和田孝夫和田 孝夫(わだ たかお、1953年6月24日 - )は、日本の元レーシングドライバーで、現在はレーシングショップ「WADA RACING SPORTS」を経営し、和田レーシングスクール(WRS)を主宰。神奈川県藤沢市出身。 略歴・人物1972年に富士フレッシュマンレース・シリーズ第4戦でレースデビュー。ツーリングカーを出発点に国内頂点カテゴリーまで到達し、1979年には全日本フォーミュラパシフィック選手権でシリーズチャンピオンを獲得している。 1976年に先輩・高橋健二に紹介され横浜ゴム(ADVAN)契約選手となった[1]。 絶頂期には、全日本F3000選手権・富士グランチャンピオンレース(富士GC)・全日本ツーリングカー選手権(JTC)・全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)と全日本選手権のメインシリーズの全てにレギュラー出場。 長らくヤンキー調のツッパリ・サングラスがトレードマークだった。これは「実は高校の頃から近眼で、太陽光が眩しかったんです。だから当時流行ってた偏光レンズのやつをかけていただけ。たまたまなんですけどそれがトレードマークになった」と述べている[1]。 1979年の鈴鹿サーキットで行われた全日本F2選手権第7戦において、B.ガビアーニのクラッシュに巻き込まれた。その際に、ガビアーニのマシンが和田の頭部を直撃し和田は意識不明の重体となった。偶然にも近くいた研修医の適切な処置の甲斐もあり一命を取り留めた。 富士スピードウェイで行われた1991年JSPC第4戦では、伊太利屋 日産 R91VPにてホームストレート走行中にマシンが突然浮き上がった後に空中回転し炎上。マシンはすぐさま炎に包まれたが和田は自力脱出した。 非凡な才能があるだけではなく、このように幾多の激しいクラッシュに巻き込まれながらも復活を遂げ、ガッツあるレーサーとして人気を博した。 若い頃はパンチパーマやヤンキーサングラスといった暴走族風のファッションに加えて、長身強面の外見で近寄りがたい雰囲気であった反面、オートテクニックなどの雑誌でコーナーをもったりインタビューにも気さくに応じていた。また、ファンレターに対しては頻繁に返事を出していたという。 カートや二輪出身ではなく、プライベーターのツーリングカーから日産セミワークス的存在や横浜タイヤのエースドライバーになった所謂ストリート上がりのレーシングドライバーであり、当時は一部の暴走族や不良少年のカリスマ的存在であった。 1983年に2回目の結婚をし42歳で子供誕生、川崎市在住。「42歳の時の子供だから可愛いですね。娘につられてボクも若返ってますよ」とインタビューで語っている。 2022年現在、JAF競技審査委員会のアドバイザーとして、スーパーフォーミュラの現場で戦う後輩たちのレースを見守っている[2]。 伝説の優勝1989年の全日本F3000選手権・第5戦(菅生)で、50秒のリードを保ってトップをひた走っていた和田は終盤、最終コーナーで周回遅れのジェフ・リースをパスする際にコースオフしスピン。そのままコースを横切った際に、後ろから来た岡田秀樹がよけきれず、左リア同士をヒットした。岡田のマシンの左リアは脱落、和田のマシンも脱落こそしなかったものの、左リアサスペンションを曲げたままレースを続行した。 後ろからは中谷明彦が猛烈な追い上げをしていたが、和田はサスペンションが曲がった状態ながら中谷とほぼ同じタイムで走行。ところが最終ラップで曲がっていたハンマーアームが折れ、大幅にスピードダウン。たびたび体勢を崩しかけるも、追い上げる中谷を押さえて優勝。タイム差はわずか0.32秒だった。 レース戦績FJ1300
全日本フォーミュラ3選手権
全日本F2選手権/全日本F3000選手権
全日本耐久選手権/全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権
全日本GT選手権
ル・マン24時間レース
全日本ツーリングカー選手権
脚注
関連項目外部リンク |
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