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この項目では、日本で死刑が確定した歴代の死刑囚の一覧(1960年代)について説明しています。
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日本における死刑囚の一覧 (1960年代) (にほんにおけるしけいしゅうのいちらん)は、1960年代、即ち1960年(昭和35年)から1969年(昭和44年)までの日本で、刑事裁判によって死刑判決を言い渡され、確定した主な死刑囚(死刑確定者)の一覧記事である。
1960年 - 1964年
1960年
1960年(昭和35年)に死刑判決が確定した死刑確定者は33人である[1]。
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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鹿児島2女性井戸投げ込み強盗殺人事件 (M) |
1960年1月6日 |
1958年11月26日 |
強盗目的で家屋に侵入し、就寝中に目を覚ました女性に気づかれたため、持っていた木刀で滅多打ちにし、その後に井戸へ落とし殺害した、上告せず確定。1962年8月10日に死刑執行(26歳没)。
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豊中3人組自動車強盗殺人事件 (I) |
1960年2月5日 |
1956年7月12日・ 1957年2月14日 |
死刑執行日は不明。
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霧島山一家4人強盗殺人事件 (Y) |
1960年2月24日 |
1957年1月4日 |
控訴取下げ。1962年8月10日に死刑執行(28歳没)。
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松島パークホテル殺人事件 (H) |
1960年2月26日 |
1956年8月14日 |
死刑執行日は不明。
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岸本社長殺害事件 (T) |
1960年3月3日 |
1956年4月2日 |
共犯は無期懲役。死刑執行日は不明。
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横浜の重役夫人殺し (S)[2] |
1960年3月8日 |
1958年6月12日[3] |
千葉県山武郡成東町生まれ、上告審判決時点で26歳[2]。「港北区の会社重役夫人殺し」とも呼称される[4]。 1958年6月12日10時30分ごろ、出入り先だった神奈川県横浜市港北区篠原町の会社取締役宅を訪れ、取締役の妻(当時41歳)に金を無心したが断られたため、いきなり首を絞めて乱暴し、ナイフで刺殺、背広、カメラなど43000円相当を奪って逃げた[2]。 Sは事件前、ガラス職人として働いていたが、酒色に溺れて解雇され、家出した末に犯行におよび、「少しくらいなら出すから」と哀願する被害者をナイフで刺したり、タオルで首を絞めたりして殺害した[5]。 強盗殺人と婦女暴行の罪に問われ[2]、1959年2月18日に横浜地裁(吉田裁判長)で死刑判決を言い渡された[5]。公判ではSの元勤務先である川崎市大島町の町内会員らが減刑嘆願書を提出していたが、同地裁は残忍な手口から同情の余地はないとして死刑を選択した[5]。横浜地裁で言い渡された死刑判決は、1958年6月に南区の母子殺しの被告人(1959年に死刑確定)に対して言い渡されて以来だった[5]。 Sは控訴したが、同年7月6日に東京高裁(尾後貫裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[4]。 Sは上告したが、1960年3月8日に最高裁第三小法廷(河村裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[2]。死刑執行日は不明。
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住み込み先の娘二人殺し (U)[6] |
1960年3月15日 |
1958年2月18日[6] |
犯行時18歳の少年死刑囚。 北海道稚内市大字稚内[注 1]の農家で住み込みの作男として働いていたが、1958年2月18日昼過ぎ、主人宅で留守番中の次女(当時16歳)の首を手ぬぐいで絞め、乱暴して殺害した上、外出先から帰宅して次女の遺体を発見した主人の姪(当時26歳)の頭を薪割り斧で滅多打ちにして殺害、現金15000円や猟銃、カメラなど20万円相当を奪って逃走した[6]。翌19日、現場近くの原野で盗んだ猟銃を用いて自殺しようとしていたところを逮捕された[7]。 強盗殺人、婦女暴行致死の罪に問われ、1958年9月3日に旭川地裁(三橋裁判長)で死刑判決を言い渡された[7]。控訴棄却の判決を経て、1960年3月15日に最高裁第三小法廷(垂水裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[6]。 死刑執行日は不明。
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秋田県花矢町一家4人強盗殺傷放火事件 (S) |
1960年3月17日 |
1956年12月24日 |
1962年8月23日に死刑執行(38歳没)。
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久吾さん殺害事件 (H) |
1960年3月17日 |
1955年3月10日 |
1963年2月5日に死刑執行(48歳没)。
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盛岡一家3人殺害事件 (K) |
1960年3月24日 |
1958年4月18日 |
死刑執行日は不明。
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江戸川船頭一家4人殺傷事件 (M) |
1960年3月31日 |
1958年11月9日 |
上告せず確定。死刑執行日は不明。
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刈谷母娘強盗殺人事件 (K) |
1960年3月31日 |
1958年7月7-8日 |
愛知県刈谷市刈谷末町[8]、もしくは愛知郡豊明町前後五軒家(現:豊明市前後町五軒家)在住[9]。元刈谷市役所運転手、第一審・控訴審判決時点で35歳[8][10]、上告審判決時点で37歳[9]。 名古屋市港区の元港陽園の特飲店に勤めていた愛人に貢ぐ金に困っていたところ、知人である豊明町前後の女性A(当時58歳)が小金を貯めていることを知って犯行を計画した町[8]。1958年7月7日夜、Aを呼び出して刈谷市役所の乗用車に乗せ、刈谷市の恩田川堤防で絞殺、現金230円を奪って死体を市内の境川堤防に埋めた町[8]。その後、A宅にいたAの次女B(当時18歳、名古屋女子短期大学1年生)を「お母さんが交通事故で入院したから、お金を持って一緒に来てくれ」と騙して同市刈谷の亀城公園へ連れ出し、乱暴した上で絞殺、現金13000円と預金通帳などを奪い、死体を市内の逢妻川堤防に埋めた町[8]。 強盗殺人、婦女暴行、死体遺棄の罪に問われ、1959年2月7日に名古屋地裁(赤間裁判長)で死刑判決を言い渡された[8]。Kは量刑不当を理由に控訴したが、同年5月18日に名古屋高裁(滝川裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[10]。上告したが、最高裁第一小法廷で1960年3月31日に上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[9]1963年2月19日に死刑執行(40歳没)。
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呉雑貨商夫婦強盗殺人事件 (K) |
1960年4月8日 |
1956年7月7日 |
死刑執行日は不明。
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郁恵ちゃん殺し (K)[11] |
1960年6月9日 |
1957年12月17日[13] |
犯行時19歳の少年死刑囚[14]。福岡県田川市東区楠、左官見習い[13]。 1957年12月17日朝、田川市東区の三井鉱山労務係員の長女である女児A(当時11歳:市立伊田小学校6年生)を「お母さんが急病だから」と言って連れ出し、Aを市内の山林の木に縛り付け、近所の子供を使ってA宅に身代金3万円を要求する脅迫状を出したが、それを読んだAの母親が家から出てきたのを警察に届け出るものと思い込み、山林でAの首を両手で絞めて殺害した[14]。 殺人、営利誘拐、脅迫未遂の罪に問われ[14]、1959年6月30日に福岡地裁飯塚支部(桜木裁判長)で死刑判決を言い渡された[13]。控訴したが、同年10月6日に福岡高裁(谷本裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[14]。上告したが、1960年6月9日に最高裁第一小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[11]。 1962年2月21日に死刑執行(23歳没)。
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日光中宮祠事件 (P) |
1960年6月10日 |
1946年5月4日 |
朝鮮人、強盗放火殺人、犠牲者6人も警察は一家心中と処理し、1955年まで真相が判明せず。1974年6月6日に死刑執行(49歳没)。
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日光中宮祠事件 (C) |
1960年6月10日 |
1946年5月4日 |
朝鮮人、上記共犯。1974年6月6日に死刑執行(49歳没)。
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京都・大映部長一家4人殺害事件[15] (K) |
1960年6月21日 |
1957年12月6日 |
1962年に死刑執行(26歳or27歳没)。
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別府銀行員強盗殺人事件 (N) |
1960年6月28日 |
1956年9月5日 |
1973年5月11日に死刑執行(49歳没)。
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宮城自動車販売店外交員殺害事件 (I) |
1960年7月15日 |
1955年11月4日 |
購入したオート三輪の支払いに困り、代金の取立てに来た販売店の外交員を殺害し、手形を奪い死体を近所のりんご畑に埋めた[16]。死刑執行日は不明。
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ギター殺人事件[15] (I) |
1960年8月4日 |
1958年10月30日 |
1963年2月14日に死刑執行(39歳没)。
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八本松の運転手殺し (T)[17] |
1960年8月4日 |
1957年1月29日 |
上告審判決時点で24歳[17]。 金欲しさから銀行強盗を計画し、そのために使う自動車を手に入れるため、1957年1月29日9時ごろに広島県広島市内で小型タクシーを呼び止め、同日10時30分ごろ、賀茂郡八本松町(現:東広島市)の新国道上で運転手の男性(当時27歳)を射殺してタクシーを奪った[17]。また1961年4月3日に拘置所から脱獄し18時間後に拘束される事件も起こした[18]。 強盗殺人罪に問われ、1958年9月1日に広島地裁で死刑判決を言い渡された[17]。殺意を否認して控訴したが、1960年1月19日に広島高裁で控訴棄却の判決を言い渡された[17]。同判決を不服として上告したが、8月4日に最高裁第一小法廷(斎藤裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定した[17]。 死刑執行日は不明。
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ブローカー連続殺人事件 (Y) |
1960年8月30日 |
1952年4月10日・ 1952年7月11日・ 1954年3月14日 |
殺人前科(無期懲役、講和恩赦で懲役20年に減刑)。1969年11月病死(63歳没)。
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ブローカー連続殺人事件 (N) |
1960年8月30日 |
1952年4月10日・ 1952年7月11日・ 1954年3月14日 |
上記共犯。1970年10月30日に死刑執行(42歳没)。
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札幌人妻殺害事件 (W) |
1960年9月7日 |
1959年12月28日 |
控訴取り下げ。死刑執行日は不明。
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小松・元警官による女性強姦殺人事件 (H) |
1960年9月22日 |
1952年11月13日 |
石川県小松市月津町在住、第一審判決時点で32歳。 1952年11月13日、小松市串町の農道で近所の女性(当時20歳)を襲い、乱暴した上で殺害した[19]。 婦女暴行、殺人の罪に問われ、第一審・控訴審で死刑判決を言い渡された[19]。量刑不当を理由に上告していたが、1960年9月22日に最高裁第一小法廷(下飯坂裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[19]。 1962年11月9日に死刑執行(34歳没)。
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富士宮農協強盗殺人事件 (K) |
1960年10月13日 |
1958年6月22日 |
1967年10月27日に死刑執行(32歳没)。
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松山事件(齋藤幸夫) |
1960年11月1日 |
1955年10月18日 |
強盗放火殺人事件であるが、再審で捜査当局によって証拠の捏造と自白の強要が証明され冤罪として無罪になったのは、1984年7月11日であった。
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富田林姉弟殺害事件 (K) |
1960年11月5日 |
1959年9月21日 |
控訴取下げ。死刑執行日は不明。
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江戸川愛人の叔母強盗殺人事件 (K) |
1960年11月8日 |
1958年12月24日 |
死刑執行日は不明。
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伊東老夫婦強盗殺人事件 (T) |
1960年12月2日 |
1958年5月4日 |
共犯は無期懲役。死刑執行日は不明。
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水戸クリーニング店一家3人殺害事件 (H) |
1960年12月9日 |
1957年7月5日 |
死刑執行日は不明。
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柏老夫婦強盗殺傷事件 (P) |
1960年12月15日 |
1959年2月16日 |
共犯は無期懲役。死刑執行日は不明。
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島田事件(赤堀政夫) |
1960年12月15日 |
1954年3月10日 |
女子児童誘拐殺人事件であるが、自白調書作成と証拠鑑定[注 2]で問題が数多くあったことが再審で判明、1989年1月31日に無罪判決。静岡県警察警部であった「拷問王」紅林麻雄による冤罪犠牲者[注 3]のひとりとされている。
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熊本饅頭屋夫妻殺人事件 (M) |
1960年12月16日 |
1956年1月12日 |
上告審で被告人側弁護人が「死刑が相当」と「求刑」したのが問題に。1962年12月21日に死刑執行(27歳没)。
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大牟田のアパート白昼強盗殺人事件 (N)[21]
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1960年12月20日
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1959年2月26日[21]
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第一審判決時点で21歳、福岡県福岡市箱崎阿多田町在住[注 4][21]。 小遣い銭欲しさから1959年2月26日14時30分ごろ、福岡県大牟田市大正町4丁目の県営アパートの一室に住人である男性の知人を装って押し入り、留守番をしていた男性の母親A(当時59歳)の頭を樫棒で殴った上で出刃包丁で腹を突き刺し[23]、翌日に死亡させた[21]。さらに男性の娘であり、Aの孫である女児B(当時生後10か月)に布団を被せて窒息死させ、現金2万円など[注 5]を奪った[21]。 強盗殺人罪に問われ、1959年10月23日に福岡地裁久留米支部(柳原裁判長)で死刑判決を言い渡された[21]。死刑制度の違憲性、殺意の不存在、量刑不当を理由に福岡高裁へ控訴したが、1960年4月1日に福岡高裁(池田裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[22]。上告したが、同年12月20日に最高裁第三小法廷(河村又介裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定した[23]。 1965年2月25日に死刑執行(27歳没)。
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吉良の醸造業夫婦殺し (H) |
1960年12月23日 |
1958年2月15日[24] |
愛知県幡豆郡吉良町宮崎西ノ前(現:西尾市吉良町宮崎)在住[25]。 1958年2月15日夜、愛人との結婚資金を工面するため近くの吉良町白浜新田、味噌醤油醸造業「大岡屋」へ侵入し、奥8畳の間で寝ていた男性(当時57歳)とその妻(同38歳)を鉞で滅多打ちにして殺害し、現金1000円と背広などを奪った[24]。現場は三河湾に面した家で、江戸時代から代々味噌・醤油を醸造しており、被害者男性の祖父の代には愛知県下でも屈指の富豪だったという[26]。被害者夫婦の妻は戦前からこの家に女中として勤めており、事件の約3年前に夫の後妻になっていたが、Hは被害者夫婦のうち、結婚前の妻と親しくしていた[27]。事件発生翌日の2月16日夜、Hは宝飯郡形原町(現:蒲郡市形原町)の形原温泉で逮捕された[27]。 強盗殺人罪に問われ、1959年3月26日に名古屋地裁岡崎支部(永田裁判長)で死刑判決を言い渡された[24]。 控訴審では自首したことなどを主張したが、同年11月19日に名古屋高裁(小林裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[25]。 1960年12月23日に最高裁第二小法廷(池田裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[28]。1963年2月に死刑執行(31歳没)。
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1961年
1961年(昭和34年)に死刑判決が確定した死刑確定者は22人である[1]。
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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和歌山愛人ら爆殺事件[29] (H) |
1961年2月2日 |
1954年10月15日 |
元愛人ら2人をダイナマイトで殺害。裁判時は62歳。死刑執行日は不明。
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三鷹タクシー運転手強盗殺人事件 (O) |
1961年2月21日 |
1958年3月26日 |
1967年10月26日に死刑執行(32歳没)。
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”白昼の通り魔”事件 (K)[10][30][31] |
1961年3月2日 |
1957年12月17日[31][30] |
1922年(大正11年)9月5日生まれ。 1954年3月から5月に強盗など4件の犯罪を犯した後、同年6月に京都地裁で強盗罪などに問われ、懲役3年6月の判決を言い渡されて服役したが、これら4件は当時は立件されなかった[10]。出所後の1957年10月から1958年1月にかけ、山口、広島、岡山、兵庫、京都、三重、愛知、千葉など11府県で31件の強盗殺人、強盗致傷、婦女暴行などの罪を犯した[10]。特に1957年12月17日には兵庫県西宮市今津浦風町の民家に押し入り、主人の妻(当時23歳)と女中(同16歳)の2人を出刃包丁で刺殺、現金27000円と衣類を奪って逃走した[31]。警察庁の特別重要犯人全国指名手配の対象となり、1958年1月に逮捕された[31]。 起訴された罪名は10におよび[31]、1959年5月18日、神戸地裁(山崎裁判長)は被告人Kに対し、確定判決前の強盗など4件について懲役8年、確定判決後の強盗殺人など31件について死刑とする判決を言い渡した[10]。 控訴したが、1960年3月16日に大阪高裁(小川裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[30]。1961年3月2日、最高裁第一小法廷(斎藤裁判長)で上告棄却の判決を受け、死刑が確定[31]。 死刑執行日は不明。
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滝野川左官屋夫婦殺害事件 (N) |
1961年3月24日 |
1958年8月4日 |
1934年(昭和9年)4月14日生まれ。 1958年(昭和33年)12月17日に東京地裁刑事第12部で死刑判決を受け、1960年3月22日に東京高裁第4刑事部で控訴棄却の判決を受けた。1961年3月24日に最高裁第二小法廷で上告棄却の判決を受け、死刑が確定。 死刑執行日は不明。
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下関の養父母殺し (0)[35] |
1961年3月30日 |
1955年6月1日・ 1956年2月7日・ 1958年1月11日 |
山口県下関市生まれ、元自動車運転手[35]。上告審判決時点で33歳[35]。 1955年6月、下関市で養父母夫婦(夫66歳、妻73歳)を毒殺し[36]、130万円を持って逃走した[35]。1956年2月、警察の追及を免れるために東京で知り合った北海道生まれの男性(当時22歳)を岡山県倉敷市に連れ出して毒殺し、死体をガソリンで燃やし、彼になりすました[35]。しかし1957年末、窃盗容疑で警視庁から取り調べを受けたことから身元の発覚を恐れ、1958年1月には東京都墨田区の人夫(当時29歳)を絞殺、死体をバラバラにして茨城県水戸市の千波湖畔に捨てた[35]。同年7月15日に逮捕され[37]、警察庁の凶悪犯全国公開捜査による逮捕者第1号となった[35]。 殺人、死体損壊、死体遺棄の罪に問われ、1959年12月23日に水戸地裁(小倉裁判長)から死刑判決を言い渡された[37]。Oは控訴したが、控訴審で弁護人の安富東一は「控訴の理由なし」「死刑もやむを得ない」とする控訴趣意書を提出したため、弁護士のあり方をめぐる議論の引き金になった[35]。1960年6月13日、東京高裁(尾後貫裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[38]。同判決を不服として上告したが、1961年3月30日に最高裁第一小法廷(高木裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[36]。 死刑確定後は東京拘置所に収監されていたが、安富から弁護を受けられないまま死刑判決を受け、精神的苦痛を受けたとして安富に100万円の支払いを求める損害賠償請求訴訟を起こし、東京地裁民事第30部(中村治朗裁判長)は1963年11月28日、被告である安富の行為は弁護人としての義務を怠ったもので不法行為に当たると認定、原告であるOに3万円を払うよう命じる判決を言い渡した。この裁判は日本の裁判史上初めて、弁護放棄を理由とした損害賠償請求訴訟として注目された[39]。1965年3月2日に死刑執行(37歳没)。
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高岡市の質屋の女主人殺し (I)[40] |
1961年6月6日 |
1960年3月14日[42] |
1937年(昭和12年)5月5日生まれ。強盗殺人事件を起こした当時は22歳、第一審判決時点で23歳[44]。 1960年3月14日11時ごろ、富山県高岡市定塚町城道で、質屋の女性経営者(当時50歳)をネッカチーフで絞殺し、現金22300円と質草の背広上着、女物の腕時計などを奪った[44]。また同年3月13日23時ごろ、高岡市宮脇町の加越能バス車庫から軽快自転車1台を盗み、3月14日9時ごろには富山県西砺波郡戸出町の日本通運戸出営業所からセメント100袋(35000円相当)を詐取しようとした[44]。 強盗殺人・窃盗・詐欺未遂の罪に問われ、1960年6月29日に富山地裁高岡支部(水島裁判長)で死刑判決を宣告された[44]。同地裁では史上初の死刑判決である[44]。控訴したが、同年11月10日に名古屋高裁金沢支部(山田裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[45]。上告したが、1961年6月6日に最高裁第三小法廷(高橋裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され[40][42]、死刑が確定。 1967年10月22日に死刑執行(30歳没)。
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葛飾守衛強盗殺人事件 (T) |
1961年6月9日 |
1959年1月1日[46] |
1958年12月31日(大晦日)、かつて自分が収容されていた東京都葛飾区上平井町の更生施設「自誠会」に侵入し[47]、年が明けた元日の1959年1月1日3時ごろ、守衛室で仮眠していた守衛の男性(当時50歳)の首を小刀で刺して殺害し、男性のポケットや机にあった現金約2000円などを奪って逃走、帰りがけに出会った初詣帰りの同会寮生にもスパナで頭を負傷させて金を奪った[47]。 強盗殺人罪に問われ[48]、1959年5月20日、東京地裁(岸裁判長)で死刑判決を言い渡された[47]。 控訴したが、同年12月28日に東京高裁(三宅裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[46]。当時、死刑事件の被告人が犯行から1年以内に控訴審判決まで受けた事例は珍しいものとされていた[46]。 1961年6月9日に最高裁第二小法廷(池田裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[49]。 死刑執行日は不明。
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悦子さん殺し (K)[50] |
1961年7月11日 |
1957年11月20日 |
1927年(昭和2年)3月14日生まれ。奈良県生駒郡平群村(現:平群町)生まれ[52]。 1957年11月19日19時ごろ[50]、帰宅途中の生駒郡斑鳩町小吉田の会社員の三女A(当時13歳、斑鳩町立斑鳩中学校2年生)に対し[52]、家まで送ってやると騙して自転車に乗せ[50]、北葛城郡河合村大輪田の山中に連れ込み[52]、強姦した上で絞殺し[53]、犯行を隠すため、河合村虹ケ谷の山中で遺体を焼いた[52]。 強姦、殺人、死体損壊、窃盗、傷害の罪に問われ[53]、起訴された事件は二百数件におよんだ[53]。1959年(昭和34年)6月10日に奈良地裁葛城支部(梨岡裁判長)から死刑判決を言い渡された[52]。公判ではKの犯行を裏付ける物的証拠がなく、Kは犯行を全面的に否認し、事実審理では自供の任意性や殺意の点が争点となったが、同地裁支部は検察官の主張を全面的に認め[52]、1947年から1948年にかけて犯した古い電報窃盗の罪については懲役1年、A殺害などについては死刑とする判決を言い渡した[54]。Kは事実誤認と量刑不当を理由に控訴したが[53]、1960年5月16日に大阪高裁第5刑事部(小田裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[53]。1961年7月11日に最高裁第三小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[50]。 1962年9月15日に死刑執行(35歳没)。
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瑞穂区の老夫婦殺し[注 6] (I) |
1961年7月19日 |
1956年2月29日[57] |
愛知県名古屋市千種区覚王山通在住、工員[58]。第一審判決時点で21歳[56]、上告審判決時点で26歳[57][58]。 1956年2月29日22時ごろ[59]、下記Iと共謀してかつて自身が勤めていた名古屋市瑞穂区瑞穂通一丁目の野々山浴槽会社桜山支店に押し入り[57][58]、留守番していた男性(当時63歳)と妻(当時58歳)をハンマーで撲殺[60]、銅板約150 kgを奪った[58]。 同年4月12日の初公判以来、こちらのIは「下記Iが計画し、2人で手を下した」と主張した一方、下記Iは銅板を盗むため侵入したが、自身に殺意はなく、殺害はこちらのIの単独犯であると供述した[59]。同年11月15日の論告求刑公判で、検察官は2被告人の共謀の上、計画的に行われた犯行として2被告人に死刑を求刑した[56]。名古屋地裁(滝川裁判長)は同年12月11日、当初は盗みに入る計画だったところ、こちらのIが妻を殴っているうちに殺意が生じ、下記Iもやむを得ず同調した結果、2人を殺害したとして、こちらのIを無期懲役、下記Iを懲役15年とする第一審判決を言い渡した[56]。判決理由で同地裁は両者の供述のどちらが真実であるかは不明だが、こちらのIが殺害の実行行為を担ったことは間違いなく、また下記IもこちらのIを誘って残虐な事件を引き起こした点では責任があるとした[59]。名古屋地検が判決を不服として控訴したところ[59]、1957年7月8日に名古屋高裁(高橋裁判長)は原判決を破棄し、2被告人をいずれも死刑とする判決を言い渡した[59][60]。同高裁は、原判決の量刑を軽きに失すると批判した[59]。2被告人とも上告し、上告審で死刑執行の方法を絞首刑と定めた太政官布告第65号(明治6年2月公布)は日本国憲法施行の際現に効力を有する命令の規定の効力等に関する法律によって既に失効しているため、現行法では死刑執行の方法に具体的な定めがなく、また仮に太政官布告が有効だとしても実際の絞首刑は太政官布告で規定された地上式ではなく、地下で首を絞める方法となっており、法に定めない方法で行われているため、憲法第31条に違反すると主張したが[57]、1961年7月19日に最高裁大法廷(横田裁判長)は太政官布告第65条について、法律と同様の効力を有し、現在も有効であるとして上告棄却の判決を言い渡したため、2人の死刑が確定した[58]。この判決は死刑制度そのもの、そして絞首刑そのものをいずれも残虐な刑罰ではないとした判決に続き、絞首刑という執行方法自体も合憲とした判決とされ、これによって死刑制度の違憲論争に終止符が打たれたと報じられた[58]。 死刑執行日は不明。 死刑確定後に再審請求したが、1965年1月14日付で最高裁第一小法廷から異議申立棄却決定に対する抗告を棄却する決定を出されている[61]。
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瑞穂区の老夫婦殺し (I) |
1961年7月19日 |
1956年2月29日 |
上記Iの共犯[58]。名古屋市南区観音町在住、工員[58]。上告審判決時点で31歳[57][58]。一審は懲役15年[57]。死刑執行日は不明。
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昭和郷アパート放火事件 (I) |
1961年7月31日 |
1957年10月27日 |
死者8人。 現住建造物等放火、詐欺の罪に問われ、1959年7月6日、東京地裁八王子支部で無期懲役の判決を言い渡された。1960年10月26日、東京高裁で原判決を破棄自判され、死刑判決を言い渡された。上告したが、1961年7月31日に最高裁第二小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定。戦後日本で、強盗殺人罪・殺人罪や致死罪に問われず死刑が確定した唯一の事例。 1970年に死刑執行(50歳もしくは51歳没)[注 7]。
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阿久比町2人殺害事件 (K) |
1961年8月10日[65][66] |
1960年11月6日 |
1928年(昭和3年)3月20日生まれ。愛知県名古屋市南区三進通[注 8]在住、労務者[70][71]。強盗未遂、窃盗の罪など前科6犯。 1960年11月、勤務先を解雇されたことから金に困り[65]、同月4日夜、愛知県知多郡阿久比町植大の民家[71](直前まで働いていた飯場の世話人だった男性宅)に空き巣目的で侵入したが、同日23時ごろ、同家の長女(当時15歳)に発見されて怪しまれ、警察に通報されたため、床下に隠れてやり過ごした。そのまま6日1時ごろまで床下に隠れていたが、家人たちが寝静まったころを見計らって金品を物色していたところ、男性の養母(64歳没)が物音で目を覚まして自身の犯行に気づいたため、首を絞めて殺害した。直後、男性の三女(1歳没)が目を覚まして泣き出したため、犯行の発覚を恐れて絞殺し、タンスの中にあった中古テトロン社カッターシャツを盗んだ。 強盗殺人罪に問われ、1961年4月4日に名古屋地裁で開かれた公判で、検察官から死刑を求刑された[70][75]。同月22日、名古屋地裁刑事第4部(赤間裁判長)で死刑判決を言い渡された[70]。同判決を不服として同月28日に弁護人が、同年5月2日にK自身がそれぞれ控訴を申し立てたが、同年8月10日付でK自身が控訴取下申立書を提出した[66]。Kは控訴した当時、強盗目的ではなく男性の長女に会いに行くことが目的であり、家人を殺害するつもりはなかったと主張したが、後に「一日も早く罪の償いをしたい」との理由から控訴を取り下げたものである[65]。しかし同年9月末[65]、弁護人の鷲見弘は、Kは極度に異常な精神錯乱もしくはそれに近い精神状態で控訴を取り下げたため、取り下げは無効であるとして控訴取下無効申立書を提出した[66]。11月にはK自身も、取り下げは異常に混乱した精神状態の下で行われたため、無効であるとの申し出を行い、さらに1963年4月までには再び控訴を取り下げた上、その取り下げの取り消しを求めていた[65]。同年5月には名古屋大学医学部教授・村松常雄によるKの精神鑑定が行われ、言動からは全く正常な精神状態とは推定できないが、心神耗弱状態とも認め難いとする鑑定書が提出されており、また二度目の控訴取り下げ無効の申立後には弁護人が、刑事訴訟法では死刑や無期懲役の上訴権放棄が禁じられているとして、その立法趣旨に則ってKの精神鑑定を再度実施するよう申請したが、名古屋高裁第4部は同年10月10日、この申請を却下した[65]。名古屋高裁第4部(小林登一裁判長[66])は同月31日の判決公判で[65]、Kが控訴取り下げ前の控訴審公判で原判決に不服はなく、死刑を受け入れる旨を表明していたことなどから、控訴取り下げは有効であると判断、訴訟はこの取り下げによって終了しているとする判決を宣告した[66]。同判決の類例としては恩赦を期待して控訴を取り下げたものの、恩赦を受けられなかったことから控訴取り下げの無効を訴えた公職選挙法違反事件の被告人に対し、福岡高裁が1959年4月24日、控訴取り下げをもって控訴審は終了しているとする決定を出した事例があったが、このような訴訟手続の問題で裁判所が口頭弁論を開いた上で、「判決」として結論を下したことは異例とされている[65]。鷲見は同判決を不服として上告したが、最高裁第二小法廷(奥野裁判長)は1964年9月25日、死刑または無期懲役事件について上訴権放棄を禁じている刑事訴訟法の規定は、控訴取り下げには当てはまらないと判断[69]、そのためKの控訴取り下げは有効であり、その取り下げをもって第一審判決は直ちに確定したというべきであるとして、鷲見の上告を棄却する判決を言い渡した。 1967年10月23日に死刑執行(39歳没)。
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小松川事件(李珍宇)[78][79] |
1961年8月17日 |
1958年4月20日 1958年8月17日 |
犯行時18歳の少年死刑囚[80]。戦後日本で犯行時に少年だった死刑囚としては20人目[78]。 朝鮮人で、事件当時は都立小松川高校の定時制1年生だった[81]。 1958年4月20日、東京都江戸川区鹿骨町の水田で、日産化学工業内鴻池運輸の賄婦を殺害した[81]。また同年8月17日夕方、小松川高校屋上で同校定時制2年の女子生徒(当時16歳)を絞殺、乱暴した[80]。 同年9月1日、女子生徒殺害事件の犯人として逮捕されたが、逮捕前に新聞社に電話を掛けたり、警察に被害者の遺品を送りつけたりするなどの異常な振る舞いで世間を騒がした[80]。その後、賄い婦殺しについても女子生徒殺害事件の取調べ中に自供したため、2件の婦女暴行致死罪と殺人罪で起訴された[81]。 少年犯罪であったため、いったん家庭裁判所へ送致されたが、犯行の悪質性から逆送致され、東京地裁で公判にかけられた[81]。1959年2月27日、東京地裁(関谷六郎裁判長)で求刑通り死刑判決を言い渡された[81]。 弁護側は婦女暴行の事実はなく、犯行動機に関する判決理由にも不服な点があるとして控訴したが、東京高裁(三宅裁判長)は同年12月28日、原判決に事実誤認はないとして控訴棄却の判決を言い渡した[46]。同判決に対し、李本人は「犯した罪の重さを考えると死刑も当然だ。早く罪の償いをしたい」と述べ、上告しない意向を弁護人の朴や教誨師に伝えたが、李の両親が上告期限日の夜、締め切り時間直前に自由法曹団の弁護士・大塚一男を通じて上告手続きを取った[82]。 1961年8月17日に最高裁第一小法廷(飯坂裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[80]。 死刑確定後の1961年8月には恩赦を申請したが、同月30日には身柄を東京拘置所から宮城刑務所へ移送され、恩赦申請も1962年11月初めに却下された[78]。同月16日に宮城刑務所で死刑執行(22歳没)[78][79][83]。死刑執行時は乱れた様子はなく、落ち着いた態度だったという[83]。なお、裁判中には拘置所でキリスト教に入信しており、聖書を読み耽る毎日を送っていた一方、東京都立大学教授の旗田巍、作家の大岡昇平らが中心となり、助命運動の会を結成していた[83]。
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佐久島の真珠技師殺し (Y) |
1961年8月17日 |
1958年11月16日[84] |
愛知県幡豆郡一色町佐久島(現:西尾市一色町佐久島)生まれ[84]。 1958年11月16日夜、佐久島漁協組合事務所へ押し入り、出張で三重県志摩郡大王町(現:志摩市大王町)から来ていた天光真珠造殖所現場主任の男性(当時26歳)を鉄製のモンキーレンチで殴り、タオルで絞め殺して腕時計1個を奪ったほか、漁協の金庫を開けるため隣家にいた金庫番の男性宅へ出刃包丁を持って押し入ったが、騒がれたため逃げた[84]。同月30日、静岡県磐田市大立野で民家に侵入し、家主の妻(当時44歳)を脅し[84]、ビニールバンドで縛った上[85]、布団や自転車などを奪った[84]。 強盗殺人罪に問われ、死刑を求刑されたが、名古屋地裁岡崎支部(永田裁判長)は1959年8月6日、無期懲役の判決を言い渡した[85]。同判決は被害者に対する殺意を認めなかった[84]。 検察官が控訴したところ、名古屋高裁(小林裁判長)は1960年10月4日に原判決を破棄自判し、Yを死刑とする判決を言い渡した[84]。同高裁は、Yが就寝中の被害者をいきなりモンキーで9回連続して急所を殴打した上、とどめを刺すためにタオルで首を絞めた事実から、殺意を認めなかった原判決には事実誤認があると認定した上、Yが未遂も含めると続けて3度の強盗事件を起こした点から[84]、凶悪かつ計画的な犯行であり、動機にも同情されるような点は認められないと判断した[80]。当時、第一審の懲役刑が二審で死刑となる事例は極めて少ないとされていた[84]。 Yは上告したが、1961年8月17日に最高裁第一小法廷(斎藤裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定した[80]。 1967年10月25日に死刑執行(33歳没)。
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相模原市肉屋夫婦殺し事件 (M)[86] |
1961年9月8日 |
1958年9月1日 |
神奈川県津久井郡津久井町根小屋在住、上告審判決時点で24歳[86]。 店の主人である肉販売業者の男性(当時55歳)夫婦を日ごろから口うるさいと感じ、恨みを持っていたことから、2歳年下の店員仲間の男S(無期懲役が確定)と共謀し[86]、夫婦を襲うことを計画した[87]。1958年9月1日1時ごろ、夫婦の家である相模原市橋本の民家に侵入[87]、台所にあったナタと鉄棒で男性と妻(当時57歳)を撲殺、3400円を奪った。 2人とも強盗殺人罪に問われ、横浜地裁で開かれた第一審の公判でいずれも死刑を求刑されたが、Mは公判中に護送を担当していた看守の目を盗み、Sに「死人に口なし」と書いたメモを渡していた。1959年11月30日の判決公判で、横浜地裁(松本裁判長)はMを求刑通り死刑、Sを無期懲役とする判決を言い渡した[88]。同地裁で同年に死刑判決を言い渡された被告人は4人目で、同地裁は2人とも幼少期から両親の離別などで家庭環境に恵まれず、また感受性の強い少年期から豚の屠殺・解体など未成年には悪影響の多い業務を命じられたことは同情の余地があると指摘したが、金品を奪う目的で犯行を計画した点、就寝中の夫婦を惨殺した残忍性、Mの無反省な態度などから情状酌量の余地はないと断じた。ただしSは犯行時少年で罪を悔いている点、またMに従属的だった点を認め、死刑を回避した[88]。2人は事実誤認などを理由に控訴したが、1960年8月24日に東京高裁刑事第5部(山田裁判長)でいずれも控訴棄却の判決を言い渡された[87]。Mは上告したが、1961年9月8日に最高裁第二小法廷(池田裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[86]。 死刑執行日は不明。
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相模湖町の若妻殺し事件 (O)[89] |
1961年9月14日 |
1958年7月28日 |
神奈川県小田原市在住、上告審判決時点で24歳[90]。事件前の1954年には指揮権発動に憤慨し、当時の首相・吉田茂が住んでいた首相公邸に侵入、殺人予備罪で少年院に送致されている[89]。 1958年7月28日14時30分ごろ[89]、神奈川県津久井郡相模湖町与瀬の国鉄職員男性宅に押し入り、留守番していた妻(当時22歳)を乱暴しようとしたが、騒がれたため絞殺、現金2500円を奪った[90]。 1959年9月7日に横浜地裁(吉田裁判長)で死刑判決を言い渡された[89]。判決では当初から殺人を含めて計画していた点、命乞いする被害者を強姦しようとした末にタオルで絞殺し、下腹部を傷つけた上に死体をバラバラにしようとした残忍性などが重視された[89]。弁護人は無罪を主張しており、判決後に控訴したが[89]、1960年6月16日に東京高裁刑事第10部(井上裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[91]。O側は量刑不当を理由に上告したが、1961年9月14日に最高裁第一小法廷(入江裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[90]。 死刑執行日は不明。
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尼崎周旋業夫婦強盗殺人事件 (K) |
1961年10月13日 |
1958年2月23日 |
死刑執行日は不明。
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立川宿直員強盗殺人事件 (S) |
1961年10月31日 |
1959年5月11日 |
死刑執行日は不明。
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1962年
1962年(昭和37年)に死刑判決が確定した死刑確定者は14人である[1]。
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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横浜のダルマ船長父子殺し (M) |
1962年2月16日 |
1959年2月8日 |
中国国籍で、神奈川県横浜市中区寿町在住[92]。1959年2月8日23時ごろ、同区松影町の中村川に停泊していたダルマ船を訪れ、顔見知りの船長(当時46歳)に借金を申し込んだが断られたため、出刃包丁で船長とそばに寝ていた長男(当時17歳)の2人を刺殺、現金1200円と預金通帳、トランジスタラジオなどを奪った上、船内のランプで放火して船室を焼いた[92]。 強盗殺人、放火の罪に問われ[92]、1959年8月7日に横浜地裁(吉田裁判長)で死刑判決を受けた[93]。控訴したが、1961年5月18日に東京高裁(岩田裁判長)で控訴棄却の判決を受けた[94]。上告したが、1962年2月16日に最高裁第二小法廷(藤田裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[95]。死刑執行日は不明。
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釧路の運転手殺し (T)[96] |
1962年2月20日 |
1957年11月5日 |
共犯の男2人 (X・Y) と共謀し、1957年11月5日夜、電話で北海道釧路市のハイヤーを呼び出して乗車、同市桂恋の畑の中で運転手男性(当時25歳)を登山用ナイフで刺殺、現金4000円と腕時計1個を奪った[96]。事件後、犯行現場から約3kmはなれた若草町の路上に血まみれのハイヤーが乗り捨てられているのが発見され、同日夜にハイヤー会社へTが死体の在り処を描いた地図を置いた場所を電話で知らせたことによって死体が発見された[96]。その後、Yの自首によって3人とも逮捕された。 3人とも強盗殺人罪に問われ、第一審の釧路地裁で検察官はTとXに死刑、Yに無期懲役をそれぞれ求刑したが、釧路地裁(鈴木裁判長)は1960年4月25日の判決公判で[96]、殺害の計画性を否定し、また主犯であるTも日本刀で被害者を峰打ちにしただけで直接殺害はしなかったとする弁護人の主張を取り入れ[97]、T・Xの両被告人を無期懲役、Y被告人を懲役15年とする判決を言い渡した[96]。検察官と弁護人の双方が判決を不服として控訴したところ、札幌高裁(矢部裁判長)は1961年4月20日、Tについては原判決を破棄して死刑とする一方、X・Yの両被告人については控訴を棄却する判決を言い渡した[97]。Xは控訴審で無期懲役が、Yも懲役15年が確定[98]。自身も1962年2月20日に最高裁第三小法廷(垂水裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[98]。死刑執行日は不明。
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児島の幼女殺し (K)[99][100] |
1962年3月31日[100] |
1960年2月19日[101] |
岡山県児島市下之町萱刈生まれ[99]。第一審判決時点では47歳、住所不定、無職、前科14犯[99]。 1960年1月ごろから児島市内の清水山で寝起きしていたが、近隣住民たちから相手にされずひがんでおり[99]、このことへの報復を動機に犯行におよんだ[101]。 1960年2月19日正午ごろ[101]、清水山に松葉かきに来た萱刈2区の人夫(当時37歳)の長女(当時6歳)[注 9]と次女(同4歳)が「泥棒がいる」と言っていたのを聞き[99]、2人を山奥へ連れ込んでいたずらした[99]。その後、次女をナイフで刺殺し、長女も首を絞めて失神させ[101]、重傷を負わせた[99]。 殺人、同未遂、強制わいせつの罪に問われたが、岡山地裁で開かれた公判では「自分を死刑にしなければ裁判所の権威がない。無期懲役にでもなれば刑務所の気に入らない看守を殺す。もし出所できれば萱刈地区の人たちに報復する。死刑になれば控訴しない」と発言した[99]。岡山地裁(藤原裁判長)はいったん結審した後に審理を再開する異例の措置を取り、Kの実姉を証人尋問してKの生い立ちや性格を聞くなどして死刑を回避する情状があるか否かを慎重に検討したが、1962年3月16日の判決公判では残虐な犯行態様、Kに改悛の情が認められない点、社会防衛の観点などを理由に、Kを求刑通り死刑とする判決を言い渡した[99]。岡山地裁における死刑判決は1951年以来、11年ぶりだった[99]。 Kは判決後、同地裁に「死刑判決に服す」と申し立て[100]、控訴期限の同月31日0時までに控訴手続きを取らなかったため、死刑が確定した[100][101]。死刑執行日は不明。
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岐阜鉱山主殺害事件 (P) |
1962年4月6日 |
1957年9月16日 |
在日コリアンによる事件。一審は無期懲役。1970年10月23-24日に死刑執行(36歳没)。
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佐世保雑貨商夫婦強盗殺人事件 (K) |
1962年5月8日 |
1959年4月14日 |
共犯に騙されたと冤罪を主張していたが1審、2審とも死刑判決を受け1962年5月8日に上告棄却。共犯は懲役15年。1970年9月19日に死刑執行(36歳没)。
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五島奈留町の老婆殺し (M)[103] |
1962年5月29日 |
1955年9月28日 |
長崎県の奈留島で渡船機関長として働いていた[104]。住居は長崎県南松浦郡奈留町(事件当時は奈留島村、現:五島市)泊郷で[103][104]、元村議[103][105]。第一審判決時点で39歳[103]、控訴審判決時点で40歳[105]。 1955年9月25日夜、奈留島村内の特飲店で従業婦[注 10]から身請けをせがまれたが、そのための金に困ったことから[105]、1955年9月28日2時ごろ、一人暮らしで金を持っていると考えた村内の女雑貨商(当時52歳)宅[注 11]に侵入し[104]、目覚めた被害者を斧で数回殴って死亡させ、現金53000円を奪った[103]。 強盗致死罪などに問われ[106]、無罪を主張していたが[103]、1957年12月25日に長崎地裁(臼杵裁判長)で死刑判決を言い渡された[103][104]。長崎地裁における死刑判決は戦後5人目と報じられている[103]。Mは判決を不服として控訴したが、1959年5月19日に福岡高裁(藤井裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[105]。同判決を不服として上告したが、1962年5月29日に最高裁第三小法廷(垂水裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[106]。 1974年1月24日に収監先の福岡刑務所(当時の死刑確定者の収監施設)で獄中死(52歳没)。同所に収監されていた免田栄によれば、Mは元町会議員であることからプライドが高く、看守をも軽視しており、死刑確定後は再審請求を繰り返していたが、それも棄却され続けたことで精神を病んでいったという。
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小千谷農家強盗殺傷事件(島秋人) |
1962年6月1日 |
1959年4月6日 |
凶悪事件の累犯であったが、農家の妻を殺害。裁判中から死刑囚の感情を読んだ短歌を歌壇に数多く発表、島はその筆名である。本名は中村覚。1967年11月2日に死刑執行(33歳没)。
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山口同僚強盗殺人事件 (H) |
1962年6月29日 |
1958年10月10日 |
死刑執行日は不明。
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"生き仏"連続殺人事件(I) |
1962年7月17日 |
1946年7月17日 1946年12月28日 1947年4月22日 |
生活に困窮した夫婦が4人を連続して殺害。被害者はすべて闇屋で、サッカリンの取引を持ちかけて現金を用意させ、自宅に誘い出し殺害するなどの手口だった。事件発覚後逃亡し11年後に逮捕。逃亡生活中の善行が評価されI夫婦は"生き仏"と呼ばれていた。一審は共に無期懲役だったが、犯行を持ちかけたのは妻であったにもかかわらず夫が逆転死刑。死刑執行日に2人は対面し、お互い感謝の言葉や謝罪の言葉を述べ別れた。1967年11月16日に死刑執行(67歳没)。
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加計の一家三人殺し (Y)[109] |
1962年10月9日[109] |
1957年7月11日[111] |
広島県安佐郡可部町在住の左官[112]。第一審判決時点で25歳[112]。 1957年7月11日23時ごろ、下記Oと共謀し、かつてOが間借りしていた広島県山県郡加計町横山の農業男性(当時41歳)宅に押し入り[112]、寝ていた男性と妻(当時33歳)、母親(同72歳)の3人を棍棒で殴打し、男性と母親を殺害、妻に治療2週間の怪我を負わせた[111]。さらに男性の長女(当時7歳)も風呂敷で絞殺し[112]、現金3万円余りと背広上下1着(3000円相当)を奪った[111]。事件後、妻は神経衰弱になった末、同年10月24日[109]に山県郡豊平町の実家の納屋で首吊り自殺した[112]。 YとOは強盗殺人罪に問われ、1958年12月23日に広島地裁(小竹裁判長)でそれぞれ死刑とする判決を言い渡された[112]。2人とも控訴したが、1961年9月25日に広島高裁で控訴棄却の判決を言い渡された[113]。更に上告したが、1962年10月9日に最高裁第三小法廷(石坂裁判長)で上告棄却の判決を言い渡されたため、死刑が確定[109]。 死刑確定後は2人とも広島拘置所に収監されていた[114]。1963年2月、Oは再審請求したが棄却された[114]。同年10月23日、Oは自身こそが主犯であり、Yは殺害行為には加わっておらず、脅して犯行を手伝わせたとして第2次再審請求し[114]、Yも同月18日、自身は殺害行為に加担していないとして再審請求した[111]。 死刑執行日は不明。
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加計の一家三人殺し (O)[109] |
1962年10月9日[109] |
1957年7月11日[111] |
上記Yの共犯。広島県安佐郡可部町の人夫。第一審判決時点で26歳[112]。死刑執行日は不明。
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赤平母子殺害事件 (K) |
1962年10月18日 |
1960年1月17日[115] |
北海道雨竜郡幌加内町新成生在住[115]。1960年1月17日、盗みをする目的で北海道赤平市に赴いたが、時間潰しのため、同市錦町のバス運転手男性宅を訪ねた。11時20分ごろ、茶の間で男性の妻(当時26歳)と話していたところ、窃盗で滝川拘置所に入っていたころのことについて言及されたことに逆上し[116]、妻と長男(当時1歳[115])[注 12]を鉞で撲殺し、財布など1000円相当[117]、腕時計を奪った[115]。その後、2回の窃盗事件を起こした[116]。 強盗殺人と窃盗の罪に問われ[115]、1961年3月17日、札幌地裁岩見沢支部(円山裁判長)で死刑判決を言い渡された[116]。弁護人はKの精神状態などを理由に控訴したが、札幌高裁(矢部裁判長)は1962年1月27日に控訴棄却の判決を言い渡した[117]。同年10月18日に最高裁第一小法廷(斎藤裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[115]。死刑執行日は不明。
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駿東の老婆殺し事件 (T)[118] |
1962年12月11日 |
1960年12月30日 |
静岡県駿東郡清水村伏見生まれ[118]。 1960年12月30日3時ごろ、清水村八幡で知人女性(当時78歳)宅に押し入り、目を覚ました女性をナイフで刺殺、現金1万円と腕時計1個を奪った他、窃盗6件、強盗傷人1件を犯した[119]。動機は正月の遊興費欲しさで、三島市や神奈川県小田原市でも強盗傷人や窃盗などを犯している[120]。強盗殺人事件を起こした後は東京へ逃げ、盗品を処分した上で正月に実家に戻ったが、沼津市や三島市で遊んでいたところ、1961年1月3日に逮捕された[118]。 強盗殺人罪に問われ、1961年8月25日に静岡地裁沼津支部(山本裁判長)で求刑通り死刑判決を言い渡された[118]。控訴したが、1962年1月19日に東京高裁刑事第2部(下村裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[120]。上告したが、同年12月10日に最高裁第三小法廷(五鬼上裁判長)で上告棄却の判決を言い渡されたため、死刑が確定[119]。 死刑執行日は不明。
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大阪の重役夫婦殺傷事件 (U) |
1962年12月14日 |
1959年3月16日 |
1959年に大阪府箕面市の会社重役(当時48歳)夫婦を殺傷した。犠牲者1人。1962年12月14日に最高裁第二小法廷(池田裁判長)で死刑判決に対する上告棄却の判決を受け、死刑が確定[121]。死刑執行日は不明。
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1963年
1963年(昭和38年)に死刑判決が確定した死刑確定者は17人である[1]。
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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バー・メッカ殺人事件(正田昭) |
1963年1月25日 |
1953年7月27日 |
当時のマスコミはアプレゲール犯罪の典型として大きく報道した。共犯2人も有期の懲役刑、なお正田は獄中で小説家として名声を得ていた。1969年12月9日に死刑執行(40歳没)。
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西宮雇い主一家3人殺害事件 (K) |
1963年2月8日 |
1958年8月7日 |
犯行時19歳の少年死刑囚[122]。兵庫県神戸市東灘区魚崎町魚崎の自動車修理工[123]。 借金に困ったことと[122]遊興費欲しさから[124]、1958年8月7日0時ごろ[122]、、勤め先である兵庫県西宮市今津社前町の自動車工作所に旧海軍の短剣を持って押し入り[124]、経営者の男性(当時39歳)と妻(同36歳)、母親(同64歳)の一家3人をナイフで刺殺し、現金16000円と衣類などを奪った[122]。犯行後は広島から九州に逃げていたが、所持金が少なくなったことから神戸に戻って兵庫県警に自首し、逮捕された[124]。 強盗殺人、窃盗計10件に問われ、1961年3月27日に神戸地裁(石丸裁判長)で強盗殺人と窃盗3件について死刑、他の窃盗7件について懲役1年(いずれも求刑通り)の判決を言い渡された[124]。控訴したが、大阪高裁(小田裁判長)で1962年5月28日に控訴棄却の判決を言い渡された[125]。同高裁は判決理由で「死刑は廃止すべきだが、一日も早く廃止するためにはこのような残虐で悪質な犯行をなくすることが必要」と言及した[125]。1963年2月8日に最高裁第二小法廷(池田裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[122]。 死刑執行日は不明。
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葉山堀内の婦人殺し (M)[126] |
1963年3月28日 |
1959年4月21日 |
神奈川県三浦郡葉山町生まれ、第一審判決時点で35歳[126]。 1959年3月3日夜、神奈川県鎌倉市から葉山町までタクシーに乗車したが、20時ごろ、タクシー運転手男性(34歳)を葉山町で殴って5日間のケガをさせ、代金を払わず逃走した[127]。同年4月21日14時ごろ、葉山町堀内の知人技師宅に行き、留守番をしていた技師の妻(当時57歳)を木槌で殴り、手ぬぐいで首を絞めて殺害し[126]、現金15万円と腕時計を奪った上で[127]、死体を近くの森戸海岸に埋めて逃走したが、逃げ切れないと思ったため、7月1日に葉山警察署へ出頭した[126]。 強盗殺人、強盗傷人、死体遺棄の罪に問われ、1961年4月25日に横浜地裁横須賀支部(上泉裁判長)で死刑判決を言い渡された[126]。さらに控訴棄却の判決を言い渡され、上告したが、1963年3月28日に最高裁第一小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[127]。 死刑執行日は不明。
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中野刑務所看守殺害事件 (S) |
1963年3月28日 |
1961年1月21日 |
共犯(無期懲役)と共に看守を殺害して脱獄。中野刑務所(東京都中野区)に窃盗罪などで服役していた1961年1月21日、構外作業に出た際、酒が飲みたいと思ったことから同房の受刑者と共謀、刑務所看守の男性(当時37歳)を撲殺、現金3000円を奪って逃走した[127]。 Sは強盗殺人と加重逃走の罪に問われ、一審・二審で死刑判決を受けた後、1963年3月28日に最高裁第一小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[127]。もう1人は無期懲役の判決が言い渡されている(日時不詳)[129]。 1967年10月26日に死刑執行(33歳没)。
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熊本の三人殺し(杉村サダメ)[130] |
1963年4月24日[131] |
1960年12月(6日・14日・18日・28日[130]) |
熊本県熊本市高江町在住、農業[130]。 生活費に困って金を得ようと考え、1660年12月6日、自宅で義母(当時81歳)に農薬を飲ませて殺害、義母の懐を物色したが、金はなかったため金品を得る目的は未遂に終わった[130]。この殺人計画が医師の誤診により発覚しなかったため、同月14日には隣家の住人(当時45歳)に農薬を塗った肉を食べさせて殺害、同月18日には顔見知りの行商人女性(当時49歳)も同様の手段で殺害しようとし、未遂に終わった(一時危篤)もののポケットから現金10300円を奪った[130]。同月28日、自宅に来た行商人の女性(当時51歳)も同様の方法で毒殺したが、この犯行後に一連の犯行が発覚した[130]。 強盗殺人、同未遂の罪に問われ[130]、1961年6月27日、熊本地裁で死刑判決を言い渡された。控訴したが、1962年8月29日に福岡高裁で控訴棄却の判決を言い渡された。上告したが、1963年3月28日に最高裁第一小法廷で上告棄却の判決を言い渡された[130]。判決訂正申立も同年4月24日付の同小法廷決定で棄却され[131]、死刑が確定[133]。菅野村強盗殺人・放火事件の犯人・山本宏子に次ぎ、戦後日本では2番目に死刑が確定した女性(女性死刑囚)となった[130][133]。 1970年9月19日に福岡拘置支所(現:福岡拘置所)で死刑執行(58歳没)。戦後日本では日本閣事件の小林カウに次ぎ、2番目に死刑を執行された女性死刑囚である。
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豊頃村の一家4人殺し (K) |
1963年4月12日 |
1960年8月26日[136][137] |
朝鮮生まれ[138]、もしくは岐阜県多治見市生まれ[137]。 下記の共犯Sと共謀し、1960年8月26日21時40分ごろ[138]、Sがかつて雇われていた[137]北海道中川郡豊頃村豊頃[136](豊頃駅前[137])の木材業男性(当時36歳)宅を訪れ、男性を「車が故障したから引っ張ってくれ」と騙して同村東三線南14号の国道まで誘い出し、出刃包丁で刺殺した[138]。次いで男性の車を使って男性宅に向かい、男性の妻(当時35歳)を車庫まで誘い出して絞殺し、現金19000円と小切手(額面20万円分)、カメラなどを奪った[138]。さらに翌27日には夫婦の長女(当時5歳)と長男(同2歳)もそれぞれ絞殺した[136]。 2人とも強盗殺人、殺人の罪に問われ、1961年6月24日、釧路地裁帯広支部(井口裁判長)で求刑通り死刑判決を言い渡された[137][139]。2人とも控訴したが、札幌高裁(矢部裁判長)は1962年6月26日に控訴をいずれも棄却する判決を言い渡した[138]。2人とも上告したが、1963年4月12日に最高裁第二小法廷(池田裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[136]。 死刑執行日は不明。
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豊頃村の一家4人殺し (S) |
1963年4月12日 |
1960年8月26日[137] |
上記Kの共犯[137]。白糠郡白糠町生まれ[138]。裁判経緯はKと同一。死刑執行日は不明。
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神戸重役夫人殺害事件 (Y) |
1963年4月23日 |
1958年12月8日 |
死刑執行日は不明。
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看護婦強盗殺人・共犯内妻刺殺事件 (H) |
1963年4月30日 |
1960年10月23日 - 24日 |
控訴するも直後に取り下げ。死刑執行日は不明。
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岩槻一家7人殺害事件 (A)[140] |
1963年4月30日 |
1959年7月22日[140] |
1959年7月22日未明1時ごろ、貧困と家庭不和から自暴自棄になり、埼玉県岩槻市の自宅のカヤにガソリンをかけて放火し、1棟30平方メートルを全焼させ、就寝中の家族7人(75歳義祖父、63歳父、28歳妻、4歳長男、1歳次男、生後2か月三男、10歳姪)を焼殺、逃走して自殺を図るが未遂に終わり、逮捕された[141]。浦和地裁は1960年2月25日、死刑求刑を退けてAに無期懲役の第一審判決を言い渡したが[140]、東京高裁刑事第5部(小林裁判長)は1962年6月27日、原判決を破棄して死刑判決を言い渡した[142]。最高裁第三小法廷(垂水裁判長)は1963年4月30日に上告棄却の判決を言い渡した[143]。死刑執行日は不明。
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熊本の警官殺し[144] (T) |
1963年5月10日 |
1961年5月31日 |
犯行時18歳6か月の少年死刑囚。熊本県鹿本郡植木町生まれ、事件当時は熊本市大江町九品寺在住の写真現像業[146]。 1961年5月31日0時30分ごろ、熊本市花園町の熊本北警察署花園派出所で勤務していた男性巡査(当時33歳)に身の上相談を持ちかけ、青酸カリを入れた缶ジュースを飲ませて毒殺し、拳銃と制服・制帽を奪って逃走した。その途中、熊本駅構内でタクシーに乗車したが、熊本市池田町洸出新堀橋で料金150円を請求されたところ、運転手男性(当時24歳)を拳銃で射殺した[147]。顔見知りの警察官に毒入りジュースを飲ませ毒殺し、奪った拳銃でタクシー運転手を射殺した[147]。 強盗殺人罪に問われ、1961年9月28日に熊本地裁(山下辰夫裁判長)で求刑通り死刑判決を言い渡された[148]。弁護人は控訴審で、Tは当時少年であること、また犯行には計画性がないことを訴えたが、1962年6月7日に福岡高裁(岡林裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[147]。上告したが、1963年5月10日に最高裁第二小法廷(池田裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[144]。 1969年1月18日に死刑執行(28歳没)。
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一宮の女子事務員殺し (M)[149][150] |
1963年5月14日 |
1961年6月30日[150] |
岐阜県本巣郡糸貫町在住、元浅井ペイント商会運転手[151]。 白タクの営業資金欲しさから、愛知県生まれの自動車運転手の男Xと共謀し、1961年6月30日、銀行へ預金の引き出しに行こうとしていた同僚の女性事務員A[注 13](当時29歳)を自身の運転する社用車に乗せ、東海銀行一宮駅前支店から会社へ帰る途中、人けのない市内でAを短刀で刺殺し、現金200万円を奪った[150]。また犯行を隠蔽するため、愛知県葉栗郡木曽川町里小牧の木曽川河川敷の松林に遺体を埋めた[150]。 MとXは強盗殺人、死体遺棄の罪に問われ、1961年12月27日に名古屋地裁一宮支部(畔柳裁判長)はMを死刑、Xを無期懲役(いずれも求刑通り)とする判決を言い渡した[149]。Xは第一審で無期懲役が確定[150]。Mは控訴したが、1962年7月24日に名古屋高裁(小林裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡され[151]、上告したが、1963年5月14日に最高裁第三小法廷(石坂裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[150]。 1969年に死刑執行(40歳没)。
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松島老堂守殺害事件 (M) |
1963年6月25日 |
1961年4月15日 |
1審は無期懲役。死刑執行日は不明。
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上尾老夫婦殺害・放火事件 (N) |
1963年6月27日 |
1959年6月23日 |
死刑執行日は不明。
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東伊豆町の一家5人爆破殺傷事件 (H) [152] |
1963年9月5日 |
1960年10月9日[153][154] |
Hは宮城県刈田郡蔵王町出身で[155]、伊東下田電鉄工事建設のため[156]、静岡県賀茂郡東伊豆町大川の飯場に住み込みで働いていた[153]。事件前の1959年3月には窃盗罪に問われ、東京地裁で懲役1年、執行猶予5年[157]の判決を受けていた[158]。 1960年10月8日夜、東伊豆町大川の農業男性(当時57歳)宅に侵入して現金9000円と衣類を盗んだが、男性の妻(当時51歳)に顔を見られたことから殺害を決意し[153]、深夜、建設作業員宿舎の火薬取扱所からダイナマイトを盗んだ[152]。10月9日2時ごろ[153]、先述のダイナマイトを民家の裏側押入れの下に仕掛けて爆発させた[152]。爆発したダイナマイトは2本で[153][154]、家の主人が死亡、4人が重軽傷を負った[152]。 Hは事件後の10日朝に無断で飯場を出た一方、家宅捜索でHの物入れ木箱から被害者宅で盗まれた女物ウール時の着物1枚が発見された[158]。静岡県警捜査一課と下田警察署の特捜本部は事件後、Hを殺人容疑で指名手配し[156]、Hは同月20日に山口県で逮捕された[152]。 殺人、殺人未遂、爆発物取締罰則違反、建造物損壊、業務上横領、窃盗の罪に問われた[154]。第一審の静岡地裁沼津支部(山本裁判長)で1961年12月15日に死刑判決を受けた[157][159]。弁護人の又木は事件当時、Hは多量に飲酒していたため心神耗弱状態にあったと主張したが、地裁支部は殺人計画が綿密であることから、精神状態は平常だったとして主張を退けた[153]。同年に同地裁支部で言い渡された死刑判決は、駿東郡清水村の老女殺しに次いで2人目[153]。 Hは事実誤認(犯行時は心神耗弱だった点、犯行動機は脅かすことが目的だった点、殺意の不存在など)を主張して控訴したが、1962年10月26日に東京高裁刑事第1部(長谷川裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[154]。1963年9月5日に最高裁第一小法廷(入江裁判長)で上告棄却の判決を言い渡されたことで死刑が確定[160][155]1967年11月9日に死刑執行(32歳没)。
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宿直員殺し (Y)[161] |
1963年10月1日 |
1960年1月19日[161] |
1960年1月19日0時ごろ、3歳年上の兄と共謀し、学校荒らしの目的で福岡県築上郡椎田町にある福岡県立築上西高校の職員室に侵入したが、宿直の用務員男性(当時31歳)と警備員男性(当時60歳)に発見されたため、2人をジャックナイフで脅して宿直室に追い込み、後手に縛って猿轡を噛ませた上で、「警察には言わないから」という言葉を聞き入れず、2人の首を電気コードで絞めて殺害[161]、現金1780円を奪った[162]。 兄弟2人とも強盗殺人罪に問われ、1961年4月25日、福岡地裁小倉支部はYを死刑、兄を無期懲役にそれぞれ処する判決を言い渡した[161]。2被告人は控訴したが、福岡高裁(岡林裁判長)は同年10月18日に控訴をいずれも棄却する判決を言い渡した[161]。2人とも上告したが、1963年10月1日に最高裁第三小法廷(河村又介裁判長)は2人の上告をいずれも棄却する判決を言い渡したため、Yは死刑、兄は無期懲役がそれぞれ確定した[162]。 1967年10月21日に死刑執行(29歳没)。
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1964年
1964年(昭和39年)に死刑判決が確定した死刑確定者は9人である[1]。
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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目黒母子殺害事件 (I) |
1964年1月7日 |
1963年1月17日 |
1942年に満州で上官を射殺未遂した罪により、軍法会議で無期懲役の前科あり。1957年に刑を免除されていた。 殺人、同未遂、窃盗の罪に問われ、1963年12月20日、東京地裁で死刑判決を言い渡された。控訴したが、1964年1月7日付で自らこれを取り下げ、死刑が確定。 1966年に死刑執行(45歳or46歳没)。
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南千住宿直員父子殺害事件 (M) |
1964年1月8日 |
1960年5月14日 |
上告取り下げ。死刑執行日は不明。
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大阪市住吉区の実母殺害事件 (O) |
1964年2月7日 |
1960年6月8日 |
強盗殺人の従犯で懲役15年(7年で仮出所)の前科あり。 尊属殺人、死体損壊、同遺棄の罪に問われ、1962年3月29日、大阪地裁堺支部で死刑判決を言い渡された。控訴したが、1963年5月6日に大阪高裁で控訴棄却の判決を言い渡された。上告したが、1964年2月7日に最高裁第二小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定。 1967年11月16日に死刑執行(42歳没)。
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大和の運転手殺し (K) |
1964年2月18日 |
1954年12月11日[166] |
神奈川県横浜市保土ケ谷区釜台町在住[166]。 1954年12月10日23時ごろ、横浜市中区坂東橋付近でタクシーに乗車し、運転手に高座郡大和町(現:大和市)方面へ行くよう命じた[167]。翌11日0時30分ごろ、神奈川県高座郡大和町[168](現:大和市大和町)でタクシーを停車させ、運転手の男性(当時37歳)を匕首で刺殺[166]、現金5060円と腕時計(1500円相当)を奪った[167]。 強盗殺人罪に問われ、1956年7月5日に横浜地裁(高橋裁判長)で死刑判決を言い渡された[167]。控訴したが、1963年3月14日に東京高裁刑事第4部(藤島裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[168]。1964年2月19日に最高裁第二小法廷(横田正俊裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[166]。 死刑執行日は不明。
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一宮大叔母強盗殺人事件 (N) |
1964年4月2日 |
1961年12月4日 |
死刑執行日は不明。
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伊那たばこ店老夫婦毒殺事件 (M) |
1964年7月14日 |
1956年4月1日 |
死刑執行日は不明。
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新潟新聞販売店一家3人殺害事件 (A) |
1964年7月16日 |
1960年4月24日 |
下記Sと共謀し、かつて勤めていた新潟市の読売新聞販売店[169]に押し入り、店主と養母、女中の3人を殺害したが、たまたま通りかかった消防車のサイレンに驚き逃走した。 2人とも住居侵入、強盗殺人の罪に、またAは窃盗の罪にも問われ、1961年12月1日、2被告人とも新潟地裁で死刑判決を受けた。控訴したが、1963年6月6日に東京高裁で控訴棄却の判決を言い渡された。上告したが、1964年7月16日に最高裁第一小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定。1967年11月13日に死刑執行(34歳没)。
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新潟新聞販売店一家3人殺害事件 (S) |
1964年7月16日 |
1960年4月24日 |
上記Aの共犯で[170]、住居侵入、強盗殺人の罪に問われた。裁判経緯はAと同一。1967年11月13日に死刑執行(29歳没)。
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城辺町の老夫婦殺し (H) |
1964年12月8日 |
1960年6月13日[171][172] |
愛媛県南宇和郡城辺町久良在住[171][172]。1956年8月、城辺町古月の漁業男性(事件当時68歳)から盗んだ10万円を分割払いで返済していたが、男性から残金65000円の返済を迫られたことに加え、持病の胃病が悪化し、仕事がなくて生活が苦しくなり、妻が子供6人を連れて実家に帰ったことから自暴自棄になって犯行におよんだ[171]。1960年6月13日0時ごろ[171]、男性が妻(当時58歳)とともに寝入ったところを見計らって男性宅に侵入[173]、就寝中の夫婦を薪割り斧で撲殺し、隣室から5万円入りの金庫、腕時計2個[172](5800円相当[173])などを盗んだ。なお、弁護人は被害者が窃盗事件の罪に服したHから過酷な取り立てを行ったことが事件を誘発したと主張したが、検察官により、被害者はHに対し1956年に5万円を貸しており、半金残っていたものを棒引きにした上、城辺簡易裁判所の調停により、両者の間でHの窃盗事件の罪を軽減するため、窃盗の被害額10万円の賃借契約が取り交わされていたことが明らかになり、弁護人の主張は崩れる形になった[171]。 住居侵入、強盗殺人の罪に問われ、1960年8月1日から松山地裁宇和島支部で第一審の公判が開かれ、6回の審理で判決が言い渡された[171]。Hは1961年3月10日、松山地裁宇和島支部(遠藤裁判長)で求刑通り死刑判決を言い渡された[171][172]。同地裁支部では戦後4件目の死刑判決と報じられている[171]。量刑不当を理由に控訴し、控訴審では犯行時に精神異常状態だったと主張したが[175]、1964年3月30日に高松高裁(横江裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[175][173]。上告したが、1964年12月8日に最高裁第三小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定。 1972年に獄死(57歳もしくは58歳没)。
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1965年 - 1969年
1965年
1965年(昭和40年)に死刑判決が確定した死刑確定者は7人である[1]。
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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三浦の運転手殺し (S)[176] |
1964年12月25日 |
1962年6月5日[176] |
東京都出身[176]。下記Mの共犯[176]。 1962年6月4日22時ごろ[177]、Mや少年X(事件当時18歳)の2人と共謀し[178]、東京都中央区日本橋で男性A(当時54歳:東京都江東区在住)が運転するタクシーに乗車した[176]。翌5日0時30分ごろ[177]、神奈川県三浦市南下浦町先で停車を命じると[176]、Aの頭に背広をかぶせ[177]、3人で代わる代わるバンドを
用いてAの首を絞めて失神させた上で[179]、そばの肥溜めに投げ込んで窒息死させ、腕時計、現金約2700円とタクシーを奪って逃走した[176]。第一審判決では、Mがタクシー運転手を殺害することを発案し、その方法をS・Xに教えたほか、タクシーを停車させたのもXであり、Sとともに殺害の実行行為を担ったほか、Xは道案内役を務めたと認定された[176]。また、3人はAの「金はやる」「女房、こどもがあるから殺さないでくれ」というAの命乞いを聞き入れることなく殺害したとされる[179]。 SとMは強盗殺人罪に問われた。横浜地裁(河原裁判長)は1962年12月11日、S・Mの両被告人を死刑、Xを無期懲役(いずれも求刑通り)とする判決を言い渡した[176][179][180]。Xは第一審で無期懲役が確定、服役した[178]。 SとMは控訴したが、1964年1月24日に東京高裁刑事第1部(長谷川裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[181]。2人とも上告したが、同年12月25日に最高裁第二小法廷(奥野裁判長)で上告棄却の判決を言い渡された[178]。Sは判決訂正を申し立てず、翌1965年1月5日に死刑が確定。死刑執行日は不明。
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三浦の運転手殺し (M)[176] |
1965年1月29日 |
1962年6月5日[176] |
北海道出身[176]。上記Sの共犯で、裁判経緯はMと同一。 Mは上告審判決に対し、判決訂正申立を行ったが、翌1965年1月29日付で最高裁第二小法廷が出した決定により棄却され[182]、死刑が確定。死刑執行日は不明。
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新宿婦女暴行殺人事件 (C) |
1965年1月22日 |
1962年9月14日[183] |
朝鮮生まれ[183]。 1962年9月14日10時ごろ、東京都新宿区柏木一丁目のアパートにあった知人宅を訪ね、留守番をしていた知人の内妻(当時22歳)に乱暴した上、タオルで絞殺した[183]。傷害致死前科(懲役3年・執行猶予5年)。 強姦致死、殺人、強盗、恐喝、傷害、詐欺、窃盗の罪に問われ、1963年9月9日、東京地裁で死刑判決を言い渡された。控訴したが、1964年2月26日に東京高裁で控訴棄却の判決を言い渡された。上告したが、1965年1月22日に最高裁第二小法廷(奥野裁判長)で上告棄却の判決を受けた[183]。同年2月15日、同小法廷から判決訂正申立を棄却する決定を受けた[184]。 死刑執行日は不明。
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横浜一家3人殺傷事件 (F) |
1965年6月29日 |
1963年4月16日[185] |
1962年4月16日2時ごろ、金に困ったことから以前勤めていた横浜市西区藤棚町のミシン加工業者男性(当時68歳)宅に押し入り、裁断用の文鎮で男性と妻、そして夫婦の孫娘(当時9歳)を殴打し、孫娘を殺害、夫婦にも重傷を負わせ[185]、現金15000円[注 14]を奪った[187]。盗みの前科2犯があり、1962年8月に横浜市の保護施設に収容された後、2か月間被害者の下で働いていた[185]。 強盗殺人、同未遂、住居侵入の罪に問われ、横浜地裁で開かれた第一審の公判では殺意の有無が争点となった[185]。Fは死刑を求刑されたが、同地裁(大中裁判長)は1963年10月10日、殺意の存在を認定しながらも計画的ではなく、Fには反省の態度も認められるとして、無期懲役の判決を言い渡した[185]。検察官が量刑不当を理由に控訴したところ、東京高裁刑事第1部(長谷川成二裁判長)は原判決を破棄し、Fに死刑判決を言い渡した[186]。Fは上告したが、1965年6月29日に最高裁第三小法廷(横田正俊裁判長)で上告棄却の判決を言い渡されたため、死刑が確定[187]。 死刑執行日は不明。
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クリーニング店主夫婦殺し (O)[188][189] |
1965年7月13日 |
1963年6月17日[188] |
1963年初め、東京都世田谷区北沢のクリーニング店主(当時32歳)の妹の世話で同店に住み込みで働くようになったが、妹との結婚を店主から反対されたことなどから退職した[188]。その後、遊興費に困ったことや店主から立て替えた背広代金を払うよう要求されたことから、同年6月17日1時過ぎに店へ押し入り、2階で寝ていた店主とその妻(当時28歳)の2人を縛り上げ、電気アイロンで滅多打ちにした上で絞殺し、タンスから現金116000円を奪った[188]。 強盗殺人罪に問われ、1964年5月29日に東京地裁刑事第10部(渡辺裁判長)で死刑判決を言い渡された[188][189]。控訴したが、1965年6月28日に東京高裁刑事第9部で控訴棄却の判決を言い渡された[190]。上告せず確定。 死刑執行日は不明。
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清水一家4人殺傷事件 (O) |
1965年7月20日 |
1960年2月3日[191] |
台湾生まれ[191]。静岡県清水市西久保(現:静岡市清水区西久保)の男性(事件当時59歳)の長女(同20歳)と同居しており、彼女と内縁関係にあったが、自身の女性関係がふしだらであることなどから破談にされた上、彼女の実家からも追い出されたことを恨み、1960年2月3日3時ごろに男性宅へ行き、寝ていた男性とその妻(当時56歳)、長女、次男(同17歳)の4人に手斧で切りつけ、男性を殺害したほか、3人の頭などにそれぞれ重傷を負わせた[191]。 1961年12月26日、静岡地裁(石見勝四裁判長)で死刑判決[191]。控訴したが、1964年6月29日に東京高裁刑事第5部(小林裁判長)で控訴棄却の判決を受けた[192]。上告したが、1965年7月20日に最高裁第三小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定。 死刑執行日は不明。
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横須賀廃品回収業者殺害事件 (U) |
1965年9月17日 |
1961年2月13日 |
1961年、神奈川県横須賀市池上町の廃品回収業男性(当時76歳)に借金返済を迫られたため、自宅を訪れた男性の頭を斧で殴って殺害し、死体を近くの畑に埋めた上、額面20万円の預金通帳を奪い、139000円を引き出した[193]。 強盗殺人、死体遺棄、私文書偽造行使、詐欺の罪に問われ[194]、第一審の横浜地裁横須賀支部(大平裁判長)では死刑を求刑されたが、1961年11月28日に無期懲役の判決を言い渡された[195]。検察官が量刑不当を理由に控訴したところ[196]、東京高裁刑事第5部(小林裁判長)は1964年6月29日、原判決を破棄自判してUに死刑判決を言い渡した[193]。同高裁は判決理由で、犯行の残虐性や計画性を指摘した[196]。上告したが、1965年9月17日に最高裁第二小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定。 死刑執行日は不明。
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通江ちゃん殺し (W) |
1965年12月17日 |
1963年6月16日 |
長野県南佐久郡八千穂村で生まれ、16歳で上京し、東京・大森の金物店や神奈川県横浜市鶴見区の旭硝子工場での勤務を経て、川崎市中瀬町の小松製作所川崎工場に移ったが、事件前の1952年2月、石炭ストーブの火勢を強めるために石油を入れた際、体に着火して下半身を大火傷し、川崎市立病院で2年間治療を受けた[197]。火傷が原因で歩行が不自由になっていたため[198]、1961年5月ごろから身体障害者として横浜社会福祉協会で保護を受けていた[199]。 1963年6月16日10時30分ごろ、散歩の途中で横浜市神奈川区の三ツ沢公園正門前まで来たところ[198]、付近の市営バス「グラウンド入り口」バス停で[199]、バスを待っていた捜真小学校3年生の女児(当時8歳)[注 15]に出会って乱暴しようと思った[198]。Wは自身の足が不自由なことを理由に、女児に「おじちゃんを便所に連れて行ってくれ」と話しかけ[198]、女児を公園内の市慰霊塔前公衆便所に連れ込み、タオルで首を絞めて仮死状態にした上で乱暴し、大便所内の便壺に投げ込んで窒息死させた[200]。Wは事件前から、三ツ沢公園の女子用便所覗きの常習犯として「ビッコの痴漢」と呼ばれており、被害者の死亡推定時刻(16日11時30分ごろ)に現座の便所前にある砂利山の陰から出てきたところなどを目撃されていたため、同月18日に逮捕された[197]。 婦女暴行致死、殺人罪に問われ、同年9月8日に横浜地裁で第一審の初公判が開かれたが、Wは第4回公判で自白を強要されたとして犯行を全面否認したため、当時としては異例となる取調検事ら3人を法廷で証人尋問して自白の任意性を確認するなどの証拠調べが行われた[200]。またWは公判中、自身に不利な証言をする証人に対し「嘘をつくな」と大声で食って掛かるなどした[200]。1964年5月8日、横浜地裁(大中俊夫裁判長)はWの犯行を認定し、残虐な犯行や無反省な態度から死刑を選択するほかないとして、Wに死刑判決を言い渡した[200]。横浜地裁管下で言い渡された死刑判決は1953年以降で、Wが18人目だった[200]。 Wは犯行を否認して控訴したが[198]、1965年3月22日、東京高裁刑事第5部(小林裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[201]。上告したが、同年12月17日に最高裁第二小法廷(奥野健一裁判長)で上告棄却の判決を言い渡されたため、死刑が確定した[199][198]。 死刑執行日は不明。
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釧路甥保険金殺人事件 (A) |
1965年12月21日 |
1959年11月5日[202] |
1959年5月、兄の息子にして自身の甥である男性(当時20歳)を災害特約つき養老保険に加入させ、同年11月5日正午過ぎ、甥を北海道釧路市武佐の草地に誘い出した上、棒で滅多打ちにし、出刃包丁で首や胸を十数回刺して殺した[202]。その後、死体が警察に見つからなかったため、身元不明人として処理されては保険金が受け取れないと思い、自ら死体のある場所を釧路警察署に知らせた[202]。殺人未遂前科(懲役3年・執行猶予3年)。 第一審・控訴審で死刑判決を言い渡され、1965年12月21日、最高裁第三小法廷(田中裁判長)で上告棄却の判決を言い渡されたため、死刑が確定[202]。 死刑執行日は不明。
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1966年
1966年(昭和41年)に死刑判決が確定した死刑確定者は13人である[1]。
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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釧路の雑貨商殺し (M)[203] |
1966年2月4日 |
1963年11月6日 |
犯行時19歳の少年死刑囚[注 16][204]。事件当時は北海道帯広市西一条在住のバーテン見習いだった[204]。 事件前はパチンコマニアだった[203]。1963年11月6日1時ごろ、パチンコ代欲しさから北海道釧路市大楽毛番外地の雑貨商男性(当時74歳)宅に侵入し、室内を物色したが、男性が寝返りを打ったことに驚き、咄嗟に持っていた手斧で男性と妻(当時60歳)の2人の頭などを手斧で殴って殺害し、タンスから現金18000円と信用組合預金通帳(305000円)、腕時計などを奪った[204]。 住居侵入、窃盗、同未遂、強盗殺人の罪に問われ、1964年4月27日に釧路地裁で無期懲役の判決を言い渡された。1965年4月22日、札幌高裁で原判決を破棄自判され、死刑判決を言い渡された。1966年2月4日に最高裁第二小法廷(奥野裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[204]。当時、少年時代に犯した罪で成年5に死刑が確定した事例は戦後日本で33件目とされていた[204]。 1967年10月or11月に死刑執行(23歳or24歳没)。
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戸塚の土建業組長夫妻殺し (C) |
1966年3月13日[206] |
1964年8月5日[207] |
本籍地は朝鮮・慶尚南道威安郡北面洞月村、前科1犯[207]。 1964年8月5日未明[208]、かつて住み込んでいた神奈川県横浜市戸塚区矢部町の土木請負業者男性(当時43歳)宅で男性とその妻(当時44歳)を出刃包丁で刺殺した[209]。その後9か月間逃亡していたが、指名手配中の1965年5月9日、長崎県佐世保市早苗町の妹の家に立ち寄ったことを長崎県警に把握され、同市有福町で逮捕された[207]。被害者2人はいずれも韓国人で[208]、動機はCが被害者の家族から冷たく扱われたことや「前科者」と罵られたことだったと報じられていたが[207]、判決では借金の申し出を断られたこととされている[206]。 殺人罪に問われ、1966年2月26日に横浜地裁(河原裁判長)で死刑判決を言い渡された[209]。判決後、関係者から複数回にわたって控訴を勧められたが「犯した罪を償うのは当たり前」と聞き入れず、控訴しなかったため、同年3月13日付で死刑が確定[206]。同日付で身柄を東京拘置所へ移送された[206]。定住外国人死刑囚としては昭和時代最後の事例。 1969年に死刑執行(35歳or36歳没)。
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四国連続強盗殺人事件(森吉幸喜) |
1966年3月31日 |
1964年10月2日 - 20日 |
第一審判決時点では高知県長岡郡大豊村日浦(現:大豊町日浦)在住、前科3犯の43歳[210]。土工として出稼ぎに出ている間に母親と死別し、また軍隊を嫌って徴兵逃れのため、朝鮮まで逃げたことがあった[211]。1944年2月に高知県の部隊に入隊したが、在隊中に戦時住居侵入罪で軍法会議にかけられ、罰金50円の判決を言い渡された[211]。しかし脱走し、故郷の大豊村などで放火事件を起こして再び軍法会議にかけられ、無期懲役に処された前科がある[211]。なお、父親はこの事件を苦にして自殺している[211]。 後に減刑され、1956年6月に仮釈放されたが、競輪に凝って盗みを犯し、同年9月には高知地裁で懲役5年の判決を受け、仮釈放も取り消された[211]。高松刑務所[212]内では模範囚で、1963年9月25日に約4万円の作業賞与金を受け取って出所したが、その金をすぐに遣い果たした末に一連の犯行におよんだ[211]。
- 1963年10月2日1時30分ごろ、高知県中村市右山(現:高知県四万十市右山)の食料品商宅に押し入り、菜切り包丁で住人の男性の胸を刺して3週間の怪我を負わせた(住居侵入、強盗殺人未遂罪)[211]。
- 同月9日2時ごろ、高知県高岡郡中土佐町久礼の久礼小学校用務員宿舎に侵入し[211]、現金350円を奪い[213]、用務員女性(当時49歳)の首を絞め、斧で殺害した(住居侵入、強盗殺人)[211]。
- 同月14日23時ごろ、徳島県三好郡池田町ウエマツ(現:三好市池田町ウエマツ)の浄水場管理人宅に侵入、就寝中の家主男性(当時55歳)と妻(同50歳)、長女(同30歳)、孫である女児(同4歳)、男児(同2歳)の5人を頭や顔を斧で滅多打ちにするなどして殺害、三女(第一審判決時点で14歳)にも全治1か月の怪我を負わせ、背広2着や現金約350円、懐中電灯1個を盗んだ(住居侵入、強盗殺人、同未遂、強盗強姦)[211]。
- 同月15日21時ごろ、同町西山の雑貨商宅(土讃線の坪尻駅前にあった一軒家)に侵入し[214]、家人に先の一家殺傷事件の凶器である手斧を見せて現金2000円と駄菓子3袋を奪った(強盗)[211]。
- 同月20日3時ごろ、香川県三豊郡豊浜町箕浦(現:観音寺市豊浜町箕浦)の豊浜西小学校からツルハシと手斧を盗み出し、それらを持って学校近くの雑貨商宅に侵入、女物のカーディガンや現金約170円、パン5個を盗み[211]、さらに家人夫婦をツルハシで殴り、2-4週間の怪我を負わせた[213](住居侵入、強盗殺人未遂)[211]。
以上のように四国4県のうち愛媛県を除く3県で連続5件の犯行を重ね、10人が殺傷されたことから、一連の事件は四国管区警察局が4県警合同捜査本部を設け、民間の協力を得て捜査を行った[215]。また徳島県内で一度に3人以上が殺害された事件は、1940年7月6日に三好郡昼間町(後の三好町昼間、現:東みよし町昼間)で発生した一家6人無理心中事件(農家の男が母と弟3人、妹の計5人を殺害し、自身も自殺を図ったが死にきれなかった)以来2件目であるが[216]、6人が殺傷された事件は過去に例がなく、昭和に入ってからでは最も凶悪な事件と評されている[217]。森吉は一家殺傷事件から8日目の10月22日8時前、愛媛県川之江市(現:四国中央市)の山中で逮捕され[218]、同年11月12日に徳島地検から3件の5事件で起訴された[219]。住居侵入、強盗殺人、同未遂、強盗強姦、強盗の罪に問われ、徳島地裁で同年12月19日に第一審初公判が開かれ[218]、弁護人は森吉の精神鑑定を行うよう申請したが、1964年2月6日の第2回公判で却下された[220]。同日の公判で、森吉は検事の高橋から「もはや社会に復帰する価値はない」として死刑を求刑された[220]。同年3月3日、徳島地裁(黒川正昭裁判長)で死刑判決を言い渡された[211][213]。戦後、徳島地裁で言い渡された死刑判決はこれが6回目と報じられている[218]。弁護人は心神喪失もしくは心神耗弱を主張していたが、同地裁は犯行前に森吉が場所や時間をよく考え、凶器を物色したり電話線を切断したりしていたことや、顔に覆面をし、手にも指紋を残さぬよう布を巻くなどしていたこと、犯行やその前後のことについてもはっきり記憶していたことなどから、完全責任能力があると認定、浄水場管理人宅事件で犯した長女への強盗殺人、強盗強姦だけで死刑に該当すると結論づけた[211]。起訴から111日、初公判から75日で判決という異例のスピード審理だった[218]。 弁護人の松山一忠は判決を不服として控訴したが[213]、1965年8月5日に高松高裁(横江裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[215][221]。弁護人は精神鑑定を行わなかったことに対し、公平な裁判の原則に反するとして事実誤認、量刑不当を理由に上告していたが[212]、1966年3月31日に最高裁第一小法廷(入江俊郎裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[212][222]。 1970年10月29日に大阪拘置所で死刑執行(49歳没)。
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洋子さん殺し事件[注 17] (K)[224] |
1966年4月8日 |
1963年6月22日[224] |
第一審判決時点で25歳[225]。神奈川県高座郡座間町入谷(現:座間市入谷)在住、タイル工[225]。 1963年6月22日22時ごろ、座間町入谷の道路上で、帰宅途中だった緑屋原町田店店員の女性(当時20歳)に「家まで送ってやろう」と声を掛けて自身の運転するライトバンの助手席に乗せたが、高座郡綾瀬町小園中原649(現:綾瀬市小園)の山林内にあった草地に連れ込んで乱暴し[225]、手で首を絞めて殺害[224]、現場近くに穴を掘って遺体を埋めたほか、女性の腕時計1個(2000円相当)を奪った[226]。事件前の同年1月7日、Kは自宅に遊びに来た内妻の友人である女性を車で送る途中に乱暴し、同年5月18日に横浜地裁で懲役3年・執行猶予4年の有罪判決を受けていた[227]。また事件後の7月15日には座間町の理容師女性(第一審判決時点で23歳)に乱暴しようとし、首筋に2週間の怪我を負わせる[227]婦女暴行致傷事件を起こした[228]。同事件がきっかけで、以前から殺人事件(当時は失踪事件)の有力容疑者としてKをマークしていた大和署に別件逮捕され、取り調べの末に殺人を自供した[227]。事件直後には埼玉県狭山市で「狭山事件」が発生していたため、「第二の狭山事件」として社会に衝撃を与えた[225]。 婦女暴行、殺人、死体遺棄、窃盗の罪に問われ[226]、1963年11月27日、横浜地裁(河原徳治裁判長)[227]で死刑判決を言い渡された[229][230][231]。Kは殺意を否定して控訴したが、1965年6月24日、東京高裁(渡辺好人裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[226]。1966年4月8日に最高裁第二小法廷(奧野裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[232][223][233]。 1969年3月14日に死刑執行(31歳没)[234]。腕時計の窃盗につき、いわゆる「死者の占有」が肯定された。
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門司の強殺・放火事件 (H) |
1966年5月31日 |
1963年2月22日[235] |
1963年2月22日、福岡県北九州市門司区で知人男性宅に借金をするため訪れたが、応対した内妻(当時28歳)に申し出を断られたため乱暴してショールで絞殺し、現金5000円を奪って放火、3棟を焼いた[235]。同年1月から2月にかけ、北九州市小倉区・門司区や岡山県倉敷市などで盗みや傷害、放火の余罪あり[235]。 強盗殺人、強盗強姦、現住建造物等放火、死体損壊、窃盗、傷害、住居侵入の罪に問われ、1963年9月2日、福岡地裁小倉支部で死刑判決を言い渡された。控訴したが、1965年9月6日に福岡高裁で控訴棄却の判決を言い渡された。1966年5月31日、最高裁第三小法廷で上告棄却の判決を受けたため、死刑が確定[235]。 1969年2月5日に死刑執行(32歳没)。
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旭川連続短銃殺傷事件 (S) |
1966年5月31日 |
1964年6月15日・ 1964年6月17日・ 1964年6月18日[236] |
1964年6月15日22時30分ごろ、北海道旭川市元町3丁目でタクシー運転手の男性(当時22歳)を拳銃で射殺して売上金3000円を奪い、犯行を隠蔽するため、現場から2.5 km離れた神楽丘公園に男性の死体を捨て逃走した[236]。同月17日0時過ぎ、旭川市旭町一丁目のタクシー運転手男性(当時33歳)を襲い、拳銃で頭を撃ち即死させたが、車が急にバックしたため、金を奪わずに逃走した[236]。また同月18日11時過ぎには旭川市神居町富沢で雑貨商の男性宅に侵入、店番をしていた男性の妻の頭に拳銃2発を撃ち、3か月の重傷を負わせ、現金3000円を奪った[236]。その後、列車で名寄や紋別に逃走したが、北海道警はヘリコプターを動員して大捜索を行い、翌19日に紋別駅前の旅館で市民からの通報によって逮捕された[236]。 強盗殺人、死体遺棄、強盗殺人未遂、銃砲刀剣類等所持取締法違反、火薬類取締法違反の罪に問われ、1964年12月24日、旭川地裁(金裁判長)で死刑判決を言い渡された[236]。控訴したが、1965年6月17日に札幌高裁(矢部裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[237]。1966年5月31日、最高裁第三小法廷で上告棄却の判決を受けたため、死刑が確定[238]。 死刑執行日は不明。
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西口彰事件(西口彰) |
1966年8月15日 |
1963年10月18日・ 1963年11月19日・ 1963年12月29日 |
大分県別府市 生まれ、元自動車運転手[239]。第一審判決時点で39歳[239]。以下5件の犯罪を犯し、5人を殺害した[239]。
- 1963年10月18日、福岡県京都郡と田川郡で日本専売公社行橋出張所集金人の男性(当時58歳)と行橋通運運転手の男性(同38歳)を殺害し、たばこの集金代金27万円を強奪した(殺人罪、強盗殺人罪)[239]。
- 同年11月18日、静岡県浜松市で貸席経営者女性(当時41歳)とその母親(同61歳)を絞殺、家族になりすまして衣類44点と電話機を質屋に出し、148000円を得た(強盗殺人罪)[239]。
- 同年12月3日、千葉県千葉市の千葉地方裁判所で弁護士を装い、息子の裁判の傍聴に来ていた女性(当時50歳)に保釈金目的で金を用意させ、机の上に置かれた5万円を盗んだ(詐欺未遂罪、窃盗罪)[239]。
- 同月8日、東京都台東区上野元黒門町の会社員男性から弁護士を装って保釈金4万円をだまし取った)詐欺罪[239]。
- 同月20日、東京都豊島区雑司が谷で弁護士男性(当時81歳)を殺害して腕時計と弁護士バッジを奪った(強盗殺人罪)[239]。
一連の事件をきっかけに警察庁は「広域重要事件特別捜査要項」を制定し、重要凶悪事件に対する広域捜査態勢が取られるようになった[240]。強盗殺人、殺人、詐欺、同未遂、窃盗の罪に問われ、1964年12月23日に福岡地裁小倉支部(坂本裁判長)で死刑判決を言い渡された[239]。控訴したが、1965年8月28日に福岡高裁第2刑事部(岡林裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[241]。同判決に対し上告し、1966年8月26日に最高裁第二小法廷で上告審の口頭弁論が予定されていたが、同月15日付で自ら上告を取り下げたため、死刑が確定[242]。 1970年12月11日に福岡刑務所福岡拘置支所で死刑執行[243](44歳没)。
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日南市の老夫婦惨殺事件 (N)[244] |
1966年8月26日 |
1965年9月29日[244] |
下記U(1967年に死刑確定)の共犯[244]。岡山県吉備郡真備町生まれ、前科4犯[244]、そのうち重過失致死や傷害致死の前科もある。 尊属殺人、強盗殺人の罪に問われ[244]、1966年8月11日、共犯Uとともに宮崎地裁(筒井裁判長)で死刑判決を言い渡された[244]。控訴せず確定[246]。 1969年12月19日に死刑執行(36歳没)。
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日本閣事件(小林カウ) |
1966年8月29日[247] |
1952年10月2日・ 1960年2月8日 ・ 1960年12月31日 |
ホテル経営者夫妻を相次いで殺害。 戦後2番目の女性死刑確定囚。1952年にも前夫を毒殺していたことが発覚。[要出典]。小林と大貫は殺人、死体遺棄の罪に問われ、宇都宮地裁は1963年3月18日、小林を死刑、大貫を無期懲役とする第一審判決を言い渡した。1965年9月15日、東京高裁は原判決を破棄自判し、小林・大貫の両被告人をいずれも死刑とする判決を言い渡した。小林・大貫はいずれも上告したが、1966年7月14日、最高裁第一小法廷で上告棄却の判決を言い渡された。2人とも判決訂正申立を行ったが、これらの申立も同年8月29日付の同小法廷決定で棄却され[247]、死刑が確定。小林は戦後日本で3番目の女性死刑囚(死刑判決が確定した女性)である[248]。 1970年6月11日に小菅刑務所(現:東京拘置所)で死刑執行(61歳没)[249]。女性死刑囚への死刑執行は、戦後日本では初のことであった[249]。
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日本閣事件(大貫光吉) |
1966年8月29日[247] |
1960年2月8日・ 1960年12月31日 |
上記小林の共犯[249]。1970年6月11日に小林とともに東京拘置所で死刑執行(41歳没)[249]。
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厚木一家4人殺害事件 (H) |
1966年12月1日 |
1964年10月25日[250][251][252] |
1944年(昭和19年)10月3日生まれ(事件当時20歳)。神奈川県厚木市厚木444番地[注 18]で[251]、大工見習いとして働いていたが、普段から厳しく叱責してくる雇主夫婦を恨み、雇主一家を皆殺しにして恨みを晴らすと同時に、金品を奪おうと決意した。1964年10月25日、雇主(当時34歳)と妻(同33歳)、長男(9歳)・長女(7歳)の一家4人を玄能や薪割りなどで撲殺し、金品を奪った。事件後は関西に逃亡した後、沖縄への高飛びを目論んだが失敗し、同年11月に大阪市内で土工として住み着いたが、雇い主に怪しまれ、同年12月18日に逮捕された[257]。 強盗殺人罪に問われ、1965年6月28日に横浜地裁第4刑事部(河原裁判長)で死刑判決を言い渡された[257]。Hは控訴し、控訴審では強盗の犯意はなかった旨を主張したが、1966年5月24日に東京高裁第6刑事部(関谷裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[258]。同年12月1日に最高裁第一小法廷(岩田誠裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[259]。 1969年に死刑執行(24歳もしくは25歳没)。『刑事裁判資料』第189号および、同資料を引用した永山事件の上告趣意書 (1983) では少年死刑囚(事件当時18歳)とされているが、これは誤りで、両資料とも、事件発生日は1962年(昭和37年)10月25日と誤記されている[注 19]。
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「九州の小平」事件 (S) |
1966年12月8日 |
1952年9月10日・ 1962年1月23日・ 1962年3月26日 |
九州北部で次々と若い女性を殺害し[266]、「九州の小平」と呼ばれた[267][268]。 1952年9月10日、佐賀県唐津市にあった炭鉱で女性(身元不明、推定当時21歳)を絞殺、死体を近くの窪みに遺棄した[269]。1962年1月23日、福岡県北九州市で白タク営業中に小倉区小森の女性(当時20歳)を乗せ、同区高津尾の埋め立て地で金のことで口論になったことをきっかけに絞殺した[269]。そして同年3月20日ごろには長崎県長崎市新橋町のキャバレーホステス(当時20歳)を誘い出して旅館を転々としたが、同月26日、福岡県山田市熊ケ畑の山林で大阪方面へ逃げようと誘ったところ、断られたため絞殺した[269]。 殺人、死体遺棄に加え[269]、横領、詐欺(2件)、婦女暴行致傷の罪で起訴され、1965年9月28日に福岡地裁飯塚支部で死刑求刑を受けた[270]。11月9日に福岡地裁飯塚支部(江藤裁判長)で死刑判決を言い渡された[271]。控訴したが、1966年5月14日に福岡高裁(岡林裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[266]。上告したが、1966年12月8日に最高裁第一小法廷(入江裁判長)で上告棄却の判決を言い渡された[269]。翌年1月12日に判決訂正申立棄却で確定。 殺人前科あり(懲役8年)。 1970年6月20日に死刑執行(45歳没)。
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1967年
1967年(昭和42年)に死刑判決が確定した死刑確定者は14人である[1]。
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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中野のクツ屋殺し (O) |
1967年3月24日 |
1958年2月17日 |
栃木県那須郡馬頭町生まれ[272]。以前、自身が間借りしていた場所の近く(東京都中野区本町通り)に住んでいた被害者の靴修理業者男性(当時54歳)が一人で貯金していることを知り、1958年2月17日夜、宛もなく上京して金を使い果たしたことから被害者宅へ侵入[273]、帰宅を待ち伏せて被害者の頭を薪割りで殴り、首を絞めて殺害した[272]。殺害後、被害者の遺体と2週間にわたって同居し、家や家財をすべて売り払った他[注 20]、遺体をトランクに詰め[273]、栃木県那須郡馬頭町の竹藪に遺棄した[272]。 強盗殺人、死体遺棄、詐欺の罪に問われ、1959年10月29日、東京地裁(横川裁判長)で死刑判決を言い渡された[273]。控訴したが、1965年12月20日に東京高裁で控訴棄却の判決を言い渡された。上告したが、1967年3月24日に最高裁第二小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[272]。死刑執行日は不明。
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福神丸事件 (K)[275][276] |
1967年3月16日 |
1965年3月23日 - 24日 |
大分県北海部郡佐賀関町の一本釣り漁船「福神丸」(4.87トン)の乗組員だったが、九州近海で操業中に義母が死亡したことを知って帰港を申し出、船長(当時39歳)もKの頼みを受諾した[276]。しかし船は途中で嵐に遭い、口永良部島の本村港に避難した[276]。1965年3月23日夜[275]、早く出港するよう船長に申し出たところ喧嘩になり、包丁で船長を刺して死亡させ、死体を錨に縛り付けて海に沈めた[276]。また、この喧嘩を止めに入った機関長(当時29歳)と炊事係(同19歳)を刺し、2人が船室に逃げ込んだところ、Kはドアを釘付けにすることで2人を閉じ込め、船底の栓を抜いて2人を水死させ、海難事故に遭遇したよう偽装した[276]。 福神丸は「当て逃げされ3人行方不明」と届け出、25日午後には屋久島東方約100 km沖で和歌山県東牟婁郡那智勝浦町の漁船「第一慶福丸」に救助され[277]、27日9時には宮崎県油津海上保安部の巡視船「こしき」に曳航されて日南市の油津港に入港したが、保安部が調べたところ他の船に衝突された痕跡はなく、また船室から2人の遺体が発見され、船尾のプロパンガスから船室へゴム管が引かれていた[278]。Kは帰港後、西鹿児島駅前のホテルで睡眠薬約100錠を飲んで自殺を図ったが失敗に終わり[278]、後に逮捕[279]・起訴された。 1965年10月28日、鹿児島地裁(藤田哲夫裁判長)で死刑判決を受けた[275]。被害者3人に対する殺人罪で起訴されたが、同地裁は船長を刺した行為についてはKの供述以外に殺意を認める証拠がなく、また船長との間に4年以上の交際があったこと、格闘時に偶然手の届く場所に包丁があったことなどから、船長への殺意は認めず、傷害致死罪を認定した[275]。しかし船長の腹部を2箇所突き刺し、応急処置もせず放置したことは殺人に等しい行為と評し、また2人を殺害した行為の残忍性、船長の死体を数千メートルの海底に沈めて遺骨の収拾もできない状態にした行為の悪質性などを指摘した[275]。 Kは同判決を不服として控訴したが、福岡高裁宮崎支部(木下裁判長)で1966年8月18日に控訴棄却の判決を言い渡された[280]。上告したが、1967年3月16日に最高裁第一小法廷(長部謹吾裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[276]。 1970年10月29日に死刑執行(36歳没)。
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品川バーマダム強盗殺人事件 (K) |
1967年4月7日 |
1965年9月17日 |
出所したばかりの男が自分が住むアパート内の部屋を物色中にその部屋で寝ていたバーの雇われマダムを刺殺し2000円を奪った。ほかにも窃盗事件8件の余罪あり[281]。 強盗殺人、窃盗の罪に問われ、1966年2月26日、東京地裁で死刑判決を言い渡された。控訴したが、同年7月28日に東京高裁で控訴棄却の判決を言い渡された。上告したが、1967年4月7日に最高裁第二小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定。死刑執行日は不明。
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日南市の老夫婦惨殺事件 (U)[244] |
1967年4月11日 |
1965年9月29日[244] |
上記N(1966年に死刑確定)の共犯[244]。宮崎県日南市風田生まれ、前科8犯[244]。 大阪刑務所で知り合ったNと共謀の上、自身の両親を殺害して財産を乗っ取ろうと計画、1965年9月29日22時ごろ、日南市風田野中で農業を営んでいた父親(当時72歳)宅に押し入り、就寝中だった父親と母親(当時66歳)の頭などを樫の棒(長さ74 cm)と鍬の柄(長さ85 cm)で滅多打ちにして殺害、室内から現金12370円、腕時計、背広など6点4800円相当を盗んだ[244]。その後、2人は市内の梅ケ浜海岸で夜を明かし、30日7時ごろに油津からバスで飫肥まで移動したが、飫肥駅付近で張り込みしていた日南警察署員に逮捕された[244]。 尊属殺人と強盗殺人の罪に問われ[244]、1966年8月11日、共犯Nとともに宮崎地裁(筒井裁判長)で死刑判決を言い渡された[244]。同月22日には福岡高裁宮崎支部へ控訴したが[246]、1967年4月11日に自ら控訴を取り下げ、死刑が確定。 1969年12月19日に死刑執行(45歳没)。
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雅樹ちゃん誘拐殺人事件 (M) |
1967年5月25日 |
1960年5月16日 - 18日 |
元歯科医、東京都杉並区上荻窪一丁目在住[284]。 妻と愛人との二重生活などの資金欲しさから、1960年5月16日朝、国鉄目黒駅前で登校途中だった慶應義塾幼稚舎2年生の男児A(当時7歳)を誘拐、Aの家族に身代金を要求したが失敗した[284]。MはAの処置に困ったため、同月18日朝、部屋にガス管を引き込むことで寝ていたAを殺害、死体を自動車に乗せて車ごと東京都杉並区阿見高井戸の道路に遺棄した[284]。 営利誘拐、恐喝未遂、殺人、死体遺棄の罪に問われ、第一審でMは起訴事実をほぼ全面的に認めたため、争点は犯行時のMの精神状態に絞られた[284]。第一審で行われた精神鑑定では完全責任能力があったとする結果が示され、東京地裁刑事第4部(荒川正三郎裁判長)は1961年3月31日、Mに求刑通り死刑判決を言い渡した[284]。控訴したが、第一審判決ごろから重度の拘禁性ノイローゼに罹患したため、控訴審の審理は5年にわたって停止、再開後に再度精神鑑定が行われ、第一審で採用された鑑定とは対照的に「犯行時は心神耗弱」とする鑑定結果が示されたが、1966年8月26日に東京高裁刑事第1部(樋口勝裁判長)は控訴棄却の判決を言い渡した[284]。Mは上告したが、1967年5月25日に最高裁第一小法廷(岩田誠裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され[284]、死刑が確定。上告審判決の当時、Mは東京拘置所内で冷静さを取り戻し、仏教書などを読み続けている旨が報じられていた[284]。 1970年10月29日に東京拘置所で死刑執行(42歳没)[注 21]。 一連の事件後には東京の「吉展ちゃん事件」、仙台の「智行ちゃん事件」、新潟女性デザイナー誘拐殺人事件など、凶悪な誘拐殺人事件が相次いで発生した[284]。
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三子ちゃん殺し (K)[286][287] |
1967年5月25日 |
1960年2月13日[287] |
高知県土佐市高岡町生まれの労務者[284]。 1960年2月13日夕方[287]もしくは夜、大阪府大阪市西成区東入船町で遊んでいた近所の女児(当時6歳)を約500 m離れた関西本線南側の空き地に誘い込んで乱暴し、悲鳴を上げられたため、コンクリート塊で殴り殺した[286]。また1959年9月、同年11月、1962年9月の3回にわたり、同区や浪速区で5歳-7歳の幼女を人けのない場所に連れ込んでいたずらしたり、ケガをさせたりした[286]。 強姦致傷、猥褻誘拐、強制猥褻致傷、強制猥褻、強姦致死、殺人の罪に問われ、1963年10月4日、大阪地裁(田中裁判長)で死刑判決を言い渡された[286]。控訴したが、1966年3月14日に大阪高裁(山田裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[287]。上告したが、1967年5月25日に最高裁第一小法廷(松田裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[284]。死刑執行日は不明。
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盛岡・強盗殺人放火事件 (Y) |
1967年7月14日 |
1965年1月14日[288] |
1965年1月14日13時ごろ、知人である岩手県盛岡市上田西下台のアパート管理人男性(当時32歳)宅を訪れ、殺して金を奪おうと、持っていた薪割りで頭を滅多打ちにした上、台所にあった包丁で男性の左手首を切って自殺と見せかけ、現金7000円を盗み、男性の車を奪って逃げた[288]。15日1時30分ごろには犯行現場に戻り、証拠隠滅目的で男性の死体の付近に買ってきたガソリンを撒いて放火、逃走した[288]。 強盗殺人と非現住建造物等放火の罪に問われ、第一審の公判で死刑を求刑されたが、1965年8月9日に盛岡地裁(菅家裁判長)は無期懲役の判決を言い渡した[288]。その後、1966年9月29日に仙台高裁で原判決を破棄自判され、死刑判決を言い渡された。1967年7月14日に最高裁第二小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定。死刑執行日は不明。
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船橋夫婦殺害事件 (O) |
1967年7月25日 |
1964年2月27日[289] |
下記K・Tの2人と共謀し、1964年2月27日夜、Oの遠縁にあたる千浜県船橋市高根町の男性(当時66歳)宅を訪れ、男性と妻(当時59歳)を絞殺、現金9000円と衣類、有価証券(140万円余相当)を奪った[289]。 3人はいずれも強盗殺人罪に問われ、1965年5月15日に千葉地裁(石井謙吾裁判長)で3被告人とも死刑判決を言い渡された[290]。3人とも控訴したが、1966年3月29日に東京高裁で控訴棄却の判決を言い渡された。1967年7月25日に最高裁第三小法廷(下村裁判長)で3人とも上告棄却の判決を言い渡され、死刑判決が確定[289][291]。1事件で3被告人に対し死刑判決が確定した事例は戦後4件目だった[291]。死刑執行日は不明。
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船橋夫婦殺害事件 (K) |
1967年7月25日 |
1964年2月27日[289] |
上記Oおよび下記Tの共犯で、裁判経緯は同一。死刑執行日は不明。
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船橋夫婦殺害事件 (T) |
1967年7月25日 |
1964年2月27日[289] |
上記OおよびKの共犯で、裁判経緯は同一。死刑執行日は不明。
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静岡の少女殺し (M) |
1967年9月22日 |
1965年10月14日 - 15日 |
成長期に不遇な環境に育ったことから僻み根性があり、また数回にわたって刑事罰を受けるなど不良性があったことから、事件当時は妻に生まれたばかりの長女を連れられて逃げられており、離婚調停をされて自暴自棄になっていた。[292]。 1965年10月14日20時ごろ[292]、自身の妻が経営する静岡県静岡市馬淵のバー[注 22]の前を通りかかった近所の少女[294](当時14歳:雙葉学園中学校2年生[293])を店内の部屋に連れ込み[294]、手足を縛り付け、翌日未明に乱暴した[292]。翌朝6時過ぎ、アイロンコードで少女を絞殺し、死体を床下に隠した[292]。 監禁、強姦致傷、殺人、死体遺棄の罪に問われ、死刑を求刑されたが、1966年3月8日に静岡地裁(石見裁判長)で無期懲役の判決を言い渡された[292]。同地裁は犯行が偶発的なものである点、犯行後に睡眠薬で自殺を図ったことから良心の呵責に苦しんでいることがうかがえる点を指摘し、死刑を回避した[292]。 検察官が控訴したところ、東京高裁刑事第9部(松本勝夫裁判長)は同年11月28日に原判決を破棄自判し、Mに死刑判決を言い渡した[293]。Mは上告したが、1967年9月22日に最高裁第二小法廷(奥野裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[294]。死刑執行日は不明。
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八王子金融業者夫婦殺害事件 (Y) |
1967年9月29日 |
1963年7月5日 |
強盗殺人と死体遺棄の罪に問われ、1964年8月15日に東京地裁八王子支部で死刑判決を言い渡された。控訴したが、1966年11月30日に東京高裁で控訴棄却の判決を言い渡された。1967年9月29日に最高裁第二小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定。死刑執行日は不明。
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吉展ちゃん誘拐殺人事件(小原保) |
1967年10月13日 |
1963年3月31日[295] |
福島県出身[295]。1963年3月31日、東京都台東区の入谷南公園で遊んでいた見ず知らずの男児(当時4歳)を誘拐して殺害、死体を荒川区南千住の墓地に埋め、男児の家族から身代金50万円を奪った[295]。事件から2年3か月後の1965年7月、3度目の取り調べで犯行を自供した[295]。 営利誘拐、殺人、死体遺棄、恐喝の罪に問われ、1966年3月17日、東京地裁で死刑判決を言い渡された。控訴したが、同年11月29日に東京高裁で控訴棄却の判決を言い渡された。1967年10月13日に最高裁第二小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定。 1971年12月23日に東京拘置所で死刑執行(38歳没)[295]。死刑執行直前まで「福島誠一」のペンネームで、贖罪の意を込めた短歌を詠み、月刊歌誌『土偶』(土偶短歌会)に寄稿していた[295]。
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1968年
1968年(昭和43年)に死刑判決が確定した死刑確定者は11人である[1]。
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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札幌の社長誘拐殺人事件 (Y)[296] |
1968年4月5日 |
1966年9月8日 |
Yと従犯の男Mは元運転手だが、1966年6月ごろに失職した[296]。しかしその後も新車を次々と購入するなど派手な生活を続け、支払いに困った末、顔見知りである建設会社社長の被害者男性(当時54歳、札幌市月寒中央通在住)を殺害して金を奪うことを計画した[296]。同年9月8日8時30分ごろ、2人は北海道警察捜査二課の名を騙って被害者を札幌市石山五区の山道におびき出し、車内でネクタイを用いて絞殺、小切手帳4、約手帳3、印鑑、カメラなどを奪った上、死体を札幌市郊外の篠地町福移の原野に埋めた[296]。 このほか、Yは事件前の同年4月8日、札幌市内の保険会社に空き巣被害に遭ったとする虚偽の事実を申し出て小切手155000円分を詐取したほか、同年6月中旬にはMと共謀した上で交通事故を偽装し、運輸会社から小切手約20万円分を詐取したりした[297]。 道警は当初、被害者の生存の可能性を考慮して極秘捜査を行ったが、届出の2日後には公開捜査に切り替え、有力な目撃証言が得られたことで事件解決に至った[296]。犯人が警察の名を騙り、かつて下請けとして使われたこともある会社の社長を計画的に誘拐・殺害した事件として、全国的に話題となった事件である[296]。 Yは強盗殺人、死体遺棄、詐欺の罪に問われ、1966年12月26日に札幌地裁で開かれた初公判以来、Mとともに起訴事実を認めた[296]。1967年8月25日、札幌地裁(萩原寿雄裁判長)は積極的に犯行を計画した主犯のYを死刑、従犯のMを無期懲役(いずれも求刑通り)とする判決を言い渡した[296]。Mは控訴せず、無期懲役が確定[297]。Yは控訴したが、1968年3月21日に札幌高裁(斎藤裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[297]。上告せず死刑が確定。1975年6月21日に死刑執行 (34歳没)。
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下松ホステス路上強盗殺人事件 (S) |
1968年4月12日 |
1963年7月12日 - 22日 |
山口県豊浦郡生まれ、第一審判決時点で29歳[299]。 下関市に在住していた1963年2月7日、強盗致傷事件を起こして下関警察署に検挙され、保釈後に妻から離婚話を持ちかけられたため、同年7月12日未明、妻(第一審判決時点で29歳)と彼女の叔母(同60歳)を置き時計などで殴って重傷を負わせ、逃走した[299]。この件で下関署から殺人未遂容疑で指名手配されるが、同月22日未明、下松市大河内にある妙見橋の上で帰宅中のホステス(当時31歳)を出刃包丁で刺殺し、現金等の入ったハンドバッグを奪って逃走した。その後、現場から約2 km離れた民家に忍び込み、住人の女性に気づかれたため、口や肩などを刺して3週間のケガをさせた[299]。一連の犯行は44件(強盗殺人1件、強盗致傷2件、殺人未遂2件、強盗2件など)におよび、下関市、下松市、広島県広島市、福岡県北九州市などで合計約42万円を盗んだ[299]。 強盗殺人、殺人未遂、強盗致傷、強盗、準強盗、窃盗、同未遂、住居侵入の罪に問われ、1965年2月12日、山口地裁(黒川裁判長)で死刑判決を言い渡された[299]。控訴したが、1967年1月30日に広島高裁で控訴棄却の判決を言い渡された。上告したが、1968年4月12日に最高裁第二小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定。死刑執行日は不明。
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国分寺主婦強盗殺人事件 (H) |
1968年4月26日 |
1966年5月21日 |
会社員宅に押し入り、同家の妻を刺殺、現金2020円とネックレスなどを奪った[300]。 住居侵入、強盗殺人、強盗、窃盗、強盗致傷の罪に問われ、1966年11月28日、東京地裁八王子支部で死刑判決を言い渡された。控訴したが、1967年5月17日に東京高裁で控訴棄却の判決を言い渡された。1968年5月2日に最高裁第一小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定。 1971年11月9日に死刑執行(28歳没)。
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Nさん兄弟殺し事件 (N)[301][302] |
1968年5月2日 |
1964年10月7日[303] |
愛知県岡崎市滝町本部の石材業[304]。 1964年10月7日夜、嫌がらせのため商売敵の男性が経営していた採石場のドラム缶からガソリンを抜き取ろうとしたが、男性の長男(当時30歳)と次男(当時27歳)に見つかったため、ナイフで兄弟2人を刺殺した[304]。兄弟を殺害することを事前に計画し、兄弟が盗難防止のために張り込んでいた石切場へ果物ナイフを持って忍び込んだものである[301]。被害者兄弟2人のうち、弟は犯人Nと同姓同名である[304]。 殺人罪に問われ[304]、1965年6月22日に名古屋地裁岡崎支部(植村裁判長)で求刑通り死刑判決を言い渡された[301]。事件発生から8か月という早さで言い渡された判決で、同地裁支部における死刑判決は幡豆郡吉良町宮崎(現:西尾市吉良町宮崎)の別荘で発生した強盗殺人事件以来、5年ぶりだった[302]。判決公判は当初、同年5月3日に予定されていたが、これが延期されたため、独房の中で喚いたり「早く殺せ」と怒鳴るなど、一時錯乱状態になっていたという[302]。 同判決を不服として控訴したが、1967年7月31日、名古屋高裁刑事第2部(小淵裁判長)で「鑑定の結果では精神異常は認められない」として控訴棄却の判決を受けた[305]。 1968年5月2日に最高裁第一小法廷(長部裁判長)で上告棄却の判決を受け、死刑が確定[303]。 1973年に死刑執行。
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岩手の雑貨商夫婦射殺事件 (Y) |
1968年5月2日 |
1964年12月17日[306] |
岩手県下閉伊郡川井村川井(現:宮古市)在住[307]。1964年12月15日と17日、川井村江繋の薪炭業兼雑貨商の男性(当時50歳)[注 23]に対し[306]、手持ちがないのに木炭を買い取って欲しいと嘘を言って15万円を騙し取った[307]。このことを自身の父親から責められたが、借金返済の見通しがつかないことに加え[304]、警察に通報されることを恐れたため、17日23時30分ごろ、自宅から猟銃を持ち出して男性宅に侵入、物音で目を覚ました男性とその妻(当時50歳)を猟銃で射殺し[306]、4万6500円余りを奪った[307]。また同月19日には近隣住民が自分を犯人として疑っていることを知り、数人に対し「おれを犯人と疑っている者はただではおかない」と脅迫した[306]。 強盗殺人、住居侵入、脅迫、詐欺などの罪に問われ[307]、1965年8月9日に盛岡地裁(菅家裁判長)で求刑通り死刑判決を言い渡された[288]。控訴審で弁護人は犯行時、Yが心神耗弱状態にあったと主張したが、仙台高裁(矢部孝裁判長)は1967年9月11日に控訴棄却の判決を言い渡した[306]。1968年5月2日に最高裁第一小法廷(長部裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定した[304][307]。死刑が執行されたかは不明[308]。 同事件の被害者夫婦には当時高校3年生の息子と高校1年生の娘がいたが、2人は当時村外に下宿していた[309]。夫婦の娘(2024年4月時点で75歳)は事件後の2014年、埼玉県狭山市で犯罪被害者を支援するために「犯罪被害者等支援の会オリーブ」を設立し、代表理事を務めており、2024年2月には犯罪被害者の支援を通じて男女の人権尊重に積極的な役割を果たしたとして「県荻野吟子賞」の大賞を受賞した[310]。
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静岡の母子殺傷事件 (N)[311] |
1968年5月2日 |
1966年4月20日[307] |
静岡県焼津市八楠生まれ、住居不定[304]。 1966年4月20日朝、静岡県静岡市青木の民家に強盗目的で侵入したところ[307]、家主の妻(当時27歳)に騒がれたためナイフで刺殺し[304]、その背中に背負われていた長女(当時生後10か月)にも10日間の怪我を負わせた[307]。また同事件の3日前には清水市の住宅で、住人の男性(当時44歳)の腹などを同じナイフで刺して3週間の怪我を負わせ、現金2000円を奪う事件を起こしておりらそれ以外にも窃盗11件の余罪があった[311]。 強盗殺人、同未遂、強盗致傷、住居侵入、窃盗、同未遂の罪に問われ[307]、1966年12月27日に静岡地裁(石見裁判長)で死刑判決を言い渡された[311]。控訴したが、1967年8月25日に東京高裁刑事第3部(石井裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[312]。1968年5月2日に最高裁第一小法廷(大隅裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[307]。 死刑執行日は不明。
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名古屋埠頭タクシー運転手強盗殺人事件 (I) |
1968年5月10日 |
1967年4月17日[313] |
東京都八王子市生まれ、下記Kの共犯[313]。下記Kと共謀し、1967年4月17日3時ごろ、愛知県名古屋市中村区内で男性A(当時35歳)が運転するタクシーに乗車し、港区空見町の人影のないところまで走らせた上で、停車を命じると同時にIが後ろからAの首を絞めて後部座席に引きずり寄せた[313]。KはAを殴るなどした上で、Aの着用していたベルトを彼の首に巻きつけ、2人で引っ張って絞殺した[313]。そして売上金など13000円余りと腕時計などを奪ったほか、この犯行後の5日間で強盗致傷など4件の犯罪を犯した[313]。 2人とも強盗殺人、同時傷害、強盗、窃盗、強盗致傷、強姦致傷の罪に問われ、1968年4月19日、名古屋地裁(野村裁判長)で死刑判決を言い渡された[313]。同地裁は「一連の残忍な罪を重ねた二人には、社会に生きる価値が認められない」と判示した[313]。 Iは控訴したが、同年5月10日付で自ら取り下げ、死刑が確定。 1971年11月18日に死刑執行(27歳没)。
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智行ちゃん誘拐殺人事件 (K) |
1968年7月2日 |
1964年12月21日 |
元テレビタレントの「天津七三郎」[316]。仙台市北三番丁71在住[317]。 会社経営などに失敗して借金返済に困ったことから[318]、1964年12月21日12時ごろ、仙台市花京院通の会社社長[注 24]の三男A[318](当時5歳:仙台白百合幼稚園児)を「記念写真を撮るから」と電話で誘い出した[318]。そしてAを乗用車に乗せ、仙台市内を回ってから16時ごろ、宮城県黒川郡富谷町のクレー射撃場に到着したが、Aが「帰りたい」と暴れ、あやしきれなくなったため紐で絞殺した[318]。そして死体を自宅の物置に隠し、同日18時ごろ、社長宅へ身代金として500万円を要求したが、21時30分ごろ、Aの母親から身代金を奪ったところを逮捕された[318]。 身代金目的拐取、殺人、死体遺棄、拐取者身代金要求の罪に問われ、検察官からは死刑を求刑されたが、1965年4月5日に仙台地裁(佐々木次雄裁判長)で無期懲役の判決を言い渡された[317]。同地裁は犯行は悪質非道なものであり、社会的影響も大きいとして来きたが、冷静さを失ったことによる偶発的な面があること、Kの改悛の情が著しいことを死刑回避の理由として挙げた[317]。 検察官が控訴したところ、1966年10月18日、仙台高裁刑事第2部(細野幸雄裁判長)で原判決を破棄自判され、死刑判決を言い渡された[注 25][318]。同高裁は幼児を誘拐・殺害した罪の重さに加え、殺害を決断したのは偶発的な点があったとは言え、誘拐を計画していた時点で殺意は生じていたと見るのが自然であると指摘し、情状を汲む余地はないと指弾した[318]。Kは上告したが、1968年7月2日に最高裁第三小法廷(田中裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定した[320]。 1974年7月5日に宮城刑務所で死刑執行(39歳没)[316]。
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葛飾路上税理士強盗殺人事件 (N) |
1968年7月16日 |
1966年10月2日 |
殺人前科(懲役10年)。 強盗殺人、窃盗の罪に問われ、1967年1月27日、東京地裁で死刑判決を言い渡された。控訴したが、同年10月30日に東京高裁で控訴棄却の判決を言い渡された。上告したが、1968年7月16日に最高裁第三小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定。死刑執行日は不明。
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高山友人強盗殺人事件 (D) |
1968年12月13日 |
1961年8月12日[321] |
岐阜県高山市名田町一丁目在住の労務者[322]、元木工所経営者[321]。被害者は名田町二丁目在住の農業兼アパート経営者男性A(事件当時47歳)で[322]、Dとは知人関係にあった[323]。 自身の経営していた木管製造が不振になり、Aから借りていた30万円余の返済に困ったため、1963年8月12日夜[注 26]、「金を返すから印鑑を持ってこい」とAを自宅に呼び出し、睡眠薬の入った水を飲ませて眠らせ、包装用の紙ロープで絞殺した[323]。その後、死体を段ボール箱に詰めて約500 m離れた自分の木工場へ運び、床下に埋めた[323]。その上でAの筆跡を装って「しばらく旅に出る。金の方は早く解決してください。ハンコを同封します」と偽の手紙を書き、Aの妻B宛に郵送した[321]。その後、江名子町の金融業の男(詐欺、横領の共犯として起訴されたが、第一審の公判中に自殺したため公訴棄却)と共謀し、Aが彼から380円の借金をしたという公正証書を偽造した[321]。翌日にAの行方を尋ねてきたAの妻Bに対しては「借金のうち20万円を返したから、どこかへ遊びに行ったのではないか」とごまかし[323]、同年8月から10月にかけ[321]、偽造した証書を使ってBから380万円を詐取した[323]。 横領、強盗殺人、死体遺棄、私文書偽造、同行使、詐欺の罪に問われ[322]、1967年5月25日、岐阜地裁高山支部(浅香恒久裁判長)はDに死刑判決を言い渡した[323]。戦後、同地裁支部で言い渡された初の死刑判決である[322]。Dは控訴したが、同年12月6日に名古屋高裁で控訴棄却の判決を言い渡された。上告したが、1968年12月13日に最高裁第二小法廷(草鹿浅之介裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[321]。 1972年2月2日に死刑執行(46歳没)。
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名古屋埠頭タクシー運転手強盗殺人事件 (K) |
1968年12月24日 |
1967年4月17日[313] |
長野県下伊那郡生まれ、上記Iの共犯[313]。強盗殺人、同時傷害、強盗、窃盗、強盗致傷、強姦致傷の罪に問われ、1968年4月19日、名古屋地裁(野村裁判長)で死刑判決を言い渡された[313]。Kは控訴したが、同年12月24日に自ら取り下げたため、死刑が確定。 1971年11月18日に死刑執行(35歳没)。
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1969年
1969年(昭和44年)に死刑判決が確定した死刑確定者は11人である[1]。
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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祭場強盗殺人事件 (K) |
1969年3月25日 |
1958年2月18日 |
強盗殺人、同未遂、住居侵入の罪に問われ、1966年12月20日、熊本地裁で死刑判決を言い渡された。控訴したが、1968年3月29日に福岡高裁で控訴棄却の判決を言い渡された。上告したが、1969年3月25日に最高裁第三小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、同年4月15日付で最高裁第一小法廷から上告審判決に対する訂正申立棄却の決定を受けた[324]。共犯は無期懲役。1975年7月11日に死刑執行(40歳没)。
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秋田元同僚強盗殺人事件 (S) |
1969年4月25日 |
1966年2月21日 |
強盗殺人罪に問われ、1967年8月29日、秋田地裁で死刑判決を言い渡された。控訴したが、1968年9月12日に仙台高裁秋田支部で控訴棄却の判決を言い渡された。上告したが、1969年4月25日に最高裁第二小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定。死刑執行日は不明。
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春日部の親子3人絞殺 (N)[325] |
1969年6月28日 |
1966年9月3日・ 1966年9月16日 |
事件前の1960年に強盗、住居侵入の罪で懲役6年に処されるなど複数の前科があり、1966年9月に長野刑務所を仮出所したが、競輪場で金を使い果たしたため連続殺人事件を起こした[326]。 1966年9月3日0時ごろ、東京都田無市(現:西東京市)田無の運転手男性(当時50歳)宅に侵入し、男性を絞殺して現金37000円と背広上下1着など(約2300円相当)を奪い、放火して全焼させた[325]。同月15日23時ごろ、埼玉県春日部市粕壁の帽子製造会社工場長代理の男性(当時35歳)宅に侵入し、男性と妻(当時30歳)、長男(生存、1968年12月時点で7歳)、次男(当時2歳)の一家4人を起こして夫婦を縛り上げ、現金21000円、背広上下2着など計5点(1万円相当)を奪い、妻に乱暴した後、長男以外の3人を絞殺して家に放火した[325]。 住居侵入、強盗殺人、同未遂、強制猥褻、強盗強姦、現住建造物等放火、同未遂の罪に問われ、1969年3月24日、浦和地裁(秋葉裁判長)で死刑判決を言い渡された[326]。公判中には気に食わないことがあると大声で叫んだり、裁判官や検察官に対し「馬鹿野郎」呼ばわりしたりといった言動を取っており、判決理由ではこの点から反省の色が見られないと評された[326]。控訴したが、同年6月28日付で取り下げ、死刑が確定。 1973年10月12日に死刑執行(40歳没)。
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兵庫衣料品店夫妻強殺事件 (K) |
1969年7月11日 |
1968年5月24日 |
強盗殺人前科(懲役15年)。強盗殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反の罪に問われ、1968年11月12日、神戸地裁姫路支部で死刑判決を言い渡された。控訴したが、1969年6月26日に大阪高裁で控訴棄却の判決を言い渡された。上告せず確定。1975年6月2日に死刑執行(37歳没)。
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鶴見のバラバラ殺人 (N) |
1969年8月22日 |
1966年12月17日[327] |
神奈川県横浜市神奈川区栄町在住の元店員、第一審判決時点で28歳[327]。 同区白楽の魚問屋に務めていたが、競輪に懲り、雇主である問屋の経営者男性(当時22歳)から40万円近く借金していた[327]。雇主からその借金の返済を迫られたため殺人を計画し、1966年12月17日17時30分ごろ、自宅に借金の返済のため訪れた雇主を部屋に招き入れ、用意してあった野球バットやビール瓶で後頭部を殴った上、ネクタイなどで首を絞めて殺害した[327]。翌18日朝、自宅物置でノコギリを用いて死体を切断し、胴体を自宅床下に埋め、両足を鶴見区の總持寺境内に捨てた[327]。事件当時、總持寺境内のバラバラ殺人事件として騒がれた[327]。 強盗殺人、窃盗、死体遺棄の罪に問われ、1968年4月8日、横浜地裁(大中俊夫裁判長)で死刑判決を言い渡された[327]。横浜地裁で言い渡された死刑判決は、1966年2月の戸塚の夫婦殺し事件第一審判決以来、約2年ぶりであった[327]。 Nは控訴したが、同年12月20日に東京高裁刑事第9部(松本勝夫裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[329]。上告したが、1969年7月11日に最高裁第二小法廷(草鹿浅之介裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[330]。1969年8月22日付で最高裁第二小法廷から上告審判決に対する訂正申立棄却の決定を受けた[331]。死刑執行日は不明。
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門真一家3人殺害事件 (M) |
1969年10月21日 |
1968年8月7日 |
元同棲相手の家族を殺害した。 殺人罪に問われ、1969年10月4日、大阪地裁で死刑判決を言い渡された。控訴したが、同月21日付で自ら取り下げたため、死刑が確定。死刑執行日は不明。
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少年ライフル魔事件(片桐操[注 27]) |
1969年10月2日 |
1965年7月29日 |
事件当時18歳3か月の少年死刑囚[339]。事件当時は東京都世田谷区北沢一丁目在住[332]、無職[340]。 1965年7月29日10時50分ごろ[339]もしくは11時ごろ[340]、「空気銃を撃っている者がいる、危ないから来てくれ」と虚偽の110番通報をし[340]、バイクで駆けつけた大和警察署小田急鶴間駅前派出所の男性巡査A[注 28](当時21歳)を神奈川県高座郡座間町栗原(現:座間市栗原)の通称「ひばりヶ丘」で射殺し、Aの拳銃や警察手帳などを奪い[341]、Aの服に着替えた[342]。11時20分ごろ、同じく110番通報を受けて現場に出動した別の男性巡査B(当時23歳)と男性巡査C(当時27歳)を、A射殺現場にほど近い大和市下鶴間の山林で襲撃、Aから奪った拳銃計3発を発射し、うち1発でBの右太腿を撃ち抜いて重傷を負わせた[注 29][341]。その後、近くにいた車の運転手を拳銃で脅してその車に乗り込み[339]、さらに別の3台の車を次々と運転手を脅しながら乗り継ぎ、東京都町田市、横浜こどもの国(横浜市港北区長津田町)、東京都調布市、東京都小金井市を経由、18時過ぎに[341]東京都渋谷区の渋谷駅近くにあった「ロイヤル銃砲店」に侵入した[339]。同銃砲店では店員ら男女3人を人質に籠城し[340]、包囲した警官隊や詰めかけた群衆[340]、報道関係者らにライフルなど110発を乱射[339]、16人[注 30]を負傷させた[340]。 片桐は強盗殺人、同未遂、脅迫、公務執行妨害、強盗、監禁の罪に問われ[337]、検察官からは死刑を求刑されたが、横浜地裁(大中裁判長)は1967年4月13日に無期懲役の判決を言い渡した[340][338]。同地裁は、犯行は計画的で残忍、大胆不敵であると指摘したが、片桐の家庭環境に問題があり、本人には分別面に欠けた面があったと指摘、社会復帰を期待するとして死刑を回避した[338]。 検察官が同判決を不服として控訴したところ[343]、東京高裁刑事第4部(久長正勝裁判長)は1968年11月12日に原判決を破棄自判し、片桐を死刑とする判決を言い渡した[344]。同高裁は拳銃を奪うという目的の下に綿密な犯行計画を立てていた点から、片桐はあらかじめ警察官の殺害までは明確に意識していないまでも視野に入れており、更生は極めて困難であると指弾した[345]。当時、少年犯罪の控訴審で原判決が破棄されて死刑が言い渡された事例は極めて異例と報じられている[336]。 片桐は高裁の死刑判決を受けて211ページにわたる上告趣意書を提出、殺意が無かった旨を主張したが[339]、1969年10月2日に最高裁第一小法廷(岩田誠裁判長)で上告棄却の判決を言い渡された[346]。同月23日付で、最高裁第一小法廷から上告審判決に対する訂正申立棄却の決定を受けた[347]。 1972年7月21日に死刑執行(25歳没)。 事件後には神奈川県横浜市で自衛官を装った少年によるライフル銃詐取事件(1966年8月)が発生、また平塚市でも週刊誌記者を装った男による同種の事件(同年11月末)が発生するなどしたことから、警察庁は広域化・スピード化する犯罪対策を取り上げ、各県警に対し首都圏の広域捜査体制を指示した[340]。また神奈川県警も横浜・川崎両市で通信指令網を一本化するなど、通信指令網の整備を急いだ[340]。事件当時片桐が少年だったことから、20歳未満を対象としている少年法を改正し、適用上限年齢を引き下げようという動きが活発するきっかけの一つにもなった[339]。
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東京切り裂きジャック事件 (T) |
1969年11月14日 |
1967年8月2日・ 1968年1月1日[348] |
第一審判決時点では29歳、住所不定、元洋服仕立職[349]。 殺人前科あり、連続猟奇殺人事件。 1967年8月2日、東京都台東区浅草の飲食店で経営者女性(当時41歳)をナイフで刺殺し、1968年1月1日には東京都渋谷区の旅館で近くの簡易料理店の女給(当時34歳)をナイフで刺殺した[348]。また同年7月、東京都新宿区三光町の簡易料理店で女性経営者を刺して3週間の怪我を負わせた[348]。殺害された被害者の遺体には91ヶ所以上の切り傷や刺し傷があり、内蔵がえぐり出されていたため、犯行内容がロンドンの切り裂きジャックに類似していたため、犯人Tは東京の切り裂きジャックと呼ばれた。被害者2人(自供では5人)。 殺人、窃盗、傷害、銃砲刀剣類所持等取締法違反の罪に問われ、1969年10月29日、東京地裁刑事第2部(服部一雄裁判長)で求刑通り死刑判決を言い渡された[349]。Tは精神鑑定の結果、精神病質者と診断されたが、同地裁は完全責任能力を有していたと認定した[348]。控訴したが、同年11月14日に自ら控訴を取り下げ、死刑が確定。 死刑確定後、中学1年生だった1953年4月18日に北海道旭川市で義父の住み込み先だった旅館の女中(当時36歳程度)の顔を湯船に浸けて窒息死させたこと、翌1954年5月4日に旭川市立大成小学校の便所で同校1年生の女児(当時6歳)を刺殺したこと、同年10月24日ごろに旭川市内の映画館の婦人便所で幼女(当時5歳)を果物ナイフ(刃渡り約10 cm)で刺殺したことを告白する手記を東京拘置所内で書いて知人に渡していた。これら3件の事件のうち、2件目は同級生による過失致死事件とされ、また3件目はTとは別の精神障害を有する少年が被疑者として取り調べられていたが、手記に綴られていた犯行経緯や凶器、被害者の着衣などはほとんど事実と符合していたため、Tは東京地検特捜部から事情聴取を受けた[350]。 1972年8月に死刑執行(32歳没)。
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宇都宮保険金殺人事件 (O) |
1969年11月6日 |
1967年4月19日 |
栃木県宇都宮市内の友人を誘ってお互いが受取人になる生命保険に加入後、睡眠薬入りのカクテルを飲ませた上で交通事故死に見せかけて殺害した[351]。 殺人、死体遺棄の罪に問われ、1968年7月10日、宇都宮地裁で死刑判決を言い渡された。控訴したが、1969年1月29日に東京高裁で控訴棄却の判決を言い渡された。上告したが、1969年11月6日に最高裁第一小法廷で上告棄却の判決を言い渡された。同年12月3日付で、最高裁第一小法廷から上告審判決に対する訂正申立棄却の決定を受けた[352]。死刑執行日は不明。
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八戸農婦強姦殺人事件 (I) |
1969年12月5日 |
1966年4月14日 |
強姦、殺人、強制猥褻致傷、殺人未遂の罪に問われ、1968年3月18日、青森地裁八戸支部で死刑判決を言い渡された。控訴したが、1969年1月28日に仙台高裁で控訴棄却の判決を言い渡された。上告したが、同年12月5日に最高裁第二小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定。死刑執行日は不明。
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昭島老女強盗殺人事件 (S) |
1969年12月16日 |
1965年2月19日 |
東京都昭島市で71歳女性を絞殺して1万円を奪った強盗殺人の容疑で逮捕。1965年4月から八王子拘置支所へ入所したが、同年9月23日、「世間の空気を1日でも良いから吸いたい」として他の収容者2人とともに脱走。2時間余り後に再逮捕された[353]。 住居侵入、強盗殺人、窃盗、同未遂、加重逃走、傷害、公務執行妨害の罪に問われ、1966年6月17日、東京地裁八王子支部で死刑判決を言い渡された。控訴したが、1968年9月11日に東京高裁で控訴棄却の判決を言い渡された。上告したが、1969年12月16日に最高裁第三小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定。死刑執行日は不明。
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脚注
注釈
- ^ 稚内市抜海クトネベツとする報道もある[7]。
- ^ 東京大学教授の古畑種基による被害者の殺害方法についての鑑定が、再審時の鑑定とまったく一致しないばかりか、目撃証言と元死刑囚の体格が一致していなかったことが判明。
- ^ 拷問と虚偽の捏造した証拠によって自白調書を作成する捜査手法をとることで静岡県警で「捜査の神様」といわれた紅林の関わった冤罪事件は幸浦事件、二俣事件、小島事件など多数あるが、死刑判決が確定したのは島田事件が唯一だった。最高裁でも見向けなかったのは古畑の誤鑑定の評価ミスだった。もっとも現在では証拠能力を否定する刑事訴訟法の法理である違法収集証拠排除法則が確立しているため、真実の自白や証拠であったとしても証拠能力が否定され刑事裁判の維持が不可能になる。
- ^ 大牟田市三井鉱山四山住宅在住との報道もある[22]。
- ^ 現金1000円と写真機、腕時計など計5万円相当を奪ったとする報道もある[23]。
- ^ 浴槽店留守番殺しとも[56]。
- ^ 『昭和45年版 犯罪白書』には「昭和40年から44年までの5年間に死刑を執行された人員は,49人であるが,これを罪名別にみると,強盗殺人が40人,殺人が9人となっており…」と記載されている一方[63]、『昭和46年版 犯罪白書』には「最近5年間における死刑執行人員は,71人となっている。この71人の罪名をみると,強盗殺人が54人,殺人が16人,放火が1人となっており,(中略),放火の1人は,保険金詐取の目的による放火によって,焼死8名,重軽傷6名の被害を発生させたものである。」と記載されている[64]。
- ^ 南区豊代町在住とする報道もある[69]。
- ^ 1962年4月時点で8歳[101]。
- ^ 第一審判決時点で23歳[103]。
- ^ 事件現場は先述の特飲店付近である[105]。
- ^ 当時2歳との報道もある。
- ^ Aは事件当時、銀行から社員の給料を引き出して帰る途中だった[151]。
- ^ 17000円との報道もある[185][186]。
- ^ 女児は燃料商の四女で、日曜教会帰りだった[200]。
- ^ 犯行時は20歳の誕生日を10日後に控えていた[203]。
- ^ 洋子さん事件とも[223]。
- ^ 現:厚木市寿町三丁目1番3号[254]。
- ^ 永田憲史 (2010) は、この死刑囚Hについて資料中における事件発生日の誤記や、犯行当時の新聞報道で成年として報じられている[263][264]ことから、Hを少年死刑囚の一覧(「最高裁において第二次世界大戦終戦後に犯行当時少年の被告人に対して確定した死刑判決一覧」)から除外している。
- ^ 現金6000円、預金額105000円余りの預金通帳2冊、株券などが被害品[272]。
- ^ 名古屋矯正管区長の高橋良雄は、1970年(昭和45年)11月13日に愛知県蒲郡市にて開催された中部矯正医学会における講演の際、雅樹ちゃん殺しの歯科医Mは、先月(1970年10月)29日に東京拘置所で死刑を執行された。今日はMが死亡してからちょうど15日になる。Mは処刑の前夜に自分宛ての別れの手紙を書いていたが、その文面を見る限りは、かつてMが拘禁反応を起こしていたとは思えない、という旨を述べている。
- ^ Mの自宅でもある[293]。またM自身が経営していたとする報道もある[292]。
- ^ 男性の在住地を川井村小国、年齢を当時50歳とする報道もある[288]。
- ^ 金融業[318]。
- ^ 『下級裁判所刑事裁判例集』第8巻第10号1313頁登載。
- ^ 同日昼との報道もある[321]。
- ^ 少年犯罪であるが、『読売新聞』は逮捕時から第一審の公判中にかけては実名報道していた[332][333]。その後、第一審の公判中から「K」という仮名を用いた匿名報道になり[334]、判決時点でも匿名で報道されていたが[335]、控訴審・上告審判決時点では再び実名報道している[336][337]。一方で『神奈川新聞』は「K」[338]、『朝日新聞』は「A」と匿名で報道していた[339]。
- ^ Aは殉職を受け、巡査から警部補へ二階級特進となった[341]。
- ^ Cも銃撃を受けたが、弾丸がベルトのバックルに当たって跳ね返ったため、怪我はなかった[341]。
- ^ 内訳は警察官5人、報道関係者3人、一般人8人[337]。
出典
参考文献
死刑・事件全般の文献
判例集
- 「死刑事件判決集(昭和35・36年度)」『刑事裁判資料』第197号、最高裁判所事務総局、1972年2月。 - 『刑事裁判資料』第197号は朝日大学図書館分室、富山大学附属図書館、日本大学法学部図書館に所蔵。また『死刑事件判決集』(昭和35年・36年度)は、明治学院大学図書館(白金)に所蔵。
- 「死刑事件判決集(昭和37・38・39・40年度)」『刑事裁判資料』第193号、最高裁判所事務総局、1971年2月。 - 朝日大学図書館分室、東京大学法学部研究室図書室、富山大学附属図書館、日本大学法学部図書館に所蔵。
- 「死刑事件判決集(昭和41 - 43年度)」『刑事裁判資料』第189号、最高裁判所事務総局、1970年1月。 - 朝日大学図書館分室、富山大学附属図書館に所蔵。
- 「死刑事件判決集(昭和52・53・54年度) 付録 死刑事件判決総索引」『刑事裁判資料』第227号、最高裁判所事務総局刑事局、1981年3月、NCID AN00336020。 - 『刑事裁判資料』第227号は朝日大学図書館分室、富山大学附属図書館、東北大学附属図書館に所蔵。戦後、第一審から上告審までいずれかの審級で死刑判決を言い渡され、1979年(昭和54年)までに判決が確定した者(後に冤罪が判明した者、最終的に死刑以外の判決が確定した者、裁判中に死亡して公訴棄却となった者も含む)の一覧表が収録されている。
- 「検察官の上告趣意:別表 犯時少年の事件に対し死刑の判決が確定した事例」『最高裁判所刑事判例集』第37巻第6号、最高裁判所判例調査会、1983年、659-689頁。 - 永山以前に戦後、死刑が確定した少年事件(少年死刑囚)の一覧表(事件および裁判の概要・被告人の年齢など)が掲載されている。
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