたところ、全国一斉のホテル・旅館を捜索するため館内の旅館などを巡回していた長野原警察署員に職務質問され、所持していた運転免許証からM本人であると確認されたため、徳島県の事件に関する強盗殺人容疑で逮捕された[219]。『徳島新聞』は同年の「県内十大ニュース」の9位として「山川町で強盗殺人事件」を選出した[221]。 強盗殺人と常習累犯窃盗の罪に問われ[219]、1990年5月22日に徳島地裁(虎井寧夫裁判長)で死刑判決を言い渡された[217]。控訴したが、1992年1月23日に高松高裁(村田晃裁判長)で控訴棄却判決を受けた[218]。 1997年1月28日に最高裁第二小法廷(根岸重治裁判長)で上告棄却判決を受け[220]、同年5月9日付で死刑が確定。 死刑確定から約10年8か月後の[222]2008年2月1日に大阪拘置所で死刑執行(63歳没)。
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福岡内妻一家4人殺害事件(秋好英明[223]) |
1997年10月10日 |
1976年6月13日 |
1942年(昭和17年)3月10日生まれ。旧姓は「秋好」で[224][225][226]、死刑確定後に「大城」に改姓している[227]。2020年9月27日時点で福岡拘置所に収監中(現在83歳)。 1976年6月14日未明、内妻(当時48歳)の姉A(当時44歳)が住む福岡県飯塚市菰田東二丁目の民家に侵入[224]。1階で就寝していたAと夫B(当時46歳)、2階で就寝していた長女C(同20歳)、母親D(同73歳)の4人の首を次々と包丁で刺して殺害した[224]。この家で寝ていた内妻が事件に気づき、近所の派出所に逃げて事件を知らせた[224]。 動機は秋好がよく嘘をついたり、負債をめぐる裁判所からの支払い命令がA宅に送られたりしたことなどから、Aらが秋好との結婚に反対し、別れるよう迫ったことを逆恨みしたことであると認定されている[224]。 捜査段階から第一審の公判途中までは全面的に起訴事実を認めていたが、1978年9月の第18回公判以降、被害者4人のうちDを除く3人については「内妻が殺害した」と共犯説を主張、内妻を殺人罪で福岡地検飯塚支部に告訴した[224]。同支部は内妻を不起訴処分としたが、1984年7月に飯塚検察審査会は「捜査は杜撰で、不起訴は説得力がなく不当」と議決した[224]。しかし同年12月、同地検支部は内妻を改めて不起訴処分とした[225]。 このような経緯から「1人しか殺害していないので、死刑や無期懲役は重すぎる」と有期懲役を求めていたが、1985年5月31日に福岡地裁飯塚支部(松信尚章裁判長)で死刑判決を受けた[224]。控訴したが、1991年12月9日に福岡高裁(雑賀飛龍裁判長)で控訴棄却判決を受けた[225]。 1997年9月11日に最高裁第一小法廷(藤井正雄裁判長)で上告棄却判決を受け[226]、判決訂正申立も同年10月8日付の決定で棄却され[229]、同月10日付で死刑が確定。 死刑確定後の2000年1月17日に再審請求したが[227]、福岡地裁飯塚支部(西理裁判長)は2001年3月23日までに請求棄却の決定を出した[230]。 関連書籍に『秋好事件』『秋好英明事件』(いずれも著者:島田荘司)がある。
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1998年
1998年(平成10年)に死刑判決が確定した死刑確定者は7人である[1]。
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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京都・大阪連続強盗殺人事件(神宮雅晴[232]) |
1998年1月16日[234] |
1984年9月4日 |
1943年(昭和18年)1月5日生まれ。2020年9月27日時点で大阪拘置所に収監中[注 13](現在82歳)。 旧姓:廣田[注 14]。1997年11月の上告審弁論後に改姓届を出し、姓を結婚前の「神宮」(しんぐう)に戻した[232]。 元京都府警察巡査部長だが、西陣警察署十二坊派出所[注 15]に勤務していた1978年3月、署内から盗んだ拳銃で強盗傷人事件を起こし、同月24日付で懲戒免職。1981年2月に大阪高裁で懲役7年に処され、同年4月から加古川刑務所に服役していたが、1984年8月30日に仮出所した。1984年9月4日、かつて勤務していた十二坊派出所(京都府京都市北区)の巡査(当時30歳)を近くの船岡山公園に呼び出して包丁で刺殺し、拳銃を強奪。さらに約3時間後、大阪府大阪市都島区の金融業者支店へ侵入し、奪った拳銃で店員(当時23歳)を射殺し、現金約60万円を奪った。一連の事件は警察庁により、広域重要115号事件に指定されている[241]。 1988年10月25日に大阪地裁第1刑事部(青木暢茂裁判長)で死刑判決を受け、1993年4月30日に大阪高裁第6刑事部(村上保之助裁判長)で控訴棄却判決を受けた[244]。 1997年12月19日に最高裁第三小法廷(園部逸夫裁判長)で上告棄却判決を受けた[232][245]。判決への訂正申立も、1998年1月13日付で棄却され[246]、同月16日に死刑が確定[234]。 2事件とも無実を主張し、1998年12月3日から7回の再審請求を行ったが、いずれも棄却され、2011年1月21日に8回目の再審請求を起こしている[234]。 控訴中、雑誌『噂の眞相』(1992年1月号)に実名(当時は「廣田雅晴」)で手記「毎日を先陣としたマスコミ報道陣は「赤報隊」に射殺されよ!」を寄稿している。また2013年には[234]、再審請求費用を工面するため、「極悪死刑囚の笑福転倒」と題する原稿を徳間書店から出版して印税を得ようと、原稿を同封した知人宛の信書を郵送しようとしたが[251]、不許可にされたことから、同年4月27日付で国に対し、処分取り消しを求める訴訟を提起[234]。大阪地裁第7民事部(田中健治裁判長)[注 16]は2014年5月22日に原告(神宮)の請求を認める判決を言い渡した[234][252][250]が、大阪高裁(森義之裁判長)[251]は同年11月14日に原判決を取り消し、請求を棄却する判決を言い渡した[注 19][256][257]。最高裁第三小法廷(山崎敏充裁判長)は2016年5月31日付の決定で神宮の上告を棄却した[258]ため、神宮の敗訴が確定[259]。
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坂祝町一家3人殺害事件 (H) |
1998年6月3日[260] |
1994年6月3日[261] |
徳島県徳島市生まれ[262]、同市在住[261]。逮捕当時43歳[262]、第一審判決時点で47歳[261]。 29歳だった1980年5月13日、徳島市南庄町の自宅マンションで、別居中の妻(当時31歳)に復縁を迫ったが断られたため、妻の首を絞めて殺害し、自身もカミソリで手首を切って自殺しようとする事件を起こした[263]。この事件で殺人罪に問われ、翌1981年1月22日に徳島地裁で懲役6年(求刑:懲役8年)の実刑判決を言い渡され[263]、服役した[264]、服役した。 1992年ごろ、岐阜県加茂郡坂祝町取組の農業男性A(事件当時61歳)の長女X(同35歳)と知り合い、1993年ごろから交際し始めたが、自身の粗暴な性格ゆえ、Aから結婚に反対され、Xからも別れ話を持ち掛けられるようになった[262]。事件前の1994年5月末からはXと関西から東京方面へ国内旅行したが、甲府駅構内でXから別れ話を持ち掛けられたことに逆上し、Xを殴るなどした[262]。これらの経緯からXに恐れられて逃げ出されたため、HはXに裏切られ、AらもXをかくまっていると思い込み、犯行におよんだ。 Hは2日14時45分ごろ、甲府駅構内でXと別れた後、中央本線の下り線に乗車し、同日夕方には塩尻駅(長野県塩尻市)に到着、レンタカーを2日間の予定で借りたほか、凶器の包丁やビニール紐も市内で購入し、A宅に向かった[265]。同月3日2時ごろ[注 20]、HはXを連れ戻す目的で[266]A宅に侵入し[267]、Aと妻B(当時59歳)、C(同31歳)の一家3人をロープで縛るなどして監禁した上で[261]、出刃包丁を用い[268]、A・B夫婦の胸や背中などを包丁で滅多刺しにして殺害した[261]。またCに乱暴しようとしたが逃げられたため、追いかけて殺害した[261]。Hは犯行後、犯行に用いたレンタカーを福井県敦賀市内で乗り捨てており、凶器の包丁も血が付着した状態で車内に放置されていた[265]、親類のいる香川県高松市まで逃亡したが、岐阜県警から指名手配を受けた同月5日には親類2人に付き添われて高松南警察署に出頭、逮捕された[262]。 Hは住居侵入、逮捕監禁、殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反、窃盗の罪に問われ[注 21]、岐阜地裁で開かれた公判で、起訴事実を大筋で認め、自ら死刑を望む発言もしていた[261]。一方でC殺害については、当初殺すつもりはなかったが、騒がれて追いかけているうちに衝突し、包丁が体に刺さってしまったとして殺意を否認、弁護人もその点について傷害致死罪を主張した上で、Hの人格障害の矯正は可能であるとして無期懲役を求めていた[261]。またXは、裁判で証人として喚問されても証言を拒否し続けたことが、これに対しHは、自身もXが証言しない限りは証言しないと宣言し、Xを宣誓拒否罪などで告訴していた[267]。 1998年5月15日、岐阜地裁(沢田経夫裁判長)は被害者3人全員への殺意を認定した上で、Hを死刑とする判決を言い渡した[261]。同地裁はCに対する殺意について、犯行は衝動的なものではあったが、凶器や傷の程度、当時Hが置かれていた状況から、Hが殺意を有していたことは明らかであると認定した[266]>。またXに対する態度については「不遜とも見受けられる」と評し、過去にも無理心中を図って妻を殺害した点や、犯行前に何度かXを殺して心中しようとした点について言及し、Hは「思い通りにならないと、自暴自棄になって攻撃に出る性格」であり、「年齢などを考慮すると、身勝手な性格を矯正するのは相当な困難が予想される」と評した[267]。Hは判決直後、法廷で「死刑は国家が私の自殺を幇助することになる」などという文章を読み上げており[269]、また弁護人に対し、弁論要旨に不正確な点があり、審理も不十分であると話していた[270]。Hは弁護人からの控訴の勧めに対し、明確な同意を示さなかったが、弁護人は控訴期限満期の同月29日、H本人の意思とは別に名古屋高裁へ控訴し[271]、H本人も同日中に控訴した[270][272]。しかしHは同年6月3日に自ら控訴を取り下げ[260]、同日付で死刑が確定した。平成改元以降、第一審で死刑判決を言い渡された被告人が控訴しなかったが、自ら控訴を取り下げたことにより死刑が確定した事例は、1992年6月の福島地裁郡山支部判決(福島女性飲食店経営者殺害事件)、1993年10月の福岡地裁小倉支部判決(参照)に続き、3件目[273]。同日は被害者3人の命日であり、Hは『中日新聞』岐阜総局と岐阜中警察署宛にそれぞれ手紙を送っていた[260][273]。 2002年9月18日に名古屋拘置所で死刑執行(51歳没)[268]。
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熊本大学生誘拐殺人事件(田本竜也) |
1998年7月24日 |
1987年9月14日 |
1966年(昭和41年)4月18日生まれ。 1988年3月30日に熊本地裁(荒木勝己裁判長)で死刑判決を受けた。第一審では半年未満の審理で判決に至っていることから、「事実関係について十分な審理がなされたとは言いがたい。」との指摘がなされている。1991年3月26日に福岡高裁(前田一昭裁判長)で控訴棄却判決。上告中に脱獄未遂を起こし、当時の福岡拘置所所長が自殺。 1998年4月23日に最高裁第一小法廷(遠藤光男裁判長)で上告棄却の判決を受けた[277]。同年7月22日付で判決訂正申立を棄却する決定を受け[278]、同月24日付で死刑が確定。 2002年9月18日に福岡拘置所で死刑執行(36歳没)[268]。上告審判決後、および死刑執行時点では「春田」に改姓していた[278][268]。
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中村橋派出所警官殺害事件 (S) |
1998年9月29日 |
1989年5月16日 |
1969年(昭和44年)1月1日生まれ。2020年9月27日時点で東京拘置所に収監中(現在56歳)。元陸上自衛官。 銀行強盗のために拳銃を奪おうとして、練馬警察署の「中村橋派出所」を襲撃し、警察官2名をサバイバルナイフで刺殺した。派出所勤務中の警察官2人が同時に殺害され殉職した事件は、1955年(昭和30年)以降では初だった[279]。 1991年5月27日に東京地裁(中山善房裁判長)で死刑判決、1994年2月24日に東京高裁(小林充裁判長)で控訴棄却判決を受けた。 1998年9月17日に最高裁第一小法廷(井嶋一友裁判長)で上告棄却判決を受け[280]、同月29日付で死刑が確定。死刑確定後の2003年8月、犯行時の責任能力を問題として再審請求。
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富山・長野連続女性誘拐殺人事件 (M) |
1998年10月9日[281][282] |
1980年2月23日 - 3月7日[283] |
1946年(昭和21年)2月14日生まれ[284]。本籍地[注 22]および住居は富山県富山市上千俵872番地[注 23][287]。 2020年9月27日時点で名古屋拘置所に収監中。戦後7番目の女性死刑囚。 「警察庁広域重要指定111号事件」[289]。1980年2月23日[283]、富山市で帰宅途中の女子高生(当時18歳)を誘拐し[290]、2日後(2月25日)[283]に睡眠薬を飲ませた上で、腰紐を用いて絞殺した[290](富山事件)[283]。 富山事件で身代金獲得に失敗したため[283]、8日後[290](3月5日)[283]には長野県長野市で帰宅途中の女性会社員(当時20歳)を同様に誘拐[290]し、翌6日に殺害(長野事件)[283]。遺体を山中に遺棄し、2人の家族にそれぞれ電話で身代金を要求した[注 24][290]。 当初は被害者2人の殺害・死体遺棄を実行したのは[291]、Mと愛人関係にあった男性[292](共謀共同正犯として起訴)とされていたが、検察は第一審の第125回公判(1985年3月5日)で「殺害・死体遺棄ともMが被害者に睡眠薬を飲ませた上で実行した」と主従関係を逆転させた[291]。 1988年2月9日に富山地裁(大山貞雄裁判長)は「一連の事件はMの単独犯行」と認定し、被告人Mに求刑通り死刑判決を言い渡した一方、共謀共同正犯とされていた男性(求刑:無期懲役)については「(起訴の根拠とされた)Mの自白には信用性がなく、共謀は認められない」として無罪を言い渡した[283]。 死刑を不服としたMと、(男性について有罪を訴えた)富山地検が名古屋高裁金沢支部へ控訴した[293]が、1992年3月31日に名古屋高裁金沢支部(濱田武律裁判長)は「両事件ともMの単独犯行。男性の関与は証拠上認められず、むしろ共謀を否定する消極的事情さえも指摘できる」として、双方の控訴を棄却(Mに死刑、男性に無罪を言い渡した原判決を支持)する判決を言い渡した[294]。名古屋高検が同判決への上告を断念したため、男性は1992年4月15日0時に無罪が確定[295]。 Mは1998年9月4日に最高裁第二小法廷(河合伸一裁判長)で上告棄却判決を受け[290]、同年10月7日付の第二小法廷決定[判決訂正申立棄却決定 事件番号:平成10年(み)第4号・平成10年(み)第5号]により[296]、同月9日[注 25]に死刑が確定[281][282]。 上告審判決前の1998年7月、東京拘置所に収監されていた死刑囚と養子縁組して「F」姓に改姓した[注 26][302]。さらに2000年1月時点では「S」姓を名乗っていた[303]が、2007年8月31日時点では元の「M」姓に戻っている。 2021年1月までに5度にわたり再審請求を起こしたが、いずれも棄却されている[306]。
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宮代事件(村松誠一郎[307]) |
1998年10月29日 |
1980年3月21日[308] |
1956年(昭和31年)5月17日生まれ、事件当時は埼玉県春日部市在住[308]。2020年9月27日時点で東京拘置所に収監中(現在69歳)。 1980年3月21日0時15分ごろ、弟と共謀して埼玉県南埼玉郡宮代町道仏のボイラーマン宅に侵入、2階で物色していたところボイラーマンの妻(当時51歳)に気づかれたため、ビニール紐で絞殺した[308]。1時ごろ、帰宅した長男(当時23歳)も絞殺して現金14万円などが入った手提げ金庫を奪い、犯行を隠すため[308]室内に灯油を撒き、食用油をガスレンジにかけたまま逃走[309]、家に放火して台所の一部を焼いた[308]。また事件後の3月31日、栃木県日光市で食料品店に押し入る強盗致傷事件を起こして逮捕され、殺人放火事件を自供したが、2人は取調べ中に再び供述を翻し、無罪を主張していた[310]。。兄弟が起訴され、兄(村松)の死刑、弟の無期懲役が確定したが[311]、冤罪説もある。 村松は宮代事件について無実を主張したが、1985年9月26日に浦和地裁刑事第3部(林修裁判長)で死刑判決を言い渡された[308]。浦和地裁における死刑判決は、1982年3月に言い渡された大宮母娘殺害事件の第一審判決以来3年半ぶりだった[310]。両被告人とも控訴したが、1992年6月29日に東京高裁刑事第5部(新谷一信裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[注 27][309]、1998年10月8日に最高裁第一小法廷(小野幹雄裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され[313]、同年10月28日付の同小法廷決定[判決訂正申立棄却決定 事件番号:平成10年(み)第76号]により[314]、同月29日付で死刑が確定。 死刑確定後の2001年2月27日に日本弁護士連合会(日弁連)に対し「東京拘置所が自分に対し違法に新技術を用いたポリグラフ実験を行ったり、ミクロ通信器による人工テレパシー・遠隔痛覚実験などを行っている」などと人権救済を申し立て、これを受けた日弁連は「村松は統合失調症あるいは拘禁ノイローゼなど重篤な精神疾患を患っている」として、法務省に対し死刑執行停止を勧告した。
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妙義山麓連続殺人事件 (M) |
1998年12月21日 |
1990年12月4日 1991年7月6日 |
1965年(昭和40年)2月20日生まれ。2020年9月27日時点で東京拘置所に収監中(現在60歳)。 1990年12月4日、友人の男と共謀し、群馬県碓氷郡松井田町(現:安中市)の男性A(当時26歳)を絞殺、遺体を妙義山中に埋めた。また1991年7月6日には、遊び仲間だった安中市の男性B(当時28歳)のキャッシュカードを不正に使い、現金300万円を盗み出したことをBとその父親C(当時54歳)に知られたため、Cを殴るなどして死亡させた上、その口封じのためBも頭をスコップで殴って殺害、2人の遺体を妙義山中に埋めた。 検察官はCの死亡について、MはCがまだ生きていることを知りながら穴に生き埋めにして殺害したとして殺人罪を主張し、被害者3人全員について殺人罪と死体遺棄罪などで起訴していたが、Mは公判で、Cは穴に埋められた時点で既に死亡していたと思っていた旨を主張、弁護人も殴り合いの結果の傷害致死事件であると主張した。前橋地裁高崎支部(佐野精孝裁判長)は1993年9月24日の判決公判で、MがCを穴に埋めた時点でCが生存していたことを認識していたかは疑わしいとして、Cの死亡については弁護人の主張通り傷害致死罪が成立すると認定したが、3人の人命が奪われた結果の重大性、遺族や地域社会に与えた影響の大きさなどから極刑はやむを得ないと判断、死刑判決を言い渡した[316]。前橋地裁で言い渡された死刑判決は、1983年に赤城山麓連続殺人事件の死刑囚S(1988年に死刑確定)に対し宣告されて以来、10年ぶりのことであった[316]。 M側のみが控訴したが、1994年9月29日に東京高裁(小林充裁判長)で控訴棄却の判決が言い渡された[317]。上告審では責任能力に関する重大な事実誤認、およびA殺害への不関与、B殺害時の別の共犯者の存在などを主張したが、1998年12月1日に最高裁第三小法廷(元原利文裁判長)で上告棄却判決を言い渡され[318]、同年18日付で同小法廷から判決訂正申立棄却の決定を受け[319]、同月21日付で死刑が確定。 1件の殺人については無実を主張し、他の殺人・傷害致死についても「犯行はシンナーの影響によるもの」と主張して再審請求中(2004年6月末時点)。 アムネスティ・インターナショナル日本支部は2013年の報告書で死刑囚Mについて「『マイクロ波放射線に曝されている』『血液が紫色である』などの妄想があり、弁護団が再審請求しているが、自身の弁護活動に関与できていない」と述べている。
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1999年
1999年(平成11年)に死刑判決が確定した死刑確定者は4人である[1]。
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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熊谷3人連続殺人事件 (T)[322] |
1999年3月19日 |
1972年2月 1973年7月 1974年2月[323] |
1932年(昭和7年)8月17日生まれ。埼玉県熊谷市美土里町在住の鳶職で、1972年から1974年にかけ、熊谷市[注 28]で以下の事件を起こした[322]。
- 1972年2月、熊谷市の農業男性A(当時46歳)から預かっていた金を使い込んだことから、遊び仲間である2. 事件の被害者の男Bと共謀し、Aを大里郡川本村長在家(現:深谷市長在家)の路上に呼び出し、ハンマーで殴るなどして殺害した[322]。
- 1973年7月、1. 事件の発覚を恐れて同事件の共犯である男B(当時53歳)[注 29]をダルマジョッキで撲殺した[322]。
- 1974年2月、知人である熊谷市の不動産業男性C[注 30](当時32歳)の多額の預金に目をつけ、川本村の荒川河川敷で頭を石で殴って殺し、奪った預金通帳で銀行から312万円を引き出した[322]。
被害者3人のうち、Bは遺体が発見されていない[322]。第一審の公判当初は起訴事実を全面的に認めていたが、1982年5月の公判からはB・Cの殺害については1976年4月に自殺した自身の仕事の親方(55歳没)が主犯であり、また殺害現場や凶器は起訴状とは異なり、B殺害現場にCも居合わせていたと主張した[322]。1986年3月27日、浦和地裁(杉山忠雄裁判長)は旧供述は客観的証拠と合致する一方、新供述は裏付けがないとしてT側の主張を退け、Tに死刑判決を言い渡した[325]。なお、Tは1件目と2件目の殺人の間の1973年1月に別件の窃盗罪で有罪判決が確定していたため[326]、刑法第45条の規定に基づき、1件目の殺人であるA殺害などについては懲役14年[注 31]、B・C両被害者の殺害などについては死刑がそれぞれ言い渡された[327]。浦和地裁で言い渡された死刑判決は、1985年9月の宮代事件第一審判決以来だった[327]。 Tは控訴したが、1994年9月14日に東京高裁(小泉祐康裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[327][326][328]。起訴事実のうち1件は遺体や凶器などが発見されておらず、Tの供述も変化したため、控訴審で8年にわたって争われた[326]。 1999年2月25日に最高裁第一小法廷(小野幹雄裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され[329][330]、判決訂正申立も同年3月18日付の決定で棄却され[331]、同月19日付で死刑が確定。 「真犯人は事件後に自殺した親方だ」と主張し、2003年12月に再審請求していたが、2019年に棄却されていた[332]。 2018年6月に肺炎と診断され、収監先・東京拘置所内の病棟で投薬などの治療を受けていたが、2020年10月17日に病死(88歳没)[323]。
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熊本保険金殺人事件 (S) |
1999年4月23日 |
1988年3月13日[333] 1988年3月25日[334] |
1945年(昭和20年)3月22日生まれ。 熊本県菊池市の山口組系北岡会「S組」元組長[334]。同組は組員数人で菊池市に勢力を有していたが、上部団体から絶縁されたことから1988年6月に自然消滅し、組員は散り散りになっていた[336]。配下の組員らと共謀し、保険金目的で菊池市の配下の組員(当時44歳)に生命保険金約1億円を掛け[注 32][337]、1988年3月13日、大分県日田郡上津江村川原の崖から[333]、85 m下に突き落として殺害した[338]後、現場にロープなどを置き、組員が崖を降りようとして転落死したように偽装した[334]。Sらはこの組員ら2人に合計約1億2500万円の生命保険を掛けており、この犯行の1週間前にも2人を車ごと崖から落として殺害しようとしたが、2度失敗していた[339]。 さらにこの犯行の発覚を恐れ、同月25日に組の相談役(当時53歳)を自宅から連れ出し[334]、熊本県阿蘇町西湯浦[337]の牧場で殺害[334]、死体を宮崎県えびの市の山中に埋めた[340]。また同年5月17日[337]、配下の組員(当時59歳)を熊本市から[334]鹿本郡菊鹿村下内田[337]の山中まで拉致して殺害、死体を埋めた[334]。後者2人の殺害方法はいずれも絞殺。このほか保険金殺人未遂2件、強盗致傷2件、拳銃強盗1件などの余罪あり[340]。1989年7月31日、最初の殺人事件に関する殺人・死体遺棄容疑で共犯4人とともに逮捕された[334]。 殺人罪、殺自民未遂罪、死体遺棄罪などに問われ、熊本地裁刑事第1部(赤塚健裁判長)で開かれた第一審の公判では、Sと実行グループのリーダー格だった男に死刑が、他の共犯3人にも無期懲役、懲役18年、懲役15年がそれぞれ求刑されたが[333]、1992年11月30日の判決公判で、同地裁はSら死刑を求刑された2人に無期懲役を、無期懲役を求刑された被告人には懲役20年を、懲役18年を求刑された被告人には懲役13年を、懲役15年を求刑された被告人には懲役15年をそれぞれ言い渡した[338]。検察官はSら無期懲役を言い渡された2被告人と、懲役20年を言い渡された被告人1人の計3人について、それぞれ量刑不当を理由に控訴した[341]。福岡高裁(池田憲義裁判長)は1995年3月16日、「暴力団内部の事件であるとして量刑に特別に配慮するのは相当ではない」として、Sについて原判決を破棄し、Sを死刑とする判決を言い渡した[339]。控訴審で第一審判決が破棄されて死刑判決が言い渡された事例は、1992年6月に仙台高裁で言い渡された岩手県種市町妻子5人殺害事件の控訴審判決以来、2年9か月ぶりだった[339][340]。なお、他に検察官が控訴していた2被告人については控訴が棄却されている[340]。 1999年3月9日に最高裁第三小法廷(千種秀夫裁判長)で上告棄却の判決を受け[342]、判決訂正申立も同年3月16日付の決定で棄却され[343]、同年4月23日付で死刑が確定。 2004年9月14日に福岡拘置所で死刑執行(59歳没)[344]。
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偽装トリプル殺人事件 (F)[345][346][347] |
1999年7月18日 |
1978年12月8日 1980年4月19日 1981年1月30日[346] |
1942年(昭和16年)7月13日生まれ。本籍は高知県安芸郡田野町[346]。 1978年12月から1981年1月の2年2か月間に、高知県で義姉や義父、知人だったホステスの計3人を殺害した[348]。
- 1978年12月8日未明、高知県高知市加賀野井二丁目でバーを経営していた義姉(当時42歳)宅付近の路上で義姉を絞殺し[346]、現金通帳などを奪って遺体を安芸郡安田町内の山中に埋めた[348]。その後、盗んだ通帳で計57万円を引き出した[346]。
- 1980年4月19日夜、安芸市穴内の山林で知人のスナックホステス(当時32歳)を絞殺し、遺体を安芸郡北川村の山中に埋めた[348]。
- 1981年1月30日夜、安芸市染井町の義父[注 33](当時72歳:時計商)宅で義父の頭を金槌で殴り、包丁で胸を刺すなどして殺害、23万円と預金通帳などを奪った[348]。
また四国電力が自分の所有地に無断で電柱を設置したとして、1980年3月には四国電力高知電力所に「電柱を切るぞ」などと数回にわたって電話し、解決金名目で現金30万円を脅し取った[346]。Fは高知県警が安芸警察署に設置していた特別捜査本部に別件の恐喝事件で逮捕され、1981年3月から一連の連続殺人を自供[349]。猟奇的連続殺人として高知県民に大きな衝撃を与えた[347]。『高知新聞』では県の戦後犯罪史に特筆される事件として報じられている[350]。 別件の私文書変造、同行使の容疑で逮捕された後、犯行を自供したが、高知地裁で開かれた第一審の公判中から否認に転じ、1. は自殺であり、2. と3. はそれぞれ真犯人は別人であり、自白は取調官の暴行や脅迫によるもので、自身にはアリバイがあり、凶器である金槌や包丁の処分場所などを知っていたのは真犯人から聞いたためであると主張した[348]。また検察官と弁護人の主張が真っ向から対立したことなどから、刑事事件の第一審としては異例となる長期裁判(初公判から判決まで6年7か月)が展開されたが、高知地裁(田村秀作裁判長)は1988年3月9日、無罪主張の供述は信用できないとしてFに死刑判決を言い渡した[348]。 Fは控訴し、控訴審では真犯人を知っているという男性[注 34]の証言を受けて高知県内で現場検証・捜索がなされたが、証言を裏付ける物証は見つからなかった[352]。1994年3月8日、高松高裁(米田俊昭裁判長)は控訴棄却の判決を宣告した[345]。 上告審で弁護人は、3. は義父との口論の末、殺されそうになっての正当防衛もしくは過剰防衛であり、1. の義姉は自殺であり、そして2. の被害者であるホステスは義父が殺害した、とする新主張を展開したが[346]、1999年6月25日に最高裁第二小法廷(福田博裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され[346][353][354]、判決訂正申立も同年7月16日付の決定で棄却され[355]、同月18日付で死刑が確定。 2006年12月25日に大阪拘置所で死刑執行(64歳没)[347][356]。
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安中の3人殺害事件(松井喜代司[357]) |
1999年9月28日 |
1994年2月13日 |
1948年(昭和23年)1月23日生まれ。 1975年2月14日[359]、群馬県高崎市内で自身との交際を断った[360]女子専門学校生(当時20歳)を包丁で刺殺する殺人事件を起こし[359]、懲役10年の判決を受け、刑務所に服役した前科があった[360]。 前述事件の刑期を終えて出所後、群馬県安中市で交際相手の女性(当時42歳)の両親(夫69歳・妻65歳)から結婚に反対され、女性からも結婚を断られたことに逆上し、3人をハンマーで撲殺した[360]。さらに女性の妹夫婦宅にも侵入し、妹とその長女を殺そうと首を絞めるなどした[361]。 1994年11月9日に前橋地裁高崎支部(佐野精孝裁判長)で死刑判決を受け[361]、1995年10月6日に東京高裁(小泉祐康裁判長)で控訴棄却判決を受けた[362]。 1999年9月13日に最高裁第一小法廷(大出峻郎裁判長)で上告棄却判決を受け[363]、判決訂正申立も同年9月27日付の決定で棄却され[364]同月28日付で死刑が確定。上告中には、『週刊金曜日』1999年1月22日号に実名で「死刑制度は犯罪防止にならない」という投書を寄稿している[注 35][357]。 一時期は「N」姓を名乗っていた[注 36]。第4次再審請求中の2017年12月19日に東京拘置所で死刑執行(69歳没)[373]。
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脚注
注釈
- ^ 弁護団結成のきっかけは北海道庁爆破事件で死刑判決を受けた大森勝久(1994年に死刑確定)から「冤罪の可能性がある人がいる」と情報を寄せられたことである。
- ^ 最高裁における係属期間は11年5か月で、死刑事件としては当時、戦後最長だった[41]。上告審が長期化した理由は、担当裁判官が定年退官で相次いで交代するなどしたためで、通常は1度限りの口頭弁論が2回[35](1985年7月4日・1990年6月21日)開かれた[35]。
- ^ a b c d e 札幌高裁・仙台高裁の管内(前者は北海道全域・後者は東北6県)で死刑が確定した死刑囚はそれぞれ札幌拘置支所・仙台拘置支所に収監されるが、死刑執行設備(刑場)はそれぞれ拘置支所に隣接する札幌刑務所・宮城刑務所に位置するため、死刑執行はそれぞれ刑務所で行われる。
- ^ 当初の目撃証言によれば、男性は出刃包丁を持った男2人と口論となり、喧嘩を止めようとした妻ともども刺殺された[46]。
- ^ 1964年7月、窃盗未遂事件の被告人に対し第一審への差し戻し判決を言い渡した際、主文で「上告審の訴訟費用を被告人に負担される」と誤記した例[60]。
- ^ 1945年(昭和20年)4月10日生まれ[67]。
- ^ 法務省はこの死刑執行(1998年11月19日)にあたり、初めて死刑執行の事実と人数を公表した[77]。
- ^ 上告取下書は同月7日付で最高裁に送付され[114]、同日付で第二小法廷(大西勝也裁判長)によって受理された[115]。
- ^ 死刑冤罪4事件(免田・財田川・松山・島田の各事件)の存在や死刑廃止国の増加など[130]。
- ^ 刑法第45条「確定裁判を経ていない二個以上の罪を併合罪とする。ある罪について禁錮以上の刑に処する確定裁判があったときは、その罪とその裁判が確定する前に犯した罪とに限り、併合罪とする。」
- ^ 1981年1月に窃盗罪で大阪簡裁から懲役10月・執行猶予3年の判決を受けていた[155]。
- ^ 前妻の養母[174]。
- ^ 1984年9月30日に都島警察署(大阪府警)から大阪拘置所に入所[234]。
- ^ 結婚後に「廣田」姓に改姓した。
- ^ 現:北警察署 十二坊交番(所在地:京都市北区紫野十二坊町33-4)[239]。
- ^ a b 田中健治(裁判長)・三宅知三郎・松本論の裁判官3人は、2014年4月1日時点・2015年2月16日時点で、いずれも大阪地方裁判所第7民事部(合議1~4係)を担当していた[248][249]。
- ^ 森義之は2014年6月4日に大阪高裁の部総括判事として赴任し、2017年(平成29年)まで務めた[253]。裁判所ウェブサイト (2015) によれば、森は2015年11月1日時点で大阪高裁の第14民事部を担当していた[254]。
- ^ 裁判所ウェブサイト (2014) によれば、龍見昇・金地香枝は2014年5月22日時点で、ともに大阪高裁の第14民事部を担当していた[255]。
- ^ 大阪高裁 (2014) は、「刑事施設の長の裁量により、信書の発信を認められるためには、社会通念上必要というべき事情がなければならないが、原告(神宮)の主張する理由(再審請求のために必要な費用を工面するために原稿を出版して印税を得ようとした)はそれに該当しない。また、出版社(徳間書店)との間で折衝が行われた形跡はなく、原稿の内容も元内閣総理大臣を誹謗中傷する趣旨のものが中心で、犯罪被害者を批判する記載、他民族を侮辱・蔑視する記載、わいせつな表現などが多数含まれるものであり、徳間書店によって出版される可能性が高かったとはいえない」と判断した[251]。
- ^ 現場の室内にあった電気時計は2時10分で止まっており、この時刻の前後が犯行時刻とみられている[262]。
- ^ 強姦未遂の罪にも問われたとする報道もある[261]。
- ^ 上告棄却時点(当時、Mは「F」姓に改姓済み)での本籍地は埼玉県鴻巣市逆川一丁目75番地1[284]。
- ^ Mの実家(富山市上千俵)は借地に建っていたが、事件翌年(1981年)に解体され、母親(Mの逮捕当時69歳)[286]は石川県の老人ホームに入居。また、長男(同当時10歳)[286]も父親(事件前に離婚したMの前夫)に引き取られた。
- ^ 長野事件の被害者宅への身代金要求は3月6日夜 - 7日にかけ行われた[283]。
- ^ 判決訂正申立棄却決定がMの下に送達された時点をもって、Mの死刑が確定した[297]。
- ^ 『年報・死刑廃止』シリーズによれば、1999年9月28日時点 - 2006年9月15日時点までは「F」姓を名乗っていた。
- ^ 同日以降、村松は自身の弁護人(後に解任 / 弟の弁護人になった)だった安田好弘を敵とみなしている。
- ^ 『朝日新聞』 (2020) では「熊谷市など」と報道されている[323]。
- ^ ギャンブル仲間だった不動産業者。
- ^ TとCは不動産取引を通じて知り合った[323]。
- ^ 求刑は懲役15年[322]。
- ^ 懲役12年の判決を受けた自動車修理販売業の男が保険金の受取人になっていた[337]。
- ^ 彼はFの妻の父親だったが、妻とは起訴後に離婚している[346]。
- ^ この男性は真犯人はFとは別の男であり、事件後に服毒自殺したと証言した[351]。
- ^ 松井はその投書で、「事件を起こした時、結婚詐欺の被害にあってその加害者一家を殺した」と述べた上で、「自分を含め、殺人を犯すような人間は犯行時に『もし捕まったら』とは考えていない。刑の軽重は犯罪の発生には関係なく、厳罰化は犯罪の防止にならない」「死刑制度は『悪いことをした人は殺しても良い』というもので、一番人命を軽視させている」と主張している[357]。
- ^ 『年報・死刑廃止』によれば、2004年7月末時点では「松井」姓だったが。2005年7月31日時点・2006年9月15日時点および2007年8月31日時点では「N」姓を名乗っていた。その後、2008年9月30日時点では元の「松井」姓に戻っている。
出典
参考文献
永山判決
- 最高裁判所第二小法廷判決 1983年(昭和58年)7月8日 『最高裁判所刑事判例集』(刑集)第37巻6号609頁、昭和56年(あ)第1505号、『窃盗、殺人、強盗殺人、同未遂、銃砲刀剣類所持等取締法違反、火薬類取締法違反被告事件』「一・死刑選択の許される基準 二・無期懲役を言い渡した控訴審判決が検察官の上告により量刑不当として破棄された事例」、“一・死刑制度を存置する現行法制の下では、犯行の罪質、動機、態様ことに殺害の手段方法の執拗性・残虐性、結果の重大性ことに殺害された被害者の数、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状等各般の情状を併せ考察したとき、その罪責が誠に重大であつて、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむをえないと認められる場合には、死刑の選択も許される。二・先の犯行の発覚をおそれ、あるいは金品の強取するため、残虐、執拗あるいは冷酷な方法で、次々に四人を射殺し、遺族の被害感情も深刻である等の不利な情状(判文参照)のある本件においては、犯行時の年齢(一九歳余)、不遇な生育歴、犯行後の獄中結婚、被害の一部弁償等の有利な情状を考慮しても、第一審の死刑判決を破棄して被告人を無期懲役に処した原判決は、甚だしく刑の量定を誤つたものとして破棄を免れない。”。 - 永山則夫連続射殺事件(被告人:永山則夫)の上告審判決。後に「永山基準」と呼ばれる死刑適用基準が明示された。
死刑事件全般関連の文献(判例集など)
- 「死刑無期事件判決集[死刑事件(昭和60-62年度) / 無期事件(昭和58-62年度)]」『刑事裁判資料』第247号、最高裁判所事務総局刑事局、1989年3月、NCID AN00336020。 - 『刑事裁判資料』第247号は朝日大学図書館分室に所蔵。
- 『最高裁判所裁判集 刑事』第287号、最高裁判所、2005年、575頁。 - 平成17年1月 - 8月分。
- 三重連続射殺事件の共犯者(死刑を求刑されたが、一・二審で無期懲役判決)に対する検察官の上告趣意書別表3「被害者二名の強盗殺人事件で、永山判決以後最高裁判所において死刑選択の当否が判断された事例一覧表」が収録されている。同事件は2005年(平成17年)7月15日付で、最高裁第二小法廷(津野修裁判長)が上告棄却の決定[平成12年(あ)第690号]を出した。
- 『最高裁判所裁判集 刑事』第289号、最高裁判所、2006年。 - 平成18年1月 - 8月分。光市母子殺害事件の第一次上告審判決[2006年6月20日第三小法廷判決:平成14年(あ)第730号]における検察官の上告趣意書。49 - 68頁に「(別表1)永山判決以後死刑の科刑を是認した最高裁判所の判例一覧表」[収録対象:2002年6月11日(多摩市パチンコ店強盗殺人事件の上告審判決)以前に上告棄却判決を宣告された死刑囚]が、69 - 84頁に「(別表2)永山判決以前に犯時少年であった者に死刑の科刑が是認された判例一覧表」が、85 - 86頁に「(別表3)死刑の求刑に対し、永山判決後無期懲役とした控訴審判決について検察官が上告した事例一覧表」が掲載されている。
- 福田康夫 (2007年11月2日). “第168回国会(臨時会) 答弁書 答弁書第三一号 内閣参質一六八第三一号” (PDF). 参議院議員松野信夫君提出鳩山邦夫法務大臣の死刑執行に関してなされた発言等に関する質問に対する答弁書. 参議院. 2022年8月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年8月22日閲覧。 - 第168回国会における内閣総理大臣・福田康夫の答弁書(HTM版)。死刑執行に関する鳩山邦夫法務大臣の発言などに関して、松野信夫議員が行った質問に対する答弁書である。この答弁書には、1977年(昭和52年)1月1日から2007年(平成19年)9月30日までの30年間に確定した死刑判決の事件名および確定年月日がまとめられている。
- 『最高裁判所裁判集 刑事』第307号、最高裁判所、2012年。 - 平成24年1月 - 4月分。長崎市長射殺事件の上告審決定[2012年1月16日第三小法廷決定:平成21年(あ)第1877号]における検察官の上告趣意書。48 - 55頁に「(別表)被害者1名に対して死刑判決が確定した事案」[収録対象:裕士ちゃん誘拐殺人事件の死刑囚S(死刑確定:1987年1月19日)から、闇サイト殺人事件の死刑囚KT(死刑確定:2009年4月13日)]が掲載されている。
死刑事件全般関連の文献(書籍・雑誌)
個別事件関連の文献(加害者・被害者などの手記を含む)
- 大下英治「練馬一家五人殺し」『増刊週刊大衆』第29巻第28号、双葉社、1986年7月11日、214-239頁。 - 1986年7月11日号(通巻1582号)。練馬一家5人殺害事件の関連記事
- 「一、仮釈放の五日後に、パトロール中の警察官一名を殺害してピストルを強奪し、さらにそのピストルでサラ金の従業員一名を射殺して現金約六〇万円を強奪したという事案につき、死刑が言い渡された事例 二、自白につき、捜査官の暴行によるものである旨の被告人の主張が排斥され、任意性が認められた事例 三、目撃証言につき、観察条件、目撃内容、証言の具体性などの信用性が高いとされた事例――ピストル強盗連続殺人事件第一審判決 大阪地裁 63. 10. 25 判決」『判例時報』第1304号、判例時報社、1989年5月11日、55-81頁。 - 京都・大阪連続強盗殺人事件の加害者・廣田雅晴(1998年に死刑確定)への第一審判決文。
- 大阪地方裁判所第一刑事部判決 1988年(昭和63年)10月25日、昭和59年(わ)第4576号、『強盗殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反、火薬類取締法違反被告事件』
- 主文:被告人を死刑に処する。
- 裁判官:青木暢茂(裁判長)・林正彦・河田充規
- 廣田雅晴(大阪拘置所)「毎日を先陣としたマスコミ報道陣は「赤報隊」に射殺されよ!」『噂の眞相』第14巻第1号、株式会社噂の真相、1992年1月、94-97頁。 - 通巻第155号(1992年1月号:毎月10日発売)。京都・大阪連続強盗殺人事件の加害者本人による手記。
- 野中恭太郎「「フェアレディZの女」12年の執念 あくまで男を道連れにしようとした女の哀切」『文藝春秋』第70巻第6号、文藝春秋、1992年6月1日、346-357頁、doi:10.11501/3198585。 - 1992年6月号。富山・長野連続女性誘拐殺人事件の加害者女性M(1998年に死刑確定)を取り扱った記事。
- 「一、仮釈放の五日後に、パトロール中の警察官一名を殺害してピストルを強奪し、さらにそのピストルでサラ金の従業員一名を射殺して現金約六〇万円を強奪したという事案につき死刑を言い渡した原判決の判断を正当とした事例 二、自白は警察官の拷問により強要されたものであるから任意性がないという被告人側の主張を排斥した事例 三、目撃証言の信用性などを認めて被告人と犯人の同一性を肯定した事例――ピストル強盗連続殺人事件控訴審判決 大阪高裁 平5. 4. 30 刑六部判決」『判例時報』第1503号、判例時報社、1994年11月1日、151-161頁。 - 京都・大阪連続強盗殺人事件の加害者・廣田雅晴への控訴審判決文。
- 大阪高等裁判所刑事第六部判決 1993年(平成5年)4月30日、平成元年(う)第162号、『強盗殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反、火薬類取締法違反被告事件』
- 主文:本件控訴を棄却する。
- 裁判官:村上保之助(裁判長)・米田俊昭・安原浩(安原は転勤のため署名・押印できず)
- 来栖宥子 著、斉藤繁人(発行人) 編『113号事件 勝田清孝の真実』(初版)恒友出版、1996年8月8日。ISBN 978-4765261104。 - 勝田清孝事件の関連書籍
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