長谷見昌弘
![]() 長谷見 昌弘(はせみ まさひろ、英: Masahiro Hasemi 、1945年11月13日 - )は、日本の元レーシングドライバーで、現・有限会社ハセミモータースポーツ代表。東京都青梅市出身。東京都立八王子工業高等学校卒業。 経歴15歳のときに全日本モトクロスレースへ参戦しレースデビューする。黒澤元治とともに城北ライダースにも加入した[1]。 1964年四輪レーシングドライバーとなり日産・大森ワークスに所属、デビュー戦を勝利で飾る。その後は日産を離れフリー(タキ・レーシング所属)になった事もあるが、後に日産・追浜ワークスに復帰しており、基本的には日産系ドライバーと見なされている。1970年代から1990年代にかけて、長く日本のトップドライバーとして活躍を続けた。 1976年のF1世界選手権・イン・ジャパンにコジマからスポット参戦。予選1回目で4位となり、F1にレギュラー出場している海外トップチームを驚愕させた。2回目セッションでポールポジションを狙って乾坤一擲のアタックを試みるが、惜しくも最終コーナーでコースアウト、クラッシュを喫してしまう。原因はサスペンショントラブルだった。マシンはほぼ全損といっていい状況であったが、コジマのスタッフだけではなく他チームの関係者もボランティアでマシン修復を手伝い、決勝レースまでには走れる状態にまで再生された。しかし急ごしらえのマシンだけに細部のセッティングなどは事故前のコンディションに程遠く、10番グリッドからスタートしたレースでは25周目にファステストラップ(のち取消。後述)を記録し完走を果たすも、7周遅れの11位にとどまった。 1977年にはマカオグランプリに参戦を開始。1980年には当時日本人史上最高位となる2位表彰台を、1982年にはポールポジションを獲得するなど活躍。 1980年に国内レース史上初の4冠を達成[2]。1992年のデイトナ24時間レースにおいて、林義正と水野和敏が率いる日産ワークスで、星野一義、鈴木利男と共に日本人ドライバーによる日本車初優勝を成し遂げる。 サーキット以外では、エビスサーキットで15年ほど日産のラリー車両開発に関わった他、ダカール・ラリーやラリー・モンゴリアにも参戦した[3]。ダカールは1997-1998年に日産車をドライブし、'97年は総合27位完走、'98年はリタイアに終わった[4]。 ![]() 2000年5月23日、同年での全日本GT選手権ドライバーからの引退を表明[5]。その後はハセミモータースポーツの代表・監督として全日本GT選手権→SUPER GTでチーム指揮を執った。 チームは2010年にSUPER GTのGT300クラスチャンピオンを獲得したが、2011年にハセミモータースポーツとしてのSUPER GT参戦を休止すると発表[6]。同年4月30日、NISMOが結成したNDDP RACINGの監督として、全日本F3選手権ナショナルクラスに参戦することになった[7]。 2012年にはF3選手権の他SUPER GTのGT300クラスに同チームからFIA-GT3仕様のGT-Rで参戦。2018年はNDDP Racing with B-MAXがGT500クラスに昇格、引き続き長谷見を監督として起用することになった[8]。長谷見個人としては9年ぶりのGT500クラス復帰となった。2018年のシーズン終了後にNDDPの監督を退任、その後はNISMOの名誉顧問を務めている[9]。 4輪レース引退後も、プライベートで2輪エンデューロやラリーへの参戦を続けている。1993年開催のレイドカムロでは、750人の参加者中60人しか完走できなかった厳しい条件の本格的2輪エンデューロレースで優勝を果たし、関係者の間で話題になった。 2023年3月2日、日本プロスポーツ大賞スポーツ功労者顕彰を受賞した[10]。 スカイラインとの関わり長谷見は、幻のマシンとなった日産・R383の開発要員としてタキ・レーシングから日産へ戻ったが、公害対策などの社会的要因で開発が中止されるとスカイラインGT-R(KPGC10型)によるレース活動に注力。数々のレースで活躍した。 日産がワークス活動を停止した時期も、プライベーターのハセミモータースポーツとして活動を続けていたが、「レースで走るスカイラインが見たい」との思いをプリンス自販(当時)の社員から聞いた長谷見は、プリンス自販の社員に一枚1000円程度の「日産プリンス・ディーラーズ・クラブ(NISSAN・PDC)」のステッカーを購入してもらうことでレース活動の資金を得て、追浜の研究所から当時PA10型バイオレットのグループ5仕様車に搭載されていたLZ20B型エンジンをレンタルし、シャシー設計は東京R&Dに依頼してスカイラインのグループ5仕様を作る計画を立てたところ、追浜研究所の予想以上の支援が得られた結果、日産ワークスとして活動することになる。 ただし紆余曲折を経て、結局国内用のマシンは追浜ではなく大森ワークスが管轄することになり、同時に車両製作はノバエンジニアリング、デザインは由良拓也が行う形に体制も変更された。このとき「スカイラインだけじゃだめだ」との本社の意向で、同時にシルビア(S110型)、ブルーバード(910型)のグループ5仕様車も製作することが決まり、ここに「日産スーパーシルエット軍団」が形成された。ところがスカイラインは実戦投入が一番遅くなり、1982年5月に筑波サーキットでのレースでデビューしたものの初戦はリタイアに終わり、次戦の富士スピードウェイでのレースで初優勝を飾った。 この時の模様が長谷見は印象深かったようで、「スカイラインが最終コーナーを立ち上がると、お客さんが総立ちになっているんですよ。あれを見たら、ああスカイラインで走ってよかったなぁって思いましたね。」と語っている。以降もスカイラインがレース活動をする際は必ずステアリングを握ってきたことから、「スカイライン=長谷見昌弘」とイメージするファンも少なくない。 一方で追浜と東京R&Dでは海外遠征用のマシンを仕立てることになり、こちらはグループ5を経てグループCのマシンである日産・スカイラインターボCとなって結実した。これは後の全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)における日産ワークスの系譜の端緒を飾るマシンである。 ちなみに、長谷見が一番好きなスカイラインは「ハコスカのGT-R(KPGC10型)のレース仕様車」とのことで、「弱オーバーで乗りやすくて楽しいクルマでしたよ」と語る。 トミカ![]() 玩具メーカーのタカラトミーは長年にわたる長谷見のスポンサーであり、彼の乗るマシンには同社が販売するミニカーブランド「トミカ」のロゴが必ずというほど貼られていた。「長谷見とトミカ」は、「星野一義とカルソニック」「中嶋悟とEPSON・PIAA」と同じく、長年のパートナーとして広く認識されている。2009年の自身のチームのマシンのカラーリングがかつてのフォーミュラシリーズを彷彿とさせるものとなったことも、長年スポンサーを務めてくれたトミカへの感謝の気持ちからであった。 元々はモータースポーツ好きのトミー社員が長谷見の走りに魅せられたことが始まりで、トミー側から持ちかけられたスポンサードであった。長谷見の現役引退後もハセミモータースポーツの主要スポンサーの1社として名を連ね、チームの活動休止までマシンにはロゴが貼られていた。また、これまで長谷見が乗ったマシンやハセミモータースポーツのマシンのほとんどをトミカで製品化しているのも大きな特徴である[11]。 F1のファステストラップ1976年のF1世界選手権・イン・ジャパンで長谷見は25周目にファステストラップ1分18秒23を記録したと発表されたが、数日後に計測ミスであることが判明した[12]。ウェットコンディションの中、長谷見は24周目終わりにピットインし、別のウェットタイヤに交換して25周目に向かっており、ピットインのロスタイムを含めて1分18秒台で走行できる状況ではなかった。国内メディア関係者へは訂正のリリースが配布され、ファステストラップはジャック・ラフィットが70周目にドライタイヤで記録した1分19秒97であるとされた。F1の公式記録を管理するFormula One Administration Ltdのサイトでは、長らく長谷見の1分18秒230であるとしていたが、1980年代終盤にラフィットへと変更されている[13]。 レース戦績全日本F2000選手権/全日本F2選手権/全日本F3000選手権
全日本フォーミュラ・パシフィック選手権
マカオグランプリ
F1
太字はポールポジション、斜字はファステストラップ。(key) 全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権
世界耐久選手権/世界スポーツプロトタイプカー選手権
全日本ツーリングカー選手権(JTC)
全日本ツーリングカー選手権(JTCC)
全日本GT選手権 (JGTC)
ル・マン24時間レース
デイトナ24時間レース
スパ・フランコルシャン24時間レース
バサースト1000
全日本GT選手権ドライバー引退の理由引退の理由は「日産が新型のレーシングカーを供給してくれなくなったから[14]」だという。トップを狙えないマシンでの2年連続参戦がドライバーとしての挑戦意欲を失ったことによって、長谷見に自らの引き際を決意させた。実際、四輪転向から引退まで(フォーミュラカー路線を除けば)基本的に日産一筋であった星野と比べると、長谷見は1996年の全日本ツーリングカー選手権(JTCC)にエッチ・ケー・エスからオペル・ベクトラを駆って参戦するなど、日産ワークスを離れての活動も目立っていた。このことから、当時の日産の中で長谷見は星野よりも優先度が低い扱いだったという見方をされる場合もある。 一方、「同じ車を同じ条件で乗って、相手よりコンマ5秒遅かったら辞める」という考えを持っており、同様の理由でフォーミュラ引退を決意した経緯がある。その際の理由の半分はマウロ・マルティニの存在であり[15]、もう半分は供給タイヤメーカーであったダンロップと、ブリヂストンの性能差であった[5]。 人物
関連項目脚注
参考資料外部リンク
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