事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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長野・愛知4連続強盗殺人事件 (N) |
2007年1月11日[286] |
2004年1月13日 - 9月7日 |
1976年(昭和51年)10月22日生まれ。長野地裁(土屋靖之裁判長)で2006年5月17日に死刑判決を受け控訴したが、2007年1月11日に自ら控訴を取り下げ死刑確定。2009年1月29日に東京拘置所で死刑執行(32歳没)。
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マニラ連続保険金殺人事件 (MK) |
2007年1月30日 |
1994年12月1日[339] 1995年6月23日[340] 1996年5月26日[341] |
1954年(昭和29年)6月29日生まれ。下記MAの双子の弟[342]。 MK・MA・Sらは以下の犯罪を犯したとされる。
- 殺人罪[343] - 1994年12月1日夜、宮崎県宮崎市在住の貿易商男性A(当時43歳:元会社員)の元妻である保険外交員の女[注 22]らと共謀し、生命保険の保険金目当てにAの殺害を計画、フィリピンのマニラ首都圏にあるホテルの部屋で睡眠薬入りのコーヒーを飲ませた上で、MAとSがAの顔に枕を押し付け、窒息死させた[339]。Aには生命保険会社5社に計1億3000万円の保険がかけられており、それらはAの元妻に支払われた後、うち1000万円がMK・MA・Sら4人で分配されたとみられる[339]。
- 殺人罪・詐欺未遂罪[343] - MK・MA・Sの3人は共謀の上、MKを受取人とする死亡時3000万円の旅行傷害保険を富山県出身の貿易商男性B(当時47歳)に掛けてマニラに渡航した[340]。1995年6月22日夜、MA・SはBに睡眠薬入りのビールを飲ませ、翌23日1時五歩、コンドミニアムのBの部屋で眠っていたBの顔に食品包装用のラップをかぶせ、枕で押さえつけることで窒息死させた[340]。
- 強盗殺人罪・死体遺棄罪[343] - MA・Sは共謀の上、1996年5月23日夜、帰宅途中だった愛知県尾西市三条(現:一宮市三条)の旅行会社社員男性C(当時24歳)を名鉄新一宮駅前で拉致し、タクシーで当時自分たちの住んでいた愛知県名古屋市中区のマンションに連れ込んで監禁した[341]。その後、Cからキャッシュカードを奪い、Cをレンタカーで長野県駒ヶ根市赤穂の別荘地まで連れて行き、同月26日1時ごろ、ネクタイで首を絞めて殺害、死体を空き別荘の床下に埋めた[341]。MAはこの事件前の1995年6月、Cが勤めていた中村区の旅行会社営業所でフィリピン行きの航空券の手配を依頼したが、手配できなかったことでCに因縁をつけ、営業所から現金などを脅し取っており、その後もCに現金を要求していた[341]。
一連の犯行のうち、マニラの2事件ではM兄弟と友人Sの計3人が共謀したとされるが、3人とも「被害者は病死した」と主張してマニラの事件を否認。 2002年1月30日、名古屋地裁一宮支部(丹羽日出夫裁判長)はMK・MA・Sの3被告人をいずれも求刑通り死刑とする判決を言い渡した[343]。3被告人が同時に死刑判決を言い渡された事例は、1998年12月に三重県松阪市で発生した強盗殺人事件の第一審で津地裁が2000年3月に言い渡した判決以来とみられる[343]。3被告人とも控訴したが、2003年7月8日に名古屋高裁(小出錞一裁判長)は3人の控訴をいずれも棄却する判決を言い渡した[342]。 3人とも上告したが、2007年1月30日に最高裁第三小法廷(上田豊三裁判長)は3人の上告をいずれも棄却する判決を言い渡したため、3人とも死刑判決が確定した[344]。 2000年2月に右目の異常を訴え、名古屋拘置所が委託している眼科医の診察を受けたところ、持病の糖尿病が原因で失明するおそれがある「糖尿病網膜症」と診断されたが、名古屋拘置所が専門病院に転院させるなど適切な措置を取らず、同年7月に右目を失明したとして、2005年8月に国家賠償請求訴訟(請求額:1,100万円)を提訴[345]。国側は「医師は適切な措置をした」などと争っていた[346]が、2009年5月27日付で、国側が解決金400万円を支払う形で和解が成立している[345]。 MKは死刑確定後、名古屋拘置所に収監されていたが、2024年11月より肺炎などにより外部の病院に入院していた。2025年5月1日に老衰により死去(70歳没)[347]。
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マニラ連続保険金殺人事件 (MA) |
2007年1月30日 |
1994年12月1日[339] 1995年6月23日[340] |
上記MKの双子の兄で、元輸入仲介業[342]。MKの上記罪状のうち、1. および2. に関与した。 裁判経緯は弟MKおよび共犯者Sと同一[344]。 MAは名古屋拘置所に収監されていたが、2016年1月に肺炎のため八王子医療刑務所へ移送され、同月22日に肺炎のため病死(61歳没)[348]。
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マニラ連続保険金殺人事件 (S) |
2007年1月30日 |
1994年12月1日[339] 1995年6月23日[340] 1996年5月26日[341] |
1971年(昭和46年)3月9日生まれ。上記MA・MK兄弟の共犯者で、裁判経緯はM兄弟と同一[344]。M兄弟とは事件前から仕事仲間だった[342]。2020年9月27日時点で大阪拘置所に収監中[注 23](現在54歳)。 控訴審判決では「MA・MK両被告人に対し従属的な役割で加担した。矯正可能性は否定できないが罪責は大きい」として同様に控訴棄却判決(第一審の死刑判決を支持)を受けている。2008年11月25日に第一次再審請求。
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宮崎連続強盗殺人事件 (M) |
2007年2月28日[352] |
2001年11月25日 2001年12月7日 |
1968年(昭和43年)2月23日生まれ。 2001年11月、宮崎県西都市でスナック経営者の女性(当時53歳)宅に侵入し、女性の胸を包丁で刺し、手で首を絞めて殺害した上で、現金約37,000円などを奪った[352]。また、同年12月には東諸県郡国富町で、雑貨店経営者の女性(当時82歳)宅に侵入、女性を紐などで絞殺し、現金約63万円などを奪った[352]。 2003年1月24日に宮崎地裁(小松平内裁判長[注 15])で死刑判決を受け、2004年5月21日には福岡高裁宮崎支部(岡村稔裁判長)で控訴棄却判決を受けた。 2007年2月6日に最高裁(那須弘平裁判長)で上告棄却判決を受ける。判決の訂正を申し立てたが、同月22日付の最高裁第三小法廷(那須弘平裁判長)決定で棄却され、その決定書が拘置先の宮崎刑務所に届き、同月24日付で死刑が確定[352]。宮崎県内における事件で死刑が確定した死刑囚は、前年10月に死刑が確定した女性死刑囚I以来、6人目だった[352]。 2012年3月29日に福岡拘置所で死刑執行(44歳没)。
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宇都宮宝石店放火殺人事件 (S) |
2007年3月8日 (上告審判決への訂正申立に対する棄却決定日)[353] |
2000年6月11日[354] |
1951年(昭和26年)3月13日生まれ、栃木県小山市出身[355]。 一攫千金を狙おうと考え[354]、客として出入りしていた栃木県宇都宮市江野町の宝石店「ジュエリーツツミ宇都宮店」[354]の店員を殺害して宝石を奪うことを計画[355]。2000年6月11日22時50分ごろ、商談を装って同店を訪問し、持参したバッグに宝飾品を詰めさせた後、女性従業員6人を粘着テープで縛って店舗奥の休憩室に押し込み、逃走経路を確保するため店のシャッターを開けた上で[356]、店内や従業員らにガソリンを撒いて放火、6人全員を焼死させた上で貴金属類約293点(約1億4000万円相当)を奪った[354]。 捜査段階初期では殺意を認めたが、後に否認に転じ、第一審の公判では「(店員を)脅すつもりでガソリンをまき、腰の高さでライターを擦ったら予想外に爆発した」と主張して殺意を否認した[356]。2002年3月19日の判決公判で、宇都宮地裁(肥留間健一裁判長)は口封じのために顔見知りだった従業員の焼殺を企てたとする検察官の主張を認め、殺意と放火の犯意を認定、Sに死刑判決を言い渡した[356]。 Sは控訴したが、2003年4月23日に東京高裁(高橋省吾裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[357]。上告したが、2007年2月20日に最高裁第三小法廷(那須弘平裁判長)で上告棄却の判決を言い渡された[354][358]。同月26日付で判決訂正申立を行ったが、同年3月8日付で申立を棄却する決定が出されたため、死刑が確定した[注 24][353]。 2010年7月28日に東京拘置所で死刑執行(59歳没)[355]。
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名古屋市中区栄スナックバー経営者殺害事件 (K) |
2007年3月22日 |
2002年3月14日 |
1950年(昭和25年)3月12日生まれ。旧姓B(上告中に養子縁組して改姓)。殺人で懲役15年の刑に処された前科あり。 第一審・名古屋地裁(伊藤新一裁判長)では2003年5月15日に無期懲役判決を受けたが、控訴審・名古屋高裁(小出錞一裁判長)で2004年2月6日に一審破棄・死刑判決を受けた。 2007年3月22日に最高裁(才口千晴裁判長)で上告棄却の判決を受け死刑が確定。2013年2月21日に名古屋拘置所で死刑執行(62歳没)。
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武富士弘前支店強盗殺人・放火事件 (K) |
2007年4月14日[361] |
2001年5月8日 |
1958年(昭和33年)5月19日生まれ。 2003年2月12日に青森地裁(山内昭善裁判長)で死刑判決を受け、2004年2月19日に仙台高裁(松浦繁裁判長)で控訴棄却判決を受けた。 最高裁第三小法廷(上田豊三裁判長)にて2007年3月27日に上告棄却判決(一・二審の死刑判決を支持)を受け、4月3日付で同小法廷に判決の訂正を申し立てたが[362]、2007年4月12日付の同小法廷決定で棄却され[363]、同月14日付で死刑が確定[361]。 2014年8月29日に宮城刑務所(収監先・仙台拘置支所に隣接)[注 5]で死刑執行(56歳没)。死刑確定後3度にわたり再審請求を行ったが2014年8月6日に3度目の再審請求の棄却決定が言い渡され、4度目の再審請求の準備に入るところであった。
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池袋通り魔殺人事件 (Z) |
2007年5月2日 (正式な死刑確定日)[359] |
1999年9月8日 |
1975年(昭和50年)11月29日生まれ。2020年9月27日時点で東京拘置所に収監中(現在49歳)。 本籍地は岡山県岡山市灘崎町(現:岡山市南区)。 公判では犯行時の責任能力が争点となったが、東京地裁(大野市太郎裁判長)は2002年1月18日に完全責任能力を認定して死刑判決を言い渡した[366]。当時、死者が出た通り魔事件で完全責任能力が認定され死刑判決が言い渡された事例は極めて異例だった[注 25][367]。 控訴審・東京高裁(原田國男裁判長)でも2003年9月29日に控訴棄却判決を[368]、最高裁第一小法廷(横尾和子裁判長)でも2007年4月19日に上告棄却判決を受け[369]、訂正申し立て期限内に判決への訂正を申し立てなかったため、2007年5月2日付で死刑が確定した[注 24][359]。
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福山市独居老婦人殺害事件 (N) |
2007年5月9日 (正式な死刑確定日)[371] |
1992年3月29日 |
1953年(昭和28年)1月13日生まれ。2020年9月27日時点で広島拘置所に収監中(現在72歳)。 無期懲役刑の受刑者が仮釈放中に再犯した事件。第一審・広島地裁(1994年9月30日)および控訴審・広島高裁(1997年2月4日)はいずれも無期懲役判決だったが、1999年12月10日に最高裁第二小法廷(河合伸一裁判長)は控訴審判決を破棄して審理を広島高裁に差し戻す判決を言い渡した[373]。2004年4月23日に差し戻し後の控訴審・広島高裁(久保真人裁判長)で死刑判決を、2007年4月10日に最高裁第三小法廷(堀籠幸男裁判長)で上告棄却判決(死刑判決支持)を受け[374]、同年5月9日付で死刑が確定した[371]。 1997 - 1998年の検察上告中、唯一高裁へ差し戻された事例で、最高裁が死刑を求めた検察の上告を認めて無期懲役判決を破棄し、差し戻し後の控訴審で言い渡された死刑判決が確定した事例は永山則夫連続射殺事件以来戦後2件目だった[374]。
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大阪姉妹殺害事件(山地悠紀夫) |
2007年5月31日 |
2005年11月17日 |
1983年(昭和58年)8月21日生まれ。16歳のとき山口母親殺害事件を起こして少年院送致され、その仮退院後に本事件を起こした。 2006年12月13日に大阪地裁(並木正男裁判長)で死刑判決を受け、2007年5月31日に自ら控訴を取り下げたため死刑が確定。2009年7月28日に大阪拘置所で死刑執行(25歳没)。
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太州会内部抗争連続殺人事件 (N) |
2007年6月12日 |
1997年10月 |
1947年(昭和22年)6月3日生まれ。2020年9月27日時点で福岡拘置所に収監中(現在77歳)。 太州会系暴力団の元組長[375]。同会系西山組の元組長A(当時54歳)と対立関係にあり[376]、Aの殺害を計画[377]。配下の組員4人に指示し[376]、1997年10月6日夜、福岡県宮田町(現:宮若市)の路上でAを射殺させた[377]。さらに先述の配下の組員のうちの1人であるB(当時40歳)が警察に犯行を自供することを恐れ[378]、A射殺事件の共犯2人を含む組員3人に指示し[379]、同年10月13日に長崎県佐世保市の山中でBを絞殺、遺体を穴に埋めた[380]。 無罪を主張したが、2003年5月1日に福岡地裁(林秀文裁判長)で死刑判決を受けた。2005年4月12日、福岡高裁(虎井寧夫裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[376]。2007年6月12日に最高裁第三小法廷(上田豊三裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[381]。 上告中の2005年4月7日付で(当時Nは57歳)、福岡拘置所で知り合った二丈町立てこもり殺人事件の被告人である男(当時39歳、後に無期懲役が確定)と養子縁組し、この男を養子としている[382]。
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春日部中国人夫婦殺害事件 (S) |
2007年6月19日 |
2000年9月22日 |
1973年(昭和48年)8月21日生まれ。中華人民共和国国籍。2020年9月27日時点で東京拘置所に収監中(現在51歳)。 元筑波大学大学院生。被害者・加害者とも中国人留学生。被害者夫は新越谷外国語会話教室中国語講師で埼玉大学大学院生、妻は筑波大学大学院生。 2002年2月22日にさいたま地裁(川上拓一裁判長)で死刑判決を受け、2004年1月23日に東京高裁(白木勇裁判長)で控訴棄却判決。 2007年6月19日に最高裁第三小法廷(藤田宙靖裁判長)で上告棄却判決を受け[384]、死刑が確定。 事実誤認・量刑不当を主張。
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自殺サイト殺人事件 (M) |
2007年7月5日 |
2005年2月19日 - 6月 |
1968年(昭和43年)8月8日生まれ。2007年3月28日に大阪地裁(水島和夫裁判長)で死刑判決を受け控訴したが、2007年7月5日に自ら控訴を取り下げ死刑確定。2009年7月28日に大阪拘置所で死刑執行(40歳没)。
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三重連続射殺事件 (H) |
2007年7月21日[385] |
1994年7月19日(鈴鹿市の事件)[386] 1994年11月20日(伊勢市の事件)[386] |
1960年(昭和35年)4月10日生まれ[386]・会社役員。2020年9月27日時点で名古屋拘置所に収監中(現在65歳)。 本籍地は三重県度会郡南伊勢町、住居は三重県松阪市下村町。 三重県鈴鹿市と伊勢市で、回転弾倉式拳銃を用い[386]、男性2人を相次いで射殺[388]。2人の死体をそれぞれ久居市(現:津市)の造成地に埋め[386]、奪った預金通帳などから現金1,227万円を引き出すなどした[388]。 無実を主張したが、2002年12月18日に津地裁刑事部(天野登喜治裁判長)で死刑判決を受けた[386]。その後、2004年3月22日に名古屋高裁刑事第1部(小出錞一裁判長)で控訴棄却判決を受けた[389]。 2007年7月5日に最高裁第一小法廷(甲斐中辰夫裁判長)で上告棄却判決を受け[390]、同月19日の判決訂正申し立て棄却決定を経て、21日付で死刑が確定[385]。 共犯者1人(朝鮮籍)[注 26]は一・二審とも無期懲役を言い渡され[注 27]、検察官が上告していたが、2005年7月15日付で最高裁第二小法廷(津野修裁判長)が検察官の上告を棄却する決定を出した[388]ため、無期懲役が確定している[393]。 死刑確定後、2009年8月21日に第1次再審請求をしたが、2014年2月12日の決定(特別抗告棄却)により、再審開始を認めない判断が確定[385]。2015年6月29日に第2次再審請求したが[385]、2017年1月13日に津地裁刑事部(水野将徳裁判長)で請求棄却決定がなされ[394]、名古屋高裁刑事第2部(高橋徹裁判長)も2019年1月31日付の決定で即時抗告を棄却した[385]。2020年12月11日付で、最高裁第三小法廷(林景一裁判長)から特別抗告棄却の決定がなされている[395]。 2022年11月30日付で、「犯行に使用された拳銃は確定判決で認定された38口径ではなく35口径である」として津地裁に第3次再審請求した[396][397][398][399]。
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熊谷男女4人殺傷事件 (O) |
2007年7月18日 |
2003年8月18日 |
1977年(昭和52年)7月20日生まれ。2007年4月26日にさいたま地裁(飯田喜信裁判長)で死刑判決を受け控訴したが、2007年7月18日に自ら控訴を取り下げ死刑確定。 2010年7月28日に東京拘置所で死刑執行(33歳没)。死刑執行命令書に署名した法務大臣自身が歴史上初めて死刑執行に立ち会った。
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オウム真理教事件(横山真人) |
2007年8月23日 (上告審判決への訂正申立に対する棄却決定日)[400] |
1995年3月20日 |
1963年(昭和38年)10月19日生まれ。オウム真理教の元幹部で地下鉄サリン事件の実行犯の1人。横山がサリンを散布した車両では死者を出さなかったが、大量殺傷事件の共同正犯として死刑判決を受けた。 1999年9月30日に東京地裁(山崎学裁判長)で死刑判決を受け、2003年5月19日に東京高裁(原田國男裁判長)で控訴棄却判決。最高裁第二小法廷(中川了滋裁判長)にて2007年7月20日に上告棄却判決(一・二審の死刑判決を支持)を受け、判決訂正申し立ても2007年8月23日付同小法廷の決定で棄却されたため死刑が確定した[400]。2018年3月14日に東京拘置所から名古屋拘置所へ移送され[202]、同所で第一次再審請求即時抗告中の2018年7月26日に死刑執行(54歳没)。
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上申書殺人事件 (G) |
2007年10月16日 (上告審判決への訂正申立に対する棄却決定日)[402] |
2000年7月30日 2000年8月20日 |
1958年(昭和33年)7月24日生まれ。2020年9月27日時点で東京拘置所に収監中(現在66歳)。 茨城県水戸市・栃木県宇都宮市で男女5人を死傷させたとして殺人罪などに問われ[402]、2003年2月24日に宇都宮地裁(飯渕進裁判長)で死刑判決を受けた。2004年7月6日に東京高裁(山田利夫裁判長)で控訴棄却判決を受けたが、上告中の2005年10月に「1999年 - 2000年、起訴された事件とは別に3件の殺人事件に関与した」とする上申書を茨城県警に提出した[404]。 水戸・宇都宮事件の上告審では最高裁第二小法廷(津野修裁判長)にて2007年9月28日に上告棄却判決(一・二審の死刑判決を支持)を受けた[402]。10月9日に判決の訂正を申し立てたが[405]、2007年10月16日付の同小法廷決定で棄却されたため死刑が確定した[402]。 余罪事件では2009年6月30日に水戸地裁で懲役20年の判決を受け、控訴棄却を経て2012年2月20日付の最高裁第二小法廷(古田佑紀裁判長)決定により上告が棄却されたことで確定したが、既に死刑が確定していたため、刑法の規定[注 28]により懲役刑は執行されない[404]。
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オウム真理教事件(端本悟) |
2007年11月12日 (上告審判決への訂正申立に対する棄却決定日)[406] |
1989年12月など |
1967年(昭和42年)3月23日生まれ。オウム真理教の元幹部で坂本堤弁護士一家殺害事件・松本サリン事件などに関与。 2000年7月25日に東京地裁(永井敏雄裁判長)で死刑判決を受けた。2003年9月18日に東京高裁(仙波厚裁判長)で控訴棄却判決を、最高裁第二小法廷(津野修裁判長)にて2007年10月26日に上告棄却判決(一・二審の死刑判決を支持)を受け、判決訂正申し立ても2007年11月12日付の同小法廷決定で棄却されたため死刑が確定した[406]。2018年7月26日に東京拘置所で死刑執行(51歳没)。
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マブチモーター社長宅殺人放火事件(畠山鐵男) |
2007年11月1日 |
2002年8月5日 2002年9月24日 2002年11月21日 |
1943年(昭和18年)4月17日生まれ(旧姓:小田島)。本事件以前にも練馬三億円事件(1990年発生)を起こして懲役12年に処された前科がある[407]。 一連の連続殺人(4人殺害)を起こした後、2004年 - 2005年に新聞のお悔やみ記事を見て通夜・葬式で留守の家に押し入る空き巣を繰り返して逮捕され[408]、その後連続殺人への関与が判明した。最初の事件(2002年8月にマブチモーター社長の妻・娘を殺害した事件)は2005年10月に解決し[409]、一連の連続殺人は「警察庁広域重要指定124号事件」に指定された[410]。 2007年3月22日に千葉地裁(根本渉裁判長)で死刑判決を受け、2007年11月1日に自ら控訴を取り下げ死刑確定。共犯Mも一・二審で死刑判決を受け[411][412]、2011年11月に最高裁第三小法廷(寺田逸郎裁判長)で上告棄却判決を受け死刑確定[413]。ノンフィクション作家・斎藤充功と交流していたほか[注 29]、実名(「小田島鐵男」名義)で2009年に『最期の夏 「マブチモーター事件」強盗放火殺人犯 死刑囚獄中ブログ』(ミリオン出版)を出版した[415]。 食道癌のため2017年9月16日に東京拘置所内で病死(74歳没)[416]。
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大和連続主婦強盗殺人事件 (S) |
2007年12月5日 (正式な死刑確定日)[417] |
2001年8月29日 2001年9月19日 |
1954年(昭和29年)10月28日生まれ。共犯者は無期懲役判決(求刑:死刑)を受けた。 2003年4月30日に横浜地裁(田中亮一裁判長)で死刑判決を受け、2004年9月7日に東京高裁(安広文夫裁判長)で控訴棄却判決。2007年11月6日に最高裁(藤田宙靖裁判長)で上告棄却判決を受け死刑確定(正式な死刑確定日は2007年12月5日)[417]。 再審請求中の2019年8月2日に東京拘置所で死刑執行(64歳没)。
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都筑区の一家3人殺害事件 (F) |
2007年11月15日 |
2002年7月31日 |
1965年(昭和40年)4月7日生まれ。 2002年7月31日未明、神奈川県横浜市都筑区仲町台の妻(第一審判決時点で40歳、事件後に離婚)の実家であるマンションに忍び込み、義父(当時71歳)、義母(同63歳)、義理の子である中学1年生の男子生徒(当時12歳)の3人を、鋭利な戦闘用ナイフ(刃渡り27.5 cm)で刺殺し、妻を殴って手錠をかけて車に連れ込み、富山県富山市内までその車を運転して監禁するなどした[418]。 2004年3月30日に横浜地裁(小倉正三裁判長)で死刑判決を受け、2005年5月24日に東京高裁(安広文夫裁判長)で控訴棄却判決を受けた。 2007年11月15日に最高裁(甲斐中辰夫裁判長)で上告棄却判決を受け死刑確定。2012年3月29日に東京拘置所で死刑執行(46歳没)。
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岡山女性殺害事件 (U) |
2007年12月16日 |
2001年8月9日 |
1939年(昭和14年)7月29日生まれ。本籍地は愛知県豊田市実栗町。 無期懲役刑の受刑者が仮釈放中に再犯した事件。愛知県内で知人女性2人を相次いで殺害し、遺体を遺棄したとして[注 30][421]、1980年3月19日に名古屋地裁一宮支部(吉川清裁判長)で無期懲役判決(求刑:同)を受け[注 31][420]、同年4月3日付で確定。 1999年11月11日に仮出所したが、出所後の2001年8月に金銭トラブルから、岡山県岡山市内で無職女性(当時57歳)を絞殺し[421]、遺体を市内の竹やぶに遺棄した[423]。 2003年5月21日に岡山地裁(榎本巧裁判長)で死刑判決を、2004年2月5日に広島高裁岡山支部(安原浩裁判長)で控訴棄却判決を受けた。2007年11月30日に最高裁第二小法廷(今井功裁判長)で上告棄却判決を受け[421]、同年12月16日付で死刑が確定。 2008年2月7日に肝門部胆管癌のため、大阪医療刑務所[注 32]内で病死(68歳没)[423]。この時、法務省は病死した死刑確定者(それまでは氏名・性別を秘匿し病死の事実の未公表)の氏名を初めて公表した[注 33][423]。
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